第7章 犯人は『いろは』

「この部屋は先生の?」


 丸柴まるしば刑事がソファに腰を下ろし、辺りに目をやりながら訊いた。


「はい、センターでの個室なんです。助手もいますけれど。もちろんクライエントとカウンセリングを行う部屋は別にありますよ」


 部屋は出入り口の対面に大きな窓と机。右手に本棚や資料ケース。左手には今私たちがいる応接セットと、もうひとつドアがある。


「先生」と、そのドアが開き、中から青年男性が姿を見せた。瀬峰せみねと同じように白衣を着ている。「昨日言われていたお客様ですか? お茶をお持ちします」


 言うと再びドアの向こうに姿を消す。瀬峰は、お願い、と言って見送った。


「助手の保永ほながくんです」


 そう付け足して、自分は机から椅子を引き寄せ座った。ソファのスペースは四人分しかないためだ。


 瀬峰礼子れいこ。年齢は見た感じでは二十代後半から三十代半ば。流れるような長い黒髪が艶やかだ。顔立ちも整っており、彼女を美人と称して異論を唱える人はいないだろう。化粧はほとんどしていないのではないか。そのせいか、薄く塗ってある口紅がとても印象的だ。膝頭を揃えてその上に拳を置く。足下には黒いパンプス。白衣の下はグレーのセーターとベージュのスカート。


「今日伺ったのは、こちらに通院されていた仁藤にとうさんのことをお訊きするためです」


 守田もりた刑事が手帳を取り出す。


「話は聞きました。とても残念です……」


 瀬峰は視線を落とし、ハンカチを取り出し目頭を拭った。その行為を終え、すみません、と顔を上げたのを合図に、守田刑事の質問が開始された。


「どんな患者さんだったのでしょう?」

「過去につらい思いをされて、それでも気丈に生きてこられましたが、奥さんを亡くされて心が参ってしまったんです。とてもやさしい方でした」

「何か他人から恨まれるようなことは……」

「ありえません。はっきりと言えます。あんなにいい人が殺されてしまうなんて……」


 ここでドアが開き、五つの茶碗を乗せたお盆を持った保永という助手が再び姿を見せた。ひとりずつにお茶の入った茶碗を差し出していく。


「保永昌二しょうじくんです。私の助手をやってくれています」


 瀬峰はお茶を配り終えた保永を改めて紹介した。


「保永です。よろしくお願いします」


 保永はお盆を脇に抱え、頭を下げた。少し茶色が入った髪が揺れる。線が細く端麗な顔立ち。俳優でも十分通るルックスだ。年齢は二十代半ばくらいだろう。


「では、先生、僕は隣にいますから」


 一礼した保永に瀬峰は頷き、保永は再びドアの向こうへ消えた。


「勉強をしてるんです。彼にも早く一人前になってもらわないと」閉まったドアを見て瀬峰は言うと、「あ、すみません。仁藤さんのお話でしたね」守田刑事に向き直る。

「はい。では、誰かから恨まれていた以外で、仁藤さんが殺害されるような理由は何か思いつかれますか? 例えば、大金を持っていてそれを誰かが狙っていたとか」

「それこそ考えられません。金銭的にはかなり切り詰めた生活をなさっていましたから。ここの診療代は行政から補助が出ますけれど、仕事もできず、貯金を切り崩して暮らしておられました」

「そうですか……では、韮岳にらたけという土地はどうですか? 仁藤さんがそこへ行く理由や目的などは何か分かりませんか?」


 瀬峰は首をかしげ、


「さあ。仁藤さんのお宅はご実家で、ご両親は昔に亡くなっていると聞いていました。そのご両親も富山のこの辺りのご出身だったそうですから。お子さんは亡くされた七海さんお一人だけですし、誰かお知り合いが韮岳にいるとは伺ったことはありません。そもそも、お知り合い自体、ほとんどいらっしゃらなかったのではないでしょうか」

「そうですか……」

「あの、仁藤さんは、いろは殺人の被害者として殺されてしまったと新聞で読みましたけれど」


 守田刑事が言葉を止めると、瀬峰が逆に質問を投げ、


「いろは殺人は無差別に被害者を選んでいるのでは……」と続ける。

「マスコミはそんなふうに書き立てていますが……」


 守田刑事は語尾を濁した。一連の事件が、いろはを名乗るものの手による連続殺人事件だとは、警察は一度も公言していない。警察に送られてきた犯行声明の存在も、まだ一般には伏せられている。警察が公式に連続殺人を認めてしまうと、パニックに拍車がかかると懸念しているのだ。文面まで公表しなくとも、犯行声明が送られてきたことは公にしてもよいのではないかという意見もあるが、上層部は踏み切れないでいる。

 芳賀はが以降の事件では、死体の状況や死因も報道では伏せられている。よって、瀬峰も仁藤が韮岳で死体で見つかったとしか分からないはずなのだ。しかし、一般の人たちにも、マスコミの報道やネットなどの情報でこの一連の事件は、いろは順に名字と地名を合わせて殺されている連続殺人だということですっかり通っている。現にここにこうして新潟県警の丸柴刑事も来ているのだ。『いろは殺人事件』が警察の非公認だということは、有名無実化してしまっている。


「仁藤さんに最近変わったことなどありませんでしたか? いつもよりも様子が変だとお感じになったとか」


 いろは殺人には触れないまま、守田刑事の質問は続く。


「特段そういったことはありませんでした。私たちはクライエントのどんな小さな変化も見逃さないように気を配ってはいるのですが」

「そうですか。仁藤さんは、こちらではどういった治療を?」

「治療と言いますか、カウンセリングです。仁藤さんのような方の場合は、話を聞いて心の重荷を少しでも軽くして差し上げることが大事ですから。会話することが治療といえば治療です。

 仁藤さんは、仁藤さんに限らず身内や親しい方を犯罪の被害で亡くされた方は皆そうなのですが、まず自分を責めてしまうんです。自分の行動が遠因となって、親しい人を死に追いやってしまったんじゃないかって。仁藤さんの場合は、あの日、自分がいつもより早く就寝しなければ七海さんの帰りが遅いことに気が付き、すぐに捜索願を出し、犯人に声を掛けられるよりも早く娘の七海ななみさんを保護できていたかもしれない。それとも、もう被害に遭った後だったとしても、発見が早ければ助かっていたかもしれない。そもそも、夏休みだからといって、遅い帰りを大目に見るようなことをしなければよかった。考えはじめたらきりがありません。

 それでも、奥様がご存命の頃は、お二人で重荷を分け合って何とかやってこられていたようなのですが、奥様も亡くされてしまい、一気に心に負担が来たのでしょう。最初はほとんど何もお話いただけないような状態だったのですが、徐々に世間話などしてくれるようになり、最近は、娘さんや奥様との思い出話もしてくれるようにまでなっていたんです。それなのに……すみません」


 瀬峰は再びハンカチで目頭を拭った。今度は小さくすすり泣く声も漏れている。


「ありがとうございます。……丸柴刑事や安堂あんどうさんからは」


 瀬峰の涙を見て、困ったように守田刑事は二人に質問者の立場を譲った。では、と、理真が手を挙げ、


「仁藤さんは病院までは車で通院を?」

「いえ、バスを利用されていました。運転免許はお持ちなのですが、車の運転にも支障をきたすくらい弱ってしまわれたので。もう車は売ってしまおうかな、などとおっしゃっていたことがありました」


 瀬峰の涙は乾いていたが、その目は赤く腫らしたままだった。


「仁藤さんの回りで何か不審人物を見かけたようなことはなかったですか? もしくは、仁藤さん自身からそういった話を聞いたことは」

「……いえ、なかったです。不審人物、それはつまり犯人だと」

「はい、犯人が仁藤さんを狙っていたのだとしたら、周囲に現れたはずだと思いますので」

「どうして仁藤さんが」

「警察は非公認ですが、この事件は、先ほど先生が言われたように、いろは殺人の一環である可能性が高いです。仁藤さんが狙われたのは、『に』で始まる名字だったから。もっとも、他に『に』で始まる名字を持つ人は、この富山市に限っても大勢いるわけで、どうして仁藤さんだったのかは分かりませんが」

「他の被害者の方も同じですよね。いろは、それぞれの文字で始まる名字をお持ちだった。ですが、どうしてその人が選ばれたのかは分からない」

「そうなんです。でも、今までの被害者は、調べても特に何も出てこない普通の人だったんです。でも、仁藤さんには普通ではない過去があった。娘さんを殺されているという過去が。このことが、仁藤さんの死と何か関係があるんじゃないかという気がするんです。先生は何かお気づきのことはありませんか? 仁藤さんの死と、過去に娘さんを亡くされた事件との関連について」

「申し訳ありません。何も……七海さんを殺害した犯人はまだ服役中なんですよね」

「そうです。その仲間のほうも警察で当たっています」

「でしたら、私もそれくらいしか思い浮かびません」

「仁藤さんは、体力はあるほうでしたか?」


 理真が質問の内容を変えてきた。瀬峰は少し考え込むような表情になって、


「さあ、何かスポーツをやっていたとかは聞いたことがありませんけれど。見た限りでは、体も小さく、体力があるとは思えませんでしたが、それが何か?」

「仁藤さんの体や着衣には、犯人と揉み合ったような形跡があったんです。ですので、ある程度抵抗は出来たのかと思って」

「そうだったのですか。ニュースや新聞では、仁藤さんの遺体が見つかったとしか報道されていなかったものですから」

「橋の上で揉み合いがあったようなんです」

「そうですか……難しいのではないかと思います。仁藤さんくらいの体格なら、犯人が例え女性でも、大した抵抗はできずに突き落とされてしまったとしても、おかしくないです。もっとも、私が仁藤さんを知ったのは、当然、ここへ通うようになってからですから、以前に何か運動をやっていて、格闘などの心得があったのかは分かりませんが……」

「……そうですか。どうもありがとうございました」

「すみません」瀬峰は掛け時計に目をやって、「話の切りもよいところですので、今日はこの辺りでよろしいでしょうか。クライエントが待っていますので」

「はい」理真は守田、丸柴両刑事の顔を見た。二人とも辞することに異論はなかった。

「またいつでもお越し下さい。私の体が空いていたらですけれど。……保永くん」


 瀬峰がドアに向かって声を掛けると、ややして保永がドアを開いて姿を見せた。


「皆さんをお送りして差し上げて。あ、ついでに郵便もお願い」

「はい、先生。……どうぞ」


 保永は机の上のトレイに置いてあった輪ゴムで束にした郵便物を抱え、出入り口のドアまで行くとドアを開けたまま待機し、私たちの退室を待った。



「確か、エルキュール・ポワロでしたよね、『ABC殺人事件』を解決した探偵って」


 廊下を歩きながら、保永が理真に話しかけてきた。


「はい?」突然話しかけられ、理真は小首を傾げる。

「今回の『いろは殺人事件』に対するのは、安堂さんということですか。職業探偵でいらっしゃるんですか?」

「いえ、本業は別にあります」

「差し支えなければ……」

「作家です」

「本当ですか。すみません、お名前存じ上げなくて」

「いえ、私の書くものは、女性がメインターゲットですから。映画化やドラマ化されたようなヒット作があるわけでもないですし」

「それでは、ポワロというより、エラリー・クイーンですね。安堂さんは」

「いえいえ、そんなレジェンドと並び称されるほどは……」

「何をおっしゃるんですか。謙遜はいいですけれど、ご自身もレジェンド探偵くらいの力があるとおっしゃっていただかないと。そんな弱気で殺人鬼いろはと戦えるんですか?」


 理真は足を止めた。ほぼ同時に保永も。釣られて私たちも数歩歩いてから止まり、振り向く。


「殺人鬼いろは?」と理真。

「『ABC殺人事件』の犯人は、『ABC』って名乗っていたそうですね。だから、この事件の犯人の呼び方も、いろは、でいいんじゃないかなって」

「女性的な響きですね。犯人は女性なんでしょうか」

「そんなこと、僕に分かるわけないじゃないですか。すみません、足止めしてしまって。行きましょう」


 保永は再び歩き出した。その後ろ姿を見つめながら、理真も歩みを再開する。私と守田、丸柴両刑事は互いに顔を見合わせ、二人の後を追った。



「何なんですか、あの保永っていう男」覆面パトに戻り、シートベルトをしながら守田刑事は、「まるで安堂さんと犯人との勝負を面白がっているみたいな」

「ちょっと、陰のある人ね」と丸柴刑事。「でも、いい男だったじゃない」


 確かにハンサムだ。一緒に歩いているときに近くで見ると、体は細く体脂肪も少なそうに見えた。背も高かった。白衣の下は紺色のシャツと折り目の付いた黒いスラックス。足下は白いスニーカー、あれは内履きなのだろう。何の変哲もないありふれた着衣だが、お洒落に着こなしていた。


「ほ」


 理真が窓越しに、今出てきた富山海浜クリニックの建物を見つめながら突然言った。


「はえ?」私は思わず変な声を出してしまった。「何?」

「いろはにほへと。次は『ほ』だね、保永の『ほ』」

「保永さんが狙われるっていうんですか?」


 守田刑事が運転席から振り返った。


「そんなつもりじゃないです。たまたまですよ」


 理真は視線を正面に戻した。


「富山県警でも、『ほ』で始まる地名の警戒を強化しています。この病院がある地名の頭文字は『ほ』ではありませんが、一応病院の周囲も警戒対象にしますか?」

「いえ、それで他の地域の警戒が少しでも手薄になっては困ります。その代わり、瀬峰さんと保永さんのことを調べてもらえませんか」

「あの二人が怪しいと?」

「病院、センターですか、でも言いましたが、今回初めて、普通じゃない過去を持つ人が被害者になりました。ここにこの事件解決への突破口があるんじゃないかと思っているんです。被害者の仁藤さんの関係者のことは、出来うる限り調べたい。今度は仁藤さんのご近所に行くんですよね。そこでも同じように調べます。それから、仁藤さんの娘さんが亡くなった事件のことも」

「わかりました」守田刑事は車のエンジンを掛け、「もうそろそろお昼ですね。どこかで食べますか? そうだ、ます寿司のうまい店を紹介しますよ」

「いいですね。行きましょう」理真の顔が輝く。

「理真、朝あんなに食べたのに。相変わらずね」


 助手席の丸柴刑事は少し呆れている。


「何言ってるの。富山に来て、ます寿司を食べない、もしくはおみやげに買っていかないなんて、犯罪行為に等しいからね」

「なにそれ」丸柴刑事が笑う。

「じゃあ、行きますよ」


 守田刑事がハンドルを切り、覆面パトはカラフルなブロックを踏みながら駐車場を出た。



 ます寿司は、ほとんどがお土産や自宅で食べるために購入され、持ち帰られる。よって店舗は販売のみを行っているところが多いが、守田刑事が連れて行ってくれた店は、店内に小さな飲食スペースを設けており、そこで買ったます寿司をすぐに食べることができた。笹の下から円形に象られた赤い身を現したます寿司は食欲を誘ったが、私はまだ朝食がお腹に残っていたため、丸柴刑事と半分ずつ切り分けて食べることにした。守田刑事と理真は堂々の一人前だ。理真は、二段重ねのものを選ぼうとしたが、夜はまた普通の寿司を食べるしな、などと言って一段のものを選んだのだ。全員分、守田刑事が奢ってくれた。


「守田さん、今日はどうしたね。こんな別嬪さん三人も連れて」


 店の主人にそうからかわれ、守田刑事は頭を掻いた。

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