第5話

 朝の電車は満杯で、立錐りっすいの余地もない。頭上に設置された冷房の吹き出し口が一定の間隔で向きを変えるたび、乗り込む人々のつむじがざあっとなぎ倒されてゆく。ぎゅうぎゅう詰め

の乗客にしてみれば、それさえも焼け石に水だ。密着し合った体は上気し、厭わしさは増す一方だった。

 舜は満員の車内の中ほどで、他の乗客同様不快な暑さに耐えていた。鞄を提げた左手は、密着する隣客との間に挟まれて一ミリも動かせない。かろうじて上げた右手で高い吊革を掴み、身動きのとれない体をかばって前後左右に懸命に支えていた。

 夏服のシャツが肌にべたりと張り付く。背中をまた一つ、汗の筋が流れて落ちた。思わず眉をしかめたその直後、背後に妙な空気を感じて、舜は目をしばたいた。

 不気味な熱を帯びたものが腰の下に当たっている。それがじわじわと移動し、下に向かって広がり出した。

「っ」

 誰かの手が、撫で回している。

 痴漢だ。

 かっ、と耳が熱くなった。と同時に、ぞわっと生温かい寒気を発して鳥肌が立った。どうしよう。誰か。どうしよう。

 それはねっとりと動き、今にも股をくぐって前に出ようしている。悲鳴を上げるように舜の口が開いた。声は出なかった。喉が締め付けられ、舜はただ怯えすくんでいた。

「おい」

 声は特に声高ではないが、しかし友好的でもなかった。

「やめとけよ」

 手がぱっと離れた。誰もが不機嫌に黙りこくっている満員電車の只中で、舜の周囲数センチ四方だけその瞬間一斉に人の輪が引き、被膜のようなわずかな空間が生まれた。

 電車が駅に近付いている。先刻よりずっと身動きが楽になった舜は、そうする理由が自分でも判らないまま、ゆっくりと、ぎこちなく首を回して振り向いた。

 すぐ後ろに、派手なスーツと厚化粧の初老の女が立っていた。女が赤らんだ顔でうつむくその向こうに、あの男がいた。

 電車が止まり、人々が動き始めた。流れに乗って女はそそくさと、高槻は悠然と降りてゆく。呆然と見ていた舜は、はっと気付き、既に乗り込み始めた人波に逆らって猛然と下車した。女のことなど忘れていた。ただ見覚えのある姿を追いかけ、人混みを縫って追いつくと、その肩をぐいと掴んだ。

「おい」

 振り返った男は無表情な顔で、「何か」とでも言いたげに舜を見返した。

 一瞬言葉に詰まった。が、すぐさま相手の襟を掴んで舜は問い質した。

「てめえ、どういうつもりだよ」

 高槻は沈黙を保っている。

「罪滅ぼしでもしたつもりかよ、え?」

「関係ない」

 ぱしっ、と男は舜の手を払った。

「たまたま気付いたからやめさせただけだ」

 目元にかすかな嫌悪がある。

「ああいうのは見てて不愉快だ」

 舜は唖然とした。何なのだろう、この男の言動の理不尽さは。

「てめえが言えた義理かよ」

「ひとつ忠告だ」

 予想外の言葉に、一瞬舜は気勢をそがれた。

「同じ目にあいたくなかったら、きちんと下着をつけろ」

「え」

 夏の盛りにきっちりとスーツのボタンを留めた男は、無表情に続けた。

「直接シャツを着ると肌が透ける。この時期は汗をかくからなおさらだ。多少暑くても、もう一枚着けた方が面倒がない」

 舜に背を向けながら、切れあがった二重ふたえの眼が不思議な光を発した。

「お前は狙われやすい」

 雑踏の中に、舜は一人取り残された。

 何だったんだ、今のは。

 たまたま、なんてあり得ない。

 舜が電車に乗り込む時、高槻は近くにいなかった。いれば気付かないはずがない。

 なのに、なぜ。

 舜の苦境を救った?

 そんな馬鹿な。

 ぞく、と肌が総毛立ち、舜は思わず両手で自分をなだめた。

 それは、けがらわしい女へのおぞけだったのか。

 それとも、暴力的な手業の痕のように脳裏に焼き付いて離れない、すらりと切れた眼光のせいか。

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