第5話

夕暮れの公園で、あっちゃんはジャングルジムに登っていた。その横顔は夕日に真っ赤に染まっていて、彼の顔にある傷を誤魔化そうとしていた。

「あっちゃん、その怪我はどうしたの?」

 学年が上がるほど、あっちゃんは怪我をした。それは喧嘩によるので、可愛らしいと言われるあっちゃんの顔はそういうときだけ獣みたいだった。

「隣のクラスの奴とやりあった。アザミもいたけど、あいつら大人数で来たんだぞ」

 ずるいだろう、とあっちゃんは言う。

 けれども、その顔は楽しそうだった。あっちゃんは相変わらず「楽しそう」あるいは「楽しい」と言う感情で、周りをすごい勢いで動かしている。あっちゃんの周りはそれに乗っかって遊ぶか、それに弾き飛ばされるか、それと激しく敵対していた。

 そして、敵対する人々は、あっちゃんと素手で殴り合いを始めていた。あっちゃんとアザミは、彼らの燃え上がるような敵意に笑いながら立ち向かった。あっちゃんたちにとっては、敵になった人々さえも玩具みたいなものだった。

 俺は、もうこの頃になるとあっちゃんのこともアザミのことも上手く理解できなかった。最初から理解できていたのかも分からないけれども、あっちゃんもアザミも遠い異国の人たちみたいだった。

「ねぇ、あっちゃん。あっちゃんは、今度はなにをやったの?」

「ああ、ちょっと隣のクラスの奴を虐めて登校拒否にさせちゃった」

 浅宮は、にこやかに言う。

 浅宮の所業に気がついた隣のクラスメイトたちは、浅宮を懲らしめてやろうと思って浅宮とアザミに喧嘩を売った。浅宮たちは、楽しんでそれを受けた。

「どうしてそんなことをしたんだよ」

 俺が尋ねると、浅宮は酷く蠱惑的な笑みを浮かべる。艶やかに笑む顔がなんだか寂しくって、俺は夕日で真っ赤に染まる顔を長く見つめていた。

「あいつがね・・・俺が虐めて登校拒否にさせた奴が、先見俺のことを排他しようとしたからだよ」

 まるで煙草の煙を吐き出すようにのんびりと、浅宮は言う。

「俺はさぁ、何者なんだろうね。時々分からなくなるけど、除け者にはされたくないのさ。だから、自分を守るためには戦わないといけないんだよ」

「あっちゃんは、あっちゃんだろ」

 俺がそう言うと、あっちゃんは子供らしい素直さで笑った。

「そうだよ。ぼくは確かに、あっちゃんだよ。でもね、あっちゃんになる前の俺は・・・恥ずかしいぐらいに何者でもなかったんだ」

「あっちゃん・・・」

「俺は、実は自分が幸せなのかどうかも分からない半端ものなのさ」

 そんなことをいうあっちゃんの顔は、いつもとは違う。

 何事にも自信があったはずのあっちゃんなのに、今はしおれた花みたいだった。

「おーい、おまえたち!」

 遠くで、アザミの声が聞こえた。

 俺が見たアザミの顔も、傷だらけの酷いものであった。

***

 俺たちがなんの手掛かりもつかめないままに、時間は流れた。

 浅宮がチームから追放される日に、俺たちに桜が会いに来た。俺たちを人目につかないところまで連れてきた桜は、開口一番に俺たちに詫びた。

「すまなかった・・・。君たちには、本当にすまないことをしたと思う」

 頭を深く下げる桜に、俺は嫌な予感がした。

「浅宮は、無事なのか!」

 俺は思わず、桜に掴みかかった。

 桜は、困ったように笑った。

「無事だよ。外で、君たちを待っている。君たちも準備を整えて、合流するといい」

 その言葉を聞いて、俺はほっとした。

 津川も同じ気持ちのようで、胸をなでおろしている。

「本当に・・・君たちには、ぼくの都合で悪いことをしてしまった。さぁ、もう行きなさい」

「桜さん・・・最後に一つだけ」

 俺は、桜に向き合った。

 桜は、微笑みながら小首をかしげていた。

「女の人を殺したのは、子供・・・小学生たちなんですね。子供たちが、あなたの役に立ちたいがために・・・獣になりたいがために自分たちの世話役の大人を集団になって殺したんですね」

 桜の顔が、曇った。

 津川は、息を飲んでいた。だが、彼女はすぐに顔を伏せた。俺にも津川には、なんとなく子供たちの気持ちが分かったからだ。

 大好きな人の役に立ちたかった。

 ヒーローの手助けをしたかった。

 それだけの純粋な願いと決意が、殺意に変わったのだ。

 桜と浅宮は女の殺害現場を見て、すぐに犯人は子供たちであると当たりをつけた。子供たちをこのまま放置すれば、チームは総崩れになる。

 桜はそう判断し、対外的な犯人として浅宮を抜擢した。チーム内では浅宮を知る者は少なかったし、なにより浅宮は獣になっているので殺人を犯してもおかしくはない人物でもあった。

 皆の関心は、浅宮に向いた。

 子供たちに護衛をつかせることに、何の不審さも興味も持たせぬほどに。獣になった人々は、子供たちを守っていたのではない。子供たちから、他の面々を守っていたのである。

「春樹、それだと疑問が一つだけ残るわ。子供たちは、どうして獣にならなかったの?」

 津川が、俺に訪ねてくる。

「津川、俺たちは女が殺されてから小学生たちを一人も見てはいないだろう」

 俺の言葉に、津川がはっとした。

 桜は素早く、子供たちを隔離していた。俺たちは、そのことをあまり疑問に思わなかった。子供にはこの環境は危険だから、と思っていたのだ。なにより、子供が大人を殺すとは思っていなかった。

「桜さん・・・もう子供たちは殺したんですか?」

「いいや。今からだよ。君たちは、早く浅宮と合流してくれ。そして、彼をここから遠くに離すんだよ」

 頼んだよ、と桜は言った。

 その言葉に、俺は嫌な予感がしていた。

「浅宮が、桜さんの代わりに子供たちを殺すと言っているんですか・・・」

 思わず、俺はそんなことを桜に訪ねていた。

 浅宮と桜は敵対していたわけではない。むしろ、浅宮は桜を少しばかり憐れんでいた。疲れ切った大人の痛みを、浅宮は肩替りしようとでもしているのかもしれない。

 桜は、首を振る。

「いいや。子供を殺せば、ぼくが狂う。だから、狂ったぼくを浅宮は殺してやると言っているんだ」

「それでも、浅宮が獣になる!」

 俺は、目をむいた。

 浅宮は、ルールをよく知っていたはずである。人を殺せば、獣になるという理不尽なルール。そのルールを知っている浅宮が、危険を冒すとは思いたくはなかった。

「そうだね。でも、浅宮はあと一人ぐらいなら大丈夫と言っているんだ・・・」

 違う、と思った。 

 浅宮は、そういうふうに背負わない。

 あっちゃんならば・・・そんなふうに死を扱わない。

 死を、救いみたいには考えない。

「桜さん・・・浅宮は、たぶんあなたが嫌いだ」

 俺の言葉に、桜さんが驚いたような顔をする。

「あなたみたいに自分を救えないのに、他人は救おうとする奴が浅宮は大っきらいなんだ」

「嫌いな奴なのに、浅宮は俺を殺してくれるのか?」

 桜の言葉に、俺は首を振る。

「普通は、嫌いな奴だから殺すんだ」

 その言葉に、桜はあっけにとられる。

 そして、疲れ切ったように涙を一滴ながした。

「そうだ・・・。そうだった。普通は、そうなんだよな。死は救いになんてならない。死は、絶望だ。よっぽど嫌な奴じゃないと・・・殺さないよな。やっぱり、俺は嫌われていたんだなぁ」

 深くため息をついて、桜は空を見る。

「いつのまにかこの世界が・・・自分が守っていたものが負担になっていた。早く死にたいと思うようになってしまった。おかしいだろう。世界がこうなって、まだ数日も経っていないのに俺はもう疲れ切っている・・・」

 あっちゃんは、自分がボロボロなのに他人を守ろうと強がる桜が嫌いなのだ。

 最後まで守りきれないのに、誰かを守ろうとする桜が嫌いなのだ。

 でも、その桜の姿は浅宮そのものでもあった。

 その瞬間、校舎から悲鳴が聞こえた。

 俺と津川は身がまえたが、桜だけは茫然としていた。そして、まだ動いているらしい腕時計を確認する。

「子供たちを処刑するには、早すぎる。なにかが、あったんだ!」

 桜が、校舎のなかに戻る。

 俺も思わず、跡を追った。

 校舎のなかには、大人たちが血を流して倒れていた。獣になった者、人のままの者も、皆等しく何かに襲われた跡があった。食われた者もいたが、食われずに重傷を負わされただけの者もいる。

「なにがあったんだ!」

 桜は、まだ息のあった男を抱き上げて訪ねた。

 桜に抱きあげられたのは普通の人間の男であり、そのことに俺は違和感を覚えた。獣になった奴らは、普通の人間を食らうはずである。なのに状況を見る限りは、食われずに殺されているだけの人間や怪我を負わされているだけの人間もいる。

「子供たちだ・・・!」

 桜の腕のなかで、重傷を負った男が最後の力を振り絞って訴える。

「子供たちが殺しあって、本物の獣になった。ここはもう駄目・・・」

 俺と津川は、男の言葉に息を飲む。

 男の事が本当ならば、子供たちは自分たちで殺し合ってより強い獣になったということである。それは狂気でしかできないことであり、同時にそのような獣が俺たちの前に表れるということであった。

 ごほり、と男は血を吐く。

 苦しみにのた打ち回る男を、桜は抑えることしかできていなかった。やがて、男の動きが止まる。男の喉からは、ひゅうひゅうと弱い空気を吐き出す音しか出てこなかった。瞳の焦点は合わず、俺は逃げたがる自分の足を必死に地面に縫いつけた。

 桜は、男を床に置いた。

 もう男は、死んでいた。

 この男を殺したのは、間違いなく子供たちであろう。

 なら、この男をぶんだけ子供たちは間違いなく獣に近づくのだ。その事実に、俺は生唾を飲み込む。

 大人たちと子供たちを引き離し、大人たちの身を守るはずの桜の作戦は、子供たちが自分たちで殺し合うと言う方法を選択したがために崩れた。子供たちを抑え込んでいた大人たちは、殺し合って獣になった子供たちに押し負けたのであろう。

 だが、桜を俺は責めることができなかった。

 子供たちが殺し合う、だなんて誰が考えるだろうか。

 そんなことは、普通は誰だって考えない。

 だが、子供たちはもう人間じゃなかった。

 獣だった。

 ヒーローのために。

 恩人のために。

 子供たちは、人を殺して獣になろうとした。

 そうやって、強くなろうとした子供たちに自我はもうない。人を食らうために生きる、ただの獣であった。

 桜は、子供たちが獣になったと分かった瞬間に殺すべきだったのだ。

 だが、桜は子供たちをすぐに殺せるほどに鬼になれなかった。あるいは、自分が獣になる決心がつかなかったのかもしれない。だから、桜は子供たちを隔離するという時間稼ぎをしてしまった。

 だが、子供たちはもう人ではないのである。

 人を殺した、獣だ。

「助けて!」

 遠くから声が聞こえた。

 俺たちは、声の方へと走り出す。子供たちは全部で三十人もいなかったが、そのうち何人が生き残って獣になったのかは分からない。そして、どんな獣になっているかも分からなかった。

 俺たちは上の階に行くために階段を駆け上がり、そこでも血肉で赤く染まった廊下を見た。そして、その奥には見たことがない獣がいた。

 そいつは、既存の動物のどれにも似ていなかった。

 緑色の丸い体に、その体からいくつも伸びる細い手。真っ赤な口は禍々しく大きくて、人間を捕まえては生きたまま貪っていた。

「なんだ・・・あれ」

 俺は思わず、呟いていた。

 これまでも竜という奇想天外な獣はいたが、ここまで生き物らしくない獣は初めて見た。獣は目もないのに俺たちの存在を感じ取ったらしく、こちらに向かって転がってきた。俺たちは思わず、来た道を戻った。

「あっ、あれはなんだ!」

「そんなの知っているわけないでしょう!」

 俺と津川は怒鳴り合うが、獣の転がるスピードはなかなかに早い。津川は後ろを確認し「こっちよ」と俺の腕を引っ張った。桜も俺たちに続いて、空き教室に飛び込んだ。獣は案の定、急には曲がれずに教室を素通りしていく。

「助かった」

 俺がほっとしていると、みしりと教室のドアが軋んだ。

 閉じたはずのドアが、壊される。入ってきたのは、さっきのマリモみたいな獣ではなかった。小さな体に、ごつごつとした筋肉。顔立ちは鬼のようで、ゲームに出てくるゴブリンに似ている。

「下がっていろ!」

 向かってくるゴブリンに、桜は衝掌を食らわせる。獣の大きな手から受けた衝撃に、ゴブリンは吹きとんだ。そのまま桜は、倒れたゴブリンにのしかかって小さな頭を拳で潰した。ごきゅり、と頭蓋が潰れる音がした。

 ゴブリンの脳髄が、獣の手に絡みつく。

 その光景を見た桜は自分の手を嫌悪し、少しでも距離を取りたいとばかりに背を大きくそらした。 

 獣の咆哮が響く。

 その声は、桜のものだった。桜は泣きなら吠えて体の変化の痛みに、あるいは悲しみに耐えていた。

 桜のシャツが破れる。

 掌だけが獣だった桜の上半身が、一気にたくましくなる。そして、同時にその肌には獣の毛が生えそろう。黄金に見間違えてしまうほどに艶艶した黄色い毛は、悲しみに気高く震えていた。顔までもが徐々に獣の毛皮に浸食されようとしており、それでもなお桜の唇には笑みが浮かんでいた。

 桜は、哀しみのあまりに狂ってしまったのだろうか。

 それとも、正気でいたいがために笑っているのだろうか。

 俺たちには、判断がつかなかった。

「君たち・・・」

 ぐるる、と吠えながら桜は俺たちを見る。

 俺と津川は、緊張で体を強張らせた。けれども笑む唇とは反対にこぼれ落ちる涙を見て、俺たちは言葉を失った。こんなに獣に近くなってもなお、桜にはぎりぎりのところで理性があった。いっそ可哀想になるほどの強さだった。

「逃げろ。もう、ここは駄目だ!」

 泣きながら、遠吠えのように吠えながら、桜は助けを求めていた。それは俺たちに対してではなかった。ここにはいない、浅宮終に助けを求めていた。

 だが、浅宮はここにはいない。

 哀しい遠吠えのあと、桜はふらふらと教室を出て行こうとした。俺の隣にいた津川が、駆けだして桜を止めた。自分にすがりつく少女に、桜は驚きの表情を隠せなかった。

「逃げれば良いじゃない!私たちみたいに、逃げだしてしまえばいいじゃない!!チームなんて放っておいて、逃げればいい」

 津川の言葉は、強い人間の言葉だった。戦い続けるのではなく、渾身の力を込めて逃げることができる強者の言葉であった。

 桜は、首を振った。

「それだけは・・・それだけはできない。だって、俺はもう人を殺している。子供ではなくて、世話になった人を殺しているんだよ」

 獣に近くなった顔で、桜は罪を告白する。

 その声は、どこか投げやりであった。桜は、知っている。彼の人生は、少なくとも人としての人生はもうすぐ終わりを告げるのだと。

 だから、桜は投げやりに自分の人生を語る。

 この機を逃したら、もう語ることすらできないと知っているから。

「俺が最初に殺したのは、俺を雇っていた社長だよ。この混乱が始まってすぐに、俺たちは獣に襲われた。足の速い獣だったから、俺はそのときは誰かが犠牲にならないと生き残れないと思った。俺は、自分の後ろを走っていた社長を獣のほうに突き飛ばした・・・」

 その光景を、桜の仲間は誰も見なかった。

 あるいは、見ても見ない振りをしたのかもしれない。人を殺した桜は獣になったが、理性は持っていた。仲間を守る一番の戦力に、なにかを言える人間はいない。

「俺は・・・人を殺して獣になった。そして、狂ったんだ」

「他人のことを食料として見るようになったんだろ」

 俺の言葉を、桜は否定する。

「違うよ。それもあったけれども、そんなことじゃない。俺は、この世に生きる全員を救えるような気になっていたんだ。力を持ったから、戦えるから、世界中の人間を救わなくちゃいけないような気持ちになってた。・・・でも、そんな気力と妄想だけで長く持つわけない」

 獣の手で、桜は津川を振り払った。

 津川は、もう桜を止めようとはしなかった。

「・・・子供たちは、俺をヒーローだと思ってくれた。けど、俺は一人も救ってなんかいない。救おうとして、全部壊しただけだ・・・。可哀想なことをした。俺と――狂った獣と出会わなければ、生きられた命もあったんだろうに」

 ふらふらと歩きながら、桜は教室のドアをくぐった。

「せめて、君たちは逃げてよ・・・」

 最後に、桜はそう言った。

 そう言って、出ていった桜を襲ったのはさっきのマリモみたいな獣だった。獣はごろごろ転がりながら桜に近づいて、何本もある手で桜の体を押さえこんだ。そしてあんぐりと口を開けたが、桜はあろうことか自分から獣の口に手を突っ込んだ。

 食いちぎられる。

 そう思ったが、血をぼたぼたと垂らしたのは獣の方だった。桜は、獣の歯をへし折ったのである。その歯は柔らかい口のなかに刺さったようで、獣はぺっと血を吐きだした。その隙をついて、桜は腰を落とす。そして、安定した姿勢で獣の丸い胴体に力いっぱいの肘鉄を入れた。

 まるい体が、少しだけ後ろに下がる。俺たちが想像していたよりも、マリモは重いようだった。桜の渾身の力を受けても、思ったほどに動きやしない。桜は舌打ちを一つして、マリモの手をへし折った。マリモが、痛みに叫び声をあげる。ぎょやぎょや、と聞いたこともない怪鳥に似た声であった。

 桜が、勝利を確信して笑う。

 あるいは、笑ったように思われた。

 だが、それは油断であった。

「桜さん!」

 俺は、叫んでいた。

 桜の後ろに、もう一匹のマリモが向かってくる。教室に避難していた俺には、その光景が教室の後ろの方のドアから見えていた。

 桜は、マリモに気がついて振り返る。だが、桜が何か行動を起こすには、マリモは接近しすぎていた。マリモは桜が動く前に、さっきまで桜と戦っていたマリモの体も使って桜を挟みうちにした。

 ごきっ、と嫌な音がした。

 骨が折れる、鈍い音。

 マリモとマリモの間に挟まれた桜の体の一部が、壊れた音だった。

 マリモの体は、おそらく本物のマリモと違って固いであろう。その証拠に、彼らは障害物がある廊下を転がっても傷一つ付いていない。そんなマリモに挟まれたのだから、無事ですむわけがなかった。

「くそぉお!!」

 マリモに挟まれながら、桜は叫ぶ。

 自らを鼓舞するために叫び、桜はマリモを殺した。自分が戦っていたマリモの口にもう一度腕を突っ込み、その体の奥深くまで拳を食いこませたのである。

 マリモは、苦しみのあまり断末魔の悲鳴をあげる。

 その光景を見ながら、俺は思ってしまった。

 ざまぁみろ、と。

 だが、次の瞬間にはあのマリモは子供たちなのだと思いいたって愕然とした。俺は、子供の死に様に興奮していたのである。

「ぐっあっあ―!」

 桜の苦痛の叫びで、俺は我に返る。

 桜の足が、獣になっていた。黄色い毛並みの足には、人間とは作りとは違う筋肉が発達している。ぎらぎらと輝く瞳は、もう獲物しか見えていないようであった。

 桜は、自分に突進してきたマリモに変化したばかりの足で蹴りをいれた。桜の蹴りは、浅宮の蹴りより威力はなかった。だが、それでもマリモをわずかに後退させるだけの威力はあった。

 桜は、自分の新しい足に満足しているようだった。

 さっきまで桜にあったはずの理性は、今の桜からは感じられなかった。桜は高笑いをしながら、マリモに向かっていく。人間ではありえない跳躍で跳び、人間で手ではありえないほど鋭い爪をマリモに食い込ませた。

 そして、笑いが止まらなく唇から伸びた牙をマリモにつきたてる。

 マリモは、生き物にも機械にも似た叫び声をあげた。

 長く絶叫したマリモは、なんども桜を振り払おうとした。何度も、何度も、桜を振り払おうとマリモは挑戦した。

 だが、桜は離さなかった。

 マリモを離さなかった。

 やがて、マリモは力尽きた。

 桜はマリモから離れると、ぐぁわぁと獣の雄たけびをあげる。

 桜の全身が毛におおわれて、もろい服が壊れてしまう。桜は、犬になっていた。人間を越えるぐらいに大きな身体を覆うのは、金色の毛並みである。牙はむき出しになるほどに長く、その瞳には理性も憂いもなかった。

 死んだのだ。

 人間の桜は、死んだのである。

 ここにいたのは、獣の桜だ。

 人の殺した、獣の桜である。

「あ・・・あさみあやぁ」

 獣の桜が、犬の口で人間の言葉を喋ろうとする。

 たどたどしい口は、俺が聞きなれた名前を呼んでいた。

 今でも校舎のいたるところから「きゃやあ」だとか「助けて!」だとか、そういう声がどんどんと聞こえてくる。だが、俺たちはそれを助けられるとは思っていなかった。

 俺たちに不思議な万能感を与えていた、獣のような人間のような不可思議な桜はいなくなってしまったのだから。今ここにいるのは、敵になる獣の桜だ。

 桜の叫び声を聞きつけて、ゴブリンたちが沸きでてくる。小さくて凶暴な獣たちは、桜を見ると我先にと襲いかかってきた。

 俺が今まで見てきた獣たちは、獣になった人間にはあまり興味を抱いていなかった。浅宮と戦った獣たちは、浅宮が食事を邪魔したから戦っているというふうだった。だが、ゴブリンたちはそういう感じではないのだ。

 ゴブリンたちは、俺たちに見向きもしなかった。

 餌になるはずの俺たちよりも、ゴブリンは桜を倒すことに集中していた。それはまるで、子供のようだ。新しいゲームを買ってもらって、夜遅くまでプレイして親に叱られる子供。今、子供のゴブリンたちは桜という玩具に集中していた。

 桜はゴブリンに囲まれながら、その一体一体を血祭りにあげていく。

 一体殺すごとに、苦しみ悶える桜はもういなかった。桜は、殺しを楽しんでいた。自分の手が、爪が、牙が、ゴブリンを殺していく。元々は人であった獣を殺していくことに、桜はもうなにも感じていないようだった。

 華やかに血が飛び散るなかで、桜は吠えた。

 獲物をもっと呼び寄せるみたいに。

 助けを求めるみたいに。

「武藤桜!」

 外から、大声が聞こえた、

 この世の全てを切り裂くような、凛とした声。

 俺は慌てて、教室の窓から外を覗いた。

 校庭の真ん中で叫んでいたのは、浅宮だった。自分に向かってくるかもしれない獣たちのことなんて、気にもしないで校庭の真ん中で叫ぶ―――浅宮終。黒いコートの裾をはためかせて、獣ではなく人間のふりをする小さな怪物。

「俺が行くまで、誰も殺すな!」

 浅宮は、桜に向かって叫んだ。

 それは俺たちの身を案じているようにも、桜にこれ以上殺人を犯させないようにしているようにも思えた。

 浅宮は、校舎に入って行く。

 俺たちと桜を救うためだけに、獣の城に入って行く。

 俺は「くるな!」と叫ぼうとした。しかし、言葉は上手く出なかった。俺は浅宮なしで、この境地を切り抜けられない。結局は、浅宮を頼ることになるのは目に見えている。そんな俺は、たぶん強がることすら許されないのだと思う。

「ちょっと、なにボサッとしているの!」

 外を見ていた俺の首根っこを、津川がひっぱる。

 ゴブリンたちを殺し終えた桜は、浅宮を探してきょろきょろとしていた。

 桜と俺たちとの距離はあんまりなかったが、桜は俺たちが見えていないみたいだった。もしかしたら、獣になって視力が弱くなっているのかもしれない。代わりに嗅覚が鋭くなっているのか、桜は空中の匂いをかぎ取る。そして、獣の口でにんまりと笑う。

 桜は、俺と津川を見つけたようだった。

 獣の肉球をつかって、足音もたてずに俺たちに近づく。のそり、のそり、と獣の大きな身体が俺たちにゆっくり近づいてくる。俺と津川は、息を飲んだ。

 物音一つもたてられない緊張感に包まれながら、俺と津川は桜を見ていた。

 桜はいやに優美に歩きながらに、俺たちに近づいてくる。

 俺たちと桜が、交差した。

 桜は俺たちに襲い掛かってくると思ったのに、まるで俺たちに興味なんてないみたいに素通りしたのであった。彼の興味は、俺たちには向いていなかった。桜の興味は、俺たちの後ろの窓から聞こえた浅宮の声に向いていたのだ。

 俺は、がたがたと震えていた。

 ここで桜を見逃せば、浅宮は桜を殺すであろう。

 そして、浅宮は獣に近づく。

 浅宮は、それを後悔なんてしないであろう。

 浅宮は、決めてしまっているのだ。哀れな武藤桜、という獣を殺す決心を。それにともなうリスクすらも、飲み込むと決めてしまっているのだ。

 俺は、それを許していいのだろうか。

 今ここで桜を殺せれば、浅宮は桜を殺さなくてすむ。

 だが、それでは俺が獣になってしまう。

 そんな俺の迷いをあざ笑うみたいに、自分の思いのままに行動をおこす愚か者がいた。その愚か物は、教室にあった椅子を桜に投げつけたのであった。なぜ、机ではなく、軽い椅子をぶつけたのか。

 机を持ち上げることができなかったからだ。

 その愚か者の腕は、俺よりも細かった。けれども、眼差しだけは俺よりも強かった。人を殺せば獣になるという理不尽なルールを強いられた世界で、誰かを守るのだと決めてしまった瞳をしていた。

「武藤桜さん、あなたを殺すのは私よ!」

 武器を一つも持たないで、津川杏里は叫んだ。

 ボロボロになった制服の彼女を見た桜は、一瞬だけ獣の顔で呆けたように見えた。

 津川は、圧倒的に弱者であった。獣に食われるのを待つ弱者。そんな弱者のくせに、津川は叫んだのだ。桜に向かって「自分と戦え」と。

 勇気と呼ぶには愚か過ぎる挑戦に、桜は笑っていた。

 その笑顔だけは、人間みたいな顔をしていた。

 桜は、津川に向き合う。そして低いうなり声をあげたかと思うと、津川に向かって飛びかかろうとした。津川は咄嗟にポケットに手を突っこんで、スプレー缶を取り出す。制汗スプレーかと思ったが、その中身を浴びせかけられた桜はいきなりごろごろと転がった。

 桜は酷く苦しんでおり、俺は津川の手元をよくよく見た。スプレーには『痴漢撃退用 ハバネロスプレー』なる印字がされていた。浅宮が、津川に渡していたものである。

「弱い女子高生を甘く見ないでよね!」

 津川は胸をはっていたが、残念ながら桜はそんなこと聞いてはいない。痴漢撃退用のハバネロスプレーを真正面から食らったのである。しばらくは、この世のことなど考えられないぐらいに眼が痛いはずだ。

 津川は、再び椅子を持った。

 さっきまでの威勢の良さはなりを潜めて、津川からは緊張が漂ってくる。今から津川は、椅子で桜を撲殺する。誰でもない、彼女がそう決めたのである。浅宮のために、桜を殺すと決めたのである。

「ええい!」と間の抜けたような声で、津川は桜を椅子で叩いた。のた打ち回る桜の体に椅子は当たったが、衝撃で木の背もたれと座る部分がバラバラになるだけだった。桜を殺すには、威力も武器も頼りなかった。

 それでも、その衝撃は桜を正気に戻すには十分な衝撃だった。桜は前足で目を一擦りだけすると、津川に襲い掛かる。津川は、持っていた椅子で桜の牙を防いだ。木の部分が砕けた、枠だけになった椅子は桜の牙から津川を守った。それでも軽い椅子の鉄の部分は桜の力によって曲げられ、津川が身を守れる部分は段々と少なくなっていく。

 ぼきり、と椅子の枠が折れた。

 このままでは、津川は殺される。

 俺は咄嗟に黒板消しを掴んで、津川に向かって投げた。桜の体にあたった手入れの悪い黒板消しは、白い煙をあたりに拡散させた。

 その煙を思いっきり吸い込んでしまったのか、桜が小さくクシャミをする。

 とても小さな「へちっ」というクシャミであった。

 それでも、それは隙であった。

 俺や津川でも分かる、分かりやすい隙であった。津川は、桜に噛み切られた椅子のパーツを手に取った。もはや小さく短くなったそれは、桜に噛み切られたせいで鋭く尖っていた。

 津川は、それを力強く掴んだ。

 彼女は呼吸や鼓動、そういう生きて行く上で大切なものを全て押し殺した。そして、殺意という普通の生活では表に出してはいけないものを日の光にあてた。

「桜さん!!」

 津川は、自分で殺す人間の名前を呼んだ。

 彼女が持った尖った椅子のパーツは、獣になった桜の口を貫いた。桜がマリモの獣たちと戦ったときと同じ方法だった。津川は、桜の戦いで学習していたのだ。

 弱い自分が、獣と戦うにはどこで刺せばいいのか。

 どこを刺せば致命傷になるのか。

 津川に貫かれた桜は、ごほりと血を吐きだした。津川にそのまま襲いかかろうとしたが、口を貫かれてはもう桜に噛みつくこともできない。

 それでも、津川は桜を恐れて払いのけた。

 桜の体は、冷たい教室の床に倒れる。まだ、桜の足は動いていた。だが、それもすぐに終わるのであろう。もうすぐ、桜は死ぬのだ。

「ハル、杏里!」

 教室に、飛び込んでくる人影があった。

 それは、浅宮だった。

 息を切らしている彼は、きっと俺たちに何かがあったと思って学校中を探しまわっていたのだろう。浅宮は死にかけの桜を見つけて、唖然とした。

「そ・・・それは桜なのか?」

「そうよ、あっちゃん」

 津川が、浅宮に答える。

 明るい津川の声とは裏腹に、桜の遺体は酷いものだった。口の中に椅子の部品が突き刺さり、酷く苦しんだ跡があった。

 浅宮は、桜に駆け寄った。

 桜には、わずかに息があった。だが、もはや自分の体を動かす力もなかった。浅宮は、そんな桜に手を伸ばした。桜は、浅宮の手には鼻づらを押しつけた。

「桜・・・もう楽になれ。おまえは、よくやった。おまえは、俺に出来ないことをしようとしたんだ」

 それは、浅宮にとっての労いの言葉だった。

 死にゆくものに、それが浅宮ができる精いっぱいであった。

「あ・・・さみや、きみは・・お・れがきらいで・・・」

 たどたどしい口調で、桜が尋ねる。

 それに、浅宮はうなづいた。

「嫌いだよ。でも、桜の功績だけは認める。俺は、そこまで着量の狭い男じゃない」

 たぶん、それは浅宮の強がりだ。

 浅宮は、桜が死にかけなければ桜がやったことを認められなかっただろう。浅宮は桜が死ぬとわけっているから、桜の功績を認めることができたのだ。

「安心しろ、桜。俺は、おまえのことを覚えている。絶対に、覚えているから」

 浅宮の言葉に、桜は「ああ・・・」と感嘆の息を吐き出した。

 桜は、動かなくなった。

 浅宮は無言で、桜の体から離れた。

 涙は、流していなかった。

「桜を殺したのは・・・杏里なのか?」

 浅宮は、返り血で汚れた杏里に訪ねた。

「そうよ、私が殺したわ。これで私も、獣になれる。もう、あっちゃんだけには背負わせないわ。あっちゃん・・・」

 津川は、浅宮に向かって手を伸ばした。

 津川は、心底から笑っていた。

 人を殺したのに、笑えていた。

 浅宮は、痛そうだった。

 自分は怪我をしていないのに、今までの何よりも痛そうであった。きっと足をもがれたって、浅宮はこんなふうに痛そうにはしない。

「また、私が助けてあげる。だから、あっちゃんは一人で泣かないでね」

 浅宮は、唖然としていた。

 なにも言えなかった。

 そんななかで桜の体が一瞬だけぴくりと跳ねて、もう動かなくなった。死んだのだ、と俺は思った。それを横目で見た津川は、嬉しそうに浅宮に抱きつく。

「ほうら、始まるはずよ」

 津川の言葉通り、彼女の体は徐々に変わり始めた。

 しなやかな指がずんぐりとしていき、白い腕は灰色の毛に包まれた。首や頬にまで毛は生えていき、耳が人間のものよりも尖がっていく。なんとなくではあるが、津川は猫を彷彿とさせる獣に変化していた。集中的に変化した手も、桜のものと比べると小ぶりである。

「あっちゃん、これで私も戦えるわ。ほら、春樹も見てよ」

 嬉しそうに津川は、俺の方を振り返った。

 だが、そのときであった。

 津川は、大きな目を見開いて震えた。

「えっ・・・やだ。うそ・・・・なんでよ。なんで、春樹が美味しそうに見えちゃうのよ」

 津川の言葉にはっとした浅宮は、後ろから津川を羽交い絞めにした。

「ハル、ちょっと隠れてろ!」

 だが、荒れた教室に身を隠せる所なんてない。浅宮は舌打ちして、羽交い絞めにしていた津川を放した。なにするのかと俺が思っている間に、浅宮は自分のほうに津川をむきなおさせた。そして、か細い肩をしっかりと掴む。

「杏里、おまえは絶対に大丈夫だ。絶対に、その空腹感と戦えるから」

 浅宮は、津川に真正面からそう語りかけた。

 津川は、震えていた。

 浅宮も隠しきることができなかった、獣になった後の飢餓感。津川は、それに襲われているに違いない。そして獣になった人間は、脳の一部が壊れてしまう。

 人を食料だと認識してしまう。

 今の津川の眼には、俺は食料として映っていない。俺たちは、どこかで楽観視していた。浅宮や桜、チームの獣になった人々。そういう前例があったからこそ、津川が獣になっても飢えに耐えられるのではないかと楽観視してしまっていた。

 津川は、浅宮を振り払った。

 浅宮は、津川は女子だから遠慮していたのだろう。あまり、強くは抑え込んでいるようには見えなかった。浅宮は、床に叩きつけられる。

 津川は、震えながら俺に近づいてきた。

 俺は、津川が恐ろしかった。恐ろしくて、一歩だけ下がった。けれども、それ以上逃げることはできなかった。津川との思い出に邪魔されて、彼女から逃げることができなかった。俺は彼女のことが、けっこう好きだった。友人として、彼女を信頼していた。

「津川・・・」

「お腹が空いて・・・本当にたまらないの。春樹が、美味しそうに見えちゃうの・・・」

 彼女は震える体をいなそうと自分の体を抱きしめるが、上手くはいっていなかった。ぼたぼた、と大粒の涙が津川の爪先に落ちてゆく。

 津川は、俺に近づいてきて俺の首に手をかけた。人間だったら首を絞めるのだろうが、津川の指はもう人間のものではなかった。獣の手であった。それでも人間よりもはるかに殺傷能力を持つ、恐ろしい手であった。

「本当に・・・今までのなによりも、美味しそう」

 津川はそれを呟いて、俺の首に噛みつこうとした。

「杏里!」

 それを止めたのは、浅宮だ。

 浅宮は、津川を殴った。

 女の子、という遠慮はもうどこかに飛んでいるみたいだった。浅宮の呼吸は荒く、今まで獣を相手にしていたときと同じ目をしていた。油断のならない相手に集中して、それでも人間として理性を尖らせていた。

「杏里、駄目だ!絶対に、友達だけは食わないでくれ・・・。お願いだから」

 浅宮の願いに、津川は首を振る。

 殴られてもなお立ち上る津川に、浅宮は息を飲む。

「・・・駄目よ。本当に、耐えきれないの」

 津川は、笑っていた。

 駄目なのだ、と言いながら哀しそうに笑っていた。

 津川は、再び俺を見る。

 津川は立ち上ると、また俺の方に向かってくる。

 浅宮は、俺と津川の間に立った。

「これ以上は、ハルに近づくな!たのむ・・・近づくな」

「あっちゃんこそ、退いて!」

 津川は、叫んでいた。

 浅宮は、そんな津川の肩を抱いた。それは獣になってしまった津川に対する、最後の親愛でもあったように思われた。津川は、浅宮に抱かれながら泣いていた。

「・・・無理よ。なんなのよ、これ。あっちゃんは・・・・今までずっとこれに耐えていたの?あなた、マゾなんじゃない」

 泣き顔絵のままで、津川は笑った。

 それは、強がりだった。

 俺や浅宮にだって分かる、単純な強がり。けれども、今はそんな軽口に笑うこともできなかった。浅宮は抑えられた衝動が、津川は抑えることができない。この先の答えは、俺たち三人が無言で共有していた。

 津川は、ただ人の俺を食料としか見れない。

 俺が獣にならない限り、津川とは一緒にいれない。

「・・・浅宮、春樹。私は、ここで終わることにするわ」

 津川は、そう言った。

 とても、静かな声だった。

 津川は、浅宮と一緒にいることをあきらめたのだ。津川が浅宮と行動すれば、津川は俺を殺して食べてしまうだろう。津川は、それを嫌だと思ったのだ。

 俺を殺すぐらいだったら、浅宮と別れる決心をしたのだ。

 一度別れれば、次に会わるかは分からない世界で。

 津川は、浅宮終と別れる覚悟をしたのである。

 両親との別れを決意したときのように。

「ごめんね。私はたえられない・・・。このまま一緒にいたら、私は春樹を食べようとする。そうなったら、あっちゃんは止めるでしょう。そうなったら、私とあっちゃんは争って・・・どちらかが死ななきゃいけなくなる」

「どちらかが死ねば、どちらかが完全に獣になる」

 浅宮の言葉に、「そうよ」と津川が頷く。

 浅宮は、なにも言わなかった。しかし、この場では浅宮は俺よりも津川の決心の意味を知っていた。

「浅宮が、悪いんだからね・・・。自分なら、まだ一人ぐらいは背負えるだなんて無理をするから。私が変わってやろうだなんて、仏心を出しちゃったじゃないの」

「ごめん、杏里・・・。俺が、悪かった。俺が、ぜんぶ悪かったんだ」

 浅宮も、津川と離れる決心した。

 津川は少し安心したように、体の力を抜いた。

「ねぇ、最後なんだから我がまま言ってもいいかしら?」

「この場で叶えられる範囲なら」

「安心して、浅宮。あなたは、立っているだけでいいから」

 津川は、そう言って一歩分だけ浅宮から離れた。浅宮は戸惑いながらも、津川に言われたとおりに立っていた。

「あっちゃん、あのね。私は小学校一年生の頃は浅宮終っていう、けったいな名前の男の子が好きだったんだよ」

 津川はそう言って、自分から離れた距離を一気に詰めた。

 そして、その勢いで浅宮にキスをした。

 二人の身長差はほとんどないから、それはまるで間違って正面衝突してしまったようにも見えた。あまりに幼い口づけだが、それが津川にとっての全身全霊であった。

「杏里、俺はっ!」

 浅宮が、焦ったように津川に詰め寄った。

 津川は、少しだけ哀しげに笑っていた。

「分かっている。私が、あっちゃんのことを好きだったのは小学校の頃よ」

 津川は、俺たちに背を向けた。

 そのとき、教室の中に飛び込んでくる人影があった。それは俺たちと同じ制服を着ていて、脅えきっていた。ここで再会できた、生きのびた同級生だった。きっと、獣の度重なる襲撃を受けたのであろう。同級生と制服はボロボロで、酷い有様だった。誰もが、同情する有様だった。けれども、気がついてみれば誰もがそういう姿だった。

 彼は、津川の足にしがみついた。

「た・・・たすけてくれ、津川。浅宮と違って、おまえは生身だから分かるよな。獣じゃなくて、人の気持ちがさぁ」

 たぶん、同級生には津川の顔が影になって分からなかったのだろう。だから、津川が動いたとき、絶望したような顔をしていた。津川は、もう人ではなかった。

 人の気持ちが分からない、捕食者だった。

「ごめんね・・・」

 津川は、確かにそう言った。

 同級生は、津川の獣の姿に恐れをなしてほうほうの体で逃げて行く。

 その後ろ姿は、残酷だった。津川が人間ではない、と断言しているのだ。

 津川は、その後ろ姿を見ながらため息をつく。きっとものすごい空腹感と戦っているのだろう。それでも津川は、人間を保とうとしていた。俺や浅宮の前では、きっと彼女は最後まで人間でいたいのだ。

「じゃあ、またね。小学校で別れて、高校で一緒になったんだもの。また、会えるかもね」

 教室を出て行く、津川。

「なぁ・・・あっちゃん」

 俺は、立ちつくす浅宮に声をかけた。

「ごめん、ハル。あとで説明するから・・・今はなにも聞かないでくれよ」

 浅宮は、そう言った。

 彼は、その後ずっと無言だった。浅宮は、もしかしたら泣いているのかもしれなかった。あるいは津川ではなく、俺の身を守ることを選択した事を後悔しているのかもしれなかった。津川が出て行って随分と時間が経ってから、俺たちが学校の外を出た。

 もうここは、安全な避難場所ではなかった。

 獣と獣が悪戯に殺し合う、危険な場所であった。

 校舎の全体が一目で見渡せるぐらいに学校を離れると、浅宮は学校のほうを振り向いた。そして、浅宮はとても小さく呟いた。

「桜・・・杏里」

 俺は、別れた津川の事を思った。

 津川は、無事なのだろうか。獣だらけの場所で、一人で身を守れるのだろうか。俺と浅宮は、しばらく無言で歩いた。津川は心配だったが、それでも俺たちは歩かなければならなかった。

「黙っていたけど、杏里と最初に会ったのは小学校一年生の頃だ」

 突然、あっちゃんが口を開いた。

「俺は、小学校一年生のときは虐められっ子だった」

 想像できないだろう、と浅宮は笑った。

 確かに、小学校四年生の頃からしか浅宮を知らない俺には想像できない。小学校四年生の頃の浅宮は、もうクラスのボス的の存在だった。

「杏里とアザミが、俺を変えてくれたんだよ。杏里は俺に自信を、アザミは他人が自分をどう見るか、を教えてくれた」

 その告白に、俺は歩みを止める。

 浅宮は、振り返る。

 その時の浅宮の姿が、俺の疑問の全てに答えているような気がした。

 平均よりも小さな背丈。女物の黒いコートが、しっくりとなじむ細い肉体。小学校の頃は、母親が無断で買ってきた赤いランドセルを背負っていた――浅宮終。

「俺は・・・父親に呪いを解くように望まれていた。けれども、なにもできないから俺は常に無力感にさいなまれていた。それを変えてくれたのが、アザミと杏里だったんだ」

「呪いってなんなんだ?」

 俺の言葉に、浅宮は困ったように笑った。

「俺の父親、若い頃はけっこうな遊び人だったらしい。女を孕らませては降ろさせて、そんなことを繰り返したとか言っていた。でもさ、一人の女に言われたんだって。『あんたは、絶対に呪われる。呪いが、あんたを殺す』って。俺が生まれた時に、父親はそれを思いだした。いや、俺のねぇさんが死んでから、ずっと心に引っかかってたんじゃないかな。自分が呪われているから、ねぇさんは死んだと思っただと思う。だから、無事に生まれた俺は・・・呪いを終わらせられるように終っていう名前なったんだ。でも、俺は呪いを終わらせることなんてできなかった。そもそも見えもしない呪いを終わらせるだなんて、どうすればよかったんだと思う?」

 俺は、浅宮の疑問に答えられなかった。

 浅宮の父親は、死んでしまった。

 浅宮の父親は、呪われたと思い込んでいたのかもしれない。だからこそ、浅宮の父親は包丁を持ち出して浅宮を狂ったように追い掛けたのではないだろうか。

 少なくとも、俺はそう思った。

「あっちゃんが、赤いランドセルを背負っていたのは・・・」

「母親が、生まれなかったねぇさんに買ってきたものさ。小学校の頃も説明しただろう。不思議だとよな、人間っていうのは「ある」ものよりも「失ったもの」に固執するんだ。

母さんが死んだのは俺が呪いを解けなかったせいじゃなくて・・・ねぇさんを思いすぎて狂ったせいだ」

 母親も浅宮が中学校二年生の時に、事故で亡くなったらしい。もっとも、浅宮もその父も事故とは思っていないようだった。思えば、その思い込みこそ呪いなのかもしれない。

 母親が亡くなってから、浅宮の父親は狂ったという。浅宮の母の死で、浅宮の父親は自分たちの身にも危険が降りかかると思ったのだろう。あくまで、俺の予想であるが。

「なぁ・・・浅宮は呪いを解けたんじゃないのか?」

 俺の知っている浅宮は、なんだってできる天才だった。

 呪いだって、解けるはずの天才だった。

 俺は、浅宮に訪ねてしまった。

 俺の質問に、浅宮は髪を風になびかせながら答える。

「ハル・・・たしかに客観的に見て俺は天才だろうよ。でも、呪いっていうのは主観の問題なんだ。主観は見たいものしか見ない、恐ろしいものなんだよ。どんな言葉を使おうと、どんな進んだ科学技術を使おうとも覆すのは難しい。まして、客観的に見れば俺も父と同じ呪いにかかっているように見えるんだろう?」

 浅宮の言葉に、俺はたじろいだ。

 たしかに、俺には今の浅宮は呪いを信じる愚か者に見える。

「軽蔑したか?俺のことを・・・」

 浅宮は、俺にそう訪ねた。 

 俺は、必死に言葉を絞り出した。

「まさか・・・」

「いいんだ。もう、俺は自分のことぐらいは分かっているさ」

 浅宮は、コートのポケットに手を突っ込んだ。

「けどな、アザミと杏里は俺にかけられた呪いを少しだけ解いてくれたような気がしたんだ。世界にこんなになっても、アザミだったら全ての呪いを解いてくれるような気がしたんだよ。それが、俺がこんな世界になってからアザミに会いたくなった理由」

 風が、強く吹く。

 浅宮の言葉は、まるで遺書みたいだった。

「浅宮・・・」

「心配するなって。俺はまだ死なないし、獣になるつもりもない。・・・桜さんから、もらったコレを読んだらハルに少しだけ話したくなっただけ」

 そう言って、浅宮がポケットから取り出したのは白いハンカチだ。桜が、浅宮の手首を縛る時に使うときに使ったハンカチだった。

 ハンカチを受け取った俺は、それを広げた。マジックで荒々しく、そこには桜の遺書が書かれていた。太いマジックで書かれた、文字は滲んで少し潰れていた。なにより言葉は、短かった。

『本当の獣になったら、殺してくれ』

 桜の最後の本音。

 その言葉を、浅宮は受け取っていたのだ。

 俺は、無言で顔をあげる。

 そこには、浅宮がいる。獣の足をした、不格好な少年が慈愛の表情を浮かべて俺を見ていた。いや、俺が持っているハンカチを見つめていた。

「俺は、桜が嫌いだから殺そうとしたんじゃない。あいつの人間としての意思を尊重してやろうと思ったのさ。さすがに、俺だって嫌いだからって言う理由では殺さない」

「あっちゃん・・・」

 だが、浅宮の思いは叶わなかった。

 桜は、浅宮ではなく津川に殺された。

 そして、津川は獣になった。

「・・・あっちゃんが獣になったら、俺が殺そうか?」

 俺は、そんなことをできるわけもないのに尋ねてしまった。

 浅宮は、そんな俺に向かって破顔する。

「止めてくれよ。最後に見るのが、ハルだなんて笑えないだろう。俺には、最後にみたいモノがあるんだから」

 二人で、アザミがいるところを目指す。

 その道中で、聞いた話。

 聞けば聞くほどに、俺のなかで浅宮は遠くに行った。俺の記憶にあったラスボスの浅宮に、違う意味づけが加わるごとに浅宮は俺から離れて行くような気がする。

 けれども、たぶんこれが本来の距離だったのだ。

 浅宮は、俺なんかが近寄れないぐらいに遠くにいる存在だった。

 浅宮の縄張りに最初からいたのは、たぶん津川とアザミぐらいのものだったのだろう。その稀有な二人が、俺は羨ましい。たとえどんなことでも、浅宮の人格形成に関われたことが俺には羨ましいのだ。

 津川は、たぶんそうやって「あっちゃん」と切っても切れないような絆を手に入れた。浅宮に「あっちゃん」を刻み込んで、二度と離れなくなった。

 俺は、なにであっちゃんと繋がっているのだろうか。

 できることならば、確かなものであっちゃんと繋がっていたい。

「浅宮!」

 恨みを全て乗せたような怒鳴り声が、響いた。

 その声に、足を取られたみたいに浅宮が前のめりに倒れた。浅宮の艶やかな髪には、血が付着していた。一拍遅れて、俺は浅宮が殴られたのであると気がついた。

「全部、おまえのせいなんだろ!おまえが女を殺したせいで、チームの拠点が獣だらけになったんだろ!!」

 浅宮の背後にいたのは、佐上だった。俺たちと同級生の彼は、浅宮への殺意の色に染まっていた。きっと人を殺せば獣になるというルールは、彼のなかで吹き飛んでいるのだろう。

 佐上の手には、石があった。

 あれで、浅宮の脆い頭を殴ったのだ。浅宮が獣になっているのは、下半身だけ。上半身は、弱い人間のままだ。それなのに、佐上は浅宮の頭を殴ったのだ。

「なにか言えよ、浅宮!」

 佐上が、倒れた浅宮に向かって叫ぶ。

 殴られた浅宮は、動かない。かすかに手足が震えているから、意識はあるのであろう。けれども、浅宮は起き上がろうとはしない。

 できない、のかもしれない。

「・・・なにか言えって!」

 佐上は、浅宮に馬乗りになる。

 そして、さらに浅宮を石で殴ろうとした。俺は、このままでは浅宮が殴り殺されるのではないかと恐くなった。少なくとも逆上した佐上を、俺は素手で止められはしなかった。

 俺は、石を拾い上げる。

 手に収まるぐらいの石である。

 それぐらいで、十分であると思った。掌のなかにそれを隠して、佐上の頭部を狙って振りかぶる。このまま、真っ直ぐに手を振り降ろせば佐上を撲殺できる。

 俺と浅宮は殺意でもって、繋がることができるのだ。

 だが、俺が手を振り下ろす瞬間に浅宮はなにかを感じ取ったみたいに体をがばりと起き上がらせた。浅宮は、俺がなにをやろうとしたのか理解していた。浅宮は無理に体をひねって、咄嗟に佐上の体を俺のところまで突き飛ばした。

「なにかを考えているんだ、ハル!」

 浅宮の怒鳴り声に、佐上は下敷きにした俺の存在に気がつく。正確に言えば、石を握っている俺に気がつく。

 逃がすものか、と思った。

 俺は、佐上を後ろから羽交い絞めにした。佐上はもがくけれども、絶対に逃がさないと思った。

「草薙・・・おまえまで、なにやっているんだよ。そんなもんで殴ったら、人は死んじゃうんだぞ」

 佐上は、震える声で俺に話しかける。自分は浅宮を殺しかけた癖に、自分が殺されそうになると佐上の声は震えていた。

 佐上は俺の上に乗っているから、俺には佐上の表情は見えない。けれども、佐上がどんな顔をしていても関係ないと思った。

「知ってるよ。知っているから、俺はこれを持っている」

 佐上を殺すために。

 俺は、不安定な姿勢ながらもう一度石を振りかぶった。殺すのは難しくても、目ぐらいは潰せるかもしれない。

「ハル!」

 浅宮が、俺を呼んだ。

 あっちゃんが、俺の腕を力強く掴む。

 その瞳は、大粒の涙を流していた。

「・・・だめだ、ハル。おまえが人を殺したら、たぶん俺が人ではなくなってしまう」

 浅宮の手が、俺の手から殺意の結晶でもある石を奪っていく。

 石は、絶対に俺たちの手が届かない場所まで浅宮によって投げ捨てられた。

 石が地面に落ちる音が、やけに大きく聞こえた。浅宮の涙に呆然としてしまった俺から、佐上が逃げだす。俺のクラスメイトだったはずの佐上は、俺たちを振り返ることなく逃げた。別れの言葉は、一つもなかった。

 浅宮と俺は、そんな佐上の後ろ姿を見つめ続けていた。

 佐上はきっと、俺たちこそが「獣」だと思っているであろう。

「なんで・・・俺を止めたんだよ」

 小さくなる佐上の背中を見つめながら、俺は浅宮に訪ねていた。

 浅宮の顔は、見ていなかった。

「言っただろう。俺は、ハルと杏里を尊敬しているんだ。だから、せめてお前だけは人間でいてくれよ・・・。憧れの人が人間でいてくれたら、俺もなんとか人間であり続けられるような気がするから」

 浅宮は、泣きながらそう言った。

 ずっと俺たちを守り続けていた浅宮が、泣いていた。

「俺は、浅宮に尊敬されるような・・・人間じゃない。なんのとりえもない、普通の人間だ」

 津川やアザミのように、浅宮を救ったわけではない。

 突然に現れて、津川とアザミ・・・浅宮が作った舞台を鑑賞していただけだ。

 今だってひたすらに守られて、津川に浅宮と決別までさせてしまった。俺がいなければ、津川は浅宮とだけは一緒にいられたかもしれない。

「ハル、おまえがおまえ自身をどう思おうとかまわないさ。ただ、すがらせてはくれよ。おまえは、俺の友人なんだ」

 浅宮は、涙をぬぐった。

 そうして、俺はようやく浅宮の顔を見ることができた。

「行こうか・・・」

 俺は、浅宮に声をかける。

 再び、二人で歩き続ける。

 いつかの三人に戻るために。

 いつかの三人に戻れる、と信じるために。

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