第33話 そして、ママを見つけた。

 僕らはまた歩き出した。しばらくすると町並みが現れて、左手にリニアモーターカーの駅が見えてくる。ようやくゴッサムシティに到着したようである。人に見られると恥ずかしかったので、鼻の穴に詰め込んであるティッシュを取り出して、ポケットの中に突っ込んだ。

「光、そろそろ広い通りに出るぞ。人が多くなるから、僕の姿を見失うなよ」

 厳重に注意をして、土手沿いの道から駅へ向かう道路に出た。正面には大きな歩道橋があり、それが交差点をまたいでいる。橋の上は広場になっているみたいで、にぎわい方も半端じゃなくて、あちこちでギターを抱えたお兄さんたちが歌をうたっていた。こんなところを光と二人で歩いたことなんて一度もなかったから、なんとなく物おじして歩く速度も一向に上がらない。

「わあ、きれい」

 歩道橋の上ではあちこちで、お店開きをしている。地面に紫紺の布を広げて、その上にアクセサリーなどを並べていた。こういうのはサンサンシティでは珍しかったから、光が興味を持つのも無理はないと思った。

 リングやネックレス、バックルにピアスなども置いてある。光はその前にしゃがみ込んで丸い目をさらに大きくした。そのうち気に入った物が見つかったらしく、ビーズのリングを手に取って、それをまるで大人がするような態度で扱った。

 僕はそこに置いてある品物に興味などなかったから、光の後ろに立ったままで、やつが飽きるのをひたすら待った。それにしても、光の選んだあのリングは大きすぎる。指輪のサイズは見栄や希望だけではどうにもならず、現実を直視しないやつの態度には、ほとほとあきれるばかりである。

 ――でも、ママならぴったりだ。

 そう考えたのには理由があった。ママの左手の薬指は根元の皮膚が変色している。なんだか傷あとのように見えて痛々しかった。それを隠すために、あの指輪を買ってあげれば、ママもきっと喜ぶはずだ。だけど僕にはお金がない。それを思うと、情けない気持ちでいっぱいになった。

 そんなとき、お店のお兄さんとまともに目が合った。それに驚いて僕はひどくためらいがち。はっきり言うが、お兄さんの人相はかなり悪かった。

 見つめられると僕は、どうしても人見知りと警戒心のはざまで揺れる。顔中に張りついた無精ひげが、どことなく不潔そうに思えたし、全体の印象はまるで、ゴマを振りかけたタワシのようである。近所で飼われている猫のコロ助よりも、明らかに見てくれが悪いと証言したい。そんなお兄さんがしきりに、こちらをにらんでいる。僕は無言の圧力を感じていた。

 そのうち光のやつが、「お兄ちゃん、そろそろ行こうか」などと言いながら、歩き出してくれたので、ほっとした。だけどこいつはどこまでも身勝手なやつで、今度は先を急いで僕の手を振りほどいた。

「手を離したら、だめだぞ」

 そう言いながら、光のあとを懸命に追いかけた。階段のところでようやく捕まえて、そのまま通りに向かって並んで歩く。歩道橋を下りるころにはやや辺りが暗くなり、それに気づくとなんだか少し、不安な気持ちになる。そんな僕の思いが光にも伝わったらしく、しばらくすると、光のやつもおとなしくなった。

 つないだ手から伝わる鼓動が、随分はやい――パパに会える、それは僕らにとって大事件だったから、手のひらに浮かぶ汗さえも、僕のものだか光のものだか、よくわからなくなっていた。

 やがて広い交差点に差し掛かった。あの角を曲がれば、パパの仕事場はすぐ近くにあるはずだった。ここまで来ると、記憶の中からいろんなものが飛び出してきた。

 右手にはれんが造りの建物が見えた。そこに立つ、古ぼけたドアの表面には薄い木目の模様が刻んであった。おそらく近づけば、ドアのすき間から、香ばしいにおいがこちらへ流れてくるはずだ。その奥にあるパンを連想すると、とたんにママの顔が脳裏に浮かんだ。

 そう言えばいつもママが、ここでパンを買ってくれたのを覚えている。

 パパの仕事場までは、もうそれほどの距離があるわけではなかったから、紙袋の中にある焼きたてのパンが冷める前に、僕とママは目的の場所に到着した。確か仕事場はビルの二階だったように思う。

 思い出を一からなぞっていると、まだ着いてもいないのに、壁の色までが鮮やかによみがえってきた。通りからは二階の窓が四枚、見えるはずだ。そこにはペンキで描かれた文字が載っている。僕はいつもそれを見上げながら、なんと読むのかわからずに、頭をひねりながらしばらく考えた。そんな余裕が僕にあったのは、ママもやっぱりそこで足を止めてわずかな時間、視線をあの窓に向けたままで、動こうとしなかったからだ。

 仕事場へ向かうには、ビルの左端にある通路を使う。入るとすぐに階段が待ち構えていた。階段を上るときにはいつもママが先へ進み、二階の踊り場まで行くと、ようやく入り口に行き当たる。ドアをノックするのも、やっぱりママの役目で、僕は後ろに隠れてパパが現れるのをひたすら待った。

 しばらくすると、ドアのすき間からパパが顔を出す。それからすぐに、「よお」なんて声が聞こえてきて、パパの手がこちらへ伸びてくる。やがてパパは乱暴に、僕の頭を揺らしながら、「元気だったか」そう言ってから、「大きくなったなあ」と続けるのが僕らのあいさつである。あのとき横にいたママは、いったいどんな顔でそれを眺めていたのだろうか、想像しようとしてみても、ママの顔が僕には思い出せそうになかった。

「お兄ちゃん、どうして行かないの」

 隣の光が僕を呼んでいる――言われてみれば、僕は立ち止まったままで、一歩も動こうとはしなかった。視線だけが先へ進み、遠い記憶の中を探っている。

「帰ろうか、光」

 光の顔をのぞき込んだままで、つぶやいた。

「なぜ帰るの」

 僕は光の質問には答えられず、顔を上げて前方の人混みに視線を据えるだけである。

 なぜならビルの前に立つ男の人には、見覚えがあった。

 白いワイシャツとグレーのスラックスを着た男性で、銀色のめがねと薄めのまゆが印象的な人――それがパパであることは遠目にもわかっていたが、ひどく怒っている様子だったので、僕の足はすくんでしまい、どうにも近寄ることができなかったのだ。

 パパは目の前にいる女の人に向かって、どなり声をあげている。前にいる女性も負けずに大声を出し、行き交う人たちは二人の様子に驚いて、遠巻きに眺めるだけが精いっぱいである。怖かったけど、前に何度もこんな光景を見たことがあったから、僕は驚かなかった。

 そんなとき、光が僕の手を強く握って訴えた。

「パパはなぜ、ママに向かって怒っているの」

「理由はよくわからない。だけどもう、僕らは前には進めないんだ」

「どうして?」

「どうしてもだ。とにかく駅へ戻ろう」

 僕らは来た道を戻ることにした。ゴッサムシティの駅に向かって、歩き出した。駅までの道のりも、そこにある風景も僕はよく覚えている。古い記憶がまた、頭の中で悪さした。

 道路の両側にはイチョウの木が整然と立ち、このまま進めばやがて、大層な構えをした図書館が現れるはずだ。正面にはふじ棚があり、その下にはベンチが四つ、そこを右に曲がれば、ガソリンスタンドが見えてくる。交差点に面したこのスタンドはいつ来ても盛況で、前には絶えず、たくさんの車が止まっていた。

 あとは二十メートルほど、まっすぐ歩く。

 すると右前方に駅の建物が現れて、そこへ続く歩道橋を上り、下りたところにはバスターミナルがある。この辺りは人通りがめっぽう多いため、うっかりすると、突き飛ばされそうになるから注意をする必要があった。人込みを越えると階段が見える。その先は改札へと続く通路に出た。

 僕らは階段を上りきったところで、立ち止まった。

「ここでママを待つことにしよう」

 壁にもたれると背中がひんやりと独り言、周囲の景色がどうやら怪しくて、まるで雨上がりのように揺れていた。

 駅へ向かう人が、すぐそばを通っている。

 だからしかたなく、僕らは幾分、壁のほうに身を寄せた。人込みの中で空気が汗をかき、頭の中はまるで、アンテナの壊れたテレビのようである。ターミナルを通過するバスのエンジン音が、ここにしゃがんでいてもよく聞こえた。駅のアナウンスもそれに混じって耳に入ってくる。だけどなんだか耳の奥が痛くて痛くて、どうしようもなくて、鼻の根元にも違和感があった。そんな状態だったから、僕は昔のことをまた、思い出した。

 強いはずのママが、僕のベッドに潜り込んできたことがある。あのとき僕は一言もしゃべらずに、ママの体にそっと手を添えていた。背中がわずかに震えていたのを、今でもよく覚えている。そのせいで、理由もわからず不安がつのり、僕は一晩中、眠れなかった。だけどママにだけは起きていることを知られるのがいやだったから、まぶたを下ろして寝たふりを決め込んだ。

 あの夜はきっと、ママも眠らなかったはずだ。ときどき薄目を開けて、様子をのぞいていたからまちがいない。そんなことを思い出しながら、通路を歩く人たちの姿をただボンヤリと眺めている。すると隣にいる光のやつがどうやら退屈であるらしく、僕の腕を何度も強く引っ張って話しかけてきた。

「ねえ、お兄ちゃん」

「なんだ」

「さっき車に乗せてくれたお兄ちゃんとお姉ちゃんって、昔のパパとママにそっくりだったね」

 パパとママが離婚したのは、五年前である。八歳の光が昔のパパやママのことを詳しく、覚えているはずなどなかった。

「僕は小さかったから、パパとママが一緒にいたころの記憶なんて、ほとんどない」

 そう言ってやると、光は返事もできずにうつむいた。

「おじちゃんは大丈夫かなあ。わたしはあのおじちゃんのことが、大好きなの」

 都合が悪くなるとこいつはすぐに、話題を変える。

「おじちゃんはきっと、大丈夫じゃない。それよりもお前は本当に、ダーリンと話ができたのか」

「うそじゃないよ。離れていても、ダーリンが頭の中に話しかけてくるの」

 とても信じられない話ではあったが、光のやつは真剣なまなざしで僕に向かって訴えかけている。

「それじゃ聞くけど、フュースはまちがいなく、ダーリンのパパなのか」

「そうだよ。それにフュースはとても優しいから、ダーリンはパパのところへはやく帰りたいよって、毎日、泣いてるの」

 光はうそをつくときに、目玉を左右へ動かす癖がある。それを確かめようとしたが、思い直して結局やめた。光の言うことを、せめて兄である僕だけは信じてやりたいと思った。

「ダーリンもパパに会えればいいのになあ」

 僕は勇気が足りなくて、パパの前に立つことはできなかったけれど、ここまで来て本当によかったと思っている。決心したおかげで、優しい人たちとの出会いにも恵まれた。それを思うとほんの少し、気持ちが軽くなった。気分を変えるために、大きくのけ反って伸びをした。光のやつまでが、僕を真似て同じようにしている。

 それからしばらくの間、僕らに会話はなかったんだけど、体を寄せ合いながら、ママが来るのをひたすら待った。やがて通路の奥にある時計が七時半を指したころ、光のやつがいきなり立ち上がって僕を驚かせた。

「ほら見て、あれってママじゃないの。きっとママだよ」

 階段を上るママの姿を、発見した。お出かけするときのママは普段とはまったくちがう。ベージュのブラウスにチェックのスカートが、よく似合っている。髪の毛は編み上げてあり、細い首が周囲から浮き出るほど真っ白で、やっぱりパパの言ったとおり、ママはメークがうまいと感心した。

 そのうちママも僕らに気づいたようで、慌ててこちらへ走り寄ってくる。すぐそばまで来ると、乱暴に僕の体を引き寄せた。

「パパのところへ来たの?」

「ちがうよ。パパのところへ来たんじゃない。ママをずっと待ってたんだ」

 それを聞くとママはほんの少しうつむいて、次に顔を上げたときには一等、うれしそうな顔をした。

「遅くなってごめんね、卓」

 背中にあるママの手が、なんだかすごく温かくて気持ちよかった。

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