第4話

「何なんだお前は」

 ドアを開けるなり罵る相手を押しのけ、ものも言わずに上がり込んだ舜は、血走った目で洗面所を探し、飛び込んで一気に吐いた。二度三度と続けて吐き、蛇口にかぶさってあえいでいると、背後に人の立つ気配があった。

「ガキが。吐くまで飲みやがって」

 嫌悪もあらわに言い捨てた男のシャツカラーは、第一ボタンだけが外れている。帰宅直後だったのだろう、インターフォン越しに脅された不快感が顔にありありと浮かんでいた。

「おい」

 いきなり乱暴な手つきで舜の喉を締め上げ、男は険悪な声を出した。

「あんまりなめた真似するなよ」

 苦しげにうめいた舜が、突然死に物狂いで男の腕を逃れ出るや床に吐いた。男が小さく舌打ちし、いまいましげに洗面所を出ていく。

 胃液まで吐き切ると、舜は荒い息で体の向きを変え、洗面所の壁に背中をつけて座り込んだ。戻って来た男がその顔めがけてタオルを投げつけた。

「拭いとけよ」

 そして返事も待たずに再び引っ込んでしまった。

 舜は動かなかった。目を閉じ、遅い静かな呼吸を続けながら、吐き気の名残がおさまるのをじっと待つ。口の周りのしゃ物が乾きかける頃、ようやくのろのろと腕を伸ばし、洗面台をよじ登るようにして立った。水滴をはね散らかしながら顔を洗い、口をすすいで体を起こすと、鏡に映った土気色の顔を虚ろに見つめた。

 ゆらりと舜の姿が部屋に現われた時、パソコンに向かっていた男は振り向いて驚いたように目を見張った。泥のような目で少年は口を開いた。

「クスリ出せよ」

 男が眉をひそめた。

「なに?」

 ふらふらと歩み寄り、舜は男に半ば体重を預けるようにして掴みかかった。

「気持ち悪いんだよ。あれ吸えば気持ちよくなれんだろ」

「なんのことだ」

「薬だよ」

 濁った目が男に迫った。

「俺を犯した時に使ったろうが」

「ば」

 男が血相を変えた。

「馬鹿っ、あれはそんなもんじゃない」

 はっ、と二人の息が止まった。

「てめぇ」

 徐々に舜の形相が変わった。男の顔からは血の気が引いている。

「白状しやがったな」

 がむしゃらに殴りかかる舜をしかし、相手は素早く払いのけた。

「知らん。そんな薬も、お前のことも俺は知らん」

 抗う少年を玄関まで引きずってゆき、靴と一緒に外廊下へ放り出すと、男はドア枠がしなるほどの勢いで叩きつけるように玄関を閉めた。

 廊下に尻もちをついた舜は、すっかり威勢をなくしていた。しばらく座り込んでいたが、やがてうなだれたまま体を起こし、苦労して靴を履き、壁伝いに歩いて昇降ボタンを押すと、寄りかかりながらエレベータを待った。

 マンションを出てすぐのところで、派手に誰かとぶつかった。よろけ、そのまま歩道に倒れ込みそうになるのを、その誰かが「おっと」とすんでのところで抱きとめてくれた。

「おい大丈夫か」

 親切にもそう訊ねた相手は、舜の顔を覗き込んで「おやおや」と呟いた。「こりゃ少年課の仕事だな」と言いながら、丁寧な手つきで建物の前の植え込みまで誘導し、敷石に座らせた。

「坊や、こんなフラフラになって、友達と遊んだ帰りかい」

 誰とも知れぬ相手に向かって舜はぶっきらぼうに答えた。

「あいつは友達なんかじゃない」

「そうか」

 意外にもまともな相槌を返しながら、見知らぬ男は舜の前にしゃがんだ。舜はごつごつする敷石を尻の下に感じながら、この不快なめまいが早くおさまってくれないかと祈りつつ目を閉じていた。じっと眺めていた男が、ふと横を向く。新たに別の声が上から降ってきた。

「子どもじゃないか」

 最初の男が、幾分口調をあらためて舜に話しかけてきた。

「おいこら。未成年の飲酒は犯罪だぞ。判ってんのか」

 おかしいな、と舜は思っていた。高槻のマンションで吐くだけ吐いた後、十分に時間をおいて出てきたはずなのに、どうして判ったのだろう。

 本人は気付かなかったが、吐いたくらいでは抜けきれない酒気が舜の体から今なお発散されていた。そして舜の目の前にいるのはいずれも、そうした逸脱の匂いに特に敏感に反応するよう習性づけられた人間だった。

「おじさん、誰」

 徐々に強まってくる頭痛に悩まされながら、舜は回らぬ頭で懸命に考えていた。他人にばれるようでは駄目だ。どこかでもっと時間をつぶさなくては。

「通りすがりの公務員だよ」

 お兄さんなんだけどね、と小声で付け足す。もう一人がたしなめた。

「馬鹿言ってないで、家まで送ってやれ」

「え」

 管轄違いですよと応じる声に、かぶさるように舜は「駄目だ」と声を張り上げた。

「まだ帰れない」

 うずくまって頭を抱え、力なく言い張る。目の前にしゃがむ気配があった。

「おい坊主。家に帰れないわけでもあるのか」

 穏やかで落ち着いた声がすぐ近くから聞こえてくる。舜は録音のように繰り返した。

「まだ帰れない」

 今日、母親は早番だから、とっくに帰宅しているはずだった。帰りは遅くなると一応連絡は入れてあるが、できることなら息子の顔を一目見てから眠りにつこうと待っているだろう。明日のシフトを考えればそうそう遅くまでは待てないはずだから、寝た頃合いを見計らって家に入ればいい。

 こんな姿を見せて、余計な心配はかけられない。

 ため息に続いて二人が立ち上がり、一方が言うのが聞こえた。

「交番に連れてって、帰ると言うまで休ませてやれ」

「調書取られちゃいますよ」

「取らせるな」

 その一言で、言われた方は何事かを察したらしい。二人連れは小声で素早く言葉を交わし、最後に若い方が小さくうなずいて少年を見下ろした。

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