第14話

 真っ暗な部屋に、呼び出し音が鳴り響いた。

 身を震わせ、明かりをともして呼び続ける夜光虫。音もなく手が動くと羽音は途絶え、明滅する信号も消えた。

「はい」

 月の光も届かないビジネスホテルの一室。

 高槻?と呼びかけるない声。

「ああ」

 今どこ。家?

「いや」

 男は無気力な目を開き座っている。

話しても、いい?

 漂い来る屋台の匂い。そう遠くない路地裏で今この瞬間も生まれ続ける、種々雑多な市井しせいの息吹。

 虚空を見つめながら、部屋でたった一つの椅子に男は寄りかかる。

「どうした」

 少年は一瞬口をつぐむ。

「俺、謝りたいと思って」

 逡巡しゅんじゅんする、気配。

「あんた、最初に言ったんだよな。俺のこと、目障りだ、って」

 ナイーブな声がみ通る。

「ごめん」

 男はゆっくりとまばたきし、乾いた声で答える。

「もういい」

 裏通りの喧騒けんそうが、ふいと気まぐれに窓辺をよぎる。現地語の不明瞭な響きが織りなす、異国情緒の不可思議な味わい。

「ずっと考えてたんだ」

 香料混じりの、ぬるい夜風。

「俺、俺は高槻にとって何だったのかな、って」

 純潔の少年。

「俺、あんたを苦しめてるんだよな」

 挫折を知らない無垢むくの生き物。

 目を閉じ、男は静かに息を吐いた。

 言うな。

「俺、高槻が好きだよ」

 ひっそりと、少年は告白した。

「あんた、優しかったんだ。いつも」

 求めれば求められるだけ、望めば望むだけ、心と身体を満たしてくれた。

「でも俺、あんたの笑った顔って見たことなかったんだよね」

 男は思い出す。雑踏にふと目を上げて、見出す若い制服集団。

 一人だけ、質の違う笑顔。伸びやかな四肢しし

 しなやかなアンバランス。

「俺のせい、かな」

 かぼそい声が、こだまとなって耳朶じだを打つ。

「高槻?」

「ん」

「今、どこ?」

 こだまがおののいた。

「なんだか、声が遠いよ」

 遠いのはこだまだ。すうっ、と逃げ、そうかと思うと不意に近付く。

「今、海外だ」

「仕事?」

 仕事?

「ああ」

「そう、なんだ」

 なんだ。

「よかった」

 支店長、て言ったっけ。

 男はふと、目を開ける。

「舜」

 な、に。

「お前、どこからかけてる?」

 したたり落ちる水の音。

 たかつき、と虚ろな反響。

「俺もう、邪魔しない、から」

 男は暗がりを見つめている。

「だから、安心して」

 高槻は体を起した。

「おい。何してるんだ、舜」

 よかった、と、安らいだ囁き。

 声、きけて。

「舜っ」

 朦朧もうろうと、舜は浴槽にもたれかかった。

 タイルに置かれた携帯電話から怒号が聞こえた。

「お前何してるんだ、おいっ」

 太く赤い筋が煙のようにゆらりと揺れ、冷めた残り湯を鮮やかな朝もやの色に染め上げてゆく。

「馬鹿な」

 高槻は立ち上がっていた。電話を潰さんばかりに握りしめ、見えない相手に向かって叫んだ。

「舜、何考えてる、馬鹿な真似まねはやめて今すぐ電話に出ろ、聞いてるのか、舜っ」

 ゆっくりと、少年は目を閉じる。

 舜、舜、舜。

 出ろ、答えろ、答えるんだ。

「舜、頼むから」

 遠ざかっていく。恐怖も絶望も。果てしない、遠くへ。

 笑顔?

 遂に見ることのなかった、男の。

「舜っ」

 それは今にも消えようとする間際の、切ない夢のひと欠け。


 

 なぜ気付かなかったのか。

 少年が自分自身の、写し鏡であったことに。

 切り離すことなどできない。見捨てることは、見殺しにすることでしかないのに。

 必要とされることだけを願っていたかくもか弱く哀れな、一人ぼっちの、怯えた子ども。

 だがもう遅い。

 今更いまさら遅い。

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