第三片 混乱、混沌 4
「なんか、みずき先輩ヘンだったねー」
自販機で購入した紙パックの牛乳を飲みながら、茉莉花は言った。
生徒会での仕事が一段落し、千姫と茉莉花は食堂に立ち寄っていた。
他の役員たちはもうすこし残って打ち合わせなどするそうだが、正式メンバーではないふたりは、これで帰宅しても構わない。
「ねね。あのふたり、やっぱ付き合ってんのかなー?」
茉莉花が、身を乗り出し気味にして訊いてくる。
あのふたりとは、もちろんみずきと央霞のことだ。
「……知らない」
千姫は顔をぷいっと背け、オレンジジュースを口に含んだ。
正直、考えたくもない話題だったが、興が乗ったのか、茉莉花は構わず話し続ける。
「ちょっとは考えてよー。なんかさー、落ち込んでるみずき先輩を、央霞先輩が慰めてるっぽかったよねー。で、その雰囲気がさー、なんかこう……エロっちいっていうのかなー。ふたりにしかわかんない距離感で通じ合ってる、みたいな? あー、あたしもあんなふうに、央霞先輩に慰めてもらいたい!」
空気を読むのが得意で、どこにでもするっと入っていける茉莉花だが、千姫に対しては遠慮がいらないと思っているのか、ときどきこういう無神経な振る舞いをするのが鼻につく。
千姫が我慢していることとか、どうせムダだと思っているからなにも言わないだけなのだとか、たぶん、わかっていないのだろう。
あんたはミーハー的に桜ヶ丘先輩のことが好きみたいだけど、わたしは大嫌い。
白峰先輩とベタベタしてるところが嫌だし、あの人の前でだけ、みずき先輩がふつうの女の子みたいになるのも見たくない。
毎日毎日、通い妻みたく生徒会室にやってきては、まるで見せつけるようにいちゃいちゃして……。
なんなの? そんなに自分は特別だってアピールしたいの? 世界はふたりだけのものだとでも思っているの?
わたしごときが、白峰先輩と仲良くなろうだなんておこがましいけど、せめて心穏やかに眺めさせてくれたっていいじゃない――
ただでさえフラストレーションが高まっているところに、茉莉花のおしゃべりは正直キツイ。
だが、千姫にできることと言えば、せいぜい空になった紙パックをぶつけるくらいだ。
それでも茉莉花はしゃべり続けるし、結局なにも変わらない。
千姫の口から、長い長いため息が漏れ出そうになったとき――
肩の上に、死人のように白い手が乗せられた。
「匂いますわ、匂いますわ♪」
ぬっと顔を突き出したのは、見覚えのない外国人女性だった。
マンガかコントでしか見たことがないような金髪縦ロールが、色素が薄いせいなのか、うっすらと光を透かして輝いている。
異様なほど白い肌も相まって、一見とても美しいが、口許に浮かんだ邪悪な笑みが、すべてを台無しにしていた。
「千姫、知り合い?」
茉莉花の問いに、千姫はぶんぶんと首を横に振る。
「わたくしは、アルメリア・デ・ヘルメリア」
「あるめるでりへる……なに?」
「あなた、ぷんぷん匂いますわよ。恨みつらみ、妬みそねみ……渦巻くドス黒い感情の匂いが。わたくし、大好物ですの」
紅いくちびるから、ヘビが這い出るように長い舌がのび、千姫の頬をちろりと舐めた。
知らない相手からの突然の行為に怖気が走り、千姫は固まってしまう。
「ちょ、ちょっと! 千姫からはなれなさいよ!」
はじめはのんきそうに見ていた茉莉花も、さすがにこれは異常だと悟ったようだ。鞄から取り出したノートを丸めて棒状にし、大声で女を威嚇する。
「威勢のいいこと」
そう言って嗤う女の手には、どこから取り出したのか、ひと張りの弓が握られていた。
その形状は、翼を広げたコウモリのように禍々しい。
「この弓から放たれる矢には、様々な効果がありまして……例えば――」
女の左手が閃き、腰の矢筒から一本、赤く塗られた矢を引き抜いた。
「赤は暴走。頭の中にある、いろんなタガを外してくれますの」
女は矢をつがえ、千姫の眉間の辺りに狙いを定めた。
「や……やめ……」
殺される。
そう思ったが、足はすくんでしまっているし、舌も喉の奥に引っ込んで、助けを呼ぶこともできない。
「やめろォ!」
茉莉花がテーブルを乗り越え、女にとびかかった。
だが、それよりも速く、女は身体の向きを変え、茉莉花に向けて矢を放った。
「いやああああ!」
その絶叫が自分の口から発せられていることに、最初、千姫は気づかなかった。
仰向けにのけぞった茉莉花がテーブルから転げ落ちてゆくさまを、スロー映像を眺めるようにはっきりと知覚する。
硬直が解けた千姫は、茉莉花に駆け寄ろうとした。だが、女に足を払われ、ぶざまに転倒してしまう。
「死んではいませんわ。言いましたでしょう? 赤い矢は頭のタガを外すって」
「マリ……マリぃ……」
なおも這いずる千姫の背中に、女は片足を乗せて押さえつけた。
「ほらほら、ちょっとは落ち着いて、耳を澄ましてごらんなさいな。聞こえませんこと?」
そう言えば、さっきから外が騒がしい。
よくよく聞いてみると、悲鳴とも怒号ともつかぬ声が飛びかっている。それに、千姫たちの周りにいるはずの人間が、誰ひとり助けに動こうとしないのも変だ。
「この学校に入ってからここに来るまで、目についた人間を赤の矢で手当たり次第に射抜いてみましたの。この世界の方たちは、誰も彼も、相当に鬱憤を溜め込んでいるようですわね。心の底に押し込めていた欲望を解放して、それはそれは愉しそうなお顔になりましてよ」
意味がわからない。
この女、いったいなにを言っているのだ?
ただひとつ、はっきりしているのは、とてつもなく異常で、危険な事態が起こっているということだけ。
千姫は懸命にもがいた。逃げなければ。こんな狂った場所から、一刻もはやく。
女の爪先が、千姫の背中から外れる。
やった――そう思ったのも束の間、足がもつれて前のめりに転がる。
一瞬、垣間見えた女の顔は、そんな千姫のようすを面白がっているかのように歪んでいた。
「さあ、お次はあなた」
女が、流れるような動作で矢をつがえた。
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