地獄の底

落花生

第1話

 大昔に、友人に一通のメールを送った。

『父さんを殺してしまった・・・。どうしよう』

 それ以来、彼からの返事はない。



 テストが始まってから十五分が経った。

 いつものように、一番後ろの席に座っている奴が席を立った。俺の席からはそれが見えないが、なんとなくその光景は予想がつく。きっとあいつはつまらなそうな顔をしてテスト用紙を裏にし、なんの感情もなく教室を出て行ったことであろう。

 あいつが入学してから、この光景はテストの回数と同じ数だけ繰り返されてきた。あいつと高校一年生のときに同じクラスだった俺には耐性のある光景だったが、初めて一緒のクラスになる奴らにはいささか衝撃が強かったらしい。静寂を求められるはずのテストの時間なのに、教室の空気がわずかにざわつく。

 教師は、それを無言で黒板を叩くことでいさめた。

 このクラスの担任教師は古い人間で、体罰に近いことをする問題の男性教師だった。まだギリギリのところで訴えられていないが、それも時間の問題だろうとクラスの全員が思っている。そんな教師ですら黙らせてしまう存在が、ウチのクラスには一人いた。どんな教師であろうと、どんな生徒であろうと、あいつの価値を誰もが知っている。

 あいつは、弾丸だった。

 たった今、教室を出て行った生徒。

 浅宮終のことである。


 学年どころか学校一の秀才は、とんでもない名前をしている。

 終、だなんて子供につける名前ではない。

 終の評判は、悪い。

 外見のガラの悪さから不良と呼ばれてしまっている俺を上回る評判の悪さは、ほとんどがやっかみである。

 終は普通の授業をサボっても、抜け出しても、教師になにも言われない。その自由な態度は全ての生徒の嫉妬の対象になり、色々と陰口をたたかれている。

 浅宮は、そんなことは気にしない。

 飄々といつも模試で全国一位をとってきて、自分の地位を確実なものにしていた。教師が浅宮を強く注意しないのは、浅宮が近い将来に良い大学に進学して学校の実績を作るからだ。浅宮もそれを分かっているから、模試やテストだけはサボったりはしなかった。ただ浅宮がそういうふうに過ごすから、生徒の悪意ある噂だけがどんどんと増えていった。

 浅宮にまつわる噂のなかで、突拍子もないものが一つある。

 たぶん、それを誰も信じてはいない。なのに、消えることなく噂は校内をあてどなくさ迷っている。浅宮は人を殺したことがある、というバカげた噂である。

 テスト終了後、俺は友人とテストの出来を確認し合う事もそこそこに屋上に向かった。普通の屋上は鍵が閉められているらしいのだが、ウチの学校の校舎はフェンスがえらく丈夫で高く作られているので屋上が解放されている。

 屋上には、すでに先客がいた。屋上なんて場所は人気なように思われるが、強い日差しを思いっきり受けるので天気が良い日は不人気だ。だが、その不人気さ故に、わざわざ晴れの日に屋上に来る生徒もいる。

 俺こと草壁春樹は、そういう生徒ではない。

 熱いのも寒いのも嫌な、典型的なひ弱な現代っ子である。そんな惰弱な精神でありながら見た目が不良っぽいと言われるのは、単に通っていた中学校が自由な校風だったというだけである。

 俺は中学だけは大阪の学校に通っていて、その学校が笑えるほどに荒れていた。東京からやってきたよそ者の俺は、その文化に馴染まなければやってはいけなかった。だから髪を染めて、ピアスまで開けた。

 大人たちには不良に見えたかもしれないが、俺にとってこのファッションはサバイバルに必要な迷彩服だった。目立っていたら、いつ砲撃が飛んでくるか分からない。だから、身を守るために服を替えたり武器を所持する。

 当たり前のことだ。

 困ったことに大人は―とくに平和ボケしている教師たちはこの当たり前のことを忘れてしまう。子供よりも大きな力を持っている大人たちは、きっとそういうふうに身を守る必要がないんだろう。

「よう、浅宮」

 俺は、極めてフランクに浅宮に話しかけた。一年間同じクラスだったのだが、残念ながら俺と浅宮はほとんど喋らなかった。浅宮が授業に出席することだって、稀だったし。

「・・・あんた、誰だよ」

 思ったよりも高い声を発しながら、浅宮は俺の方を振り向いた。

「一年間、同じクラスだったんだから気づこうぜ。まぁ、そこらへんはお互い様だけど」

 俺は、深呼吸を一つする。

 浅宮は、俺の行動に首をかしげた。長い前髪が、それに合わせて揺れる。俺とは違って、染められていない生まれたままの黒髪だった。

「久しぶり、あっちゃん。小学校以来だけど、元気だった?」

 俺の声が、小学生の戻ったんじゃないかというほどに高くなったような気がした。無論、そんなことは錯覚である。けれども、俺にはそんな気がしたのだ。

 浅宮は、俺の告白に目を丸くした。

「え・・・あ。もしかして、ハルなのか?」

 浅宮は、恐る恐る俺を指さす。

 俺は、頷いた。

 大阪に転校する前、俺はこちらに住んでいた。そこには仲の良い友人が二人いて、小学校の頃はいつもそいつらとつるんでいた。転校してからは、それっきりなってしまってしまったけれども。

 仕方があるまい。

 あの時の俺たちはケータイもなにも持っていなくて、今よりももっと弱い小さな子供だったのだ。遠く離れた友人といつまでも繋がっている手段なんて、ぜんぜんなかった。

 俺の小学校時代の親友の一人の名前は、久世アザミ。

 そして、もう一人の友人の名前は浅宮終だった。

 浅宮は、ゆっくりと俺に近づいた。

 そして、俺の顔をじっくりと観察する。

 俺も、近づいてきた浅宮をよくよく観察した。

 劇的に成長する三年間を互いに知らなかっただけあって、浅宮は俺の知らない浅宮になっていた。小さな頃から近所のおばさんたちに可愛いと言われていた顔は瞳が小さくなって、少し大人っぽい。

 そんな浅宮を上から眺めながら、ふと違和感に気が付く。少し考えて、浅宮を見下ろしていたことに気がついた。小学校の頃は俺の方が身長が低かったのに、今ではすっかり浅宮を上から眺める格好になっている。

「ハル・・・おまえ、身長どれぐらい伸びたんだ?」

 浅宮も、それに気がついたらしい。

 少しばかり不機嫌そうに、俺に訪ねてきた。

「あれから、めきめきと二十センチぐらいかな。あっちゃんも、これから伸びるんじゃないの」

 浅宮は「そうだといいけどな・・・」と呟いた。

「それにしても、なんで戻ってきたんだ。また、親の転勤か?」

「いいや、親はまだ大阪にいる。なんていうか、俺は大阪の文化にはついていけなくてさ」

 自分で聞いておきながら、浅宮はあまり興味がなさそうだった。

 俺の恰好を見て、大体のことを察したのかもしれない。

「なぁ、アザミは元気か?この学校には進学しなかったみたいだけど、あっちゃんとアザミは同じ中学校に行くって言ったからケータイの番号とか知っているよな。また、三人で遊ぼうぜ」

 俺は、ごくごく自然にもう一人の親友の名前を口に出した。

 浅宮は、俺から視線をずらした。

「・・・アザミの連絡先は、知らない。それより、駅前のハンバーガー知っているか?アメリカンなスタイルで、すっごく大きくて一人じゃ食べきれないんだ。今度、一緒に挑戦しようぜ」

 食べざかりの俺にとって、大きなハンバーガーというのは魅力的だった。ぜひ、一度かぶりついてみたい。けれども、それより今は親友だったアザミの事が気になった。

「あっちゃんとアザミって、すっごく仲がよかったじゃんか。どうせなら、三人で食べに行こうぜ」

 俺は、どうしてもアザミと連絡を取りたかった。

 成長した俺たちが、あの頃と変わらないのだと誰かに証明したかった。

 なのに、浅宮は急に冷え冷えとした顔をした。

「・・・アザミのことなんて、どうでもいいだろ。こっちだって、おまえが大阪に行っていた三年間の間に色々とあったんだよ」

 浅宮は攻撃的に俺にそんな言葉を言い放つと、それで話は終わったとばかりに歩きだした。俺は浅宮と距離を置きたくはなくて、浅宮の腕をぎゅっとつかんだ。

「なにするんだ!」

「なぁ、おまえらなにがあったんだよ!おまえたち、本当に仲がよかっただろ」

「だから、色々あったんだって。大阪に行っていたおまえには、関係がないだろ。今も昔も、途中から現れやがって」

 浅宮が、俺の手を振り払った。

 その時、俺と浅宮の視界の端っこで激しい光がきらめいた。

 それは太陽とか月とか、そういう暖かいものではなくって、もっと暴力的なものだった。小学校の頃に無理矢理見せられた、戦争映画に出てくる光に似ていた。

 本能的に、あの光は危ないものだと俺は察した。

 俺は咄嗟に浅宮に覆いかぶさって、躊躇いもなく浅宮をかばった。コンクリート上に転がった俺たちは、無力な子供の姿のままで光にさらされていた。

 視界の端っこに、浅宮の手首が見えた。

 Aのイニシャルが刻まれたビーズ。それが編み込まれた、ミサンガ。小学校の頃から変わらないお守りに、俺は本当に小学校の頃に戻ったような気がした。

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