第25話 犠牲になったおじちゃん、アーメン。

「ありがとう。卓君や光ちゃんには、心から感謝してるよ」

 おじちゃんが改まって、礼を言った。

「あとは任せろ。君たちははやく逃げるんだ」

 いきなり鋭い視線を手に入れて、人が変わったかのようなことばを連発した。

 とにかく僕らはスタジオを出た。そのまま廊下へ飛び出そうとした僕を制して、「あれを見てごらん」などと言いながら、おじちゃんが天井を指さした。そこには埋め込み型のエアコンが、大きな口を開けている。

「あそこから逃げればいい。君たちの体なら大丈夫だ」

 そう言ったあと、机に上ったおじちゃんは、器用な手つきで留め金を外した。エアコンの本体は片側がちょうつがいになっていて、それが回転すると、ふたがだらりと垂れ下がるようになっていた。

「この奥には空調用のダクトがある。これを抜ければおそらく、ビルの外へ逃げ出すことだって可能なはずだ」

 おじちゃんの言ったとおり、エアコンの奥には天井裏をはうダクトがあった。入り口の幅は六十センチくらいで、ブリキの板がシルバーに光っている。

「おじちゃんはいったい、どうするつもりなのさ」

「僕のことなんか心配せずに、今は君たちの安全だけを考えればいい」

 確かにあの中へ入るには、おじちゃんの体ではでかすぎる。そこまで考えていてくれたなんて、こうなるとおじちゃんを見直す以外になかった。そのうち光がおじちゃんに抱え上げられて、天井裏へと身を隠した。僕も机の上に立ち、足を突っ張ってダクトの中に体を入れようとした。

 そのとき、軽い疑問が脳裏をよぎる。

「質問しても、いいかな」

「なんだい」

「このダクトを抜けたら、いったいどこへ出るのさ」

 思い切って、おじちゃんに尋ねてみた。

「さあ――」

 首をかしげたおじちゃんは、アイドルがよくやるポーズを取った。

「光、はやく降りろ」

 本当にあきれてしまう。僕はキレる寸前だった。おじちゃんは後先など一切、考えないタイプである。危なく地獄の底に突き落とされるところだった。確かに空調用のダクトが、外へ向かって伸びているのはまちがいのない事実だろう。だけど高層ビルの壁から表に出られたとしても、いったい僕らにそこからどうしろって言うんだ――あんまりだ。

「僕らはゴキブリやネズミじゃないんだよ。ビルの壁からどうやって、下へ降りろっていうのさ」

 強い口調でおじちゃんをなじってやった。

「どうしたの、お兄ちゃん」

 光の額にはビー玉のような汗が浮いている。ダクトの中は、よほど暑かったにちがいない。本当に哀れなやつだ。

「ビルの五階から下りる方法は、エレベーターか階段しかない。子どもだって、それくらいのことは知ってるさ」

 おじちゃんは黙ったままで、目を伏せた。僕のことばに相当、傷ついたはずだ。それでも僕は気持ちが収まらず、荒い呼吸のままで窓際へ向かった。そこから下をのぞいてみると、今度は息が止まるほど驚いた。道路にはパトカーや消防車が、昆虫のように張りついている。その上、アリのような警官や消防士までが、今にもビルの中に突入しようしていた。

 まさしく僕らは絶体絶命である。

「行くぞ、光」

 廊下に飛び出して、目いっぱいの力で走った。そのまま一気に階段を駆け下りようとした。だけどおじちゃんはまたそこで足を止め、エレベーターのほうをにらみながら、もはや一歩も動く気配すら見せなくなった。

「なにをぐずぐずしてるのさ。はやくこっちへおいでよ」

「もういいんだ」

 そんなことを言いながら、おじちゃんはなぜか、一人でたそがれている。

「卓君、光ちゃん。君たちに出会えて、僕はとても幸せだった。それにダーリンのことも放送できたんだから、もうこれ以上、思い残すことなんてなにもない」

 また始まったかと、僕は心底あきれ果て、思わずため息をつくしかなかった。そのとたん、『チンッ』というソプラノが通路中に響き渡る。急にエレベーターのほうが、ざわつきだした。

「やつらがやって来た。君たちははやく逃げろ。たとえ捕まったとしても、僕は絶対に口を割らないから、心配しなくてもいい」

 そう言ったあと、鼻の根元に指を添え、遠くを眺めながら最後のことばを口にした。

「くれぐれも、お母さんにはよろしくと伝えてくれ」

 そんなことばを残して、おじちゃんはエレベーターに向かっていきなり突進した。『おおおお』などという雄たけびがひたすら勇ましい。『なんだお前は』そんなば声も聞こえてきた。そのあと廊下に、断末魔の悲鳴がこだました。『ぎゃあああ』あの声は、おそらくおじちゃんが発したものにちがいない。

 こうなったら、ぐずぐずしてはいられなかった。

 僕と光は階下に向かって懸命に走った。おじちゃんは一人で罪をかぶるつもりだ。当然とはいえ、最後の態度には胸を熱くするものが確かにあった。体中をカブト虫がはい回る。頭の中には、いっぱいの蚊が飛んだ――いや、だからといって安心できるはずがない。おじちゃんのことだ、簡単に白状する恐れが多分にあった。拷問されたら、ひとたまりもないだろう。

 暗い取調室、おじちゃんの前には、屈強な刑事が二人いる。汚れてはいるが頑丈な机が置いてあり、その上には白熱灯のスタンドが一つ。なかなか口を割らないおじちゃんに対して、業を煮やした若いほうの刑事は、胸ぐらをつかんで大声でがなりたてる。『吐け、吐いて楽になれ』こうなったらどうしようもない。おじちゃんは権力に対して、ミミズのように無力なはず、その上、若い婦警さんにでも尋問されたら、一も二もなく僕らの所在を語り始めるだろう。

 自己紹介のあと、さらなる拷問を望む可能性だってある。振り返ってみれば、どこまでも油断のならない人だった。

 もうすぐ一階に到着する。

 それを目前にして、ここでもやはり気が重かった。このまま行けば、ママに見つかる可能性は極めて大である。警官や消防士なら光がなんとかする。だけどママだけは別だ。小さなころからすり込まれたトラウマが、心の中できっぱりと証言台に立った。

 ひきょうなおじちゃんと恐怖のママ、あまりにも絶望的な予感だけが、頭の中を駆けめぐっていた。おりしも階段の空気は冷気を含み、皮膚の表面があわ立った。汗はしんから冷え切って、シャツをナイフのように凍らせる。

 ようやく僕らは一階の踊り場に、たどり着いた。そこからロビーの様子をうかがった。

「お兄ちゃん、いったいこれからどうするの」

 そう言いながら、光が不安げにこちらを見上げている。だけど僕は黙ったままで、向こうの人込みをじっとにらんでいた。ロビーにはたくさんの人が避難している。警官や消防士の姿もそこら中にあった。彼らを見渡すうちに、僕の視線が一瞬、止まった。そのあと呼吸困難な状態に陥った。

 確かに、ママがいた。

 あのファンデーションの厚みを、僕が見まちがえるはずがない。そう思ったとたん、立ちくらみが連続して訪れた。ふらふらと壁際までよろめいて、そこでようやくわれに返る。しばらくしてから絶望的な思いで顔を上げ、次には深いため息を何度もついた。そのとき何気なく、壁に記されてあるものに注目した。

 下向きの矢印が見え、その横にはB1という文字が刻んであった。

「光、地下へ隠れよう。僕らにはもう、それしか方法がない」

 よどんだ空気が漂うほうへ、僕と光は進路を取った。

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