第27話 僕らの顔と名前は、全世界に知れ渡った。
どうやらビルの裏手のようである。僕らでさえも窮屈を感じるほど、狭い路地に出た。あちこちにごみ箱が転がっているせいか異臭が強く、毒ガスのおじいさんと同じようなにおいがした。見上げてみると青空は見えたが、建物のすき間からのぞく細長い長方形の空しかなかった。
「ここはいったい、どこなの」
光がそんなことを言いだしたとき、突然、物音がした。そこらにいたのら猫が僕らに気づいて、背後へすばやく逃げ出したのである。
「こっちだ。行くぞ」
車が見える方向に歩き出した。通りに出ると、もうすでに太陽は西へ傾き始め、正面のビルにかけられたデジタル時計が、三時半辺りを指していた。左手にはAAA局の玄関が見える。そちらへ進めば、リニアモーターカーの駅に出るはずである。ところがビルの前にはいまだに、何台かのパトカーが止まっていた。それを見てしまうと、駅へ向かうのが怖くなった。
「光、このまま帰ったら、ママにこっぴどくしかられるぞ」
「どうして?」
「局のカメラを勝手に使ったんだから、言い訳のしようがない。その上、おじちゃんは自己紹介までした。おかげで僕らの顔と名前は、全世界に知れ渡ったんだ」
「どうしよう、お兄ちゃん」
光のやつにもようやく、事態の深刻さがのみ込めたらしい。
それにしても、不思議だ。追い詰められると哀れなおじちゃんのことを思い出した。あの人がいれば、役に立つことも確かにあった。それにこんなことになるんなら、せめて財布くらいは預かっておくべきだったと、後悔するばかりである。
「おじちゃんの冥福を祈ることにしよう」
僕らは静かに黙とうした。
「あっ、パパ」
そのとき光が、いきなり叫び声をあげた。しかもそのあと、駅とは逆方向に向かって走りだした。
「待てよ、光」
すぐに呼び止めたんだけど、気づくのが遅かったために、追いかけるのが一呼吸遅れた。こんなところにパパがいるはずなんて、絶対にない。そうは思いながらも、胸の鼓動は足の回転よりもずっと速かった。道行く人が邪魔で、思うように先へ進めない。ここで光とはぐれたら、それこそ大変なことになる。
やがて前方の信号が赤に変わった。ちょうど光が横断しようとしている交差点である。
「渡っちゃだめだ」
大声で叫んでみたが僕の声は届かず、そのまま光は横断歩道に飛び出した。それからすぐに、何台かの車がやつの体をのみ込んでしまう。
「どいて下さい。僕の妹なんです。道をあけて下さい」
人込みをかき分けながら、懸命に光の姿を探している。声が震えているのが、自分でもよくわかった。だけど今はどうしようもない。その上、信号が赤のうちは、これ以上前に進むこともできず、歩道に立ったままで、背伸びをしながら視線を伸ばすだけが精いっぱいである。青に変わるとすぐに飛び出して、向こう側の歩道に立って首をまわした。すると十メートルほど先にいる、光の姿をようやく発見した。
光は地面にはいつくばったまま、大声でなにか叫んでいる。へたり込んだ場所が歩道であったから、車にはねられたわけではなかったようで、それが確認できてほっとした。
歩み寄って、小さな背中の後ろに立った。なんだか光は、すごく怒っている。「どいてどいて」周囲の人に向かって、腹立たしい思いをぶつけていた。だけどやつの声は人込みにはね返されて、思うようにならない感情だけが空まわり、そのうち光のやつは泣き出して、「どいてよ。パパが見えなくなったじゃない」
僕は声をかけることもできないまま、途方に暮れた。光の肩に手を置いて、優しい気持ちで見つめてやった。それでもやつはこちらを見向きもせずに、くしゃくしゃの顔をスカートのすそで覆ってしまう。そんな光景に思わずまゆを寄せて、光が追いかけた先をにらんでみたが、そこには見知らぬ者がいるだけで、どこをどう探してみても目当ての人は発見できず――。
「お兄ちゃん、パパだったよ。本当だよ。パパにまちがいない」
懸命に訴える光を立ち上がらせて、洋服についた泥を払ってやった。そのあとやつの腕を引っ張って、僕らは来た道をまた戻る。だけど光の歩く速度は、とにかくのろい。何度も振り返っては、後ろばかりを気にしている。そんなあいつがあんまり惨めに思えたから、横を向いてこめかみに力を込めた。あふれるものを抑え込むためには、それしかなかったからだ。
それからしばらくして、足を止めた。黙ったままでうつむくと、もう一歩も前へ進む気力でさえなくなった。そのときまた、光の声が鼓膜を揺らした。
「あっ、今度はママだよ。いったいどこへ行くんだろ」
やつの声につられて顔を上げたとたん、黒い乗用車が僕らの前を通りすぎた。後部座席に座るママの横顔が確かに見えた。次の瞬間、頭の中が真っ白になって、行きすぎた車を懸命に目で追いかける。そのあと僕は、ふらふらと頼りなく車道に飛び出した。せつな、車がこちらに向かって走り込んでくる。クラクションとブレーキの音が連続して鳴り、僕の体はあっけなく道路に落ちた。
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