第13話

 週末になり、母親が仕事に出るのを待って、舜は男に電話した。ためらいがちに「俺。舜」と名乗ると、陰鬱いんうつな声が返ってきた。

「何だ」

 これは何かの予兆だろうか。

 舜はおずおずと切り出した。

「今日、行ってもいい?」

 好きにしろ、と男は言った。

 貰った鍵でエントランスを抜け、部屋の前まで来て舜は迷った。ブザーも押さずに部屋に上がるのはいつものことだ。だが今日は?

 結局ブザーを押してから、そっと自分でドアを開け、玄関に入って「高槻?」と呼ばわった。

 返事はない。息をひそめて靴を脱ぎ、あたりをうかがいながら奥のリビングへと向かった。

 高槻はソファに腰を下ろしていた。両耳をふさぐように頭を抱え、じっと足元を見ている。上目づかいに舜を一瞥いちべつし、またすぐ目を落とした。

「何だ」

 気味が悪いほど静かだ。

 舜は生唾を呑みこんだ。

「あの」

 怖い。高槻の静寂も。それを破ろうとする自分の言葉も。

「俺、ただ訊きたかったんだ」

 怯えるあまり、喉の奥で声が波打った。

「俺は、高槻にとって意味のある存在なんだよね、って」

 高槻はぴくりとも動かなかった。

 舜も動けなかった。口も舌も固まって、もはや何かを訊ね、確かめることはできなかった。

 ずっと足元に目をやっていた高槻が、ぽつりと言った。

けなかった」

 がた、と舜はリビングの壁に倒れかかった。

「え」

 今なんと言ったのだろう。

 高槻は、何か言ったのか?

「抱けなかったんだ」

 顔から血の気が引いていく。

 まさか。

「な、にを?」

 男は答えない。一層背中をすぼめ、頭が沈んでゆく。舜はわなないた。

「高」

「女だよっ」

 突然叫んで、顔が上がった。

 怒りに燃える目が、正面から舜を睨みつけた。が、すぐに顔をそむけ、勢いよく立ち上がったと思うと、高槻は部屋をうろうろし始めた。唇を噛みしめ、舜の方をちらとも見ない。

 結婚するんだぞ、畜生、それなのに。そんな呟きが何度も繰り返される。

 青い顔で壁に寄りかかったまま、舜は聞き取れないほどのかすれ声で囁いた。

「女、いたんだ」

 ホテルに入る二人連れ。一人は女。一人は、後姿のよく似た男。

 あれは高槻本人だったのか、結局確かめずじまいだった。

 男が振り向きざまに言い放った。

「お前のせいだ」

 舜は壁に体を押しつけるようにして立っていた。そうでもしなければ立っていられなかった。

「お前が」

 反論できない。舜の頭の中は真っ白で何も浮かばない。高槻は慙愧ざんきの念を絞り出そうとでもするように、目の玉にぎゅっと手を押しつけ、歯を食いしばった。

「お前を見たりしなければ」

 がくがくと震える膝をこらえながら、舜は弱々しく訴えた。たかつき、と。

「お願いだから」

 男が舜を見た。呼びかけに応えるように。

 そして空気を見つめるように舜を見つめた。

 何もない。

 なだらかな鼻梁びりょうにも、くっきりとした二重ふたえの目にも。そこに舜が存在するしるしは何一つ。

「消えろ」

 びくん、と舜は息を呑んだ。

「消えろ」

 耳鳴りだ。

「疫病神なんだ、お前は」

 切れあがった目尻に、透明なしずく。

 耳鳴りが大きくなっていく。

「消えろ!」

 少年は逃げた。

 えるような悲鳴から、男の怒りと恐怖から、カモシカのように逃走した。

 耳鳴りは轟音となり、激流と化して逃げる舜を追い、襲い掛かる。激流から、男から逃れて、けれどどこへ向かえばいい?

 逃げ場など、どこにあるのか。

 追われて、狩られて、追って、追いすがり、その果てにようやく見出した救いだった。

 柔肌やわはだに荒々しい欲望の跡を刻んで、あの男が自分の全てになった。悶えるような切なさと 、息詰まるほどの悦びと、そして安らかな抱擁。そのはずだったのに。

 男にとってはそうじゃなかったという。

 求めているのは別のもの。自分では足りない。完全じゃない。

 いや、違う。足りないのではなく、邪魔、だ。

 むしろ目障めざわりなのだ。

 言ったではないか。

 永久に、消し去りたい。

 お前を、と。

 今やすがるものを失った腕で、代わりに少年は自分自身を抱きしめる。

 消えろ。

 消えてしまえ。何もかも。

 ああ勿論。彼がそれを望むなら!

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