第26話 毒ガスのおじいさん、いきなり登場。

 B1からB2へ、どんどん下へ向かうしか道は残されていなかった。

「どこへ行くの、お兄ちゃん」

「しばらく隠れるしかないんだ」

「そのあとは?」

「騒ぎが収まってから、逃げ出せばいい」

 それしかないと思う――B2の終点には大きな扉があった。『電気室、危険につき立ち入り禁止』そんなステッカーが貼ってある。だけど危険と書いてある割に、ドアが半開きになってるのは不自然な感じがしたし、近くには脚立と電動工具が放置されたままである。

 どうやら電気屋さんが、工事をしていたらしい。

 人の気配がなかったのは警報のベルを聞きつけて、慌てて避難したからにちがいない。電気室の中に入って隠れようかとも思ったが、のぞいてみると室内が真っ暗だったので、この中へ入ることには相当な抵抗があった。

「もう帰ろうよ、お兄ちゃん」

 背後で光が、のんきな声を出した。

「お前はなんて非常識な考え方をしてるんだ。一階のホールには警官や消防士が、たくさんいるんだぞ。そんなところへ出て行ったら、あっという間に捕まっちゃうじゃないか」

「なぜ捕まっちゃうの」

 あきれたやつだ。

「決まってるだろ、僕らが罪を犯したからだ」

「わたしたちはダーリンを助けようとしただけだよ。ちっとも悪くない。事情を話したら、みんなわかってくれるはず」

「そんな言い訳なんて、誰にも通用しないさ。しかも一階のホールにはママがいる」

 それを聞いたとたん、光は首をすくめて、あとのことばをのみ込んだ。どうやら納得した様子である。そんな光の反応は条件反射としか思えなかったが、このままではまだまだ安心できず、人が来ればすぐにでも見つかってしまうことは明らかだった。早急に隠れる場所を、探す必要がある。

 辺りをうかがうと、電気室のほうからは、すえたにおいがした。階段の隅にも、砂のようなほこりがたまっている。その上、天井からぶら下がる蛍光灯は迫力に欠け、二本のうちの一本は、カラスが羽ばたくかのように瞬いていた。やがて階段の上から、足音が聞こえてくる。

 ――まずい。どうやら工事の人が、戻って来た様子である。

「光、こっちへ来い」

 こうなってしまうと、隠れる場所は電気室の中くらいしか見あたらなかった。

「絶対に声を出すなよ」

 室内に身を置くと、光のやつが僕のほうに体を寄せてきた。よほど暗闇が恐ろしいにちがいない。僕だって同じである。思わず光の体にしがみついた。

『いたずらだってよう、まったく、人騒がせなことをするやつがいたもんだ』

『犯人は警察に連れて行かれたらしいぜ』

『バルゴンを使ったという話だから、どうせ悪ガキの仕業なんだろ』

『いいや、れっきとした大人だって言うから驚きだ』

 れっきとしているかどうかは相当疑問だが、やっぱりおじちゃんは警察に捕まったみたいである。

『ほんとに、はた迷惑なやつだな』

 ――まったくだ。

『さんざん絞られるにちがいない』

『ざまあみろだ』

 おじちゃんが助かる見込みはゼロに等しく、今となってはおとなしく成仏してほしいと願うのみである。それからしばらくすると、出口のほうがざわめいた。いやな予感に見舞われて、僕はなんとなく胸騒ぎ――やがて扉がきしんで、周囲の闇が深みを増す。次にはガチャリと、乾いた音が耳障り。

 予期しないことだった。

 ひょっとすると、工事はもう終わっていたのかもしれない。そうだとしたら、危険な電気室の扉は当然のように施錠される。落ち着いている場合ではなかった。はやく助けを呼ばないと、このままだと僕らは閉じ込められてしまう。

「待って下さい。中には人がいるんです」

 懸命に叫び声をあげた。

「どうしたの、お兄ちゃん」

 光のやつが、僕の様子に気づいて驚いている。

「どうもこうもないんだ。僕らはここから出られなくなった」

 たとえ施錠されたとしても、中からなら開くはずだと思い、ドアノブを何度も回してみたが、予想に反して扉はびくともしなかった。

「誰か、助けてー」

 自力で出ることをあきらめて、ドアを強く打ち据えながら、必死になって叫んでみた。ところが無駄な努力だけが空回り――落ち着くべきだと反省した。振り返って室内を隅々まで確認する。視界がとらえるものは、黒く塗りつぶされた暗闇だけである。その代わり、『ビーン』という不気味な音が、鼓膜に張りついたままで取れなくなった。

 しかもなんだか、変なにおいがする。

 ようやく暗闇に目が慣れてくる。室内の様子を確かめるために、うっすらと浮かびあがる影に注目した。すると部屋の隅で、なにかが動いたような感じがした。視覚ではなくて、神経が妙な気配に気づいている。やがてにおいがいっそう、強くなる。そのせいで、体中の毛穴が僕に対して激しく抗議を始めたとき、いきなり体のそばで声がした。

「閉じ込められてしまったようじゃな」

「わああ」

 僕と光は一斉に声をあげて、部屋の奥に向かって逃げ出した。

「おおい」

 背後の声が、どんどん近づいてくる。しかも光のやつが行方不明である。どうやらやつとは、はぐれたらしい。

 こうなったら自分が逃げ延びるだけで精いっぱい、懸命に隠れる場所を探しまわった。天井近くには細いパイプが、いくつも通っている。奥の壁には鉄でできた小屋のような物が、設置されていた。小屋の正面には扉が並んでいる。扉の上部にはガラスののぞき窓があり、そこからかすかな明かりが漏れてくるため、小屋の周囲だけは他とは違い、見通しが利いた。高電圧危険、そこら中に貼られてあるステッカーの意味まではよくわからなかったが、近づけば危ないことだけは、僕にしたって理解ができた。

 とにかく小屋の背後に身を隠し、しばらく様子をうかがうしか方法がなかった。

 相手はどうやら、正体不明である。幽霊、怪物、そんな想像さえも、この状況の中では十分に現実味を帯びる。いずれにしても、僕の手に負えるような相手ではなかったから、絶対に見つからないようにと注意をした。

 ただし、このにおい。

 ここまでひどい臭気は、今までかいだことがなかったし、ひょっとするとこれは、腐った肉から放たれるにおいではないかと予想をつけた。

 次の瞬間、僕の考えは最悪の事態にまで及んでしまう。

 ホラーにサスペンス、小さなころからメディアにすり込まれた虚実の経験が、思考の中で一気に爆発し、殺人、いじめ、変質者、映像は頭の中でフラッシュバック、記憶の中から出てくるものには、ろくなものがなかった。そればかりか、もしもそこらに腐乱死体でも転がっているのだとすれば、ここは殺人犯が死体を隠すために使っている部屋だということになる。

 犯人は普段、ここで生活をし、夜な夜な獲物を求めて狩りに出る、そんな想像を身近に感じてしまうと、緊張感が汗に変わって背中を無性にかきむしった。

 それはそうと、光はいったいどうしたのだろうか。

 悲鳴すらも聞こえてはこない。だけどそれも当然のことで、おそらく殺人犯にとって、光のようなタイプは扱いやすいにちがいない。簡単に、息の根を止められる。だけど光を殺したところで、犯罪者にはなんのメリットもないはずだ。僕の家は母子家庭なんだし、ママがおとなしく身代金を払うとは、とても思えなかった。

 となると、なんの目的もない殺人ということになる。

 犯人にアンケートでもとればそれなりの動機もあるのだろうが、快楽だけの殺人というものも、世間には数多くあるらしい。テレビや映画、小説なんかでも流行っている。その場合、恥ずかしい拷問なんかを被害者は受けることになる。リアルに描写している本もたくさんあるし、しかもそういった殺人での被害者は、たいてい女の人だ。

 ――ひょっとすると、僕は助かるかもしれない。

 そうは思ってみたが、よくよく考えてみれば、光が女の人と言えるだろうか、犯人の好みにもよるが、僕にはとても納得できない部分が多々あった。

「おい、あんまり走りまわると、危ないぞい」

「わああ」

 予期しない出来事だった。犯人はすぐそばにいる。暗闇の中で、快楽殺人犯の正体を僕ははっきりと見た。その姿は紛れもなく、怪物や悪魔のたぐいである。どうしてもこの手の風貌は、不利だと思う。顔中ひげだらけ、そればかりか縄文土器のようなしわが密集し、ほお骨の在りかでさえも闇の中では確認できず、そのくせ鋭い瞳がどこまでもインパクト、しかもそれは明らかに、僕の顔をにらみつけていた。

 肉の腐ったようなにおいを発していたのは、他でもないこの人の体である。それはまるで、毒ガスのような臭気であると証言したい。そのためかどうかは定かでないが、体がすくんで逃げ出すことができそうもなく、あたふたと声にならない声を発するのみだ。そんなとき、僕の横でなにかがしきりに動いていることに、気がついた。確かめてみるとそれはなんと、殺人犯に始末されたはずの光であった。

 やつはここでも、しぶとく無事だった。

「おひいはん」

 左手で鼻をつまみながら、しゃべっているため、滑舌の悪さはしかたがない。僕にもその気持ちは、十分に理解できた。

「はんら」

 僕らの会話には、意思の疎通というものが、ほとんど感じられなかった。

「お前はなぜ、逃げまわってるんだ。やばいことでもしでかしたのか」

 毒ガスのおじいさんがいきなり僕に向かって、質問を開始した。そのとたん、水虫のような口臭が鼻の穴を直撃した。僕は酸素不足のため、ただわずかにうなずくだけが精いっぱい、そんな僕を眺めながら、おじいさんは薄ら笑いを浮かべつつも、時折、鋭い視線をこちらに向けた。

「わしは自分の家なんか持ってないが、悪いことは金輪際した覚えがねえ。さっきのいたずらはお前の仕業だな。子どものくせに、ほんとに悪いやつだ。お仕置きをしてやるから、こっちへ来い」

 大変だ――毒ガスのおじいさんのお仕置きなんて、考えただけでもぞっとする。

「ひふは、ひはふんへふ」

 鼻をつまんだままで言い訳をすることが、こんなに難しいとは思わなかった。

「なにを言ってるんだ。ちゃんとしゃべれ。それともわしをばかにしているのか、もしそうだと言うんなら、絶対に許さねえぞ」

 もっともだと思う――あまりの迫力に嗅覚をあっさり、見捨てることにした。

「ちがうんです。さっきのいたずらは僕がしたことじゃない。おじちゃんという人がやったんです。そのおじちゃんも悪事がばれて、警察に連行されました。今ごろはおそらく、刑務所へ向かってる最中のはずです。僕はただ、巻き込まれただけなんです。悪いことなんかしていません」

 涙ながらに訴えた。

「ふん、悪いやつはたいてい、自分のしたことを他人のせいにするもんだ。わしはだまされたりはせんぞ。お前が来ないんなら、わしのほうからそっちへ行く。それでもいいんだな」

 まずい――この人は本物だと思う。

「いえ、結構です。やっぱり僕のほうが、そっちへ行きます」

 しかたなく一歩、前に進み出た。

「お前はわしのことを怖がってるな」

「そんなことはありません」

「うそをつけ。がたがたと震えとるじゃないか」

 僕の体は恐怖のためにタンバリン、不思議なことに、あちこちから音がした。

「怖いんじゃなくて、ひょっとしたら、犯罪者の方ではないかと思っただけです」

「なあにい、このわしが犯罪者に見えるっていうのか。許せん。ひどい侮辱だ」

「ごめんなさい。気を悪くしないで下さい」

「お前のほうこそ、犯罪者じゃないか。いたずらをして、みんなに迷惑をかけた。はっきり言うが、わしは悪人を嫌っとる。たとえ相手が子どもであっても、お構いなしじゃ」

「僕は悪人じゃないです」

「うるさい。ここまできても言い訳するなんて、見下げ果てたやつ。これからきついお仕置きをしてやるから、さっさとズボンを脱げ」

 毒ガスのおじいさんは、いきなり大胆なことを言いだした。

「それだけは勘弁して下さい」

 この人の前で、ズボンを脱ぐなんて絶対にいやだ。

「はやくしろ。でないともっとひどいお仕置きを用意するぞ」

 これほどまでの迫力には、とてもあらがいきれず、あきらめてベルトを外して、その指をファスナーにかけた。だけどやっぱり恥ずかしくてやや上目遣い、おじいさんの様子を慎重にうかがった。

「ズボンを脱ぐのに、いつまでかかってるんだ」

 まったくつけいるすきがない上に、毒ガスのおじいさんは相当、短気に見えた。しかたなくジーンズをひざの辺りまで下ろして、最後にもう一度だけお願いをした。

「これ以上は、どうしてもできません」

「だめだ」

 予想どおりの返事が返ってくる。こうなったらどうしようもなく、ジーンズを足から抜いて、脱ぎ捨てたものを丁寧にたたんで床に置いた。そんな従順な僕に対して、毒ガスのおじいさんは、「パンツもだ」などと言ってくる。あまりにむごいとしか言いようがなかった。

「いつまでもぐずぐずしてるんなら、わしが無理やり脱がしてやるぞ。それでもいいのか」

 毒ガスのおじいさんは、いらついた表情で僕に迫ってくる。

「わかりました。自分で脱ぎます」

 あられもなく恥じらいを浮かべながら、僕はとうとうパンツを脱ぎ捨てた。それを二つにたたんでジーンズの上に重ね、立ち上がると同時に前を押さえた。姿勢はあくまでも直立不動を保ちつつ、懸命に大事な部分を両手でかばう。そんな僕の姿を毒ガスのおじいさんは、悠々と眺めていた。

 ――どうしようもなく、恥ずかしい。

「次は後ろを向いて、四つんばいになれ」

 要求は徐々に、エスカレートしてくる。僕はいったい、どうなってしまうのだろうか。だけど逆らってもかなうはずがなく、言われたとおり、四つんばいになって体を固くするしかなかった。特に下半身には、目いっぱいの力を込める。

「ようし、それでいい。なかなかかわいい尻をしとるじゃないか。つるつるじゃ」

 油の抜けた手の感触が、お尻にある。おじいさんはかなり肌荒れ気味で、僕の神経は多少の痛みを拾ってしまう。だけど刺激が振り向く寸前を、おじいさんの手はすばやく移動した。

「さあて、お前の尻にどびきりのお仕置きを、ぶち込んでやる。覚悟しろ」

「お願いだから、許して下さい。なんでもします」

「だめだ。いまさら謝っても、もう手遅れだ。思い知るがいい。この悪たれぼうず」

 かけ声とともに、室内にはかん高い破裂音が二度、響いた。僕の体にも強烈な刺激が、同じ数だけあった。

「どうじゃ、これからはいたずらなんてするなよ。でないとまた、お仕置きをしてやるぞい」

 毒ガスのおじいさんはぺたりぺたりと僕のお尻をなおたたく。

「わかりました。もう二度とひきょうなことは考えません」

 体中の力がいっぺんに抜けた。それにもめげず、慌ててパンツをはいた。そのあとジーンズに足を通して、ファスナーをすばやく上げる。

「それからな、あんまりここでは走りまわるな。火事になる恐れがある」

 意外にも、毒ガスのおじいさんが常識的な発言をした。

「あそこに並んでいるのは、キュービクルだ」

 そう言いながら、奥にある鉄の小屋を指さした。

「家庭用の百ボルトとはわけが違う。弱電じゃないからのう、下手に近づくと感電死する。そのほかにも配電盤があちこちに置いてあるんだ。足もとには、十分に注意しろよ」

 なんだか妙に、毒ガスのおじいさんはこの部屋のことについて、詳しかった。ひょっとすると、ここの社員なのかもしれないと思った。

「ところでな、お前はこれからどうするつもりじゃ」

「なんとかこの部屋を、抜け出す方法はないでしょうか」

 この人ならきっと、知っているにちがいない。

「ないことはない」

 そう言ってから、おじいさんはひどく自慢げな顔をした。

「だったら僕を、ここから逃がして下さい」

「うぅん、そうだなあ」うなり声をあげながら腕を組み、やたらもったいをつけるところが憎らしい。

「お前が電気室から出る方法は、二つある。一つ目はドアの横にある、インターホンで警備員を呼ぶことだ」

 警備員、そのことばを聞いたとたん、僕はすっかりおじ気づいた。

「ふん、お前のような犯罪者が、警備員を嫌っていることは、すでにお見通しじゃ」

「もう一つの方法を、なんとか教えてほしい」

「いやだ」

 従順な僕に対して、毒ガスのおじいさんはあまりにも冷たかった。

「お前に教えてやる義理なんて、わしにはないしな」

「そこをなんとか、お願いします」

 頼み込んでも態度を変える様子は、まったく感じられなかった。

「だいたい、お前のしたことが気に食わん。あれのせいで、わしにしたって見つかるんじゃないかと心配したし、そのわしがなんで、お前を助けなきゃならんのだ」

「ちがうんです。あれは全部、ダーリンのため――」

 懸命にこれまでのいきさつを説明すると、おじいさんの態度が一変した。

「なんだと、テレビ局を乗っ取ったのは、ダーリンを助けるためだったと言うのか。ひょっとして、お前はイタコか」

 意味がわからない――だけど逆らわないほうが、穏便に済むような気がしていた。

「そうです。僕はイタコです」

 こうなったら、どうにでもしてほしい――ところがそれを聞いたときの、おじいさんの驚きようはオーバーなくらいであった。縄文土器のようなしわがすっかり伸びて、奥で光る瞳がわずかに手前へ飛び出した。

「わかった。わしはイタコを尊敬しとる。死んだ母ちゃんに会わせてもらったことがあるんでな。恩返しをしなけりゃ、わしは男じゃねえ。助けてやってもいいぞい」

 光のやつがこちらを見て笑っている。僕だっておかしかったのは事実だが、笑い飛ばすだけの勇気には微妙に欠けていた。

「協力はしてやるが、一つだけ条件がある。大人の世界ではよくあることだ」

「いったいどんな条件なんですか」

 さっきのお仕置きのこともあったし、僕はなんだか、不安で不安でしかたなかった。

「ここでわしを見たことは忘れろ。絶対に誰にもしゃべるんじゃない」

「もちろんそうします」

 言われなくても、他人にしゃべりたいとは絶対に思わない。毒ガスのおじいさんと知り合いだと見られるだけでも、僕にとっては迷惑以外の何者でもなかった。

「約束しますから、どうか助けて下さい」

「話がまとまったな」

 ――ほっとした。

「ただし口約束だけじゃあ、わしは信用せん。相手が子どもであったとしてもだ。今までいろんなやつに、だまされてきたからな」

「どうしたら信用してくれるんですか」

「わしの田舎では約束するときに、指切りしたあと、キスをする」

 そのことばを聞いたとたん、僕の五感はいきなり窒息した。

「なんだその顔は、いやならいいんだぜ」

 どうしようもなかった。首を縦に振る以外に、助かる道はない。それを見て、毒ガスのおじいさんがにたりと笑う。

「よし、これで決まりだ。わしはお前のことが気に入ったよ。息子にしたいくらいだ」

 ――迷惑な話だ。

「さあ、こっちへ来い。今から約束の儀式だ。大人というもんはな、形式にこだわるもんじゃ」

 しかたなく、言うとおりにした。すると毒ガスのおじいさんは、左手を僕の前に持ってきた。小指が立っているところが微妙にホラー、まるで中から昆虫が現れそうな指だった。「指切りげんまん、うそついたら――」陽気に歌をうたいながら、僕の指をしっかりと絡め取る。全身に鳥肌が立った。これは事故だ、そう考えるしかなかった。懸命に自分自身を慰めた。

「さあ次だ」そこからあとがなお、すさまじかった。しきりに舌で唇をなめまわし、両手で僕の頭をしっかりと確保した。いやだ――これなら病原菌のほうが、ずっとましだ。ウイルスからは、近代的な響きが感じられる。

 たまらず僕は、わずかに抵抗した。

「その態度はなんだ。助けてほしくはないのか」

 脅しとしか思えなかったが、こうなったらしかたなく、最後には観念して目を閉じた。

「ところでな、お前は肉を食うのか」

 唇が触れ合う間際になってから、今度は毒ガスのおじいさんのほうがややためらって、なんだかおかしなことを言いだした。

「嫌いじゃないです」

 そう答えると、おじいさんはなぜだか僕の体を遠ざけた。

「そうか――」 

「どうしたんですか」

 一応、聞いてみた。なんとなく、物足りないように感じてしまう自分が怖かった。

「わしはな、肉を食べるやつとは、キスなんかするのはいやじゃ。悪い病気をうつされるのは、ごめんだからな」

 きっぱりと、毒ガスのおじいさんは言い切った。

「どんな病気があるって言うんです」

 複雑な感情が胸のうちに、わき起こっている。僕は不思議と食い下がっていた。

「わしは何年か前、食品加工の工場で、アルバイトをしたことがあるんじゃ。そのとき見てはいけないものを、ついつい見てしまった」

「なにを見たって言うんですか」

「お前らが普段、食っている肉はな、あれはフュースの肉だ」

「そんなばかな」

「ばかなことが起きるのが、世の中なんだ。ダーリンはZOOで見せ物になり、哀れフュースは食用にされる。それが人間以外の動物の運命だ」

 ショックだった。考えただけでも、消化不良になる。

「キスはしなかったが、契約成立ということにしておいてやる。わしはお前のことが好きだ。イタコに恩返しをする必要もあるしな」

 割り切れない感情を持て余しつつも、とにかく僕は安心した。

「わしの名前は、田村権蔵って言うんだ。お前の名前は?」

「相川卓です」

「卓か、いい名前だ。こっちへきな」

 そんなことを言いながら、毒ガスのおじいさんは、電気室の奥に向かって歩き出した。僕と光もそのあとに続いた。

「ここが裏口だ」

 おじいさんが指さした方向には、赤さびだらけのドアがあった。扉の上には緑色の電灯が、つり下げられてある。明かりの下で、おじいさんはズボンのポケットをまさぐりだした。

「これを見ろ。ここにあるのはな、裏口の鍵だ。だからって別に盗んだわけじゃねえぞ。絶対に誤解すんなよ」

「わかってます」

「電気屋の車の中に落ちていたのを、拾っただけだ。言っとくが、わしにだって言い分はいくらでもある」

 その辺のこだわりには、素直に脱帽した。

「大事な物の取り扱いは、えらそうなことを言ってても、大きな会社ではたいていおろそかになるもんだ。そのくせ無くしても上司には決して報告しない。おかげでもう二年近く、わしはここで一人暮らしだ。よかったらまた、遊びに来い」

 不気味な笑顔だった。できることなら、笑ってほしくないと心底、願っていた。そんなことを考えているうちに、ようやくドアが開いて、向こうが見えた。踊り場には小さな蛍光灯が、取りつけられてあった。それが弱々しく辺りを照らし、奥にある階段の在りかを示してくれる。

「最後に一つだけ、聞いてほしいことがあるんだ。死んだ母ちゃんに伝言を頼む。イタコのお前なら、それくらいのことはできるだろ。母ちゃんの名前は、田村ハナって言うんだ。権蔵は元気にやってるから、心配するなと伝えてくれ」

「僕には、そんなこと――」

「なあにい、できねえっていうのか」

 いきなり毒ガスのおじいさんが、すごみだした。僕は困って視線をそらした。するとそこには光のやつがいた。やつは鼻をつまんだままで、ゆっくりと首を縦に振った。

「わかりました。伝えます」

 そのことばを聞いて、毒ガスのおじいさんがほおを緩めた。だけど最後の最後、蛍光灯の明かりの下で、見なくてもいいものまで見せられてしまう。毒ガスのおじいさんの前歯はなんと、一本もなかった。笑うとそこから、汚臭とだ液が辺りへ飛び散っていた。尾てい骨まで凍ってしまいそうな光景を前にして、僕はしばらくぼうぜんとした。

「さあ行け、少年」

 そう言いながら、おじいさんが僕の背中を押した。

「上にあるドアは、開いているはずだ。ただし言っとくが、約束だけは忘れるな。うそつきは泥棒の始まりだぞ」

 出口を見上げると、向こうからかすかな明かりが漏れてくる。それを目指して、懸命に階段を駆け上った。はやく透明な空気を吸い込みたい。僕の願いはただ、それだけだった。

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