第7話

 炎天下の往来おうらいを、少年は夢遊病者のように歩き回っていた。ひと足ごとに地面がぐにゃぐにゃと波打ち、隙あらば飲みこもうと迫って来る。何かがひどく気になっているのに、それが何なのかどうしても思い出せない。まるで夢の中をさまよう心地だ。

 悪夢なんだろうか。これは。

 おい。しっかりしろ。

 坊や。こっち来い。こっち。

 通りすがりの公務員?いや、そうじゃない。

 背中だ。あいつの。

 あの晩。俺の顔を見てた男。

 今も見てる。

 ほら、すぐそこ。

 そこで。

「お目覚めか」

 口をゆがめた不機嫌な顔を、舜は茫然と見つめた。

 乱暴な手つきで濡れタオルを舜の顔に押しつけた男は、ぷいと立った。冷蔵庫を開け閉めする音。少年は張り付いたタオルをそっと持ち上げると、しばしそれに見入った。それからゆっくりと視線を巡らせ、目に入るものを順繰りに追った。

 天井。とりたてて特徴のないシーリングライト。所々に写真らしきものが飾られたベージュの壁。どうやらリビングのソファに寝かされているらしい。グラスを持った高槻が再び視界に入った。

「飲め」

 男はグラスを握り、何かを待っている。無言で見返していると「起きろ」とどやされた。舜はぎこちなくソファに起き上がった。強引に渡されたグラスの中身を嗅いでいると、いらいらと男が言った。

「脱水症状なんだよ」

 その途端、舜は猛烈なのどの渇きを自覚し、グラスを大きく傾けて一気に飲み干すや、太く涼しい息を吐いた。

 生き返ったような心地がした。そこで少年はようやく辺りを見回し、今のこの不可解な状況を自覚するに至った。

「俺」

 すると高槻が空いたグラスを奪い返した。

「どこまで迷惑な奴だ」

 言い捨てて再び立っていく。乱暴にグラスをゆすぐ水音を聞きながら、舜は着ている夏物のシャツがこわばっているのに気づいた。相当量の汗が流れ、乾いた跡だ。

 男が戻ってきた。

「もう一人で歩けるだろ。早く出て行ってくれ」

 舜はさっと顔を緊張させた。

「なんで俺がここに居るんだよ」

 すると相手は侮蔑の表情を浮かべた。

「お前が自分で来たんだろうが」

「な」

 なんのことか判らない。しかしそう言う前に高槻が言った。

「入口でぶっ倒れてたんだよ。管理人が助け起こしたら俺の名前を言ったっていうんで、呼ばれて引き取る羽目になったんだ」

 舜は額に手をやった。言われてみれば、そんな気もする。

 何かがひどく気になって、確かめようと思った。何だっただろう。そんなことを鬱々うつうつと考えているうちに、日差しにやられてしまったのか。

 再び脳裏にあの顔が浮かんだ。

 乾いた目。丁寧に、細心の注意をもって舜の顔を見ていた男。

「あんた、わざわざ俺を背負って、この部屋まで運んでくれたわけ」

 少年はあえて男を挑発してみたが、高槻は無視して部屋の奥へ向かい、デスクの前に腰を下ろした。

「面倒はごめんだ。とっとと帰れ」

 なおもわざとらしく、舜は濡れタオルを掲げてみせた。

「口の割には親切なんだな」

 高槻がちらとこちらを見た。

「お前、俺をレイプ犯だと思ってるんだろ」

 舜は高槻に体を向けたまま「違う」と答えた。タオルを持つ手は下ろしている。

「思ってるんじゃなくて、知ってるんだ」

 単なる事実を話している、そういう口調だった。男は斜に構えて舜を見ていた。

「知ってるのに、よくここにいて平気だな」

 舜は動かない。男は背中を向けた。パソコンを開き、キーボードを打ち始める。無機質な打鍵音が静かな室内に満ちた。

 舜はタオルを握り締めた。

「なんで俺を助けたんだよ」

 キーを叩く音。

「何のことだ」

 背中は振り向かない。

「電車で」

 男は脇の書類を見下ろしている。また画面に向き直り、キーを打つ。

「言ったろう、見てて不愉快だったと」

「てめえのことは棚上げかよ」

 音が止まった。舜はずっと男の背中を見ていた。

 くるりと振り向き、男がうんざりした表情で吐き捨てた。

「一体お前はどうしたいんだ。何が望みなんだよ」

 舜は相手を凝視した。

「それはこっちの台詞だ」

 覗きこんでいる男。注意深く、確かめるように探る、切れあがった眼差し。

「あんた、何が目的で俺に近づいたんだ?」

 ため息をつき、額を押さえて男は黙り込んだ。

 手の中の濡れタオルが、次第に生ぬるくなってゆく。

「逆だ」

 舜は目を開いた。男はまだうつむいていた。

「目障りだったんだ」

 その顔がゆっくりと上がる。

「永久に消してしまいたかった」

 なだらかな鼻梁に乾いた眼差し。無表情なその顔に、突然表情が生まれた。満面の敵意で舜を正視しながら、男ははっきりと言い切った。

「今も」

 舜は顔を伏せた。

 タオルを握る手が震え出した。

「こ、の野郎」

 怒りのせいで声がかすれている。かっと目を開き、舜は男に向かってタオルを思い切り投げつけた。

「ふざけるなっ」

 凄まじいほどの屈辱だった。勢いよく立ち上がって男を睨みつけ、舜は歯噛みしながらうめいた。

「俺は」

 男は舜から顔をそむけていた。虚ろな目は何も映さず、ただ悄然としている。山のように湧きあがった罵倒の言葉をなぜか飲み込み、畜生、と呟いて、舜は力なく背を向けた。

 空虚な敗北感に打ちのめされていた。

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