第6話

 校舎の壁にぼんやり寄りかかっていると、植え込みを曲がって水沢沙穂がやって来るのが見えた。舜は壁から体を起こした。

 はずむように近付いてきた沙穂は、微笑むというには少々ほがらかすぎる笑顔で「碓井、舜君?」と確かめてくる。

「あ、はい」

 なんとなくかしこまる舜に、沙穂は直立不動の姿勢をとった。

「あらためまして、水沢沙穂です」

 そしてにっこり笑った。

 水沢沙穂がさ。

 友人の声が浮かび、途端に舜の心臓が飛び跳ねた。

「ごめんね、せっかく部活が休みの日に呼び出しちゃって」

「あ、いや」

 急いで首を振る。

「別に。びっくりしただけで」

「びっくり?」

「うん。だって伝言の伝言で、誰に呼び出されたのかも判んなかったから」

「ああ」

 ころころと沙穂は笑った。

「碓井君が負担に感じたりしたら悪いなと思って」

 微笑んでいるが、目は真面目だ。舜も顔つきをあらためた。

「えっと、それで、なに?用事って」

 こういう場に相応の緊張というものがあるとして、なぜか舜はそれほど緊張していなかった。逆に沙穂の方が、今はやや神経質そうに口を引き結び、息を吸うと一気に言葉を発した。

「碓井舜君、私とお付き合いしてください」

 そしてばっと腰を折り、片手を差し出した。

 ちまたで一時流行はやった告白スタイルを真似まねてはいても、真剣さが伝わってきた。

 舜は、困惑した。

 前々から沙穂には好意を抱いていたし、初めてまともに口をきいて、幻滅するようなところもない。もっと浮き立つような喜びを感じていいはずだ。

 それなのに、どうして自分は躊躇ちゅうちょしているのだろう。

 そっと沙穂の手を握る。沙穂が顔を上げた。

「ごめん」

 舜は謝った。相手の顔から笑みが消えた。失望よりも、戸惑いが勝っている。反応に困った水沢沙穂は、きわめて年相応の女の子に見えた。

 沙穂の手をそっと離し、舜はうつむいた。

「そっかぁ」

 やがて、沙穂が長々ながなが嘆息たんそくした。

「ちょっとは自信あったんだけどな」

 そう言って、ぺろと舌を出す。軽妙な仕草と、たぶんその裏に紛れ込まれた思いやりに、舜の気分は少しほぐれた。

「あの、水沢、さんのこと、嫌いじゃないんだ」

 少女はわずかに首をかしげて聞いている。

「何ていうか」

 舜が詰まると、にこっと笑い、助け船を出した。

「水沢でいいよ」

 笑顔にほっとしながら舜は続けた。

「水沢の気持ちは、すごく嬉しいんだ、本当に。ただ、今はなんていうか」

 顔が曇る。

「それどころじゃないというか、気にかかることがあって」

 沙穂が口を添えた。

「受験、とか?」

 舜は顔を上げた。

「あ、うん。それもある」

 二人はくつろいだ立ち姿でそのまま話し込んだ。

「碓井君、受験するの?」

「大学行けって、親には言われてるけど」

「あんまり行きたくないとか?」

「う、ん。それほど勉強好きなわけじゃないし。受験だって大学だって、お金かかるから」

 沙穂が得心とくしんしたようにうなずく。

「そうか。碓井君のとこ」

「うん。俺一人の学費ぐらい出せるって言い張ってるけど、やっぱり大変そうだしさ。無理に受験しなくても、高校出たら働いて、ちょっとは楽させてやりたいな、って」

 舜がため息をつき、沙穂も追随ついずいした。

「親ってどこも、大学行けって言うんだよね。大学ぐらい出ておかないと人生つまんないよ、とかって。うちは主に母親だけど」

 二人で顔を見合わせ、ひとしきり笑った後、沙穂が言った。

「笑った顔、久しぶりに見た」

「え?」

「碓井君ここんとこ、ずっとすごい顔してたから」

 舜の顔からさあっと笑みが引いた。

「すごい顔、してた?」

「してたよ」

 沙穂が眉根を寄せる。

「いっつも具合悪そうで、時々、すごく苦しそうにしてた」

 相手が今まさにそういう顔をしそうになり、少女はあわてて、ごめん、と謝った。

「見られてたなんて不愉快だよね。ほんと、ごめん」

 それから少年のような仕草で頭をかいた。

「やだな。父親みたい。人のことじろじろ観察しちゃって」

「お父さん?」

 沙穂は今度こそうろたえ、急ごしらえの笑顔を作った。

「父親、公務員なの」

 少年が判ったような判らないような顔をする。沙穂は「いいの、忘れて」と急ぎ手を振った。奇妙な間があいた。が、舜は思い出していた。

 坊主。

 帰りたくないわけでもあるのか。

 酔っぱらって高槻のマンションに押しかけた夜、見知らぬ二人組に介抱された。通りすがりの公務員、と名乗った男達。ああいうのも公務員というのかと、意外に思った記憶が頭のすみに残っていた。

「他にも、気にかかってることがあるの?」

 舜が目を上げると、また慌ててうつむいた沙穂が、口ごもった。

「いいよ、言わなくて。そこまで立ち入る権利、ないよね」

 沈黙。

「もしも、ね」

 見れば沙穂は、足元に目を落としたまま喋っていた。

「もしも悩みがあるんなら、彼女になれば、ひょっとして何か力になれるかなあ、って」

 余計なお世話だよね、と照れ隠しに笑う。

「気にかかってるっていうか、気になる奴がいて」

 今度は沙穂が目をあげた。

 少年は誰にともなく喋っていた。

「そいつのことがはっきりしないうちは、何もできないっていうか」

 そうだ。

 高槻が舜をけがしたのはまぎれもない事実だ。たとえ痴漢から助けてくれたのだとしても、その事実は変わらない。

 あの晩、全身をつらぬいた痺れるような屈辱と、敗北感。

 許さない。

「碓井君」

 は、とする。いつの間にかこぶしを握り、地面を見据えていた。顔を上げると、なぜか沙穂がまぶしそうに舜を見ていた。

「はっきり、するといいね」

 舜はぼんやりと相手の口元を見つめた。沙穂は腕時計を一瞥し、あ、と口を開けた。

「こんな時間になっちゃった」

 一瞬で目の前の少女は、友達と高笑いする快活な女子高生に戻っていた。

「時間とっちゃってごめんね。話、聞いてくれてありがとう」

「あ、ううん」

「ガールフレンドにはなれなかったけど、もし良かったら、友達になってもらえる?」

 舜は心がほんのり温かくなるのを感じた。

 本当にいい子なんだ。

「うん。喜んで」

「ありがとう」

 沙穂が朗らかに笑って手を差し出した。握手という一見大人びた動作は、彼女にとってある種のけじめにつきものの行為なのかもしれないと、同じように手を出しながらふと舜は思った。

 握り合うと、それだけで二人の間に、何か特別な絆が生まれたような気がした。

「じゃあね。バイバイ」

「うん、また」

 一人になり、再び舜はぼうとした表情に戻った。

 高槻宰へのつのる憎悪。一方で、少女との逢瀬おうせが残した弾むような清々しさ。

 どこか現実離れした高揚こうようと内省的な憂鬱ゆううつ狭間はざまで、舜は自分の感情をもてあましていた。

 はっきりするといいね。

 輝く笑顔。

 かたくなに心を閉ざす男の低い声。

 知らん。お前のことなんか。

 ずきん、と胸に痛みが走った。舜は我知われしらず地面に膝を突いていた。

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