第3話

 幼い頃、俺はあっちゃんとアザミについて周っていた。でも、アザミがいなくて、あっちゃんと二人で遊ぶときもあった。アザミの親は教育熱心で、アザミは習い事をいっぱいやっていたから、俺とあっちゃんが二人だけで遊ぶ頻度は多かったと思う。

「あっちゃんって、なんであっちゃんって言うの?」

 名前に「あ」はつかないよね。

 でも、あっちゃんのミサンガに編み込まれているイニシャルだってAだった。

 俺が尋ねると、あっちゃんは嫌そうに顔をゆがめた。怒っているのでもなく、哀しんでいるわけでもない顔。その表情のわけを、小学生が知れるわけもなかった。あっちゃんは、夕日に横顔を照らされながら口を開く。

「俺の名前、終っていうの。それは、知っているよな」

「うん。すっごい、名前だよね」

 幼い俺でも、それが子供につけるのにふさわしくない名前だということは分かっていた。クラスメイトの全員が分かっていたから、あっちゃんの名前は誰もが触れないようにしていた。その名前は、爆発物みたいなものなのだ。悪戯に手で触れたら、触った人間の腕まで吹き飛ばしてしまう。

「昔は、おっちゃんって言うあだ名だったんだ」

 あっちゃんの告白に、俺は思わず噴き出した。

 しかし、あっちゃんの本名を考えるならば、そっちのほうが絶対に的確だ。

「それで、そのあだ名を率先して呼んでいた奴と殴り合いの喧嘩になったんだ。あれは、えっと一年生の頃だったかな」

「・・・へぇ」

「それで、俺が勝って『あっちゃん』っていうあだ名を譲ってもらった。その代わりに、俺は元あっちゃんのことを一生本名で呼ばなきゃいけないんだけどな。そのときに、このミサンガも作ってもらった」

 あっちゃんという単純なあだ名に、奇妙なドラマがあったことに驚きだった。というか、小学校一年生の頃からあっちゃんたちは何をやっているのだろうか。

 俺は小学校四年生からしかあっちゃんを知らないから、小学校一年生のあっちゃんじゃないあっちゃんは想像の範疇外だ。一年生のころのあっちゃんは、今のあっちゃんみたいに夕暮れの公園で遊んだりはしなかったのだろうか。

「それで、元あっちゃんは誰なの?別のクラスの人?」

 俺の質問に、今のあっちゃんは答えた。

「それは、秘密。まぁ、転校したから、もう二度と会うこともないだろうよ」

***

 窓から差し込む日光で、俺は目を覚ました。

 見知らぬ部屋であったが、動く時計に奇妙な安心感を覚えた。どうしてそんな物を見て安心したのかと言うと、昨日はテレビが映らないとかそういうことで散々騒いだからだった。

 なにか変わっているかもしれないと思って、俺は部屋に付けられていたエアコンのリモコンを手に取った。だが、エアコンは動かない。人が獣になる現実は夢ではなかったかと思いながら、俺はのっそりと起き上がった。

 昨日は、津川の両親の部屋を使わせてもらった。津川の両親は仲が良いらしく、ダブルベットであった。浅宮に布団を献上した俺に包まるものはなかったので、仕方がなく豪勢なクローゼットのなかに入っていた服を頂戴して布団代わりにしていた。他人の家でなにをやっているのだ、と自分でも思ったがこの緊急時に風邪をひくよりはずっとマシであろう。

「あ・・・ハル。おはよう」

 浅宮が、俺の目の前にいた。昨日は俺よりも眠そうな彼だったが、俺より目覚めは早かったらしい。人様の家のクローゼットを漁る彼の目に、眠気の残滓はない。というか、浅宮はなにをやっているのだろうか。

 浅宮の足は相変わらず獣のもので、上半身だけがごく普通の少年の姿だった。獣の足と気真面目な上半身はちぐはぐで、いっそちぎれてしまえば良いのにと俺はひっそりと思った。

「おはよう、あっちゃん。なにをやってるんだ?」

 浅宮は、津川家のクローゼットを漁って服を出していた。ここは津川の両親の部屋だから、浅宮が漁っているのも津川の両親の服である。

「着れる服を探しているんだ。岩崎と戦ったときに、服がボロボロになったから。・・・津川の父親のズボンなら、この足でも大丈夫かな?」

 考えてみれば、浅宮は制服姿のまま戦っている。激しく動くことを前提に作られていない制服は酷い有様で、たしかに着替えが必要であった。だが、浅宮はズボン選びで難航している。浅宮の獣の足は人間とは大分違う作りをしているから、人間用のズボンが合うわけもない。浅宮はそれをサイズがだいぶ違うズボンを履くことで誤魔化そうとしているようだが、無理だった。傍目から見ても裾を踏んづけていたり、ウェストが緩すぎたりして、かなり動きにくそうである。

「ベルト・・・ベルトをすれば、なんとか」

 浅宮は必死にベルトを締めるが、それでもサイズが合ってない。そもそもベルトも他人のものだから、ベルト自体のサイズも合っていないのだ。

「あっちゃん、もうあきらめろ」

「いや。もうちょっと、挑戦させろ。このズボンが駄目ならば、俺は半ズボンになった制服をまた着る羽目になるんだぞ!」

 そんなの嫌なのか、半ズボン。

 俺は、心のなかでそっとツッコンでおいた。

「もう、半ズボンぐらいはどうでもいいだろう。上に長いのを着れば誤魔化せるって」

 俺の言葉に、浅宮は無言でうなずいた。

 そして、あきらめたように長いコートを羽織った。真っ黒なコートはたぶん津川の母親のものなのだろう。小柄な浅宮にも、ぴったりなサイズであった。

「・・・本当は、この足を隠したかったんだけどな」

 浅宮は、そう呟いた。ロングコートは浅宮の足をわずかに隠したが、それでもズボンのように完全に見えなくしたわけではなかった。

「出していた方が動きやすいんじゃないのか?」

 俺の素朴な疑問に、浅宮は少し困ったように答えた。

「隠しておかないと、色々と厄介なことになりそうなんだよ。まぁ、隠せないならば仕方がないな」

 浅宮は、そういってポケットに色々と詰め始めた。鞘付きの果物ナイフに麻の紐、それに痴漢撃退用のハバネロスプレーまで詰め込んだ。とりあえず、あるものをポケットに入るだけ詰め込んでいく感じだった。その光景を見た俺は、思わず呆れてしまう。

「そんなに入れて、どうするんだ」

「選択肢を増やすためだ。俺の考えていることが確かならば、殺したくても誰も殺せなくなる」

 浅宮の言っている意味がわからなかった。

 だが、少なくとも浅宮が誰かを殺す選択肢があったことに驚いた。

「浅宮は、誰かを殺す気なのか?」

 足が獣になった浅宮は、心まで獣になってしまったのだろうか。俺の心配をよそに、ポケットに十分に武器を詰め込んだ浅宮は俺の方を振り返った。

「殺すことになるかもしれない・・・。だが、それは今の段階では避けるべきことだからな。もしも、ハルが誰かを殺すようなこと状況になっても、止めは俺に刺させろ」

「え・・・」

 俺には、浅宮の言っていることの意味がわからない。

「いいな。この約束を破ったら、おまえのこと嫌いになるからな。許さないからな」

 浅宮は、俺のことを睨む。

 冗談のような物言いの癖に、浅宮は本気の目をしていた。本気の獣の目をしていたから、俺は怖くなって頷いた。浅宮は、少し安心したようだった。

「浅宮、ちょっといい?」

 ノックもせずに、ドアが開かれた。

 津川であった。

 両親のクローゼットを荒していた俺は怒られるかもと思ったが、津川はそのことには頓着しなかった。彼女は俺の方をほとんど見ずに、浅宮に向かって唇を開く。

「同じ階の人たちが、玄関の前まで来ているみたいなの。ちょっと、一緒に来てくれる?」

 津川の言葉に、浅宮は少し悩んだ。

 そして、俺の方を見た。

「ハル、俺の代わりに浅宮の近くについていてくれ」

「俺が?」

 驚く俺に、浅宮が頷く。

「俺の脚だと、アパートの住民を驚かせるかもしれない。それに、いきなり最悪のパターンというのも防げるだろう」

 浅宮がなにを言いたいのか分からなかったが、津川は理解したように頷いた。そんな津川に、浅宮は最後の注意をする。

「俺は近くで隠れているから、なにかあったら悲鳴をあげて伏せろ。…いや、やっぱり壁にくっついてくれ。ここは天井があるから、竜のときみたいにジャンプできない」

「わかったわ」

 津川は、浅宮の言葉に頷いた。

「春樹、あなたも一応は用心してね」

「なぁ、用心ってなにに対してだよ」

 俺の疑問に、津川は言葉を失った。

「あ・・・あんた、本気で言っているの」

「だから、なんだって」

「昨日、見たでしょう。あんなふうに世界がなってしまっているなら、例え隣人相手だって警戒するのは当然じゃない。そして、お隣さんもこちらのことをそう思っているわけ。覚悟決めなさいよ、春樹。もうこの世は、私たちの知っている世界じゃないのよ」

 持っていて、と津川に押し付けられたのは包丁だった。

 その固い感触に、俺は息を飲む。

 俺は、まだ世界が変わってしまったことを受け入れられずにいた。

「あんたは、私の後ろにいるだけでいいわ。危なくなったら、浅宮が出てくるだろうし」

「だったら、俺がこれを持ってなくてもいいじゃないか!」

 人に包丁を向けるなんて、とてもではないが俺にはできない。だが、津川は包丁を離すことを許してはくれそうになかった。

「子供二人で無防備でいても、不自然でしょうが」

 言われてみると、たしかにそうである。

 無防備でいたら、浅宮が獣になっていることを悟られるかもしれない。俺はしぶしぶと包丁を握って、津川の後ろに立った。津川はすでに、玄関のノブを握っている。浅宮は、すでに隠れたようだ。準備は万端であり、津川は緊張した面持ちでドアを開いた。

「愛里ちゃん、無事だったのね」

 ドアが開いた瞬間に飛び込んできたのは、太った中年女性だった。気の良さそうな彼女は無事な愛里の姿を見てほっとしていたが、そんな中年女性の後ろには俺のように包丁で武装した若い男がいた。たぶん、この中年女性の息子なのだろう。なんとなくではあるが、顔立ちが中年女性に似ている。 

 包丁を持った男の姿に、津川が言っていた「私たち知っている世界じゃない」という言葉が重く突き刺さった。ごくり、と俺は生唾を飲み込む。

「同級生たちと逃げて、ここで閉じこもっていました。おばさんたちも、ご無事みたいで」

 津川は、余所行きの笑顔で答える。

 その裏側には、微細の緊張が感じ取れた。

「本当に良かったわ・・・。昨日、ここに獣が入りこんだって聞いていて気が気じゃなかったのよ」

 俺と津川は、背筋に寒くなった。

 第三者な目からみれば、浅宮は獣となった敵である。見つかれば、きっと浅宮は攻撃されるであろう。最悪、包丁を持った男に殺されるかもしれない。浅宮が自分の足を隠そうとした理由はここにあったのか、と俺は今さらながらに理解した。

「愛里ちゃん、ご両親は?」

「母たちは、旅行中です。安否は、今のところはわかりません」 

 津川がそう答えた途端、中年女性は津川の手を取った。

「なら、一階に来て頂戴。このアパートに避難している人たちがいっぱいいるから、ここで二人でいるよりもずっと安全よ」

 女性が、強引に津川のことを引っ張る。だから、思わず俺は津川を自分の方に引き寄せた。中年女性が必死だったから、嫌な予感がしたのだ。

「俺たちは、ここじゃないところに行きます!自分たちは、そう決めたんです!!」

 俺は、そう啖呵を切っていた。

 自分で考えて決めたことでもないのに、まるで俺が全ての事を考えて決定したみたいな自信が溢れていた。世界が終わっても、これだけは変わらないような気がした。

「でも、子供が二人じゃ危ないわよ。親御さんだって、このアパートに帰ってくるかもしれないじゃない」

 中年女性の言葉に、津川は唇を噛みしめた。

 津川は俺の腕さえも振りほどいて、両手を広げて見せた。狭いマンションの玄関が、その瞬間に大きく広がったような気がした。その狭くて広大な世界で、津川は寂しく呟いた。

「無理ですよ。だって、世界は地獄になってしまったんだもの。もう、私は両親には会えないと思います」

 その声は、虚しく響いた。

 俺たちの心に、とても虚しく響いた。

 もう戻れないのだ、と彼女はあきらめていた。あきらめることで、津川は強くあろうとしていたのだ。それは去勢を張った虚しい強さであったが、それを指摘できる人間はここにはいなかった。

「でも……もし、親と会ったら私は三谷山高校に行ったと伝えて」

 ください、と津川の言葉が続く前に、俺たちの視界から若い男の姿が消えた。言葉を失っている俺たちに気がついて、中年女性は振り向く。自分の息子がいなくなったと気がついた彼女は「義則、義則・・・!」と名前を呼んだ。そして、涙目になって津川に詰め寄った。

「あなたが大人しくこなかったから、ウチの息子が!」

「愛里、ハル。逃げろ!」

 隠れていたはずの浅宮が、飛び出ていった。

 そのまま浅宮は、津川や俺を追い越して―中年女性を後ろから襲おうとしている太い蛇みたいなものを蹴った。

 よくよく見れば、浅海は蹴ったのは蛇なんかではなかった。

 あんな太い蛇が、いるわけがないのだ。

 浅宮が蹴ったのは、舌だった。アリクイみたいに長くて、ぬらぬらした舌が手探りで獲物を探していたのである。女性の息子は、きっとあれに連れていかれたに違いない。舌は、マンションの廊下の柵を飛び越えて、下の階から伸びてきていた。

「浅宮!」

 俺は、浅宮のことを呼んだ。

 浅宮は、振り返ることもしなかった。

「俺の事はいいから、ドアに鍵かけて閉じこもってろ!」

 浅宮の横をすり抜けるように、舌が俺たちの方に伸びた。「くそ」と悪態をつきながら浅宮は太い舌を蹴るけれども、舌は真っ直ぐに津川のほうに伸びた。しゅるり、と舌は津川の足首を捕まえる。

「きゃあ!」

 津川は、嫌悪と恐怖に悲鳴をあげた。

 その途端に、彼女の体はドアの外に放り出される。そして、吸い込まれるように下のフロアへと消えて行った。浅宮が、舌が伸びてきた方向に視線を向けた。

 ためらわず、浅宮は飛び降りた。

 マンションのそれぞれのフロア、それぞれの部屋のベランダの柵を器用に跳び石にしたてて、彼は落下する体をできるだけ自分の意のままに操ろうとしていた。そして津川を捕まえた舌が引っ込んでいったフロアに、恐れもなく飛び込んだ。

「な・・・なんなのよ、あの化物は」

 中年女性が、腰を抜かしていた。

 化け物と呼ばれたのは浅宮だ、と俺は直感した。

「じゃあ、あの舌の化物のほうはなんなんだ?」

 俺の問いかけに、中年女性は震えながら答える。

「こっ、このマンションに住んでいた女よ。いきなり体の一部が動物みたいになって、昨日まではわけのわけらない動物から守ってくれたけど・・・今日になっていきなり人間を食わせろって言ってきたのよ。食わせないと、ここの住民を食べるって。最初は義則だって、私たちを脅すから・・・」

 この中年女性は、自分の息子の代わりに津川を生贄にしようとしたのだ。

 怒りがわいてきて、衝動のままに俺は自分の母親とそう歳が変わらない女性の体を壁に叩きつけていた。

「津川を餌にしようとしたんだな!」

「仕方がないじゃない!私たちだって、生き残るのに必死なのよ。それに、あんな子供なんて大人の庇護なければすぐに死んじゃうに決まっているわ。あなただって、大人と一緒にいないとすぐに死ぬわよ」

 狂ったように、中年女性は笑った。

 俺は、冷やかに言い放つ。

「おばさんは大人なのに、自分も息子も守れなかったじゃないか」

 俺の言葉に、女性の目から涙がこぼれ落ちた。

 けれども、笑い声は止まらなかった。

 俺は、その場から離れて浅宮を追った。もちろん、浅宮のように飛び降りることなんてできないから階段を使う。浅宮が落ちて行ったフロアは、おそらくは二階であろう。

 急いで階段を駆け降りると、浅宮と人間ぐらい大きなトカゲがいた。トカゲは長い舌で津川の足をぐるぐる巻きにして、浅宮に対して矛や盾として津川を使っていた。浅宮がトカゲに攻撃しようとすれば、津川を盾にする。そうされれば、浅宮は攻撃をあきらめるしかなかった。

 一歩分だけ、浅宮はトカゲから距離を取る。その瞬間に、浅宮は俺に気がついたみたいだった。だが、俺に注視出来る時間など浅宮にはわずかしかなかった。

 すぐに、トカゲの方に向き直る。

 津川は気絶していて、悲鳴の一つも漏らさなかった。それは、浅宮にとって幸いだったのかもしれない。津川が起きていたら、浅宮の足手まといになることを嫌がって「身捨てろ」と叫び狂ったかもしれない。

「に・・・くをおいて・・・・・け」

 トカゲが、人の言葉を喋った。

 聞き取りにくかったが、トカゲはたしかに「肉をおいてけ」と言ったのだ。浅宮は、そのことに少し驚いていた。そう言えば、彼はトカゲが元女性であったことを知らない。

「浅宮、このトカゲは元々は女の人だったらしい。昨日までは、ここのマンションの人を守っていたらしいけど・・・」

 そこまで言うと、浅宮は事態を理解してくれた。

「今日になったら、人間を食料として要求しだしたってことか。おい、トカゲ。おまえは、もう何人食べたんだ?」

 浅宮の言葉に、トカゲが喉の奥から絞り出したような苦しげな声で答えた。

「わ・・・からない。食べる・・・と腹が減る。たべ・・・・・ないと。もっと・・・たべ・・・・・たい。この子・・・ちょ・・・・・だい」

 浅宮が、小さな声で「思ったとおりか」と呟いた。

「なにが?」

 俺の疑問に、浅宮は答える。

「たぶん、人を殺すと少しずつ獣になっていく。獣になれば、肉が欲しくなる。また、人を殺す。悪循環なんだ」

 俺には、浅宮がなにを言っているのか意味が分からなかった。

 それは、ほとんど浅宮の感覚からの言葉であるような気がした。

 獣と化した人間にしか分からない、感覚。

 俺のようにまだ人間である者には理解できない、感覚であった。

「ちょっと待て、この人はマンションの人を守っていたんだぞ。なのに、どうして人を殺しているんだよ」

 俺の愚かしい疑問に、浅宮は答えた。

「気づかないのか?獣は、人を殺した人なんだ。だから獣を殺しても、殺した側の肉体は変化する。この人は、たぶんマンションの住人を守るために獣を殺しすぎたんだ。そして、自分が完全に獣になってしまった」

 浅宮の目が、わずかに伏せられた。

 おそらく、浅宮はトカゲになった女性を憐れんでいるのであろう。

 だが、俺はそれよりも気になることがあった。人を殺すと、獣の姿になる。もし、浅宮の言葉が正しいとするのならば、浅宮も人を殺したことがあることになってしまう。

「えっ、ここはどこ?」

 津川が、目を覚ました。

 彼女はきょろきょろとあたりを見渡して、最後に巨大なトカゲを見つめて再び「きゃぁ!」と悲鳴をあげて気絶した。どうやら、爬虫類が駄目なタイプらしい。

「ハル、だから絶対に獣も人も殺すな。もしも殺すんだったら、止めは俺が刺す。俺はもう人を殺しているから、どうなってもいい」

 浅宮は、ポケットのなかから果物ナイフを取り出した。収まっていた鞘を投げ捨てると、それを持ってトカゲに向かっていく。

 浅宮は、トカゲの舌にナイフを突き刺した。トカゲは痛がって激しく左右に舌を振ったが、津川を離す様子はなかった。それどころか、もっと激しく浅宮を襲ってくる。

 浅宮は津川がいるにもかかわらず、その舌に蹴りを入れた。津川が危険にさらされかねない行為であったが、浅宮はそれを続けた。下手に臆して、津川を有効な人質であると印象付ける方がまずいと思ったのであろう。

 案の定、トカゲは津川をぽいと離して、器用な舌先を浅宮に向けていた。待っていましたとばかりに浅宮は、その敏感で繊細な舌先を蹴りつけた。

「一番器用なところこそ、一番敏感だろう?」

 にやり、と浅宮は笑っていた。

 トカゲは今までにないほどに、苦しんでいた。

 浅宮は俺に目配せして、津川を助け出すように俺に命令した。俺はトカゲにそっと近づいて、津川を担ぎあげた。トカゲは俺と津川には興味を示さず、浅宮だけを睨んでいた。このままいけば、うまくいく。

 しかし、あともう少しのところでトカゲは俺と津川に気がついた。トカゲは尻尾を振って、俺と津川を吹き飛ばした。壁に叩きつけられた俺は、一瞬だけ呼吸が止まった。

「ハル!くそっ」

 浅宮が、膝をついた。

 彼は俺が見ている限りはトカゲの攻撃を受けていないのに、酷いダメージを受けたみたいだった。

「足が・・・動かない」

 浅宮も、自分の痛みに驚いているようであった。

 俺には、浅宮の突然の痛みに思い至るところがあった。否、たぶん浅宮も気がついている。だが、それを口に出すのは屈辱的なのだろう。

 たぶん・・・浅宮は筋肉痛になっている。

 浅宮は、昨日から人間の足ではありえない動きをしていた。普通に考えるならば、筋肉痛になっていて当たり前なのだ。だが、浅宮はそれを俺たちに隠していた。

 浅宮自身は、それを軽く考えていたようであるが、実際に戦えば痛みがどれだけ邪魔になるか浅宮は痛感していることであろう。ましてや、浅宮は普段から運動などをやっていたわけでもない。痛みに耐性もなければ、運動に慣れていない浅宮は筋肉痛に苦しむのは目に見えていた。

「浅宮、逃げろ」

 筋肉痛は、無理をすれば動ける。

 だが、俊敏に動くことは難しいだろう。そのうえ、浅宮はずっと動き続けている。痛みが悪化していても、おかしくはなかった。

 浅宮は、俺たちを見捨てる覚悟さえすれば逃げられる。だが、浅宮は俺たちを見捨てなかった。

 浅宮はよろよろとしながらも、トカゲが尻尾や舌を伸ばせば避けた。ときにそれにあたり、無様に転がっても後退だけはしなかった。

 どうして彼は、ここまでするのだろうか。浅宮の姿は、いっそ哀れだ。妄執すら感じる姿に、俺は目をそらした。

 浅宮が傷ついてまで戦う姿を、俺は望んでいなかった。ここまでして守られるくらいならば、いっそ俺たちを見殺しにしてほしかった。

 今、俺はトカゲに恐怖していなかった。

 憑かれたように敵に立ち向かう浅宮に、恐怖していた。

「浅宮、逃げろ。逃げるんだ!!」

 俺の言葉に、浅宮は首を振る。

 息を切らせながら、浅宮は白昼夢でも見ているかのように虚ろな瞳で呟いた。

「俺は・・・助ける。あいつらとは、違う。違うんだ!絶対に、違うんだ!!」

 浅宮は叫んで、半狂乱になってトカゲに突っこんでいった。

 今までの浅宮とは明らかに様子が違うので、俺はぎょっとした。浅宮は、今までは冷静に俺たちを助けようとしていた。しかし、今になってそんなことは吹き飛んでしまったように見えた。

 少なくとも、俺の目には浅宮は冷静ではないように思える。

 そんな沸騰した脳味噌で、自分の倍以上の大きさのトカゲに立ち向かおうとしている。俺は急いで靴を脱いで、浅宮に向かって投げた。予想通り、俺の靴は浅宮の額に当たった。

「落ちつけ!浅宮!!」

 それでも浅宮は、止まらなかった。

 真正面から突っ込んだ浅宮が、トカゲのしっぽに吹き飛ばされる。そして、彼の体は壁に叩きつけられた。浅宮は、それでもなんとか動こうとする。だが、その場で手足を動かす程度で、立ち上るまでにはいたらない。

 もう、ここで終わりだ。

 俺は、津川の肩を抱きながらぼんやりと目をつぶった。

「ぐぁあああ!」

 人間とも獣ともつかない、声が響いた。

 最初、それは浅宮の声かと思った。だが、目の前にいたのは浅宮ではなかった。

 竜だった。

 アパートのベランダに向かって、吠える竜。その牙も手も、俺たちには届かなかった。けれども、竜は俺たちがいる方向に向かって吠えていた。

 浅宮はその声を聞いて、何度も経ちあがろうとする。細い手首に、Aと刻印されたビーズが編み込まれたミサンガが揺れていた。

「あっ・・・ああああ!」

 浅宮も吠えた。

 竜に負けるものか、と。

 トカゲに負けるものか、と。

 この世の全てのものに負けてなるものか、と。

 浅宮は、力強く吠えた。

 だが、それしかできなかった。浅宮はもはや立ち上って、トカゲに挑むことも、竜に挑むこともできなかった。ボロボロだった。残っていた気力すらも使いはたして、呆然としていた。

 だが、決定的な終わりはやってこなかった。

 それどころか、俺の身にとどいたのはトカゲの悲鳴だった。津川よりも先に落ちた男―中年女性の息子の義則が、包丁をトカゲの首に突き刺していた。

 津川よりも先にトカゲに捕まえられていた義則は、まだ生きていたらしい。考えてみれば義則が下のフロアに連れ去られて、すぐに津川がさらわれていた。トカゲが義則を食べる時間はなかったのである。

 自分の倍以上のトカゲに掴みかかろうとする義則は勇敢にも見えたし、気が違ったようにも思われた。義則は浅宮がトカゲに突き刺した包丁すらも掴んで、さらに深く突き刺した。義則は狂ったように包丁を振り回し、竜にまで挑もうとした。義則の気概のせいだったのか、包丁は当たらなかったのに竜は飛び去った。

 俺は津川を抱きかかえて、立ち上った。とりあえず津川をトカゲから引き離し、次いで浅宮を担いで津川の所まで避難させた。

「浅宮!あさみやっ!あっちゃん!!」

 俺は浅宮の頬を叩いたりして、ぼんやりしている彼を正気に戻した。浅宮は少し過呼吸になっていたが、俺と津川の姿を見て少し安心したようだ。

「ハル・・・トカゲは?」

「その、なんというか・・・。あの人が、引きつけている」

 俺は、浅宮にトカゲと戦う男を見せた。義則はもがくトカゲにしがみついて、より深く包丁を突き刺そうとしていた。

「くそ。このままだったら、あの人は・・・」

 浅宮が、無理に立ち上ろうとする。

 けれども、俺はそれを止めた。

「駄目だ!もう、行っても間に合わない」

 どしん、とトカゲが倒れる音が響いた。

 俺たちがトカゲと義則を見ると、義則はトカゲを倒してしまったところであった。大量の血を流して倒れるトカゲに、その隣に立つ男。その光景は、なんだか冗談じみていた。

 俺は茫然としながら、その光景を見ていた。

「ハル、愛里をつれて逃げれるか?」

 浅宮は、俺に囁いた。

 俺は、それでようやく義則が獣に変化するかもしれないのだということを思いだした。俺は津川を背負って、まだよろめく浅宮に肩を貸した。

 義則は、俺たちの背後で獣へと変質していく。

 義則の口が裂けるほどに大きく開き、白い歯がどんどんと鋭く伸びていった。そして、義則はあんぐりと口を開けたままで俺たちに向かってきた。浅宮は振り返って、義則を蹴り飛ばした。

「義則!」

 上から、声が聞こえてくる。

 階段を下りてきた、中年女性―義則の母親だった。

「義則、義則!」

 彼女は俺たちを突き飛ばし、獣になった義則に向かっていった。義則は、苦悩するようなそぶりを見せていた。だが、自分の母親の肩をがっしりと掴んで、そのまま頭から食べてしまった。大きく開いた口で、頭から一飲みであった。

 義則は、自分の母親を実にうまそうに貪っている。

 俺たちを視界に入れることすらなく。

 俺たちは、音をたてないように逃げだした。気を失っている津川を連れて遠くに逃げることなんてできないから、俺たちはとりあえず近くのスーパーに逃げ込んだ。目についた店であったし、食料や手当の出来る道具が確実にあることが俺たちにとっては魅力的だった。

 マンションを出たとき、街はおかしな具合にひっそりとしていた。

 とっくに日は高くなっているのに、人影はない。人々は獣になったのか、それとも獣から身を隠すために家のなかに閉じこもっているのか。どちらかなのかは分からないが、俺たちはそんな街を足音すら隠すように静かに動いた。昼間なのに、夜みたいだった。

 スーパーは小さく、ひっそりしていた。

 チェーン店ではなく、個人経営なのだろう。津川を入口付近に置くと、俺と浅宮は二手に分かれて店のなかを捜索した。そのときに湿布を発見したので、俺は浅宮のためにと懐にそれを忍ばせた。

 店は荒されてはいたが、俺たち以外にはいないようであった。俺と浅宮は津川を店のなかに引きずると、店に陳列されていたジュースやらお菓子やらをかき集めて一心不乱に貪った。

 店は荒されていたが、子供三人の空腹を満たすぐらいの食料はまだ残されていた。なにより、浅宮が店のバックヤードを見つけたことが大きかった。陳列されたものは荒されていたが、店の奥にあったダンボールに詰まった食料はほぼ手つかずだ。ここならばしばらくは籠城できるであろう、と俺は安心していた。

 だが、浅宮は「出来る限り食料を持って逃げるぞ」と言った。

「待てよ。ここにたて籠っていたほうが、安全じゃないのか?」

「俺たち以外にも、食い物を探しに来る人間がくるかもしれない。そいつらと鉢合わせしたときに、どうする気だ?」

 浅宮に言われて、俺はどきりとした。

 人が集まれば、きっと諍いになるであろう。

 諍いになれば、俺や浅宮が人を殺すかもしれない。

 浅宮の仮説が正しければ、人を殺せば獣になる。獣になれば、たぶん人を食らいたくなる。浅宮はそれを理性で抑えているようであるが、俺が浅宮と同じことができるとは思えない。俺が人を殺せば、浅宮や津川を殺すかもしれない。それは、俺にとっては耐えきれないことだった。

「・・・ようやく、理解したか。今、ここで他人と出会うことは危険だ。下手に争いになったら、どちらかが誰かを殺すことになりかねない。そうなれば、この世に獣が一匹増える」

 トカゲ一匹と戦っただけで、浅宮は酷く消耗している。続けて戦えば、俺たちに勝機がないことは目に見えていた。

「わかった。俺たちは、多少不便な場所でも誰にも見つからないようなところに隠れているのが最善なんだな」

「そういうことだ・・・。いててて」

 浅宮が足をさすりだしたので、俺は慌てて見つけておいた湿布をわたした。浅宮は、胡乱な顔をした。どうしてそんな顔をしたのか分からなかったが、浅宮が足に湿布を貼って理解した。剛毛が生えた足に、シップは張り付かない。

「なんか・・・ごめん」

 俺は、なぜか申し訳なくなった。

 よく考えてみれば、今の浅宮の足に湿布が張りつかないのは当然であった。俺の失態に、浅宮はどこ吹く風であった。

「気にするな。どうせ、筋肉痛なんて少し休めば治るんだ。そりゃあ・・・今までの筋肉痛よりは痛かったけれども」

「そんなに痛いのか?」

 俺が詰め寄ると、浅宮は視線をそらした。

 隠していたかったのに、自分のうっかりでバレてしまったという顔だった。

「・・・筋肉痛というよりは、成長痛に近いかもしれない。足の形というか仕組み自体が変わったから、仕方ないとは思うけど」

「成長痛って、そりゃあ痛いだろ」

 俺は、投げ出された浅宮の足にそっと触れた。固くてごわごわした毛並みに、しっかりとした太い骨格。触っているだけで、体の奥底がざわりとした。それはわずかな緊張と興奮が入り混じった、不思議な感覚だった。

 俺が足を触っていたことにだいぶ遅れて気がついた浅宮は、すばやく俺の前から足を隠した。浅宮は、わずかに戸惑ったような顔をしていた。

「こんなの、見るのも嫌だろ」

「いや、すっごいと思う。サファリパークのライオンみたいで、なんか恰好がいいし」

 言葉にして、ようやく俺は浅宮の足が格好いいと思っていたのだと理解した。けれども、猛獣のように恐ろしくも思っていた。その恐怖が、俺をざわつかせて興奮させもしていた。

「そうか・・・なら、よかった」

 浅宮は警戒するようにおずおずと足を出して、それでも勇気がなくて足を抱えこんだ。

 そこまで浅宮が足を恥じて、ようやく俺は浅宮にとってそれが殺人の証であったのだと思い至った。浅宮は、獣になるのは人を殺したからと仮説をたてた。そして、浅宮自身も人を殺したことがあると言った。

 俺は、あれが冗談だとは思わなかった。

 どうしてか分からないけれども、俺は浅宮の人を殺したという告白を受け入れていた。俺にとって、その告白は浅宮とアザミが道を違えたというものよりは衝撃的なものではなかった。

「なぁ、あっちゃん。誰を殺したんだ?」

 だから、俺は簡単に浅宮に訪ねてしまった。

 浅宮は俺とは視線を合わせずに、温い炭酸水を一気に飲み込んだ。浅宮の薄い唇から、ぼたぼたと温い水がこぼれ落ちていった。浅宮はそれをぬぐいながら、ぼんやりとした眼で語った。

「父親を殺した・・・。中学生のときだ」

 その声は記憶のなかと変わりない甲高いものであり、俺は幼い浅宮から話を聞いているような気分になった。

 だが、目の前にいる浅宮はもう大人に近い。中年女性のロングコートを着こなし、さっそうと歩き続けることができている。なのに、どうしてか俺の眼には赤いランドセルを背負った小学生の頃の浅宮に思えた。

「父は、包丁を持っていた。父が、俺に包丁を向けるのは珍しいことじゃなかった。いつも、脅しみたいに俺にそれを向けていた。母さんが死んでから、父は少しおかしくなったんだ・・・いつも本気じゃなかった。本気になれるほどの度胸は、父にはなかった。でも、その日はどうしてなのか本気だと分かった。父は、本気で俺を殺そうとしていた」

 浅宮の父親を、俺は知らない。

 母親の事は授業参観でちらっと見たが、それぐらいである。浅宮とは、あまり似ていなかったような記憶があった。浅宮は両親が死んだと言っていたから、その母親も亡くなったのであろう。あるいは、母親が亡くなったから父親との関係が悪化したのか。

「あっちゃんて、お父さんと仲が悪かったっけ?」

 浅宮は、困ったように笑った。

「違うよ。父は、俺のことをずっと恨んでいたんだ。俺の終っていう名前も、父がつけた。父は、俺が全部を終わらせることを望んでいた。でも、俺はなににもできなかった。だから、恨まれた。呪いを終わらせるのが、俺に望まれたことだったのに」

 浅宮は、そうっと人間のままの手を光にさらした。

 人よりも薄く小さな手は、なんにもできそうにもなかった。

「だから、父は俺を殺そうとした。俺は、家の外まで逃げた。でも、誰も助けてくれなくって、堤防のところまで走って逃げた。そこで・・・俺は父に追いつかれた。もみ合って落ちたら、父親の胸に包丁が刺さっていた」

 そこから先、浅宮の声はかすれていた。

 泣きそうなのかとも思ったが表情はなく、古い葬式の話を俺は聞いている気分であった。哀しいはずなのに、もう感情が死んでしまっている。

 そういう話しだった。

 父が死にかけている夕暮れの堤防から、浅宮は逃げようとした。

 だが、父親の手が浅宮の足を掴んだという。あまりに力強く掴んだために、浅宮は動けなくなったという。どうして、そんなに強く父親が浅宮の足を掴んだのかは分からない。けれども、浅宮はそのせいで父親が死ぬところをずっと見ていたのだ。

 浅宮の父が死ぬ、前の日のこと。

 雨が降った。

 だから、堤防には生々しい草の匂いが強く香っていたという。父の血の匂いと混ざり合って、その生々しさは一層となった。浅宮は、そのなかで自分の父親の死に様を見ていた。

 ど、ど、ど、と恐ろしいぐらいに高なる心音。

 隣で、夜叉のようなおぞましい表情で死んでいく父親。

 浅宮の足を掴んだということは、包丁が刺さったときに浅宮の父にはまだ意識があったはずである。だが、浅宮と父は一言も言葉を交わさなかった。

 酷くゆったりとした時間のなかで、浅宮の父は死んでいったという。

 浅宮は、それから何時間も経ってから通行人に発見されたらしい。浅宮は、殺人罪に問われることもなかった。そもそも、話を聞いている限り浅宮はなにもやっていない。包丁を持った父に追い掛けられて、堤防からもつれ合って落ちて、父の死にざまを見ていただけである。正当防衛すら、していない。

 これが浅宮の言う、殺人の話だった。

「あっちゃんのお父さんは、あっちゃんになにをして欲しかったんだろうな」

 俺が尋ねると浅宮は「呪いを解いて欲しかったのさ」と答えた。

「昔から、人を殺すと呪いがかかるんだ。父は、その呪いにかかっていた。だから、父は俺が呪いを解くことを祈ったんだよ。でも、俺はなんにもできなかった」

 浅宮が紡ぐ「人を殺すと呪いがかかる」という言葉は、まるで今のことのようであった。

 人を殺せば獣になる、今の状態は「人を殺すと呪いがかかる」と過去に浅宮の父が信じた世界そのものである。

「浅宮のお父さんは、誰を殺したんだ・・・」

「俺の姉や兄たちだよ」

 浅宮は疲れたのか、床にごろりと転がった。その寂しい姿は、もうサファリパークのライオンではなかった。孤独な人間の子供のものだった。

 そんな、浅宮が突然に跳び起きた。

 なにが起こったのかと思ったら、津川が目を擦っていた。どうやら、彼女が目覚めるのを察して背筋を伸ばしたらしい。女子の前だからといって、見栄を張ってどうするというのだ。

「ここは・・・どこ。トカゲが見えたような気がするんだけども」

 ようやく目を覚ました津川は、あたりをきょろきょろと見渡す。若干怯えているように思われるのは、さっきまで彼女が苦手な爬虫類に捕まっていたからだろうか。

「トカゲはなんとかした。ここは、たぶん安全なところだ」

 浅宮の説明に、津川はほっとする。それと同時に、浅宮が無理をしていることも見破ったようであった。

「あっちゃん、足をどうしたのよ」

「これは・・・ちょっと筋肉痛」

 津川は、浅宮の足をバシっと叩いた。

 浅宮は、痛みのあまりにもんどりをうった。

「ちょっとじゃないでしょう。なんで、痩せ我慢しているのよ」

「それは、俺しか戦えないからで・・・」

 浅宮の言葉に、津川も黙った。

 あそこで浅宮があきらめていたら、俺たちは死んでいた。浅宮があきらめられない理由は、俺たちにあるのだ。

「杏里が動けるようなら、移動しよう。持てるだけ、食料と飲み物を持ってくれ。不公平で悪いと思うけど、俺はいざという時のために身軽でいる」

 浅宮の言葉に、俺たちは不満はなかった。休んだせいか浅宮の体調はだいぶマシになっていたが、それでも若干ではあるがふらついていた。そんな浅宮に荷物を持たせるのは気が引けるし、いざという時に戦力になる浅宮に荷物を持たせるのは効率が悪かった。俺と津川は出来うる限り食料を詰め込もうとしたが、突然に浅宮の待ったがかかった。

「どうしたんだ、浅宮?」

 俺が尋ねると、浅宮は店の奥をしゃくった。

「誰かいる。さっき、音がした」

「さっき見た時には、誰もいなかったぞ」

「たぶん、裏口があったんだろ。くそっ、さっきは見過ごしたか」

 俺は津川を引き寄せ、浅宮は腰を落として攻撃の体制に入った。だが、店の奥から聞こえてきたのは俺たちの予想外のものだった。

「待て、おまえたちに危害を加えるつもりはない」

 その声に理性を感じた浅宮は、目を丸くする。

 声に次いで、人がぞろぞろと入ってくる。彼らは浅宮のように一部が獣になっているものもあれば、完全に人の姿をしている者もあった。俺たちの目の前に現れた集団は、獣と人が入り混じった実に不可思議で理解不能な団体であった。

 年齢層は様々で若い人間は十代から、老いた人間は五十代までいた。その半分ほどが、一部を獣にしている。それでいて、彼らは俺たちを見ても襲ってはこなかった。

「おまえたちは・・・なんだ?」

 浅宮は、彼らに訪ねた。

 俺たちをぐるりと取り囲んだ集団から、一人が俺たちの前に表れた。それは、まだ三十代ぐらいの男だった。両腕が獣になっており、毛深い手と太い爪がのびている。

「俺たちは、ここ近辺を縄張りにして住人を保護している者だ。便宜上、俺たちは自分たちのことをチームと呼んでいる。おっと、自己紹介が遅れたな。俺は、武藤桜」

 桜と名乗った男は、名前に不似合いな獣の手を差し出した。

 人間のように器用な動きはできそうにもないが、分厚い肉級と分厚い爪はそれだけで凶器のように思われた。普通の人間の俺にとっては、刃物の切っ先を向けられた気分である。しかし、浅宮はその手を振り払った。

「そんなこと、どうでもいい!俺が聞きたいのは、どうして獣になった人間と普通の人間が一緒にいるのかってことだよ」

 浅宮は、どんと床を足で叩いた。頑強な浅宮の足は、思いのほか音を響かせる。それは浅宮の緊張と焦りをよく現していた。

 男は、涼やかに微笑んだ。

「君だって、獣になったのに理性を持っているだろう。まさか、君は自分が特別だからとでも思っていたのかい?」

「なっ!」

 浅宮の顔が、羞恥で染まった。

「たしかに、獣になった人間の大半が理性を失う。けれども、理性を失わない人間だっている。俺たちはそういう人間を集めて、チームを作っているんだ。まだ、無事な人間を守るためにね」

「信じられない・・・」

 浅宮は、前髪をかきあげた。

 浅宮にとっても俺たちにとっても、それは信じることができなかった。今まで見てきた獣になった者たちは、理性も倫理も殴り捨てて無力な人間に襲いかかっていた。そして目の前にあるチームという集団は、その事実と反対の光景であった。

「君たちだって、同じだろう」

 浅宮は、俺と津川を見た。

 たしかに、浅宮がやっていることは小さなチームである。

 浅宮は獣の本能を理性で押し殺して、俺と津川を守っている。浅宮は言葉を失って、俺を見た。俺は答えることもできず、ただ桜をちらりと見るだけであった。

 相変わらず、桜は無意味に微笑んでいた。

 俺は、津川と一緒に浅宮に一歩だけ近づいた。今の浅宮は、混乱の極みにいる。自分の足が獣に変わってしまったときよりも浅宮は混乱していた。

 思えば、あのときは戦わなければ死んでいるという状況下だったからなのかもしれない。だからこそ、浅宮は冷静に目の前の敵を蹴りあげることができた。だが、今の状況はそれだけではすまされない。

 眼前の敵は、獣と人が入り混じったチームである。

 圧倒的に俺たちよりも数が多く、ここで交渉に失敗したら全員が殺されるかもしれない状況下である。眼前の敵を蹴り殺せばいい、という甘い考えではいられないのである。

 その緊張感が、浅宮を混乱させている。

 あるいは、本来の状態に戻していると過言ではないかもしれない。浅宮が置かれた状況を考えれば、本来浅宮はこれぐらい混乱するべきなのだ。

 津川は、意を決したように浅宮の手をぎゅっとつかんだ。

 そして、彼を引き寄せて小さくなにかを呟く。桜たちには聞こえないだろうが、俺には聞こえた。浅宮はその言葉を聞いた途端に、はっとしていた。そして、わずかに緊張と混乱を引きずりながら、自分の倍ほどは生きている大人の男を睨みつけた。

「たしかに、俺はおまえたちと同じなのかもしれない。でも、そんなに人数がいて集団として統率がとれるのか?非常事態から一日しか経ってないのに」

「信じられない気持ちはわかる。俺たちのほとんどは、同じ会社に勤めていた仲間だ。それから生き残りを拾ったりして、こんな状態になった。完全に知らない人間ばっかりだったら、さすがにこんなにまとまれなかったさ」

 改めて見てみれば、チームの人間たちのほとんどが働いている世代の人間だった。若すぎる人員は、生き残っていたところをチームに拾われたというところだろうか。

「・・・最後の質問だ。どうして、俺たちに声をかけた?」

「さっきも言っただろう。生き残りを拾っているって」

 桜は、浅宮に一歩近づいた。

 浅宮はそれに対して、野生動物のように警戒を露わにする。

「見たところ君たちは学生だし、獣になっているのも君だけ。その君も、かなり疲弊している。どうだい。ここらで大きな集団に飲みこまれてみないかい?」

 俺たちにとって、桜の話しは魅力的だ。浅宮はせいいっぱい俺たちを守ってくれているが、浅宮自身に限界が近づいていることは分かっていた。

「浅宮・・・武藤さんと一緒に行こう」

 俺は、浅宮に囁いた。

 だが、浅宮は首を振る。

「駄目だ。信頼できない」

 浅宮は小さな声で話すが、その浅宮自身が限界であった。俺と津川は頷き合い、それを見とどけた浅宮が深くため息をついた。俺は浅宮を津川に任せて、桜の前に立った。

 浅宮の代わりに桜と向かい合って、分かったことがある。

 桜は、体格がいい。おそらく、なにかスポーツをやっていたのだろう。俺も上背はある方だが、桜はそれを上回る。肩幅も広く、胸板も厚い。そんな成人男性の体格に獣の一部がついていると言うのは、想像以上に凶器だ。

 浅宮は、これと立ち向かっていた。

 今度は俺の番なのだ、と俺は拳を握った。

「・・・よろしくお願いします。武藤さん」

 俺の申し出に、桜はぐしゃぐしゃと俺の頭を撫でまわし始めた。どうやら、この人なりの歓迎の印なのらしいが、それを喜ぶのは幼稚園児ぐらいである。あと、獣の手でそれをやられると物凄く恐い。頭なんて、簡単に握りつぶされてしまいそうだった。

「よかった。君たちぐらいの子供は反抗的だから、心配していたんだ。俺の事は、下の名前で呼んでくれ。そっちのほうが、親しみがあるだろう」

 桜を浅宮だけが、じとりと睨んでいた。

 俺と津川は、少なからず安心していた。大人数の大人に守られる環境に戻れたことに、俺たちは安らぎを見出していたのである。

 俺は浅宮に肩を貸しながら、桜のチームについていった。街には相変わらず人影がなく、不穏な静けさばかりがあった。そんな街を、見慣れたはずの街を、俺たちは群になって慎重に進んだ。

 集団になって落ちつくと、一晩しかたっていないはずなのに街の荒れようが目についた。事故車両はそのままであり、いたるところに血痕があった。そのわりには、死体は一つもなかった。きっと獣たちが、食べたのであろう。

 津川は、俺と浅宮の後ろにいた。

 だが、桜のチームは俺たちを救いに来たわりに怪我人にかまわない素早いペースで移動していたので、俺と浅宮はチームから遅れ始めた。だから、浅宮は津川に「先に行け」と囁いた。「できるだけ、桜の側を離れるな。それと、これも持って行け」とも命令した。

 津川は不服そうであったが、今の状況では津川を守りきれないと浅宮は判断したのであろう。津川もそれは感じ取ったらしく、名残惜しそうにしながらも浅宮から離れた。

 浅宮は桜のチームに気づかれないように、ぐっと俺の胸倉をつかんで囁いた。傍から見れば、弱った浅宮が甘えているようにも見えたであろう。

「ハル、ぜったいに桜に気を許すな」

「・・・どうしてだ?いいそうな人だろ」

 浅宮は、チームの前を歩く桜の背中を見る。

 浅宮の瞳は、不安に揺れていた。

「分かる。獣になると・・・脳が――心が壊れるんだ。まともな心を保てるはずがないんだ」

「浅宮は、まともだろう?」

 俺の言葉に、皮肉げに浅宮は笑った。

 桜のような晴れやかな笑顔ではなく、この世の汚濁を全て見たような皮肉げな笑みだった。同時に、ひどく疲れた顔でもあった。

「どうだかな。全然、自信がないんだ。昔の自分に比べて、今の自分がまともなのかなんて。第一、人を食えるなんて思える時点でまともじゃないだろ」

 浅宮の言葉を聞いた俺は、思わず小さな浅宮の頭をぽんと叩いていた。それは浅宮を罰するためのものではなく、単に浅宮を慰めたいからであった。

「こんなことになったんだ。まともさを保っている奴なんていないさ」

「・・・どうかな。少なくとも、俺の目にはハルも杏里もまともに見える。・・・だから、俺は尊敬せずにはいられないんだ」

 浅宮の告白に、俺は目を丸くする。

 足を止めるほどに、驚いてもいた。

「あっちゃんが・・・俺たちみたいな普通の人間を尊敬するだなんて変な感じだ」

「おい、おまえは俺をなんだと思っていたんだよ」

 仕方があるまい。

 俺のなかで、浅宮は赤いランドセルを背負った悪童なのだから。

 空っぽになってしまったかのような静かな街を進み、ようやくチームの歩みが止まった。チームが止まったのは、小学校の前だった。

 俺と浅宮にしてみれば懐かしい、出身小学校だった。出身と大層なことをいっても、卒情したのは数年前である。小学校は、俺たちの記憶と寸分も違うところはなかった。

「なつかしいな・・・。ほら、この銅像みろよ。あっちゃんが落書きして、その罪を上級生に着せたりしただろう。あっちのウサギ小屋も壊したのに、新しくしたんだなぁ」

 懐かしい思い出ばかりが蘇るが、今考えると碌なものがなかった。主にあっちゃんとアザミが破壊し、その罪を他人に押し付けていたものしか記憶がない。

 けれども、俺たちの記憶とは違うところがあった。

 子供たちの声が、まったくしない。

「ここを本拠地にしているのか?」

 やっとのことでチームに追いついた浅宮が、桜に訪ねた。

「そうだ。ここには災害時の食料なんかもあったし、なにより守るべき子供たちがいたからな」

 桜の朗らかな返答に、浅宮は視線を泳がせた。

 桜たちの帰還を知った子供たちが、校庭に飛び出していた。数百人はいたであろう児童達は、数十人までに減っていた。減った理由を尋ねるだけの度胸は、俺にはなかった。浅宮にもなかった。

 けれども桜はすぐに子供たちに囲まれて、ここでは彼がヒーローなのだと一目で分かる光景であった。桜は、危ないから校舎に戻るようにと子供たちに伝えた。子供たちやチームの面子が校舎に戻るのを確認してから、桜は未だに外に残る俺たちに向かいあった。

 浅宮は、そんな桜から視線を外した。

 浅宮は俺たちすら守れなかった、と己を恥じているのかもしれない。あるいは、大勢の子供たちすらも守れる桜を疑ったことを恥じているのか。

「小学生を保護していたのか?」

 浅宮は、桜にそう訪ねた。

「そうだよ。人として、できることをやっている。無力な子供を守るなんて、その最もみたいなのじゃないか」

 桜は、笑顔で答えた。

 だが、浅宮は笑わなかった。

「いつか崩壊するぞ、ここは・・・」

「そうかもしれないね。でも、そうじゃないかもしれない。ぼくはね、成功する方にかけたいんだよ」

 俺は、浅宮を連れて校舎に入った。

 桜は、浅宮を眩しいものを見るような目で見つめていたような気がした。まるで桜自身ですらも、ここが壊れることを知っているみたいだった。

「浅宮、どうしてここが崩壊するだなんて言ったんだ」

 俺は、誰にも聞かれないように浅宮に訪ねた。

「・・・勘」

 浅宮から帰ってきた言葉は、とても頼りなかった。

 というか、まったく浅宮らしい言葉ではなかった。浅宮は、もっと考えてから言葉を発する。逆にいえば、確信がなければ喋ろうとはしない。だが、今の浅宮は自分の勘という不確かなものに頼っている。

「でも・・・桜もなんとなく気がついているんだろう」

 浅宮は、言った。

 そのとき俺には、浅宮と桜の奇妙な繋がりが見えた。出会って一時間も経っておらず、交わした会話もわずかだというのに、浅宮と桜は奇妙に繋がりあっていた。それは、互いに崩壊のビジョンが見えていたからなのかもしれない。

 校舎に入って、俺と浅宮はようやく津川と合流した。

 改めてみる津川には外傷などもなく、むしろ俺たちよりも元気だった。トカゲとの戦いのときも気を失っていたし、当然であると言えば当然である。だが、そのことが俺たちにとっては奇妙に嬉しかった。やっぱり、女の子には元気でいて欲しい。

「遅かったじゃない。足、大丈夫なの?」

 津川は、心配そうに浅宮の足を見た。

「平気だ。言っただろう、ただの筋肉痛だって」

 津川に心配された途端に、浅宮は今まで支えてやっていた俺の手を振り払った。それを見過ごさなかった津川が、浅宮の弁慶の泣き所に蹴りを入れた。浅宮はその場に崩れ落ちて、さめざめと泣き始めた。たぶん、すごく痛かったのだろう。

「嘘付くから、そういう目にあうのよ」

「いっ、今のは嘘というか単なる見栄だと思うぞ」

 泣いている浅宮の代わりに、俺は津川に言っておいた。津川には理解できないだろうが、男の子には見栄を張りたいときがあるのである。

「それより、ここなら浅宮も休めそうね。ここには、戦える人もいっぱいいるし」

 津川の言葉に、俺も頷いた。

 浅宮はここが長くは続かないとおもっているようだが、俺にはそうは思えなかった。いや、そうは思いたくなかっただけなのかもしれない。桜のチームは俺たちにとって、ひさびさに落ちつける場所だったから。

 皆が寝起きしているのだという教室に津川に案内してもらうと、そこにはより一層年齢層がバラバラの人たちがいた。まるで、避難所のようだった。

 しばらく考えて、ここは正真正銘の避難所であったのだと思い至った。非常用として学校に常備されていた銀色の薄いマットと毛布で、避難していた人々は簡易的な寝床を自分で作っていた。

「なぁ・・・浅宮。やっぱり、桜さんはすごい事をしたんだと思うよ」

 俺の言葉に、浅宮は答えなかった。

 津川は周りの人間から余っている毛布や銀色の保温マットをもらってきて、俺に差し出してきた。俺は空いている場所に保温のマットを敷いて、浅宮をそこで休ませた。浅宮はむすっとしていたが、毛布をかけてやるとうとうとしはじめた。

 浅宮は本当に疲れていたらしく、壁に背中を預けて寝始めてしまった。思えば、今日は朝から浅宮は戦ってばかりだった。俺と津川は、なんとなく浅宮の側から離れなれなかった。理性では安全だと判断しても、心はそうはいかなかったらしい。俺たちは浅宮に守られ過ぎていたようだ。浅宮の側にいないと、不安で仕方がない。

 安全であると頭で理解していても、離れることを心が良しとしない。

 俺たちのような桜に拾われた人間は多いらしくって、浅宮の近くにいる俺たちに話しかける人間も多くいた。年齢層は本当にばらばらで、若者から老人までが入り混じっていた。

「草薙に津川、じゃないか?」

 俺たちに声をかけてきたのは、若い声だった。

 俺たちと同じ制服の一団がやってきて、俺たちを取り囲んだ。見覚えのある顔ばかりがならんで、俺と津川はあっと声をあげた。

 俺たちを取り囲んだのは、同級生たちだった。

 知らない顔もちらほらあったが、俺たちは同じ制服を着ているだけで仲間だと認識した。そして、そのなかには顔なじみの姿もあった。クラスメイトの佐上義武。サッカー部の彼は、この混乱を生き抜いていた。

「佐上、生きていたんだな!」

「草薙たちこそ!」

 俺たちは束の間喜びあい、そして同時にそれ以外の知り合いは死んでいるかもしれないという暗い気持ちもよぎった。

「なぁ、そっちで寝ているのは浅宮なのか?」

 佐上の一人が、浅宮を指さした。

 浅宮は、まだ寝ていた。

「浅宮の奴・・・足が変わってる」

「ああ、ずっと浅宮に守ってもらっていた」

 佐上たちは、浅宮の足ばかりを見ていた。

 そして、怖れるように浅宮から離れた。

「噂・・・本当だったんだな。浅宮が、人を殺したことがあるって。だって、人を殺さないと獣にならないんだろう」

 どうやら、佐上たちも獣になる仕組みは分かっていたらしい。

 そして仕組みを理解して、浅宮を恐れていた。

「・・・浅宮は、獣になんてなってない」

「そりゃあ、草薙たちと一緒にいるから理性はあるんだろうけど。いつ、襲ってくるかわからないだろ」

「おい。そういう人間に助けられてもしたんだから、それ以上は言うなよ。桜さんだって、一部は獣になっているじゃないか」

 俺が睨みつけると、佐上たちはなにも言わずに去って行った。俺の隣で、津川がため息をつく。

「馬鹿ねぇ」

「馬鹿ってなんだよ、馬鹿て。今のは、あいつらが悪いだろう。桜さんたちに助けてもらったのに、いきなり悪口なんて。浅宮のことも・・・」

 津川が、再びため息をつく。

「でも、気持ちはわかるでしょう。獣になったやつに食われるかもしれないってだけで結構なストレスなのに、守ってくれる人も獣でいつプッツンしてこっちに向かってくるか分からないって感じなんだから」

「杏里も、そう思っていたのかよ」

 俺は、津川を軽蔑しそうになった。

 だが、津川はため息をつく。

「一般論よ。私たちは、浅宮を信頼している。けれども、そう言う人間ばっかりじゃないってことも覚えておいた方がいいわ。たぶん、そっちの方が多いと思うし。たぶん今の子たちも、愚痴りたかっただけなのだと思う。それを一刀両断しちゃうのは、大人げない」

 思い返して見ると、津川の言葉は最ものような気もした。

 俺も浅宮がいなかったら、たとえ理性を持っていても獣になった奴らを信頼なんてしなかっただろう。

「じゃあ。津川は言わせておいたほうが良かったって、言うのか」

「とりあえず、今はね。他にストレス発散がないから、どこかで発散させなきゃいけないのよ。ここは桜さんたちが保護した人とかが多いから、愚痴とか言いにくいだろうし。ほら、子供たちの様子を見ていたら桜さんってヒーローみたいな扱いだったでしょう。そんなんかで、ヒーローの悪口を言える?もう私たちは、ネットにかき込みもできないのよ」

 どうやら、チームも一枚岩というわけではないらしい。

 浅宮が危惧していたことは、これなのかもしれない。

「また、色々と面倒くさそうな」

 それは、俺の本音だった。

「でも、人が集まるってこういうことだったでしょう」

 忘れてしまったの、と津川が尋ねてくる。

 俺は学校でのことを思い出した。そして、中学校で不良のふりをしてまで武装していたことも思い出した。経った一日だけ学校を離れたのに、どうやら俺は簡単に集団での生活を忘れてしまっていたらしい。

「浅宮は、ここは崩壊するって言っていたぞ」

 俺の言葉に、津川は驚かなかった。

「するでしょうね」

「少しは、驚けよ」

「だって、ここはあまりにたくさんの人を集め過ぎているわ。内部崩壊するのも、時間の問題ね。子供とかお年寄りとかの無力な人間と最初から桜さんと知り合いだった人とかだけ、だったらともかく。佐上たちみたいに、桜さんのやり方に多少の不満を持っている人もチームにいれちゃってるし。あと、まだ理性を持っている獣の人が、一人でも暴走したらアウトでしょうね。普通の人間たちの差疑心とかが、爆発するわ」

 津川は、淡々と崩壊のシナリオを語った。

「でも、普通の人間は獣から身を守れないだろう。だったら、獣の人に対して寛容になるんじゃないのか?」

 俺の顔を見て、津川は深くため息をついた。

「あのね、絶対に普通の人が獣に勝てないわけじゃないのよ。そして、私たちは人を殺せば獣になってしまうけれども、逆に考えれば人を殺せば身を守る武器を手に入れられるわけでもあるの」

 津川に言われて、俺ははっとした。

 人を殺してはいけないという単純なルールから逸脱ずれば、身を守る術は実に身近にあった。そして、それは誰もが実行できるものだった。

「浅宮が回復したら、出来るだけ早くチームからは抜けたいところね。無理かもしれないけれども」

 津川は、静かにそう言った。

 その夜、俺たちは三人一緒に眠った。避難所みたいになっている教室の端っこで、もうこの世には自分の他に二人しか信用できないような気持ちだった。それでも、二人も信頼できる人がいるのは幸せなことだったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る