第17話

 おぼれて落ちよ。おぼれてちよ。

「沙穂」

 少女は泣き続けている。

 胸の真ん中がぎざぎざに傷ついて、声にならないうめきをあげながら、生あたたかいものを流し続けている。

「元気にしてるか」

 隣にふわりと座る大きな気配。

 枯れて変色した芝生の土手に腰かけ、少女は抱えた膝に顔をうずめている。

「元気なわけない」

 そうか、と父は呟き、ぽつりと言い足した。

「ごめんな」

 娘は応えず、顔も上げなかった。

 川べりを見つめる父親の耳に、くぐもった娘の声が聞こえた。

「お父さん」

 「うん?」と優しく哲郎は振り向いた。娘はまだ顔を伏せていた。

「普通と違うっていけないことなの?」

 やられた。

 碓井舜の死を知った瞬間、みぞおち深く貫いた衝撃を、哲郎は思い返す。

 やられた。何に?

 言葉にできない何か。

 それは碓井少年を追い落とし、高槻宰にその後を追わせた。哲郎や谷田部の努力や苦労を易々と上回る狡猾こうかつさで跋扈ばっこし、追いつめ、先回りするそれ。

 哲郎は、立てた膝の上でゆるく組んだ手を見下ろした。

「いいや。いけなくはない。本当はな」

 うなだれた娘が言った。

「本当は、って何。それが本当なら、みんなが嘘っぱちなの?」

 穏やかな流れを見渡し、やりきれない思いを胸一杯に吸い込んで、思いと共に父は吐露とろした。

「お父さんも頑張ってるんだよ」

 守りたかった。たとえそれがどれほど不条理であっても、自分たちの生きるこの世界を。

 穏やかな日々をおびやかすあらゆる危険の芽を摘み、何の憂いもなく少年や少女が大人になっていけるように。それだけを願い、身をにして働いてきた。それなのに。

「努力してるつもりなんだ、これでも」

 高槻宰も、また犠牲者だった。

 濁流に巻かれたが最後、二度と抜け出せない脆弱ぜいじゃくな魂。

 清らかで、優しかった少年。

 少女はぎゅっと自分を抱きしめる。

 あの時、自分は気付いていた。けれど見ない振りをした。

 もう傷つきたくなかったから。

 背中を丸め、少女は今やこきざみに震えていた。父親が腕を伸ばして娘を抱き寄せた。

「沙穂」

「お父さん」

 碓井舜は耐えきれなかった。

 自分はどうだろう。

「怖い」

 自分は、いつまで持ちこたえられるだろう。



濁流だくりゅうって、普通にごってるんじゃなかったっけ」

 一読した少年が、やや自信なさげに感想を述べるのに対し、少女はしかめつらしく口を尖らせてみせた。

「碓井君、詩っていうのは解釈しちゃ駄目なんだよ」

「え、あ、そうなの」

 しどろもどろで舜が応じる。ぷ、と沙穂が吹き出した。

「うそうそ」

 理性的に、また抒情的に、少女は少年にうたって聞かせた。

「生まれ落ちる、って言うじゃない。人間は、この世界に落ちて生まれる。まるであたしたち、どっかの何かの落し物みたい。それってなんだか、あんまり嬉しいことじゃないみたいな感じがするな、って」


   清らなる濁流より

   まれきたるその泉より

   溺れて生きよ、泥の花

   叩きつけ

   打ち砕き

   己をして舞いあがれ

   溺れて落ちよ

   おぼれて堕ちよ

   美しき若者よ


「溺れ」

 もはや少女は詠えない。

 濁流はすぐそこに、うろのような口を開けている。

                                                          <完>

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濁流より @mydear-pianist

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