第31話 自然界には不可解な事が多すぎる。

 ようやくお姉さんから解放されて、トイレを出た。そのまま野獣のお兄さんのそばに近づくと、やっぱり冷たい視線で見られがち。

「なんだお前、その頭は――」

 僕の髪型はいまだに縛りが入り、しかもどういうわけか一本松、もちろん気に入っているわけではなかったが、そばで見ているお姉さんの手前、これを拒否することはさらさらできず、どこまでもシャイな気分でお兄さんの横に腰かけた。

 隣にいる光が微妙な態度で接してくる。まるで宝塚歌劇に見入るかのようなその視線に対して、僕は少なからず傷ついていた。

「浩、ついでに買い物もしたいから、もう少しそこにいてね」

「なんだよ、それ」

 お兄さんが大きな声で不平を漏らしたが、ハンターなお姉さんのほうはそれをあっさりと無視、どこ吹く風と僕のほうに視線を移した。

「君はその間によく考えること、わかったね」

 いったいなにをどう思案しろと言うのか、この髪型だと毛根の健康にも極端に悪いだろうし、おまけに正常な判断さえもおぼつかない。だけどそれを顔に出すのはまずかったので、にっこりと微笑みながら素直な態度でうなずいた。

「えらいえらい」

 それでようやく、お姉さんは背中を見せた。片手をあげてさようなら、僕らを残してさっさと店内に姿を消した。

「お前な、いつまでその格好でいるつもりだ。恵のやつがいなくなったんだから、もうそろそろゴムなんて外せ。気持ちが悪くてしかたがない」

 返すことばもなかった。

「恵はお前の髪型のことなんて、もう覚えてないぞ。そういうやつなんだ。今のままでいるほうが、ずっと話の種にされる恐れがある」

 どうやら経験者が語っているとしか思えなかった。お兄さんの髪の毛が一本縛りになったときのことを想像すると、なんだかとてもおぞましい気持ちになった。

 そんなとき、光の様子がおかしいことに気がついた。やつはお兄さんに向かって、すばやいまばたきを繰り返している。あの様子から判断すれば、なんらかのアプローチを試みていることは明らかで、しかもその動作は人間業とはとても呼べず、どう考えてもパラサイトなしぐさとしか思えなかった――なんてやつだ。

 そのうち、「ちょっと待っとけ」などと言いながら、野獣のお兄さんは席を立つ。近くの自動販売機に向かって、歩き出した。光はそんなお兄さんの後ろ姿をじっと、目で追いかけていた。

「なぜあのお兄さんばかり見てるんだ」

「だって、ワイルドでかっこいいんだもん」

 どうやらこいつは、野獣のお兄さんのことが気に入ったみたいである――自然界にはわからないことが多すぎる。

「言っとくが、あのお兄さんにはデリカシーのかけらもないぞ」

「いいのいいの。女の子はちょっと、不良が好きなの」

 なんて生意気なやつなんだ――しばらくするとお兄さんが缶ジュースをさげて戻ってくる。「ほら、飲め」などと言いながら、僕に向かってジュースを手渡してくれた。表示を確認すると、成分は果汁が二十パーセント、体にはよくないが甘くてのみやすい飲み物にはちがいない。だけど僕の家の冷蔵庫に入っている物は、すべて果汁が百パーセントだったので、これを飲むことには多少の抵抗を感じてしまう。

「ありがとうございます」

 たとえ品物が気に入らなかったとしても、やっぱりお礼を言うのが礼儀だと思うし、それになんだか気まずい雰囲気でもあったから、僕のほうからうち解ける必要性をひしひしと感じていた。

「ゴッサムシティにおやじがいて、母親はサンサンシティに住んでるというわけか」

 お兄さんはタバコに火をつけて、煙を吐き出しながら独り言のようにつぶやいた。

「けど、お前だけが不幸というわけじゃないしな」

「確かにそうだと思います」

「それで、両親はいつごろ離婚したんだ」

「五年前です」

「お前がまだ小さいときだな。で、覚えてるのか、おやじのこと」

 僕は光のやつに視線を向けながら、「いいえ、よく覚えていません」そう答えることにした。

「おやじとはあんまり会ってないんだな」

「はい――」

 ほうっておくと、お兄さんはいつまでたっても質問をやめようとはしなかった――本当にしつこいやつだ。

「あの、僕のほうから少し尋ねたいことがあるんですけど、いいでしょうか」

 しかたがないので、話題を変えることにした。

「ああいいよ。なんでも聞いてくれ」

「さっき車の中で話していた、ダーリン事件のことについて、詳しく聞かせてほしいんですけど」

 いまさらではあったんだけど、やっぱりおじちゃんのことが気になった。

「ダーリン事件? ああ、テレビ局でいたずらをした、あのばかの話か」

 確かにおじちゃんは間抜けではあったが、学歴はある。野獣のお兄さんにだけは、ばかにされたくないだろうと予想した。

「で、いったいなにが知りたいんだ」

「テレビ局を乗っ取った人は、いったいどんな処罰を受けるんでしょうか」

「さあな。底抜けのばかみたいだから、死刑にでもすればいいんじゃないの」

 ――やっぱり、そうなるのか。

「それじゃあ、もしも共犯者がいた場合、その人はどうなるんですか」

 どきどきした。

「そいつも死刑だろうな」

 ――そんなばかな。

「本当に、共犯者も死刑ですか」

 生きた心地もしない僕に対して、お兄さんは遠慮もせずに手刀を顔の前に置き、それで首を左右に切断する真似をした。「きいいい」

「そんなのって、ダーリンがあんまりかわいそうじゃないですか。無理やり連れて来られた上に、助けようとした人まで死刑になるなんて、どう考えてもおかしいと思います」

 必死な僕の顔を、お兄さんがじっと眺めている。

「あのな、風呂上がりには必ずヘアトニックを使え。それを毎日、繰り返すことで、多少は頭が柔らかくなるはずだ」

 あんまりだ。

「死刑なんて、冗談に決まってるだろ。これだからガキと話すのはいやなんだ。なんでも説明しないとわからない。最悪だ。誰か替わってほしいよ」

 お兄さんは両手を広げて、首を振った。どうやら僕とはバイオリズムが合わないらしい。

「お願いですから、まじめに答えてくれませんか。僕にとっては重要なことなんです」

「子どものくせに、お前って変にきまじめなところがあるよな」

「よく言われます」

 ――なぜ知ってるんだろ。

「大した被害も出なかったみたいだから、一週間くらいは拘留されるだろうけど、その程度のことだと思うよ」

 よかった。

「ところでもう一つ、お聞きしたいことがあるんですけど、いいでしょうか」

「まだあんのかよお」

 野獣のお兄さんは相当ご機嫌斜め、だけどこれが一番肝心な質問だったから、ここでやめるわけには当然いかなかった。

「ニュースでは共犯者がいるとか、そんなことを言ってませんでしたか」

「さあな、よく覚えてない」

 心配だ。

「恵のやつ、いつまで待たせる気なんだ」

 お兄さんがまたタバコに火をつけて、ひどく不機嫌そうな顔をした。

「それにしても、お前ってさ、なんか足りねえよな」

「どういう意味ですか」

「母子家庭なんだろ。普通そう言う環境で育つと、もっとたくましくなるもんだろうが」

 笑うしかなかった。

「まあいいけどよ、どこまでいっても人ごとなんだし」

 当たり前だ――親せきになんて、絶対になりたくない。 

「ところでよ。なぜそんなに、局で自爆したやつのことが気になるんだ。ひょっとしてお前、なんか関係でもあんのか」

 返事のしようがなかった。

「あれはお前がやったこととか――」

 そう言ったあと、僕の肩をつかんでけらけら笑った。

「だったら、おもしろいんだけどなあ」

 デリカシーが不足しているくせに、勘だけは鋭いなんて、おそらく偏った食生活のせいにちがいない。

「どっちにしても、ほんとにやっかいなやつを拾ったもんだ」

 人のことを犬や猫みたいに言うなんて、絶対に許せない。

 そんな険悪な状況の中で、いきなり野獣のお兄さんが目を細めた。だらしない顔をさらに緩めて、遠くを見た。視線の先は店内へ伸びて、ガラスをはさんだ向う側には、お姉さんの姿があった。栄養が偏るとこんな風になるのだろうか――そんなことを考えながら、僕はしばし沈黙したが、そのうち野獣のお兄さんが、また僕を呼んだ。

「おい、ぼうず」

「なんでしょうか」

 無視するのも角が立つので、返事をしてやった。

「ママとおやじを会わせたくないなんて、考えるな。そう言うのはやっぱり、ジェラシーだと思うし、二人の関係にお前がかかわるのは、ルール違反だ」

「そうでしょうか――」

「そりゃそうだろ。その代わり、お前がおやじに会うことも、ママには関係ないわけだ。いつまでも、ママ、ママ、なんて言ってんじゃねえぞ」

「わかりました」

 なにが言いたいのか、理解に苦しんだ。自分もママと言うくせに、僕のことばじりを押さえて説教する、その辺りがどうにも納得できず、心の中でひどく憤慨した。ただし僕にはもう一つ気になることがあったので、それを確かめるために、心ならずもお兄さんとは会話を続ける必要があった。

「あと一つ質問しても、いいでしょうか」

「いいよ」

「ひょっとして、お姉さんとは恋人同士ですか」

 なんだかどきどきした。

「恵のやつがなんて言うかわからんけど、少なくともおれは、そう思ってる」

 思い過ごしにちがいない。厚かましいにもほどがあるし、その座り方だってだらしがない。片ひざを立ててベンチに腰かけるような人を、初めて見た。

「恵は高校の後輩なんだよ」

 やっぱりそうか――確か中学校の手引書によると、後輩は先輩の言うことをよく聞くようにと記してあった。

「あいつって保母さんだからさ、子どもが好きで好きでしょうがないんだろうな」

 お姉さんには微妙な職業だと思う。髪型に対するこだわりが、強すぎる。

 それからしばらくの間、お兄さんのくだらない話につきあわされた。やがてハンターなお姉さんが戻ってくると、野獣のお兄さんは立ち上がって、「なあぼうず――」などと言いながら、乱暴な動作で僕の頭を胸のあたりに引き寄せた。「ゴッサムシティへ行けよ。おやじにただいまって言ってこい」そんなセリフを、しきりに耳もとでささやいてくるんだから、驚かされる。

 それにしても、クサい。どこかでにおう。アレルギー性鼻炎としか思えなかった。そんな僕らの様子を見て、お姉さんがうれしそうに微笑んでいた。

「二人で内証話なんかして、いったいどうしたの。そうやってるとまるで、兄弟みたいだね」

 ――迷惑な話だ。

「それで――君はいったい、これからどうするつもり?」

 僕の決心はまだ少しやわで、今にも崩れそうではあったんだけど、正直な気持ちを言えば、やっぱりパパには会いたいと思う。

「どちらを選んでも後悔するんなら、やってしまったほうがいいかもね」

 そう言われて僕は、駐車場の外に目をやった。道路はいまだにこみ合っている。車が流れている様子はなかったが、進むべき道はどうやら向こうにあるらしい。

「ゴッサムシティまではまだ、だいぶあるんでしょうか」

 僕が尋ねると、野獣のお兄さんがにやりとした。

「すぐだよ。そこの土手沿いの道を歩いていけば、十分くらいで着く。最後はやっぱり、自分の足で行けよ。おれたちだって、忙しいんだ」

 駐車場の裏手には出口があった。出口の向こう側には、川沿いの道があるようだった。

「どうも、お世話になりました」

 丁寧に頭を下げてから、裏の出口へ向かった。光と一緒にそのまま進んだが、駐車場を出る前に足を止めて、振り返った。

 お姉さんたちはいまだに、僕らを見送ってくれている。親切にしてもらって、本当にありがたいと感謝した。僕はあの二人のことを一生、忘れたりはしない。お姉さんの名前は確か、恵。それから野獣のお兄さんは、ええっと――だめだ、やっぱり思い出せない。しかたがないとあきらめて、記憶の中からお兄さんの顔を、そっと消した。

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