第30話 新たなトラウマが、胸のうちで産声をあげた。

「今日に限って、なぜこんなに混んでるんだ」

 豪快にほえるエンジン音とは裏腹に、車は一向に前へ進まなくなった。こうなるとパパと会う前にママを見つけるなんて、もはや絶望的である。だとしたら、ゴッサムシティへ向かう意味さえもなくなってしまう。

「見通し暗いみたいだね。ボイラーだって、役立たずだったし」

 お姉さんが僕に対して、申し訳なさそうな顔をした。

「いいんです。それにやっぱり、サンサンシティへ帰るほうがいいのかと考え直しました」

 そんな僕のことばに対して、野獣のお兄さんがすぐさま反応した。

「なんだとお前、今ごろから引き返せなんて言われたら、おれは暴れるぞ。笑えねえ冗談だ」

「近くの駅で降ろしてくれたら、それで構いません。勝手に帰りますから」

 そう言って下を向くと、お姉さんが僕の顔をのぞき込んで、「ふぅん、そっかあ」などと言いながら、なぜか一人で納得顔である。そのあと、「浩ぃ、そこのコンビニへ入ってよ」急にそんなことを言いだして、それを聞いたお兄さんは逆らうこともままならず、道路脇にある駐車場へ急いで車を乗り入れた。停車したとたん、お姉さんは早速、車から降りて、細い首を左右に振りながら、しきりに辺りを見渡した。

「すぐに戻って来るからさ、どっかその辺で待っててね」

 お兄さんに向かってそう言ったあと、今度は僕のほうに視線を移した。 

「君はわたしと一緒に来るんだよ」

 こうなったら僕にしたって、言われたようにするしかなかった。

 お姉さんが向かった場所は、店の裏手へ続く細い路地である。野獣のお兄さんは、自販機の横にある鉄のベンチに腰かけて、僕らを見送っていた。どんどん先へ進むお姉さんはまったく後ろを気にもせず、置いていかれそうになった僕は、必死にあとを追いかけた。

 通路へ入るとすぐに、男子トイレが見えた。突き当たりには女子トイレがある。お姉さんはここでもさっさと、ドアの向こうに姿を消した。こうなると僕としては、いたたまれない状況になる。無断で女子トイレに入るわけにもいかず、昼間にしては暗すぎる通路に立って、お姉さんが出てくるのをひたすら待った。やがてお姉さんがドアから顔だけ出して、僕を呼んだ。

「なにをしてるのよ。はやくおいで」

 そう言われても、僕はただもじもじするだけが精いっぱい、するとお姉さんが近づいてきて、「ほらほら」などと言いながら、僕をトイレの中に連れ込んだ。正直に言って、非常にまずい状況である。手洗いの前で直立不動、身動き一つの余裕どころか、呼吸でさえも危ない感じ。

「ここでオシッコをするなんて、僕にはとてもできそうにありません」

 言っとくが、尿意がまったくないという意味ではない。こういう場合、臨機応変ということばは適切ではなくて、TPOがより大事になってくる。僕は女子トイレでは用を足せないタイプである。

 そんな僕を尻目に、お姉さんがくすりと笑う。

「なにもここでオシッコをしろなんて、言ってるわけじゃない。そう言うのはあとからセルフでやってくれる」

 だったら僕に、いったいどうしろって言うんだ。

「ほら、向こうにいる君の顔を、のぞいてごらん」

 そう言いながら、お姉さんは壁に備えつけられてある鏡を指さした。正面には緊張感でいっぱいの僕がいる。その横にはなんだか、楽しそうなお姉さんの顔が映っていた。

「少しおかしくない?」

 質問の意味がよくわからなかった。

「女子トイレにいること以外、異常はどこにも見あたりません」

 僕の答えをお姉さんはあっさりと無視、返事もせずに、手洗いのそばに近寄った。片方の手にはピンク色のハンカチが握られている。それを濡らして、こちらを向いた。

「君ねえ、泣いたあとがあるよ。そのままだとどこへ行くにも、ちょっと恥ずかしいかも」

 そんなことを言いながら、僕の顔に濡れたハンカチを近づけた。優しい手つきでぬぐってくれる。そのあと耳もとに口を寄せ、小さな声でささやいた。

「ゴッサムシティには、行ったほうがいいと思うんだけど」

 すぐそばにアロマの香りがあった。それが鼻先をくすぐるたびに、心臓は何度か停止した。辺りは薄暗い。裸電球一つしかないトイレの中で、出口の向こうからは虫の声がかすかに聞こえてきた。

「行きたくないのと行かないのとではまるでちがうから、自分がどうしたいのか、それをもっとよく考えてみたらどうかな」

「パパに会いに行けと言うことですか」

「行けって言ってるわけじゃなくて、ママはパパと会うべきだし、君もやっぱりそうしたいんなら、我慢しないほうがいいと思うの」

 僕は自分の気持ちがよくわからなかった。誰かを思えば、ほかの誰かを忘れる必要がある。そんな気がするもんだから、答えを出すことにはためらいがちだ。

 しばらく黙っていると、またお姉さんが、ハンカチを濡らすために手洗いの方向へ体を寄せた。そのとき水道から漏れ聞こえる音がある。それが鼓膜を揺らすたびに、僕はなんだか切ない気持ちになった。

「さあ、きれいになったよ」

 そう言ってから、お姉さんが僕の頭に手を置いた。長い指を前髪に絡ませる。それがとても心地よかったので、僕はされるがままに目を閉じた。

「君って、なかなかハンサムだよね。額の形も悪くない」

 お姉さんが僕の顔に、ほおを寄せてくる。だけどしばらくすると、様子がおかしくなった。「うぅん、なんだかしっくりこない」などといいつつ、うなり声――不審に思った僕が鏡の中をのぞいてみると、お姉さんはまゆを寄せながら、ひどく思案顔である。

「やっぱり、この髪型がダサイのかな」

 おかしい――先ほどまでの雰囲気はみじんもなくなって、なんとなく不安な予感が身に迫っている。僕は体を固くしながら、お姉さんの様子をうかがった。お姉さんのほうは、しきりに何かつぶやきながら、首をひねっては頭の上げ下げを繰り返している。そのうち決心がついたらしく、細いあごを小刻みに動かしたあと僕から離れ、おもむろにバッグの中に片手を入れた。なにやらごそごそと探りだし、やがてそこから取り出した、ゴムのような物を口にくわえて、また僕のそばに近寄ってくる。

「動くなよ」

 さっきまでとは、声の色までが微妙に違う。あぜんとする僕を尻目に、すばやい手つきで髪の毛を引っ張り上げる。そのあと鏡の中をのぞき込みながら、満足そうに頷いた。

 今の状況を正直に告白すると、髪の根元には相当、激しい痛みがある。

「アップにすると、やっぱりかわいいかも」

 鏡の向こうにいる僕は髪の毛を一つにまとめられ、ゴムがしっかりとそれをくわえている。決して緩まない頭皮に対して、恨めしい気持ちをさんざん込めながら、見つめるだけが関の山――お姉さんはそんな僕に気づきもせず、きゃっきゃっと騒ぎながら、あくまでも上機嫌な態度で迎えてくれた。こうなってしまうと、今の雰囲気を壊すようなことばは当然吐けず、現状維持を貫く以外に僕の選べる道は残されていなかった。

「君って、こんな風に髪型を変えると、まるで女の子みたいだね」

 そのことばがとどめの一発である。新たなトラウマが、胸のうちで産声をあげた。

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