第15話

「お早うございます」

 お帰りなさい、と付け加えてから、谷田部誠やたべまことは強い口調で、年長の相棒をたしなめた。

「羽田から直行して来たんでしょ。いったん帰った方がいいですよ」

 「平気だ」と相棒は大股で自席に向かい、机の上にどさっと旅行鞄を置いて訊ねた。

「判ったことは?」

 ため息をついて席を立ち、谷田部は書類を手にやって来た。

「高槻の携帯の通話記録です」

 上着を脱ぎながら覗き込む相方に向かって説明する。

「最後の通話はこれ。国際ローミングで転送されてきてます。つまりバンコクに居る高槻に、誰かが国際電話をかけたんですね」

「誰かは判ってるのか」

「発信元は碓井舜の携帯でした」

 男の動きが止まった。

「水沢さん」

 谷田部は表情を変えずに続けた。

「碓井舜が亡くなりましたよ」

 水沢哲郎は疲労のにじむ顔で相棒を凝視ぎょうしした。

「いつだ」

「三日前」

「死因は?」

 谷田部は書類を持つ手を下ろした。

「リストカットによる失血死。自殺です」

 水沢は口を半ば開けたまま、自分の机を見下ろした。

「三日前」

 谷田部が補足した。

「バンコクで高槻が転落死したのと、碓井舜の死亡は、時差を差し引けばほぼ同時刻です」

 水沢ががっくりと椅子に腰を落とした。

「水沢さん」

 相棒を見下ろし、谷田部は訊ねた。

「やっぱり、自殺ですか」

 水沢は首をもたげ、片手でしばし目をおおった。

九分九厘くぶくりな」

 ホテルに高槻宰を訪ねてきた者はおらず、部屋にも屋上にも争った形跡はなかった。金目かねめのものは、パスポートも含めて手つかずで残された。

「衝動的に飛び降りた、ってとこだな」

「遺書は」

「見つからなかった」

 ふう、と沈鬱ちんうつなため息をついた谷田部が、気を取り直して報告した。

「高槻宰がバンコクへ行ったのは、急遽きゅうきょ辞令が下りたからだそうです。上司と同僚に話を聞いてきたんですが、いわゆる左遷ですね」

 突然上からそういう指示があったんですよ。私は何も判りません。

 慇懃無礼で非協力的な元上司は、刑事の粘り強い追求に、取引先による圧力の存在を渋々ながら示唆しさした。

「おそらく例の婚約者がらみの圧力でしょう。もっとも婚約の方もとっくに解消されてるらしいですが」

 水沢がようやく体を起こし、鞄を椅子の脇へ下ろした。

「どうしてそんなことになったんだ?」

 相棒は言い淀んだ。

「上司の言いようがちょっと気になったんですがね」

 弊社へいしゃはまっとうな商事会社ですから。これから上に立とうという者に流言飛語りゅうげんひごたぐいは一切お断りです。たとえそれが個人的な嗜好しこうの問題であっても。

 水沢が鋭い目を向けた。

内偵ないていがばれたのか?」

「ばれるような調査はしてませんよ」

「だが」

「これは推測ですけど」

 谷田部は相手をさえぎって言った。

「婚約者の父親は銀行関係者です。そちらで何か、内密に調べていたんではないかと」

 じ、と目の前を見つめて水沢が呟いた。

「彼女に話を聞かなきゃならんな」

「ええ。それと」

 谷田部が書類をめくり、二枚目を差し出した。

「彼女に確認したい点がもう一つ、実はありまして。こちらは碓井少年の方なんですが」

 水沢が紙を受け取る。

「水沢さんがバンコクから送ってくれた、ホテルの部屋の通話記録です」

 谷田部は水沢の顔を見ながら続けた。

「碓井舜を発見したのは母親と救急隊員なんですが、救急車を呼んだのは、母親じゃないそうなんです」

 紙を両手にとって見ていた水沢が、谷田部に視線を移した。

「なんだって」

 谷田部は手帳を取り出し、確認しながら話した。

「担当者から聞いた話ですがね。問題の晩、母親は眠っていて胸騒ぎ、というか動悸どうきがして目をました。そこへ救急車のサイレンが聞こえて玄関がノックされ、戸を開けたら『通報はあなたですか』と質問された。意味が判らずにいたら『碓井舜さんがこちらで死にかけているという通報がありました』と」

 水沢が唇を噛んで考え込んだ。谷田部は手帳から顔を上げた。

「通報者情報を取り寄せて話を聞きに行ったそうなんですが、相手はがんとして認めなかったらしいです。捜査課としてもその時点では、碓井舜とのつながりが皆目判らなかったので、それ以上突っ込めなかったとか」

 身を乗り出し、水沢が手にする書類の一番上を指差す。

「その通報者の番号が、これと同じでした。高槻がバンコクのホテルから最後にかけた国際電話の相手です」

 二人は目を見合わせた。


 高槻宰のおそらく生前最後の話し相手、雛岡美鈴は、元フィアンセの頼みで百十九番通報をしたことを認めた。

「突然かかってきたんです。夜遅くに。もしもしも言い終わらないうちに、助けてくれと言われました」

 水沢と谷田部は美鈴の勤め先を訪れ、小さな接客ブースの一つで向き合っていた。

「びっくりして、一体どういう事情なのかと訊ねましたが、なんというか、彼はとても動揺していて、助けなければ、早く救急車を呼ばなければと、そればかり言うんです。私は」

 そこで美鈴は一度口をつぐんだ。

「訊きたいことが山ほどありました」

 二人のこと。なぜ突然連絡をったのか。何度電話してもこたえないのはなぜか。今どこで何をしているのか。

「連絡が取れなかったんですか」

 訊ねる刑事に、美鈴は目を伏せて答えた。

「しばらく前から、電話に出なくなりました。会社にかけても、家を訪ねても、なかなかつかまらなくて」

 訊きたいことは山のようにあった。だが後回しにして、男の頼みを引き受けた。

「名前や住所は宰さんから聞き取りました。私はいったん彼の電話を切り、百十九番にかけて、碓井舜という人が死にかかっている、住所はこれこれ、と伝えました。切ってすぐにまた彼の携帯に電話しましたが、電話はつながりませんでした」

 水沢が口を開いた。

「高槻さんが電話に出なくなったのは、いつ頃からなんですか」

 美鈴は無表情であいかわらず目をそらしていた。

「少し前です。十日か、二週間くらい」

「何か、きっかけに心当たりは」

 ぐ、と美鈴がテーブルの下でこぶしを握るのが判った。

「話したくありません」

 水沢がわずかに体を引き、代わって谷田部が口を開いた。

「碓井舜という人物についてはご存知でしたか」

 美鈴の表情は硬い。

「知りません」

「高槻さんの口から名前を聞いたことは」

「ありません」

 美鈴の態度は依怙地いこじになりつつある。谷田部がなだめるように言った。

「救急電話の後、碓井舜という人がどうなったか、一応お知らせした方がよろしいでしょうね」

 美鈴はしっかりと首を振った。

「結構です。興味ありませんから」

 刑事はため息を飲み込んだ。美鈴がこわばった顔を上げた。

「あの人は、宰さんは何か法をおかすようなことをしたんですか。それで逃げ回ってるんですか」

 刑事達は驚いて顔を見合わせ、谷田部が確かめた。

「ご存知ないんですか」

 青ざめた顔が見返した。

「何を」

 水沢が後を引き取った。

「高槻さんはバンコクで遺体で見つかりました。新聞にも載ったと思いますが」

 女の中で何かが急速にふくれ上がったかに見えた。

 ぼろぼろっ、と美鈴は涙をこぼした。悲鳴をとどめるように口を押さえる。

「嘘です」

 顔をゆがめ、何度も首を横に振った。

「嘘です。そんなはずありません」

「雛岡さん」

「別人です。同姓同名の」

 嗚咽をこらえながら美鈴は懸命に言いつのった。

「あの人は米国にいるはずなんです。米国の支店を任されるはずで」

 バンコクなんて、とうめき、うつむいて顔を覆う。そのまましばらく肩を震わせていた。

「どう、どうやって、あの人は」

 水沢が声を落として答えた。

「泊っていたホテルの裏手で倒れているのが発見されました。屋上もしくはホテルの自室から転落したものと思われます」

 ああ、と言ったきり、美鈴は無言で慟哭どうこくした。刑事達は口を閉ざし、石のように座っていた。

「父が」

 混濁した声が、途切れがちに言葉を継いだ。

「あの男のことは忘れろと」

 水沢は相棒と素早く視線を交わし合い、慎重に訊ねた。

「それはいつのことですか」

 美鈴は努力して顔を上げた。話す間、首をかしげるような仕草で幾度となく目をぬぐった。

「ひと月ほど前です。私にはふさわしくないと言って」

 二人の刑事は注意深く耳を傾けた。

「あの人が苦しんでることは知ってました」

 頬を濡らしながら、美鈴は打ち明けた。

「でも私は、どんなことでも力になるつもりだった」

 放心していた美鈴が、赤く潤んだ目で刑事を見た。

「碓井舜というのは、高校生ぐらいの人ですか」

 水沢が小さくうなずいた。

「十七歳です」

 美鈴はしばし押し黙り、うつむいて訊ねた。

「碓井舜さんは、亡くなられたんですね」

 谷田部が柔らかく答えた。

「ええ。残念ですが」

 更に強くあごを引くように一度うなずき、美鈴はまた顔を覆った。

 高槻宰が、具合が悪いからと約束をキャンセルしてきたことがあった。

 当然看病に出向くと言ったが、大丈夫だと断られた。それでも、買い物をしてマンションへ向かった。

 エントランスに先に入った少年が押した部屋番号を何気なく見て、美鈴は目を見張った。応じた声はまぎれもなく高槻のもので、少年はだるそうに、鍵を忘れた、と言った。

 住民のふりをして一緒にエレベーターに乗り込んだ。一つ下の階で降りながら振り返ると、顔を上気させた少年は壁に寄りかかったまま上昇していった。すぐ上の階で弱い足音が聞こえ、ブザーが鳴って部屋のドアが開き、短い話し声の後で閉まるのを聞いた。

「それで、どうされたんですか」

 静かに訊ねる水沢に、何も、と女は首を振った。

 具合が悪いのは本人ではなかったのだということが判りました。

 それだけ言って、沈黙した。


「高槻宰は碓井舜に薬を使ったんですかね」

 水沢と谷田部は美鈴の会社を辞去し、日中の往来を並んで歩いていた。

「碓井少年の挙動きょどうの一部は、薬の影響によるものと考えられなくもありません」

 谷田部が言い、水沢は慎重に応じた。

「おそらく高槻が持ってたのはせいぜい一服か二服だ。まだ日本には出回ってない配合だし、奴が自ら動いた形跡けいせきもないということは、中毒症状が起きても抑えられんてことだぞ。うんと希釈した場合はどうか判らんがな」

「希釈?」

「例えばの話」

「なるほど。それなら量ももつし、症状も、場合によってはそれほど目立たない」

「可能性としてはそうだな」

「なんのために、ってとこですね。薬代欲しさに子どもがバイトでもしてたなら別ですけど、その様子はなかったわけですし」

「なかったのか」

「ええ。あ、そうでした」

 谷田部が立ち止ったので、水沢も足を止めた。

「学校、行っておきましたよ。その方がいいと思いまして」

 水沢は一瞬相棒を見つめ、「ああ」と息を吐き出した。

「すまん」

「いいえ」

 谷田部は気にする様子もなく、手帳を取り出して開いた。

「碓井舜は派手めなタイプではないけれど、それなりにクラス内での位置を確保していて、友人も多かった。様子がおかしかった夏以降、彼からあやしげな誘いを受けた生徒はいないようです。最近はどちらかといえば付き合いをけてとじこもりがち、部活も休みっぱなしで、塾には元々通ってません」

「検死の結果はどうだった」

「残留薬物の検出はありませんでした」

 水沢がため息をついた。

「少なくとも死ぬ時は、きれいな体だったってことか」

 谷田部が手帳を閉じた。

「子ども部屋の机から遺書が一通。内容は、母親への感謝と謝罪のみ。息子の筆跡だと母親自身が確認してます」

 二人は再び歩き出した。

「なんのために、か」

 歩きながら水沢はひとり言のように呟いた。

「高槻は薬を使ったのか。使ったのなら誰に使ったのか。碓井舜が高槻のところに出入りしていたのはなぜか」

 二人は赤信号で立ち止った。向かいの車線に停めた覆面ふくめん車を見やりながら、谷田部がくだけた口調で「しかし市警察もねえ」とこぼした。

「捜査協力とはいえ、もうちょっとなんとかならなかったんですかね。目をつけてた売人が殺されてあわてて死体をまさぐったら持ってるはずのクスリが出なかった、なんて。いつの話かも判らない証言持ち込まれたって、今更調べられやしませんよ」

「目撃されたのがニッポンの商社マンじゃ心配にもなるさ。奴らは顔がくし、その気になればいくらでも密輸ルートを開拓できる」

 信号が変わり、谷田部の口が足と一緒に動いた。

「現地の捜査資料読んだんですけどね。その死んだ売人はしょっちゅう自分でもクスリをやっていて、酔っぱらっては通りすがりの人間に発作的に薬を分けるってのが時々あったらしいです」

「NYPDも大忙しといったところだな。それともDEAかな」

「どっちにしても、とんだ置き土産ですよ」

 刑事二人は左右から素早く車に乗り込んだ。助手席で水沢がひと息入れ、相棒に訊ねた。

「学校からの拡散は無さそうか」

 谷田部はうなずかず、じっと運転席の前方を見つめていたが、やがて「水沢さん」と向き直った。

「お嬢さんと、話をしました」

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