第2話
小さな頃の夢を見た。
小学校の頃に、あっちゃんとアザミと遊んでいた時の夢。
俺はどちらかと言えば引っ込み思案で、活動的な二人の後ろをいつもついてまわっていた。二人は俺の親友で、俺のヒーローだった。小学校四年生の頃に、この街に引っ越してきたときに初めて話しかけてくれたのも二人だった。
あっちゃんはすっごく頭が良くてテストになればいつも先生に褒められていて、アザミは体育が得意で駆けっこになればいつも一番だった。俺は二人の後ろを見て過ごして、ときより二人が振り向いてくれることを待ち望んでいた。
面白い事は、いつもあっちゃんが考えてくれていた。あっちゃんは面白いことを考えると、不敵な笑みを浮かべて
「なぁ、絶対にばれない万引き方法を考えたんだ。ちょっとやってみないか」
というふうな、小学生らしくないことをよく言いだしていた。
アザミは、その思考回路に呆れかえっていることがほとんどだった。
「阿呆か。で、どういう算段なんだ」
「まず、隣のクラスの奴らを囮にしちゃう。そいつらが、スーパーを襲撃しているあいだに色々なものをパクる」
「おい、どうしてスーパーを襲撃するんだ。ついでに、どうやって隣のクラスの奴らを動かす気なんだ?」
「だって、小さい罪を隠すなら大きな罪のなかに埋めた方が良いだろ。隣のクラスには、そうだなぁ・・・テレビの撮影とでも言っておく」
おおよそ、小学生の考えることではない。
だが、あっちゃんはこういう夢想を好んでいた。
「却下、隣のクラスの奴らを騙すところで止めておけよ。スーパー襲撃は、絶対に駄目だ」
「やった。ハル、手伝ってくれよ」
二人の間で面白いことが決定して、ようやく下っ端の俺の名前が呼ばれる。俺は二人が自分のことを呼んでくれることを信じていたし、二人も俺がそっぽを向くとは思っていなかったに違いない。
あっちゃんとアザミの手首には、Aが描かれたビーズが編み込まれたミサンガ。他の誰も、持っていない。二人だけの友情の証だった。
俺も、それを持ってはいなかった。
***
「ハル・・・。おい、ハル!起きろよ、馬鹿!!」
俺を呼ぶ声が聞こえる。
薄眼を開けると、そこには心配そうに俺の顔を覗き込む浅宮がいた。同時に照りつける太陽まで見えて、俺は思わず目を細める。
「ここって、屋上だよな?」
俺は、思わず浅宮に確認した。
浅宮は、頷く。
どうやら、俺は気を失っていたらしい。ゆっくりと体を起き上がらせると、そこにはいつも通りの平穏で不人気な屋上の風景があった。少し風が涼しくて、それが心地よかった。ぼんやりとしながらその風を浴びて、俺は浅宮に訪ねる。
「さっきの光って、なんだったんだ?」
目がくらむほどの、凶暴な光。
俺たちは、確かにそれを浴びたはずだった。だが、体の方はなんともなかった。いっそ全てを破壊してしまいそうな光だったから、俺は拍子抜けしてしまう。
「分からない。俺もさっき起きたばかりなんだ」
どうやら、浅宮も気を失っていたらしい。
浅宮は、急に立ち上った。
「とりあえず、教室に戻るか。もうすぐ、昼休みも終わるし…」
言いながら、浅宮は空を仰いだ。
そして、黙った。
俺も空を見て、言葉を失った。
空のなかには、なにかがいた。旋回しながら飛ぶ姿は鳥に似ているけれども、飛んでいるモノの体は鳥よりも圧倒的に大きい。家一軒分ほどがありそうなほどの大きさだ。そんなものが空中にあるわけない、と俺は自分の目を疑った。
それが、俺たちに向かって降りてくる。
近づくにつれて、それがファンタジー映画に出てくる竜の姿にとてもよく似ていることに気がついた。現実には、絶対にありえない姿だ。
けれども、それは俺たちに刻一刻と迫ってくる。
俺は、隣にいた浅宮を見た。浅宮は、俺以上に呆然としながら竜を見ていた。
逃げる、ということを完全に忘れてしまっている顔だった。
「浅宮、逃げるぞ!」
俺は大人みたいにあっちゃんを呼んで、その腕をぎゅっとつかんだ。
今度は振り払われないように、本当に強く掴んだ。浅宮の腕を、折ってしまうのではないかと思うぐらいの強さだった。そのまま走って、俺たちは屋上から逃げだした。
どん、と音がして俺たちは屋上のドアごと吹き飛ばされた。
階段を転がり落ちた俺たちが見たものは、壊れた屋上のドアから差し込まれた竜の鼻先だった。俺たちは呼吸を整えるような間もなく、無理矢理に立ち上ってそこから逃げだした。
背後で、物が壊れる音がした。
振り向くと、竜みたいなものが屋上に続くドアから無理矢理入ろうとしていた。どう考えてもドアの入口から竜が入りこむのは無理だが、竜にはそこまでの頭はないらしい。学校が破壊されてもなお、鼻先を突っこむ作業を辞めなさそうである。
「なんなんだよ、あれは!」
俺は、思わず浅宮に怒鳴っていた。
「俺に分かるわけがないだろう!」
浅宮も、俺に怒鳴りかえした。天才の浅宮にだって、今の状況は理解の範疇を超えるものらしい。
当然だ。
屋上にいたら竜に襲われたなんて、どんな人間だって想定できない。
「とりあえず、教師に連絡すればいいのか…。それとも、警察」
ぶつぶつ言いながら、浅宮はケータイを取り出した。時代遅れのガラケーで番号をプッシュして、浅宮はケータイを耳にあてる。だが、繋がらなかったのか、何度もかけ直しをしていた。
「くそっ。圏外じゃないか」
浅宮は苛立った様子で、ケータイをポケットにしまう。そして、俺に向かって掌を差し出す。
「ケータイを貸せ」
俺も慌てて、ケータイを出した。俺のケータイは入学祝に買ってもらった、最新のスマートフォンだった。だが、その画面に映し出されたものは圏外の印だった。
「浅宮、駄目だ。俺のケータイも圏外だ」
「どうなっているんだよ…」
浅宮は、その場で座り込んだ。
俺は、浅宮の腕を引っ張る。
「とにかく逃げるぞ、浅宮!」
「草薙!」
クラスメイトの一人が、俺たちに声をかけた。
血相を変えて俺たちに駆け寄ってくる生徒に、俺は竜のことを説明しようとした。けれども、それより先にクラスメイトが先に口を開く。
「岩崎先生がバケモンになっちまった!」
その言葉に、俺も浅宮も驚いた。
「岩崎って、さっきの現国のテストの監督していた・・・」
「その岩崎だ」
話によれば、岩崎の手がいきなり獣のように肥大化したというのだ。剛毛も生えそろい、まるで腕だけが熊に変化したようだったという。
「いきなり暴れ出すし、もう教室はパニックだよ。外に逃げて行ったやつらもいると思う」
「外だって!」
俺は浅宮を引っ張りながら手近な教室に入り、思わず校庭を見た。
目に飛び込んできた光景は、竜という巨大な爬虫類に襲われて食われる生徒の姿だった。たぶん、俺たちがさっき屋上で見た竜なのではないだろうか。
竜の大きな口に噛みつかれ、そのまま体を真っ二つにされる生徒の姿に、俺は口元を押さえる。竜は一匹しかいなかったが、それでも十分に校庭で生徒たちを蹂躙していた。
「ハル、隠れろ」
浅宮が、俺の裾を引っ張る。俺は、座り込むようにかがんだ。
教室の外で、足音が聞こえた。
「なんだ・・・この腕は・・・・なんなんだ」
力のない声が聞こえてくる。
その声には、聞き覚えがあるものだった。さっきまでテストの監督をしていた、岩崎だ。体罰に近い事をすることで有名な教師の声なのに、俺は救われたような心地になった。頼ることが可能な年上が現れるということは、こんなにも心安らぐことだったのだ。
ほっとする俺に向かって、浅宮はそうっと唇に人差し指を当てた。静かにしろという合図に、俺は首をかしげる。
いるのは、教師の岩崎である。
声を抑える必要は、ないであろう。だが、俺の隣にいるクラスメイトはガタガタ震えていた。例え声を漏らさなくても、震える音だけで気づかれてしまいそうだった。
「そこに、だれかいるのか?」
案の定、岩崎は俺たちに気がついた。正確には、震えが止まらないクラスメイトに気がついたのだ。
「もう、なんなんだよ。これ・・・こんなことになるなんて」
俺は、身を隠す机の隙間からちらりと岩崎のことを覗き見た。
見たことを俺は後悔した。
クラスメイトが言った通り、岩崎の腕は変質していた。さっきまで、俺はその事をすっかり失念していたのだ。いや、岩崎の姿が変わったと言う話しを信じていなかったのだ。だって、人の体が突然変化するなどあまりにも馬鹿げているではないか。そんなことは、漫画やアニメの世界でしか起こらないはずだ。
しかし、クラスメイトが言ったことは本当であった。
岩崎の腕は全体的にごつごつとしていて、茶色い毛が生えそろっていた。なにより、形が人間のものではなかった。
指が短く、肉級がある。
それは熊の手、そのものと言えた。どうして、そんなものが岩崎にあるのか分からない。しかし、現実に岩崎の腕はそう変化していた。
「おまえたちは、なんで無事なんだよ」
岩崎の言葉に、俺はぞくりとした。
岩崎は、恨んでいる。
自分は醜く変化したのに、ごく普通の姿を保っている俺たちを恨んでいるのだ。
俺の隣にいたクラスメイトの首に、ごつごつした熊の手が触れた。クラスメイトが泣きそうな目で俺を見たけれども、浅宮が俺の口を手で塞いだ。
誰もなにも言えない空間のなかで、ずるりとクラスメイトの体が持ち上がる。上から、岩崎がクラスメイトの体をひっぱりあげたのだ。
俺は、それを見ていた。
岩崎に持ち上げられたクラスメイトは、力の限り暴れた。
「ひやぁ、助けて。助けてくれ!」
クラスメイトの悲鳴に、俺は耳をふさぐ。命乞いするクラスメイトと姿の変わってしまった教師はあまりに非現実的で、そうやっていればいつか消えてしまうような気もした。テレビのチャンネルを変えるぐらいに簡単に、消えてしまうと思った。
岩崎の手が、ぐしゃりと無慈悲にクラスメイトの首をへし折った。
クラスメイトの体が、ぴくりと大きく跳ねた。その動きは、魚が顔を落とされたときの動きとよく似ていた。
岩崎は、動かなくなった死体を食べ始めた。その顔には、どんな表情も浮かんでいなかった。ただ無心で食べ、必死に飢えを満たそうとしていた。動物番組でときより見かける肉食動物のような教師の姿に、俺は茫然とするしかなかった。そこには、生徒と教師の関係性なんてみじんもない。
岩崎の体が、ぐにゃりぐにゃりと歪んでいった。
特に、足が歪んだ。人間らしい真っ直ぐな岩崎の足は、ぞっとするほどにたくましく毛深くなりズボンの大半を破った。靴さえも破って、そこから現れたのは鋭い爪と人間以上のごつい獣の足の甲であった。爪以外はグレーの毛におおわれており、獣に近づいた岩崎はぐわぁと吠えた。それは、歓喜のようにも痛みに耐えているようにも思えた。
俺は浅宮に口を押さえられながら、その様をずっと見ていた。
手が震えだした時にはもう駄目だと思ったが、浅宮が俺の手を握った。汗ばんだ手と手が触れ合った瞬間に、恐れているのは自分だけではないと思った。
俺の心は、秘密を共有する子供に戻ったような気がした。浅宮と離れていた三年間の距離があっと言う間に縮まって、小学生の頃に戻ったような気がした。
まだ、浅宮とアザミが近くにいた頃に。
悪戯を繰り返し、大人たちに悪童と呼ばれていた頃に。
けれども、現実の俺たちは高校二年生だった。
離れていた時間が確かに存在する、大人未満の子供だった。
「まだ、肉の匂いがする。そこに、誰かいる・・・な」
岩崎の視線が、俺たちが隠れている机の影に注がれる。
「殺してやる・・・殺して・・・やる。喰って・・・やる」
岩崎の足音が、少しずつ近づいてくる。その足音が、俺に震えをおこさせる。ガタガタと俺の止まらない震えを見ていた浅宮は、意を決したように口を開いた。
「ハル、逃げろ。すぐに、遠くに逃げろ。いいな」
浅宮は、岩崎の前に飛び出した。
隠れていた机に飛び乗って、そこから岩崎に飛びかかる。浅宮の足が、岩崎の体を遠くへ蹴飛ばした。
俺は、逃げだすことができなかった。
なぜならば、浅宮の足もまた岩崎の腕のように変質していたからだった。浅宮の足は、岩崎と同じように履いていたズボンと靴を破っていた。さっきまで浅宮は靴を履いていたし、ズボンも破けていなかった。
おそらくは岩崎に蹴りを食らわせとときに衝撃に耐えきれず、布が裂けたのであろう。露わになった浅宮の足は、人間のそれよりもはるかに発達し、漆黒の毛が生えそろっていた。岩崎と同じ、獣の足だった。
いつから、浅宮の足は変化していたのだろうか。
いつから、浅宮は獣になっていたのだろうか。
だが、同じように獣になった岩崎と違って浅宮の表情は冷えていた。唇は小さく息を吐き、瞳は冷徹なまでに岩崎のことを見つめていた。浅宮の目を見た俺は、察した。
浅宮は勝てる、と思っている。
岩崎に勝てる、と思っている。
浅宮の足は、岩崎の足と違って膝の関節が人間であったときよりも一回りは大きくなっていた。丈夫に太くなった膝の関節は、人間が繰り出す蹴りよりもはるかに強い蹴りを実現させている。岩崎の体は廊下まで引き飛ばされ、浅宮は未だに呆然とする俺の手をとって走りだした。
しかし、俺の前を走る浅宮の走り方はどうにも不格好だ。
浅宮もそれに気が付いており、人知れず悪態を漏らしていた。浅宮の足は、ウサギやカンガルーに似た作りに変質していた。そんな足を人間のように動かすから、不格好になるのである。
「逃がすかぁ!」
背後で、岩崎の声がした。
後ろを振り向いたとき、岩崎の目にすでに理性はなかった。教師の目は、すでに獣の目であった。逃げる獲物を追いかける、肉食獣の目だった。
浅宮が、俺から手を離した。
そして、次の瞬間に浅宮は走っていた方向を替える。岩崎の方を向いた浅宮は、ぐっと深く膝を屈伸させた。そして、床を蹴る。
浅宮の体が風を切るスピードで、俺を横切った。そのままの勢いで、浅宮は再び岩崎の体を蹴りあげる。岩崎はその蹴りを、熊の腕をクロスさせて受け止めた。踏みとどまった岩崎は、受け止めた浅宮の足を払いのけた。
「うわぁ!」
ただ払いの蹴られただけのはずなのに、浅宮の体は壁に叩きつけられた。浅宮は、痛みに呻いていた。俺は思わず、浅宮に声をかける。
「あさみやっ!」
「だ・・・から、逃げろって言っているだろうが!」
浅宮は無理矢理立ち上って、ふらつきながら岩崎に蹴りを繰り出す。だが、さっき壁に叩きつけられたダメージが残っているらしくて、浅宮の蹴りは俺から見ても軸がぶれていて、まともに力が入っているようには見えなかった。
案の定、浅宮はまた岩崎に振り払われた。
さっき以上に強く壁に叩きつけられた浅宮は、俺を見ていた。その視線に、俺はたじろいだ。浅宮が自分一人で逃げださない、わけ。
それは、俺がここにいたからだった。
浅宮は、俺を逃がすために戦っている。
最初から、浅宮はそうだったのだ。
岩崎に勝つ自信などなく、ただ俺を逃がす時間を稼ぐ自信だけがあったのだ。浅宮は、まだ戦う気でいる。しかし、歩みは危うい。獣のように発達した足は丈夫だったが、上半身は脆い人間のままだったからだ。
「・・・浅宮」
「いいから、逃げろ!」
浅宮は叫び、よろめきながら岩崎に蹴りを繰り出そうとする。
俺は思わず、浅宮の元に走った。
そして、相手を蹴ろうとする不安定な姿勢の浅宮に飛びかかった。姿勢を見事に崩した浅宮は、開いていた窓から落ちた。俺も当然のごとく落ちたが、浅宮はいち早く体制を立て直して足から地面に着地した。
思った通り、浅宮の足は三階から落ちても大したダメージを負っているようには見えなかった。浅宮は、遅れて落ちてくる俺を捕まえる。俺の方が体格が良いために、俺を捕まえた浅宮が眉をひそめた。
おそらく、彼は腕を痛めたのだ。
「だっ、大丈夫か!」
俺は、自分を捕まえてくれた細い腕の持ち主の顔を見た。浅宮は「腕が・・・すごく痛い」と漏らした。三階から落ちた男の全体重を支えたのだから、当然である。大事に至らなかったのは、浅宮の下半身が踏ん張ってくれたからだった。浅宮は、腕の痛みに耐えながら俺を睨んだ。
「おまえ、なにを考えているんだよ!三階から飛び降りるなんて、打ちどころがわるかったら死んでいたぞ!」
「だって、あれ以外に二人で逃げる方法が見つからなくて」
「おまえだけだったら、安全に逃げられていただろうが!」
浅宮は耐えきれなくなって、俺を下ろした。息を切らしていたが、それでもなお浅宮は俺を睨んでいる。
「あぶない!」
聞きなれない、甲高い声が響いた。
俺たちに向かって、白い泡が噴射される。それと同時に、俺たちの真上から「ぐぅるる!」という獣の鳴き声が聞こえた。
浅宮は、再び俺の手をとってその場から離れる。
離れてみると、俺たちがいた場所の真上に竜がいた。その竜は白い泡を食らって、もがいているところであった。
「あんたたち、言い争うのはそれぐらいにしなさいよ。というか、よくこんな状況で喧嘩なんかできるわね」
俺たちを救った声の主は、消火器を投げ捨てた。
声の主は、女子生徒だった。
肩までのショートカットに真っ赤なカチューシャを付けており、なんとなく見覚えがあった。津川愛里という、同級生だったはずである。一年生の頃は、同じクラスで彼女がクラス委員長だった。
「助かったよ・・・津川」
俺は、ほっとしながら津川に礼を言った。
未だに竜は苦しんでおり、俺たちに気づく気配はなかった。それは浅宮を安心させたらしく、彼の体が大きく揺れた。俺はそれを支え、津川はそれを見て頷いた。
「お礼はいいわよ。それより、早く逃げましょう。そっちの子は、限界みたいだし」
「待て・・・おまえは、これを見てもなにも思わないのか?」
浅宮は、自分の足を恥じているようでもあった。
だが、津川は浅宮の足になど驚いてはいないようだ。
「何人かの人間が、そういうふうになっていたわ。大丈夫、見慣れたし」
津川の強気な言葉に、浅宮は瞬きする。
「なら、こうなった奴らがどうなったかも見ただろ。おまえたちは、俺から離れろ。腹が空いて、たまらないんだ」
浅宮は、寄り添っていた俺を退けた。しかし、浅宮は一人では立っていられないらしくて、ふらふらし始める。
「腹が減っているだけなら、問題はないだろう」
「違う!ハル・・・。たぶん、体の一部が獣になると心も少し、獣になるんだ。今の俺には、おまえたちは肉にしか見えてない。すごく、美味そうな肉にしか」
浅宮の言葉に、俺は茫然とした。
だが、いくら浅宮が自分のことを告白しようとも、俺には浅宮はいつもの浅宮にしか見えなかった。俺は、倒れそうになっている浅宮の体を再び支えた。
「馬鹿。今は、そんな冗談を言っている場合かよ」
俺は、浅宮に肩を貸しながら歩きだす。
「逃げるぞ、体育館とかなら安全か?」
俺の言葉に、津川は首を振る。
「学校は、もういたるところがパニックよ。外に出た方が、安全だと思うわ。私が住んでいるマンションが近くにあるの。鍵もかかるし、そこに避難しましょう」
俺と浅宮は、とりあえず津川のマンションに身を寄せることを決めた。襲い来る獣たちのことを考えると、ここで迷っている暇はなかった。俺たちは、動きだした。
体の一部を獣にした奴らは、見える範囲では数人程度だった。その数人も、校庭を逃げ惑う人間たちを追うのに必死で俺たちに気がついてはいない。体の一部が獣になった人間たちは、どうしてか獣になっていない人間たちを食べたがっていた。
岩崎のように。
これがゾンビだったら食べられた人間もゾンビになるものだが、そのようなことはなかった。獣に食われた人間は、等しく死んだままだ。
むしろ、変質は人間を食った側におこった。人間を食えば食うほどに、獣である部分が増えたのだ。
手が獣だった者は、足が。
足が獣だった者は、手が。
あるいや、耳などといった目立たない部分が。
岩崎にも起こった変化が、人間を襲った者たちに等しく起こっていた。
浅宮が、俺たちを食いたいと言ったこと。
それはたぶん、嘘ではない。
今だって浅宮は、俺たちの血肉を貪りたくてたまらないはずなのである。浅宮と同じようになっている連中がはやばやと理性をなくしているなかで、浅宮がここまで冷静であることは奇跡的ですらあった。
俺たちは、こっそりと校庭を抜け出して公道に出た。
道路には、車が一台も通っていなかった。元より人どおりの少ない道ではあるが、ここまで少ないのは異例である。
しばらく歩くと、乗り捨てられた自動車を見つけた。覗き見ると鍵は刺しっぱなしであり、津川は他人の車のドアを勝手に開けた。喫煙者の車なのか、ドアを開けただけで煙草の匂いと消臭剤の入り混じった匂いが漂ってきた。
「おい!」
俺が注意すると、津川は俺を睨みつける。
「なによ。こういう状況なんだから、車で移動した方が安全でしょう」
「・・・運転できるのかよ」
「草壁は、黙っていて。一定期間の講習受ければ、誰でも乗れるようになる機械なのよ。簡単に動くのに決まっているでしょう。乗って」
俺たちは、津川が先に乗り込んだ車に乗った。
津川は運転席で、車の鍵をひねる。だが、なにも起こらない。津川はクラクションを鳴らしてみようとするが、それも反応がなかった。
「壊れているわ。だから、乗り捨てられていたのね」
「車って、こんなに簡単に壊れるのか?」
十数年に短い人生の間に、俺は壊れて走らなくなった車なんて見た事がなかった。事故なんかで車が壊れる映像をテレビで見たことはあるが、本当にそれぐらいだ。
「知らないわよ。とにかく、これでまた歩きよ」
俺としては、同世代が運転する車に乗らなくていいことにほっとしていた。浅宮はシートベルトまでして運転する気だけは満々だったらしく、不服そうであった。
俺は、隣に座っていた浅宮を見た。てっきり浅宮も俺と同じ気持ちだと思っていたのに、彼は目を見開いていた。浅宮の目は、バックミラーを見ていた。
「来る・・・」
なにが、と俺が尋ねる前に「ずん」と下から持ちあがるような大きな地震が俺たちを襲った。揺れがあまりのも大きすぎたせいで、車体の後輪が持ち上がる。
「ハル!」
シートベルトをしていなかったせいで車体と一緒に持ちあがる俺の体を、浅宮が捕まえる。俺の体は座席に戻ったが、車体はそのまま一回転して天井から地面に叩きつけられる。今度はさすがの浅宮も俺を抑えきれず、俺と浅宮はそろって車の天井に体を打ちつけた。
「浅宮、大丈夫か!」
「声を出すな」
浅宮が、俺の口をふさいだ。
「後ろに竜がいる。あいつらは賢くないみたいだから、静かにしていればやり過ごせるとおも・・・」
「きゃぁ!」
小さな声で浅宮が喋っているなかで、津川が悲鳴をあげた。運転席の方を見ると、シートベルトでしっかり固定された彼女を竜が覗き込んでいた。
「・・・逃げるぞ」
「駄目よ、浅宮!シートベルトが外れなくて」
俺たちからは見えないが、浅宮はシートベルトを外そうとがちゃがちゃと弄っていた。だが、外れる気配はない。
ずどん、と再び揺れを感じた。
それと同時に天井になった、車の底が大きくへこんだ。シートベルトを外そうとする浅宮の手が一層忙しなくなるが、外れる気配がない。
「急げって!」
「草壁は黙ってて、急いでるのよ!」
津川は反論するが、強気な彼女の手と口は正比例していない。
浅宮が外へ飛び出そうとするが、岩崎との戦いで傷ついた彼が竜と戦えるとは思えなかった。俺は、浅宮が飛びしていこうとするのを止めようとしていた。
「ハル、どけろ!俺が囮になっているうちに、おまえたちが逃げれば」
「いいかげんにしろ、馬鹿!」
俺は、浅宮を怒鳴っていた。
「その自己犠牲は、吐き気がするんだよ!」
俺は浅宮を止めながら、指先に転がってきた消臭スプレーを握った。そして、無理矢理手を伸ばして運転席の近くをまさぐる。目的のものが手に入ると、俺はそれを持って窓から転がり出た。
目の前には、巨大な竜がいた。
肉食恐竜のようなどっしりとした体に、長い首、蝙蝠のような翼。ファンタジー系のゲームに出てくるドラゴンによく似た姿をした竜に、俺はにやりと笑ってやった。
竜には、泡がついていた。
たぶん、津川が使った消火器の泡の残りだろう。学校から、ここまで竜は俺たちを追い掛けてきたのだ。
なんていう執念だろうか。
でも、その執念に俺は勝てるつもりだった。
「おまえらは、火は吹かないんだな」
消臭スプレーを、竜に向かって吹きかける。中身が出続けていることを確認してから、俺は運転席から取り出していたライターの火をスプレーに近づけた。
その光景は、まるでスプレーが火を吹いたかのようであった。竜は火を恐れて、翼をはばたかせた。できればもっと続けたかったが風向きが急に変り、俺はスプレーを止めざるを得なかった。だが、竜は火炎の煙にやられたのか、せき込んでいた。
そして、肉塊を吐きだした。
細切れになった肉塊に混ざっているのは俺たちが着ている制服と同じ色の布で、それだけでこの肉が元生徒だったと知れた。気持ちが悪くなる。
「ハル、伏せろ!」
浅宮が、俺の頭の上を跳んでいく。そのまま、浅宮は竜に蹴りを食らわした。岩崎を蹴ったときより威力はなさそうなのに、竜は派手に吹きとんだ。
「あいつ、えらく重そうなのに…簡単に吹き飛ばなかったか?」
俺の疑問に、浅宮が答える。
「たぶん、飛ぶために竜は体重が軽いんだ。さっきは地響きがしたから重いと思ったけど、上から落ちてきたせいか・・・。体重は百キロ弱ってところかもしれない」
浅宮は自分の足の調子を確かめるかのように、爪先で地面を叩いた。
「骨も内臓も、きっと簡単な作りだ。だから、人間をまる飲みにできるような口をしているくせに、丹念に噛み砕いているんだ」
えらく丁寧に、浅宮は竜のことを観察していた。
「ごめん、浅宮!やっと抜け出せたわ」
車のなかから、津川が這い出てきた。浅宮はそれを確認すると、竜を睨みながら後ずさった。
「逃げるぞ」
浅宮の言葉に、俺たちは無言で頷いた。
そして浅宮が合図して、俺たちは走りだす。
竜は俺たちに向かって一つだけ吠えたが、浅宮が蹴ったことが牽制になったのか追ってはこなかった。
「ごめん、浅宮。・・・えらそうなこと言ったのに、役に立たなかった」
「気にするな。火炎放射スプレーだけでも、すごかった」
走りながら、浅宮は俺を慰めた。
津川のマンションは、言葉通りに学校の近くにあった。高級マンションは背丈が異様なほどに高く、小奇麗な外見で周りを威圧しているようにも見えた。
私に住みたいのならば家賃十万を払えるようになりなさい、とでも言いそうな外見である。俺は、このマンションの家賃がいくらであるかなんて知らないけれども。
俺たちは、そんな高層マンションの階段を上った。エレベーターもあったのだが、さんざん人の形をした獣に襲われた後で密室にはいる勇気はなかったのだ。津川が住んでいるフロアは五階で、階段で登ることはけっこうな苦行であった。それでも、安全を思えば文句はでない。
津川家の部屋にたどり着き、俺たちはすぐに玄関に鍵をかけた。
鍵がかかる空間に、俺たちはほっとする。外で見てきた獣たちの力ならば、マンションのドアぐらいは簡単に壊せるであろう。それでも、俺たちは鍵がかかるという事実に安心してしまうのだ。
津川の家は、なかなかに広かった。一軒家と比べれば狭いのだろうが、マンションでこれならば十分に贅沢な部類であろう。ソファーやテレビと言った基本的な家具家電の他にもものが多くて、生活感にあふれた部屋だった。
どうやら、津川家はあまり掃除が得意ではないらしい。
物が散乱しているわけではないのだが、ごちゃごちゃな印象を受ける。贅沢な広さはそれに相殺されて、奇妙に田舎くさくなっていた。いや、俺の祖父の家がここと同じように物がいっぱいあるだけの話しなのだが。
「津川・・・悪い。なにか、食べ物をくれ。空腹で、本当に辛い」
マンションに入った瞬間に、浅宮はそんなことを言った。津川家の居間にあるソファー座っても、未だに浅宮はぐったりとしていた。
津川は浅宮の言葉に呆気にとられていたが、すぐに冷蔵庫を漁ってありったけの食料を浅宮の前に差し出した。だが、夕飯の残りはともかく、火の通してないベーコンやウィンナーまで出す必要はなかっただろう。
浅宮は、それらに片っ端から手をつけた。
火を通してないベーコンとかウィンナーも差別なく噛み砕いて、胃に詰め込んでいった。その食欲は、本当にすごかった。今の浅宮はどうかは知らないけれども、小学生の浅宮はあまり食べるタイプではなかった。学校帰りに駄菓子屋に寄ることすら、稀だったと記憶している。
結局、浅宮は津山家の食料を食べつくしてしまった。
ほっとした浅宮は、今度はうとうとし始めた。緊急事態のはずなのに、浅宮の行動はまるで子供である。だが、俺たちは浅宮に休憩してもらうわけにはいかなかった。
「ちょっとまて、浅宮!眠いのは分かったから、寝る前にちょっと説明をしろ。いつから、おまえの足はそうなっていたんだ」
俺の叫びに、浅宮は目を擦って答えた。罪悪感はあるが、このまま浅宮が寝てしまえば俺たちは不安のままに夜を明かすことになる。
「たぶん、気を失った時からじゃないかな。とりあえず、気が付いたらこうなっていた」
浅宮の答えは、あまりにもあっさりしたものだった。「だったら最初に言え」と言いたかったが、思えばあのときはすぐに竜に襲われたりして、それどころではなかった。あんな時に浅宮が説明なんてし始めたら、たぶん俺は彼を殴っていたであろう。
「どうして、こうなったかはわからない。だが、なんで異様な空腹感を覚えるのかはなんとなくわかる。だぶん、体の一部が変化したせいだ。それによって、大量のたんぱく質を消費したから腹が減るんだ。人間を狙うのは、そこらへんにいっぱいいるからだろう」
「おい、おかしいだろう。腹が減っているだけで、なんで人を襲うんだよ」
俺の指摘に、浅宮はきょとんとしていた。
そして、しばらくして深くため息をついた。
「今、気がついた・・・。俺の思考が、根本的に変化している」
「意味が分からん、もう少し簡単に説明してくれ」
浅宮は、俺を指さした。
「ハル、おまえは人を殺して食べたいと思わないだろ。それどころか、人を食料として認識できないはずだ」
「そりゃ・・・まぁ」
普通の人間は、そうであろう。
歴史上には人間を食らった人間もいたというが、それだって極少数の例外である。
浅宮は、自分の米神を軽く指先で叩いた。
「ところが、今の俺は人間が食料だと認識できている。たぶん、足がこうなったときに脳の一部が変化したんだろう。欠損したのかもしれないけど。普通、動物はよっぽどの極限状態じゃなきゃ、共食いはしないはずなんだけど」
浅宮の言葉に、津川が割って入った。
その顔には、若干の恐怖が混ざっていた。
「まだ・・・私たちのことを食料だと見てるの?」
「その質問に関しては、イエスに限りなく近いノーだ。今は腹が膨れているから、まったく食欲がない。だから、食べたいとは思えない。それでも、食べられると思う・・・。ハルに津川、俺が怖いと思うなら俺はここから出て行く。正直に、言ってくれ」
浅宮の顔には、覚悟があった。
きっと、彼は俺たちが恐れればここから立ち去るであろう。
それだけは、避けたかった。けれども、浅宮にどのような言葉をかければいいのかも分からなかった。中途半端な言葉は、浅宮を引き離すことになる。浅宮は賢いから、俺の些細な行動でも俺の本心を感じ取る。俺が考えあぐねいていると、いつのまにか隣にいた津川が口を開いた。
「あんたは、どうして私たちを食べないのよ?」
津川の言葉に、俺ははっとした。
浅宮は、ずっと理性を保っていた。少なくとも、俺とはずっと一緒にいたのに浅宮は俺を食べようとはしていない。それどころか、岩崎や竜からは率先して守ってくれた。
「それは・・・食べたくはないから」
浅宮は、うつむいた。
自分のなかの一番恥ずかしい場所を露わにするみたいに、俺たちと視線を合わせることはなかった。だが、やがておずおずと俺たちの方を見る。
「ハルは友達だし、津川だって良い奴だって知っているし・・・なにより俺は人間でいたいんだ。せめて、アザミの奴と会うまでは人間でいたい。だから、友人を食べたくない」
浅宮の言葉に、津川は瞬きを繰り返していた。
俺は、心のどこかでほっとしていた。屋上では、浅宮はアザミのことなんなんて眼中にないみたいに振る舞っていた。でも、こうやって危機的状況になれば彼もかつての友人のことをちゃんと思ってくれていた。
「ねぇ、あんたと私って知り合いだっけ?」
津川の言葉に、浅宮も驚いていた。
一年間も同じクラスだったのに、名前どころか存在さえも認識されていなかったら当然であろう。学校をさぼりまくっていた浅宮に非があるが。
「・・・一年の時に、同じクラスだったよ。ほら、あっちゃんって呼ばれてただろ」
その言葉に、津川は驚いた。
じろじりと浅宮を見た後に、はぁと深くため息をつく。
「あんた・・・なんで津川って呼んでいたのよ。愛里って、呼んでくれれば普通にわかったわよ」
「それは、まぁ気恥ずかしいし」
浅宮の頭を、津川はぽかりとやる。
見た目以上に力の入った拳だったらしいく、浅宮は涙目になっていた。
「今度、津川って呼んだら殺すからね!」
そう宣言すると津川は、どかりとソファに座った。
そして、威風堂々と「お茶」と俺に命令した。
逆らうことも怖くて、俺は他人の家の台所に入りこんで薬缶を火にかけようとした。だが、コンロが着火しない。何度も何度も繰り返すのに、ぜんぜん駄目だった。
「津川、おまえの家のコンロって壊れているのか?」
俺は、津川と浅宮がくつろいでいる居間に向かった。
だが、そこにあったのは衝撃的な光景であった。津川と浅宮が、二人そろってテレビにチョップしていたのである。たぶん、テレビが映らなかったのであろう。
「おまえら、精密機械になにをやってるんだ!」
「それより、春樹。テレビが映らないのよ。携帯だって、圏外だしどうなってるの」
津川は、いつの間にか俺のことを名前で呼ぶようになっていた。こんな状況でなければ女子に下の名前で呼ばれたことに有頂天になっていたかもしれないけれども、今は緊急事態だ。なにせ、津川も浅宮もテレビにチョップし続けている。
「おまえら、だからやめろって!」
突然、浅宮は部屋の電気をつけようとした。まだ日は高いのにと思っていたが、電球は全く明るくならない。俺は、思わず津川に真顔で尋ねてしまった。
「津川、おまえの家はコンロだけじゃなくて電球まで壊れているのか?」
「そんなわけないでしょう!電化製品が、使えなくなっているのよ」
俺と浅宮が言いあっている間にも、浅宮はパソコンのスイッチを入れる。残念ながら、それも電源が入らない。
「じゃあ、どうしてケータイは電源が入ったんだ。繋がらないけど」
俺の素朴な質問に、浅宮が答える。
「たぶん、コンセントで直に電気の供給を受けるタイプの家電は止まっているんだ。携帯は充電していたから、まだ使えるんだと思う。念のため、携帯は使わないときは電源を切ったほうがよさそうだ。このままだと、ずっと充電ができないからな」
「ガスまで止まるのは、変だろう。ガスは電気を使ってないんだから」
俺は、火がつかなかったガス台のことを話した。
「この緊急時だから、ガスの提供を止められているのかもしれない。ほら、大地震とかがあたっときはガス漏れがないかどうか確認するまでガスは止められたりするだろう」
「そういうもんかな・・・」
俺は、納得できなかった。
学校に竜は出たけれども、街が壊滅的に壊れたわけではなかった。浅宮の地震が起きたときと同じ対応と言うのは、あまり納得がいかない。
「少なくとも、これでガス爆発に巻き込まれることはなさそうだ。前向きに考えよう」
浅宮は、そう言った。
なんとなく、俺は浅宮がなにかを隠しているのではないかと思った。
聞きだそうとも思ったが、津川の存在も気になった。もしも、浅宮が津川を気遣って隠しごとをしているのならば、台無しするわけにはかなかった。
「ねぇ、これからあなたたちはどうするの?食料はもうないし、いつまでもここに閉じこもっているのも危ないわよね」
津川の言葉は、もっともだった。
「愛里は、できうるかぎりここで待っていた方が良い。御両親が帰ってくるだろう」
「二人とも、タイミング悪く北海道に旅行中よ。この様子だと飛行機が飛ぶとは考えにくいから、あなたちと一緒に避難するわ。当然、連れて行くわよね」
強気な津川の言葉に、浅宮は言葉に詰まる。
だが、両親が帰って来ないとなれば津川をここに一人で残していくのはたしかに危険であった。
「春樹は、親はどうなのよ?」
「俺の両親は、大阪。津川と一緒で、こっちに帰ってくるのはたぶん無理だと思う。浅宮は?」
そう訪ねた俺に、浅宮は少しだけ驚いた。
数秒後に、浅海はゆっくり息を吐く。
「俺、親が死んだんだ。今は、親戚のところで厄介になってる」
「あっ・・・ごめん」
「あやまるなよ。そういうことで、俺も親を探したり、待つ必要はない。それで・・・俺は三谷山高校に行こうと思う」
大阪に三年もいて、すっかりここら辺の地理に疎くなっていた俺は三谷山高校がどういう場所なのか想像できなかった。浅宮が行きたがる場所ということは、避難所にでも指定されているのだろうか。だが、普通そういう避難所にされているのは小学校か中学校のような気もする。津川も俺と同意見らしく、首をひねっている。
「三谷山高校に、アザミが進学したんだ」
浅宮の言葉に、俺は思わず立ち上っていた。
そして、浅宮の手を取った。浅宮の手は、俺よりも小さかった。さすがに津川よりは大きいのだろうが、比べてみると驚くべきことに大差はなかった。
「行こう。アザミのところに行って、また三人に戻ろうよ」
俺の子供みたいな言葉に、浅宮はほんの少しだけ笑った。
思えば、俺は再会してから浅宮の笑った顔を初めて見たかもしれない。笑った浅宮は綿あめみたいにふわふわしていて、すぐに溶けてしまいそうだった。
「三谷山高校の状況がどうなっているかは分からないし、ここより危険かもしれないぞ」
「そんなことどうだっていい!アザミに会いに行こう!!」
できることなら、浅海と二人でマンションを飛び出してしまいたかった。けれども、さすがにそこまでの命知らずにはなれない。部屋の電気がつかないということは、街灯もつかない可能性があるということである。そんななかで街を歩けば、確実に獣になった人間に襲われてしまう。
「私も三谷山に行くのは賛成だけども、アザミに会えなかったらどうするのよ?あっちだって、こっちと同じ状況だったら移動ぐらいは考えるでしょう。入れ違いの可能性とかは、ないの?」
意外なほどに冷静な津川が、浅宮に訪ねた。
浅宮は、穏やかに答える。
「三谷山高校に行けば、少なくともアザミがどこに移動したのかの手掛かりぐらいは見つかるかもしれないだろう。それにケータイがつかえないんじゃ、入れ違いになるのはある程度は覚悟の上だ」
浅宮の言葉に、津川は目を閉じた。
「わかったわ。あなたがそう考えたんなら、文句は言わないことにしてあげる。今日は、もう休みましょう。あなたたちは、パパとママの部屋を使って。・・・言っておくけど、緊急時以外は私の部屋には入らないでよね」
津川は、そういって自分の部屋に消えた。
彼女の気配が消えると、俺もどっと疲れが沸いてきた。今まで女子と一緒にいたから、肩肘を張っていたのだろう。浅宮の方を見ると、彼はすでに寝息を立てていた。そう言えば、こいつは食事が終わった頃から欠伸をしていたのであった。
「浅宮・・・あっちゃん、こんなところで寝ると風邪をひくぞ」
揺すってみるが、浅宮はぐっすり寝入っていて起きる気配もない。
俺は浅宮と自分の腕をじっくりと見比べて「こいつぐらいならば運べるかもしれない」と考えた。思えば浅宮は、三階から飛び降りた俺をキャッチしている。俺だって、なんとかなるかもしれない。
結果、惨敗だった。
持ち上げようとすると、浅宮の下半身が異様なほどに重いことがわかった。浅宮の下半身は、上半身とは別の生き物みたいになっていた。骨格からして人間の作りとは違うし、触ってみると筋肉が鋼みたいに固かった。その足を覆う毛は、短くてばさばさしている。なんていうか、剛毛だ。
どうして、浅宮の足がこうなってしまったのかはわからない。
けれども、浅宮は割りと自分の足を冷静に受け止めているようである。もしかしたら、それも浅宮が言う脳の欠損なのかもしれない。自分が変化しても焦るような感情的な部分がなくなってしまっている、とか。あんまり浅宮の足を触っているわけにもいかなくて、俺は津川の両親の部屋から布団を持ってきてかけてやった。
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