第7話

この世は、灰色だ。

 少なくとも、私が生まれ育った街は灰色だ。コンクリートは摩耗して削られ、どんどんと薄くなっていく。そして、それを覆うように緑の緑がはびこっている。

 これだけならば緑の街なのかもしれないけれども、その街に住まう大人たちの顔は何時だって暗い。灰色の顔色をしている。どうしてなのかと大人たちに問うと決まって「世界はもう終わってしまっているからさ」と言った。

 大人たちが言うに、大昔の街はそうではなかったらしい。街には緑が少ししかなくて、人々はコンクリートジャングルで快適な生活を謳歌していたのだという。

 残念ながら、私は灰色の街しか知らない。

 五年前に、突然に眩しい光がふってきてそれまで人々が築いてきた豊かで便利な暮らしは全部が駄目になってしまったらしい。当時の私は五歳だったから、生活が全部駄目になった光のことはよく覚えていない。でも、大人たちはあの光のことを「きっと核爆発だったんだ」とか「世界はもう滅びてしまって、ここは地獄なんだ」とか色々いう。

 私は、大人たちの言葉がどれもぴんとはこない。

 大人たちは世界が終わってしまっていうけれど、私には世界がかすかに息を吐いている音が聞こえる。それは葉っぱの擦れる音だったり、小鳥の鳴き声だったりとささいな事だ。ささいなことだけど、その音を聞くたびに私も世界も生きているのだと感じた。私が呼吸をするように、私を生かして、私を殺す世界も、呼吸をしている。

 それを、大人たちは感じない。

 大人たちは、私の知らない車のエンジンの音やテレビの音を聞きたいと願っている。でも、それらは聞こえないから世界は死んでしまったと思い込んでいるのだ。

 自動車に電車にガス、今の世界にそういうものはまったくない。けれども私たち日の出と共に起きて、日の入りの共に私たちは死んだように眠った。

 コンクリートの上で食べ物は作れないから、私たちは空き地に種をまく。そうやって出来たものを食べて空腹をしのぎ、近くの川まで行き喉を潤した。

 時より、危険を冒して遠くの街まで行く。

 獣がうろつく危険な街には、稀に衣料品などが残されていることがあった。それでも、それらを搾取し続ける生活が長く続かないことは分かっていた。

 大人たちは、そのことを憂鬱に思って今日も暗い灰色の顔色をする。

 私は、かつての遺物が全部なくなってもいいのに考える。

 もうとっくに薬とは使いものにならなくなっているし、私たちは過去の遺物に頼らなくとも新しい生活できるような気がする。なのに、大人たちは怖がって過去から離れようとはしない。恐ろしい未来は、もうずっと前から私たちの迫ってきているのに。

 過去を捨てきれない私たちは、コーエー住宅に住みついている。

 コーエーとは公営と書くらしくて、大昔は市とかが管理していたらしい。

 ところで市とは、どういうものなのだろうか?

 街よりは大きくて、県よりは小さいらしいが私は市を見たことがなかった。いつか、この眼で見れるものならば見てみたい。

 さて、私が住んでいるコーエー住宅に話を戻そう。

 マンションという名前らしいコーエー住宅は、背が高くて似たような部屋がいくつも並んでいる。頑丈な建物で雨風を防ぐことができるし、ここらへんは木がより生い茂っているせいなのか獣があまりこなかった。このあたりは、世界が終わる前は街の繁栄から取り残された場所だったらしい。大昔は衰退した場所に、私たちは寂しく身を寄せている。

 家賃というものは当然のごとくはらっていないし、私のように親なしの子供がいつのまにか住みついている場合もあった。ちゃんとしたルールもリーダーもないコーエー住宅は、穏やかなのか無法地帯なのか判断に苦しむ。

 けれども、私にはここしか居場所がなかった。

 親と一緒に暮らしていた頃は、もっと秩序だった集団と一緒に暮らしていた。

 けど、その集団はもうとっくの昔に壊れてしまった。リーダーだった人が死んで、次のリーダーの座を巡って大人たちが分裂してしまったのである。獣の襲撃を待たずして集団はちりじりになり、私は両親と共に他の集団を探してさ迷い歩いた。

 ほとんどの集団は、外部から人間を良くは思っていなかった。外部からの人間は大抵の場合は、厄介事も同時にもってきたからだった。良さそうな集団を探しては弾かれ、探しては弾かれということを繰り返した。

 私の親は、そうやって自分たちを仲間にしてくれる集団を探しているうちに獣に殺された。旅をしている途中のことで、あっという間のことだった。父も母も、あのとき自分が死ぬだなんて思ってもみなかっただろう。

 私は、獣が母と父の肉を食らっている隙を見て走って逃げた。どこに向かうかも決めずに、どこへ向かえば良いのかもわからずに、私はただ走った。

 そして、コーエーにたどり着いた。

 コーエーに住む人々は、私を温かくもないが冷たくもせずに受け入れた。コーエーには私のように、あるいは私よりも酷い状況の子供たちが何人もいた。ここにたどり着いて、私はようやく一人で生きていかなければならないのかと思い知った。

 ここには、獣はこない。

 けれども、私の親も来れなかった。

 私の親を殺した獣とは、人を殺した人がなるものだった。大人たちは、獣あるいは獣になりかけている人を罪人としていた。

 人を殺すと、人は獣になってまた人を殺すからだった。

 どうしてなのかは誰もわからないけれども、それが厳密な世界のルールだった。少なくとも、私はそう思っていた。

 ある日のことだ、コーエーにお客様がやってきた。

 それは、男の人だった。

 稀に、一部が獣になっても人の意識を保ったままの人がいる。けれども人を殺したという目立つ罪人の証拠がある彼らは、一つの所に長くはいられない。大人たちが、彼らを恐れるからだった。

 でも、獣と戦う武器を持った彼らだけが長距離の旅を可能にしていた。集団のなかには彼らに庇護を願うところもあったが、大抵の場合は獣になりかけた人が完全に理性を失うことで集団は終わりを迎える。

 私は、コーエーに訪れた男も一部が獣なのだと思った。

 だが、男はごく普通の人間であった。体のどこにも獣の気配はなく、人を殺したことのない綺麗な体であった。そのくせ旅慣れているらしくて、離れたコミュミティーに手紙を届ける仕事をしているのだと言った。

 男は、つまり郵便屋さんだったのだ。

 大人たちは、男から色々なことを聞きたかった。テレビもラジオもない世界では、旅をしてきた男だけが情報源であったのだ。私も、男には興味を持っていた。けれども、同時に彼が何者なのかを恐れていた。

 獣は、とても恐ろしい。

 そんな恐ろしいものを退けながら旅を続けられる力がある男だとは、私には思えなかったのである。男が小柄でもないが、天をつくような大男でもなかった。特別なものは何一つない、普通の男に見えていた。男は大人たちには自分のことをあまり多くは話さなかったが、小さな私にだけ秘密を打ち明けてくれた。

「俺には、友人がいるんだ。そいつに、少し助けてもらっている」

 だが、男の側には誰もいなかった。

 その事が不思議であったが、私には関係のないことでもあった。

 男は一人でコーエーに現れて、一人でコーエーを去るはずだった。そして、私とは二度と出会わない。そういうありふれた人生の触れ合いで、終わるはずだった。

 だが、そうはならなかった。

 コーエーの平和が破られたのだ。

 獣が現れたのである。

 獣が現れたとき、私は眠っていた。夜のことだった。いつもならば静かなのに、がさごそと音がしていた。私は起き上がり、目をこらして闇の向こう側を見つめた。

 割れた窓の外には、人の手を口に咥えた巨大な猿がいた。

 猿は私には気づかずに、ばりぼりとベランダの柵の上で人の腕を食べていた。私は怖くて、震えることも泣きだすこともできなかった。ただ、固まっていた。

 脳裏に、父と母の最期が浮かんだ。

 私の親は、鳥に食べられた。

 鳥の獣は背後から滑空してきて、父の背中を貫いた。母は私の手を掴んで逃げようとしたが、他の鳥が母の背中を刺し貫いた。私は、その光景を見ていた。

 そして、母の手から力が抜けるとわき目も振らずに逃げた。

 悲鳴もなにも聞こえなかった、親の最後。

 その最後が、私の頭のなかで何度も繰り返される。

 猿は、腕を食べ終えた。このままいけば、猿はどこかへ行ってくれるかもしれない。そんな予想が私のなかによぎった。

 けれども、神様はそんなに優しくなんてなかった。

 私の隣で寝ていた女の人が起き上がって、窓を見た。その人は、ときより私と一緒に寝てくれる女だった。自分の子供を獣に襲われたらしいから、女にとって私は自分の子供の変わりのだけかもしれないけれども。

「いやぁぁ!」

 女は、悲鳴を上げた。

 猿は、私たちの方を見た。

 獲物を見つけた猿が、笑ったような気がした。

 私は咄嗟に、近くにあった枕を猿に向かって投げた。割れていた窓に枕は弾かれて、猿はその窓を割って室内に入ってきた。がしゃん、と派手な音が響いて女はまた悲鳴を上げる。

 何度も、何度も、悲鳴なんて上げないで。

 私は、怒鳴りそうになった。けれども、同時にどこかで冴えていた。そして、いつしか頭のなかにあったはずの両親の最後の映像が消えていた。

 食べられる!

 お父さんとお母さんみたいに、この怪物に食べられてしまう!!

 私の体は、硬直した。女は手足を不器用に動かして、私を置いて逃げて行ってしまう。ああ、所詮は私は代わりにすぎなかったのか。それとも彼女は自分の子供の時も、こういうふうに置いて逃げたのだろうか。いや、邪推はやめよう。私たちは弱いから、誰かを犠牲にして罪を背負わなければ生き抜いてはいけないのだ。

「置いていかないで」と、すら思えない。

 だって、これはこの世界の決まり事なのだ。私はその決まり事にしたがって、死ぬのだ。父と母のように、死ぬのだ。

 猿の獣は、私にゆっくりと近づく。

 猿の口からは、新鮮な血の匂いがした。

 怖い、すごい怖い。

「た……たすけて」

 私は、思わず呟いた。

 でも、誰かに助けてもらう自分の未来のビジョンを頭に思い描けなかった。獣に食べられてしまう未来は、本当に鮮明に浮かぶのに。

「このやろぉ!」

 コーエーにやってきた男が、猿に向かって角材を振り降ろす。猿には当たらなかったが、猿は恐れて男から距離を取った。男は呼吸を整えてから、私の方を見た。

「大丈夫か?」

 男に尋ねられて、私は目を白黒させる。

 そして、こくんとうなづいた。

「よかった。悲鳴が聞こえたから、もう駄目だと思ったんだ」

 男は肩を落として、安堵の息を吐いた。けれども、視線は猿から離れない。この人は本当に旅に慣れていて、獣にも慣れているのだなと私は改めて感じた。獣を恐れているのに、視線を外そうとはしていない。

「でも……あなたも普通の人で」

 私の言葉に、男はにやりと笑う。

 どきりとした。

 男は、すごく楽しそうだった。獣を目の前にして、自分は貧弱な角材しか武器を持っていないのにすごく楽しそうに笑っていた。

 大人たちは、いつも灰色の顔色をしていた。

 けれども、この男だけはやけにカラフルに笑う。

 失ったものに、何の未練もないかのように。そして、それ以上のものを手に入れたかのように。失った大人とも、手に入れることができなかった子供とも違う顔で、男は笑った。

「俺一人だったら、こんな無茶はしないさ。浅宮!」

 男は、叫んだ。

 そのとき、ベランダに人影が現れた。

 その人は下半身をすっぽり隠してしまうほどに長いコートをまとい、月を背にして立っていた。音どころか匂いすら発していないかのように、彼には気配がなかった。

「猿か……。要注意なのは、素早い所ぐらいか」

 コートの男は、ベランダから飛び降りる。

 ここ、三階なのに!

 猿は、それを追った。そして、先に地面に着地したコートの男は、遅れて落ちてくる猿を待ちうけていた。そして、猿が近づいてきた瞬間に、彼は猿を蹴り飛ばした。猿はボールのように飛び上がり、再び落ちて行った。私は、それに驚いた。

「ちょっと、アレなに!?」

「下から蹴ったんだろう」

 角材を構えた男――春樹はそう呟いた。

「でも、普通の人が蹴ったってあんなに威力はないはずよ」

「浅宮が普通の人間だって・・・そんなはずはない。あいつは、普通じゃない。もっと、すごい奴だ」

 春樹は興奮したように、浅宮という人を語った。私はその正体を知りたくて、そっと窓の外を覗いた。コートをはためかせて、浅宮は猿を圧倒していた。けれども、決して殺そうとはしていなかった。

 殺せば、浅宮だって獣になる。獣だって、元々は人だ。だから、殺せば浅宮だって獣になってしまう。浅宮は、そのことをよくよく知っているようだった。

 そのとき、強風が吹いた。

 あまりに強い不吉な風は、浅宮の長いコートをはためかせる。そして、浅宮がずっと隠してきた足をあらわにした。その足は、獣の足だった。人間のものとは形から違っていて、殺意を潜ませることができる歪んだ足の形。人間と違う形の足は、人間よりもはるかに殺傷能力の高い蹴りを実現させている。

 私は、直感した。

 この人が、春樹の友達だ。

 一緒に旅をしてくれる、秘密の友達なのだ。

 猿は、浅宮を恐れて逃げだした。浅宮は「ふぅ」とため息をついて、上を見上げた。彼は私じゃなくて、春樹を見ていた。そして、春樹も浅宮を見ていた。

 私は、いいなぁと思った。

 この二人に、私は憧れた。

「なっ、なにがあったんだ!」

 大人たちが、ようやくこの騒動に気がついてやってきたのである。大人たちは浅宮を見つけて、恐れてたじろいでいた。大人たちには、浅宮が獣に見えたのである。

 それでも立ち向かおうと各々武器を持った彼らは、春樹のように楽しそうではなかった。ただ浅宮を恐れており、相変わらず顔色は灰色であった。

「そんなに警戒しなくとも、俺はすぐに去る。ちょっと猿を追い払っただけだ」

 浅宮は、自分を恐れる人間に興味など持っていなかった。

 そして、恐れられることを何とも思っていないようだった。

「ハル、行こう」

 浅宮は、上を見上げて春樹を呼んだ。

 私は、隣を見る。

「ハルって、あなたのこと?」

「そうだよ。俺たちは古い友人だから、あだ名で呼ばれているんだ」

 春樹は、とても誇らしそうだった。

 あの人なんだ、と私は思った。

 浅宮という人が、春樹を他の大人とは違うふうにしていた。春樹は他の人間とは違って、すごく幸福そうだ。私は、こんなにも捨て身で幸せそうに笑う人を他に知らない。

 羨ましい、と正直に思った。

「あなたたちは、これからもずっと一緒なの?」

「ああ、もちろん。離れる理由がない」

 浅宮、と春樹は下にいる彼を呼ぶ。

 浅宮は、仕方がないという顔をしていた。なんとなくではあるが、この二人の力関係が見えたような気がした。

「すぐに荷物をまとめるから、待っていてくれ」

 春樹は、急いで下に向かおうとしていた。

 そして、私と一緒に後ろを振り向いた。

「やばっ・・・」

 春樹は、呟いた。

 私たちの後ろには、猿がいたのだ。さっきの猿よりも巨大で、私たち二人は思わず後づさる。猿は、最初から二体コーエーに侵入していたのだ。私たちが早合点して、一匹追い払って喜んでいたにすぎない。春樹は、私の肩に手を当てる。

「合図したら、後ろに飛ぶぞ。ベランダの外だからな」

「そしたら・・・落ちちゃうわよ」

 私の不安げな顔に、春樹は頷く。

「大丈夫。たぶん・・・浅宮だったら、キャッチしてくれるから。本当に、たぶんだけど」

 無理だ、と私は思った。

 浅宮と春樹は、これに関しては何の打ち合わせもしていない。下にいる浅宮が私たちを捕まえられる可能性はとても低い。

「浅宮は、間に合わないでしょ」

「ははは、やっぱりバレてたか」

 春樹は、無理して笑った。

 ここで大声を出せば浅宮には声は届くのだろうが、猿を刺激することになる。ここで猿を刺激すれば、私たち二人は猿に殺されてしまう。

 春樹は、そうっとポケットに手を入れた。

 取り出したのは、煙草みたいに細くて小さなものだった。それに、ライターも取りだす。まさか最後の一服でもするのかと思ったが、彼は囁く。

「びっくりするなよ」

 春樹は煙草に火をつけて、それを猿に投げつけた。

 ぱーん、と煙草が花火のように弾けた。

 あまり大きな音ではなかった。

 たぶん火薬やアルミホイルなんかを集めて春樹が、自分で作ったお手製の花火だろう。

 けれども猿も私も、それに茫然としてしまった

 春樹は私の肩を抱いて、そのままベランダから飛び降りる。私と春樹の体がふわって浮かび上がって、そのまま落ちていく。

「浅宮!!」

 春樹が叫ぶけど、浅宮とは距離がある。

 浅宮がどんな足をしていようと、絶対に間に合わない。

 私は、目をつぶろうとした。けれども、浅宮が私たちのために何かをしようとしているのがわかった。それを『見逃せない』とも思った。だから恐怖をなだめて、私は浅宮を見つめる。

 浅宮は深く、膝を折り曲げた。

 ぐぐぐっと深く足を折り曲げて、ぱーんとさっきの花火煙草みたいに浅宮は弾けた。浅宮が地面を蹴って、私たちにすごい勢いで近づいている。けれども勢いが強すぎて、私たちを受け止めるための動きとは思えない。

 浅宮は、勢いを殺さなかった。

 そのまますごいスピードで私たちに近づいて、春樹に空中で体当たりした。浅宮の上半身に体当たりされた春樹は、地面に叩きつけられることなく真横に跳んだ。そして、そのまま木に叩きつけられた。

「ハル!今の大丈夫か?」

 浅宮が肩を押さえながら、春樹に向かって叫ぶ。春樹と私は木に叩きつけられたけど、私は春樹がクッションになったから痛みはなかった。

 けれども木に叩きつけられた浅宮と落ちてきた春樹は、双方共にかなり体を痛めているはずだ。とくに浅宮は、あのスピードで春樹に体当たりをしている。肩を痛めているはずだ。けれども、二人とも痛みを顔に出してはいない。

「な・・・なんとか。浅宮はどうだ?」

「肩、すっごく痛い。おまえは、どうして高い所から飛び降りると人の肩を痛めさせるんだ」

 春樹は、ぎくりとしていた。

 どうやら春樹は、昔も似たような事をやらかしていたらしい。

「それより、上に猿が出た。サイズは、さっきよりも大きい。たぶん、体重も重いと思う」

「なら、さっきみたいに適当に蹴りあげるわけにはいかないな。あれ以上重いものを蹴ったら、どこかで足を痛める」

 浅宮は、そう言いきった。

 ハルは傷めそうになっている肩よりも、無傷な足を心配する。気がついたけど、二人にとっては浅宮の足こそが生命線なのだ。浅宮が足を骨折でもさせたら、春樹にはもう戦う術がない。だから、浅宮は足を大切にしたいのだ。

 どん、と地面が揺れる。

 上にいた猿が、私たちを追って降りて来たのだ。

 改めてみると、猿と浅宮の体格差は歴然としていた。浅宮も大人のはずなのに、猿と並べば子供のようである。猿は、浅宮の存在に気がついていた。浅宮が、猿に敵意を持っていることも気がついていた。

 うぉぉぉぉ!

 雄たけびをあげて、猿は浅宮に向かってくる。

 浅宮は、それを飛び上がって避けた。猿の方が、たぶんスピードはある。拳の大きさからいって、パワーもある。だけど、跳躍だけは浅宮が高い。

 浅宮は、足のことを心配していた。

 なら、浅宮が取る戦術はかなり絞られる。

 たとえば、逃げること。

 浅宮の仲間は春樹だけだから、隙を見れば二人で逃げることは可能なように思える。でも、猿の足に人間の春樹はまず勝てないだろう。それに浅宮だって足の構造からいって、早く走れるとは思えない。

 浅宮の足はジャンプすることに適しているが、走ることはたぶん苦手なはずだ。だから、浅宮は春樹が落ちてくるときも走るのではなくて、ジャンプで対応した。

 だから、浅宮は逃げない。

 戦うはずだ。

 そして勝負を長引かせずに一瞬で決着をつけるには、飛び上がり重力を味方につけた、かかと落とし。そして、狙うは猿の頭部。固い頭蓋骨はあるが、胴体などを狙うよりも反撃される危険性は少ないはずだ。

「猿!まだ、花火はあるんだからな!」

 春樹が、さっきの煙草花火を猿に向かって投げつける。

 さっきみたいに猿の目がくらめば、猿は動かなくなる。

 浅宮は、そこを狙って猿の頭蓋を割るつもりだった。

「なっ!」

「しまった!」

 春樹と浅宮が、同時に声をあげた。

 猿は自分の頭の上に手を当てて、浅宮を待っている。浅宮は、もう自分の力では蹴りの軌道を変えることはできない。

 猿に、作戦を読まれた。

「くそっ!」

 浅宮の足が、猿の手に掴まれる。

 浅宮は掴まれていない足を振り上げて、勢いよく振り下ろした。その足は猿の顔面にあたり、その強烈な痛みからなのか猿は浅宮を地面に叩きつける。

 悲鳴を上げる前に浅宮は四つん這いになって、もう一度地面を蹴りあげる。その恰好は逆立ちをするときの動きに似ていたが、浅宮の足のつめは猿の鼻面をひっかく。

 息を乱した浅宮は、執念深い。

 たとえ、どんな状況になろうとも自分が勝つためのチャンスを見逃さない。

 猿も、浅宮がどういう獣なのかを薄々理解したようだった。人間の理性は残っているが、勝利に対するどん欲さならばどんな獣だって凌駕するだろう。

 浅宮は、そういう獣なのだ。

 猿は浅宮から視線をそらして、コーエーの住民たちが集まる方へと向かった。猿は浅宮と戦って疲弊するよりも、住民たちを襲って腹を満たすことにしたのである。

 悲鳴をあげるコーエーの住民たちと一瞬だけ茫然とする浅宮。けれども、浅宮はすぐに獣の跡を追おうとした。

「浅宮!」

 春樹は、浅宮を止めようとした。

 友人が進んで危機に、しかもほとんど見ず知らずの人間のために争いの渦中に飛び込んでいこうとしていく。普通の人間ならば、止めて当然だ。

 けれども、浅宮は寂しそうな顔をした。

「行かせろ……。俺は、人でいたいんだ」

 たぶんだけど、その浅宮の言葉はナイフよりも鋭かったのだろう。

 春樹は、はっとして言葉を失った。

 浅宮は、春樹の視界からするりと消えて猿に向かっていった。その後ろ姿に私は、追いつめられた狂気を感じた。そして、私の隣にいる春樹からもわずかにではあるが追いつめられた狂気を感じた。だが、春樹はそれに少し疲れているようであった。

 少し見ただけで分かった。

 浅宮は、特別な人間だった。一部が獣になっていながら正気を保っているだけではなくて、厳密なルールを自分に課している人間のようだった。人でいたい、という発言もその一部だろう。つまり、浅宮は自分の主観でがんじがらめにされている人間なのだ。だが、そんな面倒な人間でも春樹にとっては特別な人間だった。

 焦がれて、焦がれて、焦がれた末に手に入れた手入れが面倒くさい宝石みたいな人だった。でも、春樹にとって浅宮を手放すということは過去の自分をまるまる捨て去ることに等しいのだろう。そして、なんといっても浅宮は私から見ても大層キラキラした面倒くさい宝石に相応しい人に見えた。

「ねぇ」

 私は、春樹に呼びかけた。

「もしも、あなたが浅宮を負担に思っているのならば私が半分背負ってあげてもいいわよ」

 幼い私の言葉に、春樹は目を丸くした。

 今、私たちの視界の端っこでは浅宮が戦っている。

 そして、私たちはひそひそと戦う獣の所有権の相談をしていた。

「――昔、浅宮を本当の意味で所有していた俺の友人が『浅宮をもてあまして、自分から遠くに離れるときがくる』とって言っていたことがある。最近、その意味が分かりだしてきた。浅宮は、俺を支えにする。自分が完全に獣にならないように、俺に正しく人でいることを求める。最初は、それが誇らしかった。ようやく、手に入れた気にもなれた。でも、徐々に気がつくんだよ。俺は……アザミや津川や桜さんのように立派な正しい人にはなれない。人を護るための決意もなければ力もない。だから、今は浅宮が重い」

 でも、と春樹が言葉を区切る。

「おまえに半分でもやりたいと思うほどではないよ」

 その言葉は、強がりでもなんでもなかった。

 浅宮の瞳は、空っぽだった。

 心の底から、感情だけで、浅宮はそう言い切ったのであった。

「そうなの」

 私は、出来るだけ素っ気なく答えた。

 できるだけ、私は春樹より優位に立ちたかった。

 私には、浅宮という武器が必要だった。コーエーはもう平和ではないし、子供一人でさ迷って生きていくことはできない。大人の親切を期待できるほどに、優しい世界でもない。だから、子供で女の子の私はできるだけ強い武器を持っている必要があったのだ。

 浅宮は、私の理想の武器だった。

 しかし、浅宮は私一人で扱えない武器でもあることは目に見えていた。だから、春樹と折半で良い。しかし、取り分はできるだけ多い方がいい。そう考えていたのだ。

「もしも、あなたが壊れたときに浅宮を支えられる人がいた方がいい。そうは思わないの?」

 春樹の弱点は、浅宮の内面の弱さだ。

 私は、そこを突く。

「アザミも、たぶん同じことを考えたんだとは思う。けど、最後に選ぶのは浅宮だ。自分の主観に縛られたあいつは、無自覚に何に呪われたいのかを選ぶのさ」

 呪い、という言葉を浅宮は楽しそうに使った。

「呪い?」

「そう、最近はめっきり言わないけど大昔のあいつは自分が呪われたと思い込んでたんだ。今考えると、あいつは『呪われた』んじゃなくて『呪われたかった』だけなんだ。浅宮にとっては、呪いは自分が必要にされる最低条件だったみたいだけどな」

 春樹は、「あいつの本名は浅宮終っていうんだ。父親にかけられた呪いを終にする、って意味らしいけど馬鹿らしいよな」と言った。つまり、浅宮は『呪い』を信じなければ、家族のなかで立場がない存在だったのである。

 その話に、私は唖然とする。

 なんて、馬鹿らしい。

 呪いなんてものがなくても、人は簡単に死ぬのに。

「でも、浅宮はそうやって『呪われたいもの』を選ぶんだ。選ぶ権利を持っているんだ」

 春樹は、にやりと笑う。

 灰色の顔色の大人ばかりが住まう世界では珍しい。とても珍しい、カラフルな笑顔で、未来が楽しみでたまらないという顔で、春樹は笑っていた。一秒後に死んだとしても、春樹はたぶんこの世界を楽しんだことを後悔はしないだろう。なにせ春樹は、浅宮を手に入れてしまっているのだから。

「なら、立候補するわ」

 私は、笑う春樹を睨みつける。

「あなたが死んだ直後に、浅宮が私を選ぶかもしれない。そのときのために、私は浅宮の『呪い』になるための立候補をするわ」

 私の宣言に、春樹はさらに笑みを深くする。

「俺たちについてくるのか。女の子が、一人で」

「もう、こんな世界になったら女も男もないでしょう」

 不思議な事に、私は段々と楽しくなっていた。父と母が死んだことを忘れたわけではないし、獣への恐怖も重々知っている。なのに、今この瞬間が楽しくてたまらなかった。

「だって、この世は終わってしまっているのだから!」

 遠くで、猿の悲鳴が聞こえた。

 どうやら浅宮が、猿を追っ払ったようだった。

 一仕事を終えた浅宮が、私たちの方に向かって歩いてくる。怪我はなく、あまり疲れた様子もなかった。強いて言えば、肩を少し庇っているようである。浅宮は、私たちに気がついてわずかに首をかしげた。さらりした黒い髪が、白いうなじに触れる。

「ハル、ずいぶんと仲が良い子を見つけたんだな」

 さっきまで猿に強烈な蹴りを食らわせていた人間の台詞とは思えないほどに、のんびりとしたものだった。浅宮の眼は、まだ私を映していない。浅宮にとって、私はまだ存在していないものだった。

 それでもいい。

 いつか私は浅宮の『呪い』になってみせる。

 そうして、浅宮終を手に入れてみせるのだ。

「はじめまして。私は――」

 私の名前を聞いた浅宮は、春樹の顔をうかがい見た。春樹は、私に対しては肩をすくめるだけで何も言葉を発しなかった。つまり、浅宮の解釈に全てを任せたのだ。

「俺は、浅宮終。そっちは草薙春樹―ハルでいいから。一緒に来るんだろう?」

 浅宮は、簡潔に自己紹介を終えた。

 春樹が決めたのならば旅の同行者などどうでもいい、とでも言いたげであった。

 そして、さっきまで争っていた私とハルは―――浅宮の見えないところで自然に拳を突き合わせていたのである。

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地獄の底 落花生 @rakkasei

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