第10章 臨床心理士
「何ですって!」
「どういうことなんですかそれは?」
理真は少し小声になって
「グループカウンセリングで一緒だった
その方は当時福井県にお住まいで、高校生の娘さんはレストランでアルバイトをしていました。そのアルバイト先に六田がいて、娘さんは六田に乱暴されたそうなんです。それを知ったご両親は警察へ行ったのですが、女性への乱暴の罪は親告罪っていうんですか? 被害者側から被害届を出さないと捜査が出来ないと言われたそうで。方々に色々と話を聞いたら、聴取でどんなことをされたのか事細かに聞かれるだとか、いざ犯人を逮捕しても、今度は裁判で証人になって裁判官や傍聴席にいる人たちの前で証言をしなければいけないだとか、被害者に対してさらに鞭打つようなことが待っていると。それを娘さんに話したら、そんなことをするのは絶対に嫌だと。それでご両親もどうしたらいいのか戸惑っている最中、ある日、娘さんは自室で首を……」
三宅は涙をこぼした。
「すみません」小さく言って三宅はハンカチで涙を拭い、「娘さんが自殺したことを知ったのか、六田は福井を出て行きました。新潟に行ったらしいということは分かったのですが、もうご両親に何が出来るわけでもなく。悲しみに暮れるばかりでした。そうしているうちに元々体が弱かった旦那さんも亡くなってしまい、ひとりで悲しみ悩む毎日だったそうです。それで、
「……間違いないんですか。その、六田という男が、その方の娘さんに乱暴した犯人だと」
「はい、住所も新潟で、滅多にない名前ですし、アルバイト先で見て憶えていた顔と、報道された顔は同一人物で間違いがないとおっしゃっていました。六田は直接娘さんを殺害したのではないかもしれない、でも、事実上の加害者同然じゃないですか。加害者が死んだからといって、被害者やその家族が苦しみから解放されるということはありませんが、少しは気が楽になられたのではないでしょうか。ですから、私、仁藤さんがあんなになるまでは、この事件の犯人、テレビでいろは、なんて名前付けられてましたね。犯人は、きっと六田と同じように法では裁けない殺人者だけを選んで殺している、そんな風に思っていたんです。最初の被害者の女性も、仁藤さんの前の男性も、何かしら悪いことをした人間なのではないかと。ですが、仁藤さんのことで、そんな考えはなくなりました。仁藤さんは、私たちの側の人間だったのですから」
「……そんなことがあったんですか」
「すみません、私、そろそろ行かないと」
三宅は腕時計に目を落とした。
「あ、長々とすみませんでした」
「いえ、犯人を必ず捕まえて下さいね」
三宅は一礼して席を立とうとしたが、
「あ、最後にひとつだけ」理真が引き留めた。「そのお話、瀬峰先生も御存じなのでしょうか?」
「……ええ、恐らく。私たちと一緒のグループカウンセリングでは、そこまでお話には当然なりませんけれど、先生と個人カウンセリングの時にはお話しているのではないでしょうか。私も先生には何でも話せますから、きっとその方も」
「そうですか。ありがとうございました」
私たちは礼を言って三宅を見送った。三宅は会計を済ませ、出入り口で一度振り返り会釈したあと、白い軽自動車に乗りこみ車場を出た。
「とんでもない新事実が発覚したね」
店員が三宅のコーヒーカップを下げたあと、理真は深い息をついた。
「そうね」と丸柴刑事も苦い表情をして、「六田にそんな過去があったなんてね。警察でも拾いきれてなかったわ。六田が福井県にいたのは、五年前までだったっけ。福井県警のどこの所轄か分からないけれど、被害届を受理してもいないから、そんな昔のことは追い切れなかったんでしょうね」
「さっき三宅さんも言ってたけど」と理真は、「犯人は、法で裁けない悪人を狙って殺してるふうじゃないね。仁藤さんのこともある」
「分からないわよ」丸柴刑事が目を細めて言う。「六田のことだって、今の今まで知らなかったわけじゃない。仁藤さんがそんな人間じゃないっていうのは、三宅さんや私たちの主観であって、どんな過去を持っているかなんて、すべてを知りようがないもの。犯人側の逆恨みっていう可能性もあるわ。他の被害者の過去も徹底的に洗い直す必要があるわね」
「最初の被害者の
「そうね、例外扱いは出来ないわよね。何の変哲もない主婦だったそうだけれど……」
「ううむ」理真は唸って腕を組んだ。そのとき、
「あ、来たよ」
私は出入り口に瀬峰の姿を捕らえた。向こうもこちらに気づき、片手を上げながら近づいてくる。理真と丸柴刑事は、眉間に皺を寄せた表情を取り払い、いつもに戻る。
「お待たせしてすみません」
瀬峰は私たちのテーブルの空席に腰を下ろし。コーヒーを注文した。四人掛けの席は再び埋まった。
「瀬峰さん、お食事は?」理真が問うと、
「私、お昼は食べないことが多いんです。その分朝にたくさん食べてますから」
三食しっかり取る理真には考えが及ばない行動だろう。瀬峰は、注文してすぐに運ばれてきたコーヒーをブラックのままひと口飲み、
「
「いえ、そんなことないです。先生がお忙しいのは本当でしょうし」
瀬峰、丸柴刑事は、それぞれ互いに頭を下げた。
「それで、今日はどんなことを?」瀬峰は質問を促す。
「はい」瀬峰の相手は理真に変わる。「仁藤さんのことで、もっと詳しいお話を聞かせてもらえればと」
「詳しい話と言われましても、亡くなった方とはいえ、クライエントのプライバシーに関わることですので」
「もちろんお話できる範囲で構いません。何か亡くなる前に、変わったことがあったとか、ありませんでしたか。昨日伺ったあとに何か思い出したことなど、何でもいいんです」
「……すみません。何も思いつきません」
「そうですか……では、先生のお仕事について聞かせてもらっても構いませんか」
「私の? ええ、どうぞ」
「カウンセリングって、具体的にどんなことをされるんですか」
「うちの場合は、専用のカウンセリングルームに、カウンセラーとクライエントが二人だけで入って話を聞きます。カウンセラー以外の人間に絶対に話を聞かれないという安心感を持ってもらうためです。密室で二人きりになるという性質上、カウンセラーは女性が多いですね。クライエントはどちらかというと女性のほうが多いですから。うちの場合と言いましたが、どこも似たようなものではないでしょうか」
「先生は、犯罪被害に遭われた方のカウンセリングを主に担当していらっしゃるということですが」
「そうです」
「何か理由があったのでしょうか」
「特にありません。強いて言えば、誤解を恐れずに言いますと、やりがいがあるから、となるでしょうか」
「やりがい、ですか」
「もちろん、カウンセリングを必要としている方の悩みに優劣はありません。殺人でご家族を亡くされた方も、夫の暴力に悩む主婦も、ご本人にとっては、世界のすべてを抱え込むような苦しみであることに変わりはありません。これも誤解を受けかねない表現かもしれませんが、悩みというのはあくまで主観ですから」
「そうですよね。第三者から見れば、どうしてそんなことで、と思うような理由で死を選んでしまう方もいますし」
「ご理解いただけてうれしいです。それでも、夫の暴力、あるいは酒がやめられないなどの案件は、明確な答え、ゴールがあります。夫が改心するですとか、完全に酒を断つとか。まあ、そこに至るまでの道程は険しいんですけれど。翻って、犯罪被害という案件は答えがありません。こうすれば完全に心が癒えるという解決がないんです。犯人が未逮捕の場合、逮捕されたら気が晴れるでしょうか? 捕まって極刑になれば? 犯行後、犯人が自ら命を絶ったような場合はどうでしょうか?」
「確かに、それで解決するのは事件という事象だけですね。事件が終わったら、映画の出演者が役から元の俳優に戻るように、関係者も舞台から降りるなんていうわけにはいきませんからね。事件が終わっても、それに関わった人たちの人生は続いていく。続いて行かざるを得ない」
理真は難しい表情で答えた。
瀬峰は対照的に聞くものに安心感を与える温和な笑みを見せながら、
「そうなんです。多くの場合、犯人の去就は被害者の心の快復に寄与しません。もちろん極刑を望み、出来ることなら自分の手で裁きを下したいという方も大勢いらっしゃいます。ですが、事件が法的に決着をみても、
私は、そういった人たちの力になりたいんです。答えのない問題に挑み続けるといったら格好をつけてると思われるかも知れませんが。数学者が何世紀も解けない難問に挑み続けるのと似ているでしょうか。これも語弊のある言い方ですね。私は、ご自身や身内が犯罪被害に遭われた方に興味があるんです。いったいこれからどんな人生を歩んでいくのか。決して平坦であるはずがない人生を。興味があるなんて、また変な誤解をされかねない言い方でしたね。
でもですね、私のカウンセリングでクライエントを救いたいとか、そんなおこがましいことじゃないんです。この先の人生を歩むのは、私じゃなくクライエントひとりひとりなのですから。自分で考え、自分の脚で歩かなくては意味がないんです。私が民衆を導く自由の女神のように、先陣を切って走り、クライエントを付き従わせることがカウンセリングじゃない、むしろそんなことはしてはいけないんです。不遜な言い方かもしれませんが、やろうと思えば出来ますよ。カウンセラーがまるで新興宗教の教祖のように、クライエントを意のままに操ってしまうことだって。不可能じゃない。でも、そんなことは決してしない。
私のところに来るクライエントは、見ず知らずの異国の真ん中に放り出されて途方に暮れている旅人のようなものです。私は、彼らに地図を手渡したい。それも、明確にゴールへの道筋が書いてあるものじゃない。どの道をどのように進むのが最善なのか、本人に考えてほしい。どこがゴールなのか、もしかしたらゴールなんてないのかもしれない。それでも、少しずつでも歩いてほしい。そして、最終的には、私の渡した地図がなくても、自信を持って歩けるようになってほしい。それが私の仕事だと思っています」
瀬峰は私たちの目を順に見て、コーヒーを喉に流し込み、
「と、講演ではいつもこんなような話をしているんですけど。受けがいいんです」
温和なものから、いかにも楽し気な笑顔に変えて、瀬峰は話を締めくくった。
「すばらしいです」
と理真。うん、私も感動した。
「ふふ、あんまりドラマチックに受け取らないでね。仕事、それだけのことよ。安堂さんが本を書くように、刑事さんが事件の捜査をするように、パン屋さんがパンを焼くように、私はクライエントの話を聞く。それが仕事だから」
瀬峰はもう一度、ふふ、と笑った。私にはそれが照れ隠しに思えた。
瀬峰がコーヒーの味を堪能しだし、テーブルは沈黙に支配された。井戸端会議の声だけが店内に響く。理真も黙ったままのため、丸柴刑事もどんな事を話し出したらいいか迷っているらしい。もちろん、私が何か気の利いた口を挟めるわけがない。
「保永さんて、どんな方ですか?」
「保永くん?」
沈黙を破った理真の質問はそれだった、予期せぬ質問だったのか、瀬峰も一瞬きょとんとしたが、すぐに話し出した。
「優秀な助手よ。頭はいいし、気配りも出来る。あ、病院でのことはごめんなさいね。彼も警察が相手で動揺してたのかも。ひとり暮らしだから家事はやるし、料理もうまいのよ。あの子をもらう嫁は幸せね。おまけにいい男でしょ」
「大学時代からのお知り合いなんですか?」
「ええ、そうよ。何だか妙になつかれちゃってね。私がこっちに戻る時に連れてきたのよ。研修医の仕事がきついってボヤいてたし。この辺のことはもう調べてるんでしょ」
「ええ、まあ。保永さん、とても先生のことを慕っているんですね」
「ふふ、私に惚れてるのかしらね」
「先生のほうはそうでもない?」
「私にはもういるから」
「そうなんですか。どんな方なんですか?」
「プライベートに関することだからダメ。安堂さんのほうこそ、どうなの? そんなに美人なんだから、男が放っておかないでしょ」
「そういった話には全然縁がなくて……」
「そうなの?
私は理真と同じように答えた。続いて瀬峰は丸柴刑事にも質問したが、答えは同じ。
「これは驚いたわね。こんな美人が三人も揃って、連続殺人事件を追いかけてるなんて」
ごく最近聞いたような台詞だ。
「世の中の男に見る目がないのか、本人にその気がないだけなんでしょうね」
瀬峰はおかしそうな笑みを浮かべてコーヒーカップを手に取り、口元へ運ぶ。
「……先生」瀬峰がコーヒーカップを置いたのをきっかけとしたように、理真が意を決した表情で、「ひとつ訊いてもよろしいでしょうか」
「今度は何?」
「『いろは殺人』の、警察は公式に認めているわけではありませんが、便宜上こう呼びましょう。その一連の事件の二番目の被害者、六田
「どうしてそんなことを」
瀬峰の視線が鋭くなった。気のせいか?
「御存じでしたよね」
「……いえ、見ず知らずの人です」
「六田は、先生のクライエントのおひとりと浅からぬ関係であったという情報があるんです。そのクライエントから先生は六田のことを聞いたことがあるのではないかと」
「もしかしたらそんなことがあったのかもしれませんね。でも、記憶にありません」
「先生はクライエントの話した事柄を全部憶えていらっしゃるそうですね。クライエントが苦しみを吐露する中、憎く思っている人間のことを口走ってしまうこともあるでしょう。特にそんな強烈な内容は、忘れるはずないのではありませんか」
「クライエントの誰かと話しをしたんですね。困ります。診療カウンセリングを受けている人に殺人事件の聴取をするなんて」
「その人はことさら抵抗もなく話してくれましたよ。先生のカウンセリングの
瀬峰は、今度は気のせいではない鋭い目で理真を見つめ、
「とにかく、そんな人のことは知らないし、今後クライエントに聴取するようなこともご遠慮下さい。場合によっては、正式に抗議させていただきますから」
最後の言葉は、警察官である丸柴刑事に顔を向けて放たれた。そしてことさら大きな身振りで腕時計を見て、
「もう時間なので失礼します」
と、レジに向かい急いで会計を済ませ、早足で出て行ってしまった。駐車場で黄色いハッチバック型のハイブリッド車に乗り込むのが見える。もしかしたら勢いよくアクセルを踏んだのかも知れなかったが、ハイブリッドエンジンによる低騒音が売りのその車は、派手にエンジン音を響かせることもなく静かに駐車場を滑り出た。時計を見ると、午後の診療開始時間までにはまだまだ時間があった。
「理真、突っ込んだね」
私は六田のことをいきなり訊くとは思っていなかったので、半ば賞賛、半ば呆れた。
「怒らせちゃったけどね。これで瀬峰さんや病院への聞き込みがやりにくくなるかもね。ごめんね丸姉」
「仕方ないわよ。でも、あの瀬峰さんの反応、やっぱり怪しいわよね。さっきの三宅さんの話からして、六田のことをクライエントから聞いていたとしたら、忘れるわけない。本当に聞いていないにしても、あそこまで怒ることないじゃない」
「でもアリバイがね……」理真は腕を組み、「丸姉、瀬峰さんの彼氏のこと、調べられる?」
「実行犯じゃないかと?」
理真は頷くでもなく、組んでいた腕を解いて頬杖を突くと小首を傾げた。
「まあ、調べられないこともないけど、瀬峰さんの周辺の人に聞き込みをすることになるから、彼女は快く思わないでしょうね。ま、嫌われついでだと思えば」
「保永さんにも怒られちゃいますね」と私。
「保永さん、報われない恋になりそうね」今度は丸柴刑事が腕を組む。「瀬峰さんに彼氏がいること、保永さんは知ってるのかしら」
「愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことはその次によい」と理真。きょとんとした私と丸柴刑事に、「ウィリアム・メイクピース・サッカレーの小説に出てくる言葉よ」
「何だか負け惜しみみたいな台詞じゃない?」
丸柴刑事、きついな。
「人を愛すること、それ自体が尊いものだって言いたいんじゃないかな。誰も愛さないよりは、たとえ失ったとしても、誰かを愛したほうがいい」
「さすが恋愛作家。甘い名言を知ってるのね」
「最初に知ったのは、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでなんだけどね」理真は変なポーズを取りながら席を立つと、「まあ、瀬峰さんに嫌われちゃったから、私と
そうだ。今日は一旦新潟へ戻るのだった。私も帰り支度をする。丸柴刑事は伝票を取りレジへ向かったが、すぐに帰ってきた。
「瀬峰さんがみんな払ってくれてたわ」
富山県警本部に戻り状況を聞いたが進展はないようだ。新潟をはじめ、各県警にも問い合わせをしたが同じ答えが返ってきた。丸柴刑事は、
理真は休憩に寄った
ついでに軽く食事をしたいと言ったので、軽食コーナーへ立ち寄る。理真が〈シーサイドエッグ〉のあのランチの量で満足するわけがないため、これは予想できた。
二人で富山名物ブラックラーメンを食べながら今後の対策を練る。(理真のことばっかり言ったが、私もお腹が空いてしまい、結局注文した)とは言っても、能動的に何か動けるわけではない。つまりは警察の捜査結果待ちだ。しかし、今回は六田のことがあったため、警察も特に微に入り細を穿ち調査をすることだろう。六田以外の人物からも人知れない過去が出てくるのか。そして、次なる殺人は起こるのか。私と理真はラーメンを完食し、車中で楽しむコーヒーを手に車へ戻った。
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