第23話 恐怖のママが呼んでいる。
ドアを開けると廊下に出た。慌てる僕に対して光のやつが、どうして逃げるのかとしつこく尋ね、扱いかねた僕はただおろおろとするばかり。
「ママがもうじき、ここへやって来るんだ」
「それがなぜだめなの」
「僕らがひどいいたずらをしたからだ」
「どんないたずらよ」
口をとがらせて反論した。
「おじちゃんにだまされて、テレビ局に無断で侵入したんだぞ。ここで見つかったらママにしかられるどころか、刑務所いきだ」
ようやく光の顔も青ざめた。
「じゃあ、はやく逃げようよ。こっちだよ、お兄ちゃん」
なんだか妙に、光のやつがこの建物の構造に詳しいような感じがした――気のせいだろうか。
しかも僕のほうは、おかしな具合である。走りながらも、さっき見たママの顔が脳裏に焼きついたままで、消せなくなっている。あんな顔のママは絶対にいや、それを思うと足もとさえも危うくなった。もはや頼れるものは、光の悪知恵だけだ。遅れないようにと、ただそれだけを考えて、懸命にやつの背中を追いかけた。
しばらく行くと階段があった。光はそこで立ち止まって、こちらを向いた。
「上へ行くからね」
そう言ってから僕の手を強く握り、それからまた二人で駆け出した。上の階についたとたん、階下から足音が聞こえてくる。それに気づいた僕のストレスは、許容範囲をはるかに超えていた。
「お兄ちゃん、はやく逃げないと捕まっちゃうよ」
光のそんなことばも聞こえてはいたが、このころになると僕はもう観念したいと考えていた。頭の中を駆けめぐる妄想はすべてSMチック、はやく楽にしてくれと、内蔵までがひたすら叫び声をあげている。
やがて足音がもっと近づいてくる。息づかいまでが、鼓膜に届いている。たまらず僕は目を閉じた。そのあと力尽きて、尻もちをついた。うつむいたままで、今までの行いを深く、反省するだけが精いっぱいである。すぐそばにいる追っ手の存在を、今ははっきりと感じていた。
「卓君、やっと会えたね」
そう言われて顔を上げた。目に前に現れたのはなんと、おじちゃんである――本当にしぶとい人だ。どんな健康ドリンクを飲めばああなれるのか、そんなことまで気になった。
「いったいどういうつもりなの。僕らまでママに見つかったじゃないか」
強い口調で、おじちゃんをなじってやった。
「悪かったよ。だけど今はそれどころじゃないだろ。みんなが僕らを捜してるんだ」
――確かにそうだ。
「もうすぐここにも、やって来る。はやくどっかへ隠れようよ」
ここまで追い詰められてしまうと、生き残るために脳細胞がやたらと活性化した。辺りを注意深く見渡しながら、状況を細かく分析する。空調の音が、かすかに聞こえてきた。天井は高くて壁の色はベージュだ。逃げるにしても、左右どちらの通路へ進むほうがいいのか、それが問題である。
わかれ道に立ったままで、しばらく考えた。
左側は突き当たりまでの距離が二十メートル以上ある。その上たくさんのドアが廊下をはさむようにして並んでいた。奥にはエレベーターがあり、そちらからは物音やざわめきが、かすかに感じられる。それからすると、向こうへ進むのは危険が大である。誰かに見つかれば、僕らは即座に確保される。
悩んだ末に、あごを突き出して視線を上げた。すると目の前に見えたのが、壁に刻んである五という数字である。今、僕らがいるのはどうやら、五階であるらしい。それだけでも天の助けだった。何年か前に見学したのが、この階である。多少の覚えも記憶の片隅に残っていた。あのときの僕は、五階のフロアに上がるとすぐに、トイレでオシッコをした。ウンコもしたように思う。
トイレはエレベーターとは逆方向の、突き当たり近くにあったはずだ。この状況でしばらく身を隠すには、まさに打ってつけの場所だと言える。
「僕について来てよ」
声を潜めて、おじちゃんと光に指示を出す。通路の奥へと進んだ。通路の幅は約三メートルほどで、突き当たりまでは十メートルくらいの距離があった。正面奥には非常口と書かれた鉄の扉が見え、その手前にあるのがトイレである。中に入るといきなり換気扇がまわり出し、肌に当たる風が妙に心地よく感じられた。
個室便所のドアは、全部で六つある。
トイレの中は全体に暗くて、明かりは紫のムードランプのみである。そのせいで、おじちゃんの浅黒い顔には、おぞましい模様ができている。しかも漂う空気には芳香剤が色濃く混ざり、息を吸い込むたびに、頭のしんまでくらくらした。
それにしても、妙だ。
どこをどう探してみても、金隠しの便器がない。テレビ局では男の人もしゃがんで用を足すのだろうか、さすがにオシャレな人が多いなどと感心したが、よくよく考えてみれば、それもやっぱりおかしな話である。思い直して出口へ向かい、ドアにはられてあるステッカーを確認した。
それを見たとたん、今度は思わずのけぞった。
真っ赤な帽子をかぶったレディーのシルエットが目の前にある。それからすれば、ここが女子トイレであることはまちがいなかった。そう言えば、見学したときの僕はママと一緒にトイレへ行った――しまった。ちゃんと確認もせずに、記憶のままに動いたのがまずかった。ただしそうだとしても、僕は思い込みの勘違いだからしかたがない。光はあれでも女子だから、もちろん支障なし、ただしおじちゃんだけは、女子トイレへ入る前には十分な注意が必要だと思う。
――どう考えても変態だ。
すぐに僕らはトイレから出ようとした。だけど運悪く、廊下に人の気配がして、足音がこちらに近づいてくるのがわかった。
「大変だ。誰かが入ってくるみたいだ」
おじちゃんの声はせっぱ詰まっていた。無理もないと思う。今ここで見つかったら、おじちゃんの経歴には取り返しのつかない汚点が残る。しかたなく、僕らは一番奥の洋式便所に避難した。中から鍵を閉めて、辺りの様子をうかがった。
狭い個室の中に、三人が一緒である。便器の色はピンクで、プリントつきのトイレットペーパーが、どことなく優雅な気分を醸し出していた。便座の上に光を乗せて、それをはさみ込むようにしながら、僕とおじちゃんが向かい合う。もはや悪夢としか思えなかった。そのうちドアの向こうから、お姉さんたちの話し声が聞こえてくる。
どうやら二人いる。
直後、ばたんという乾いた音がして、お姉さんたちは個室へ入った模様である。なのに会話が途切れることは一切なくて、個室便所に入ってもなお、うるさいことこの上なかった。しかもその合間に聞こえてくる水の音はまさしく連発で、いったい何度レバーを引いたのか、それさえもよくわからなかった。少なくとも二人で四五回は、水を流したように思う。ひょっとして、お姉さんたちは一度に何度もオシッコをするのかもしれないなどと、僕は妙なところで感心した。
やがてトイレットペーパーが、カタカタと悲鳴をあげる。それからすぐに、またもや響く水流の音、僕の神経は限界に達し、この会社のオーナーがほんの少し、かわいそうに思えてしまう。
そのあと急に、いやな予感に見舞われた。
原因は前に立つおじちゃんである。顔色がどこか不気味で視線もうつろ、ここで声を出されたら大変なことになる。見つからないようにと気を遣い、おじちゃんの向こうずねを軽く蹴って、今の状況をわからせようとした。
それがなお、まずかった。
刺激が呼び込んだ偶然はあんまりで、おじちゃんのお尻の辺りからはテノールの奇音、そのあと急に個室の中が色づいて、僕はひどいめまいに襲われた。
おじちゃんが、おならをした。
きゅう覚がそれをきっちりと裏づけている。光のやつもようやく気づいた様子で、鼻と口を両手でしっかりと塞ぎ、顔中しわだらけにしながらまぶたを下ろして、においの進入をきっぱりと防いでいた。僕は思い切って、息を止めた。毛穴でさえも締めつけて、こうなったら皮膚呼吸も許さない、そんな決意でいっぱいになった。
しばらくすると、扉の開く音がした。どうやらお姉さんたちは、手洗いへ向かったようである。それでもなかなかトイレから出て行く気配を見せず、とりとめもなく話が弾んでいる。そんな決死の状況であるにもかかわらず、おじちゃんだけはどこか楽しげで、全身を震わせながら顔を真っ赤にし、懸命に笑いをかみ殺していた。
今度はお姉さんたちの会話に対して、興味津々であるらしい。
「ねえねえ、部長ってかっこいいよね。シブくって、ぐっとくるわ」
トイレの中を漂う、鼻にかかった声とおならのにおい。後頭部にトラウマらしきしこりを、僕ははっきりと自覚した。
「わたしはやっぱり仲居君のほうがいいわ。若いし、かわいいし、食べてしまいたいくらいよ」
「そう言えば、わたしも食べたいかも」
確かにお姉さんたちの会話には、心惹かれるものが存在した――それは否定しない。部長に対する評価は賛否両論で、若い仲居君の場合、いずれ誰かに食べられるにちがいない。あまりに気の毒で、こらえきれずに目頭が熱くなった。
そのころおじちゃんの態度にも、新たな変化が表れた。口もとが大きくほころんで、それでも足りずに、肩をすぼめて上体を激しく左右に振る。おそらく仲居君のように食べられたんではたまらない、というしぐさのつもりだろうけど、心配することはない。おじちゃんを食べたがるお姉さんがいるなんて、どこまでも勘違いである。冷たいようだが断言できる。
やがてドアが開閉する音が聞こえくる。ようやく辺りが静寂を取り戻した。
「おじちゃん、この状態でおならをするなんて、あまりにも非常識だ。危うく窒息するところだったじゃないか」
光でさえも、顔を真っ赤にしながら怒っている。タコのような表情からは、明らかにおじちゃんへの抗議の姿勢が読み取れた。
「ごめんごめん、こういうところは初めてだったから、ついつい緊張しちゃったんだよ」
「もういいよ。それよりも、これからいったい、どうするつもりなのさ」
僕が寛大な態度で接しているにもかかわらず、おじちゃんはどこまでも、優柔不断な姿勢を貫いた。おそらくおじちゃんは、今の状態にひたすら満足しきっている――そんな風に見えた。次に入ってくるお姉さんたちを、ここで待つつもりにちがいないと予想した。
僕は一気に、落胆した。
ダーリンの命を救うなんて言っておきながら、やっていることはまさしく変態と言ってよく、近ごろの大人を代表するかのようなその行為からは、節操のかけらも感じられなかったし、おまけにママに対して見せた、あの異常なまでの執着を思い出すたびに、怒りにも似た感情がわき上がってくる。
もう帰ろうと思う。おじちゃんとは、もはやこれっきり別行動を取りたかった。かかわりあいになるのも、絶対にごめんだ――そう決心した矢先、またもやトイレのドアが開く。
「どこへ行ったんだろうねえ。ほんとに困った人たちだわ」
「でもさ、相川さんって、男の趣味がサイテイだよね。せめて一般人のレベルくらいは、保ってほしいと思うんですけど」
「ほんとほんと、あれだけダサい男も珍しかったよね」
聞き覚えのある声だった。
どうやらトイレに入ってきたのは、受付のお姉さんたちであるらしい。声から判断すれば、一人はジュースを運んでくれた受付嬢で、もう一人は真ん中に座っていた女の人ではないかと思う。それにしても、あれからずっと僕らを探し回っていたなんて、どこかママの性格を思い出し、あまりの執念深さにぞっとした。
「ただしね、東亜大学研究所勤務っていうのは、やっぱり魅力的だわ」
「だめだめ、我慢できる範囲っていうものがあるじゃない。やっぱり容姿だって平均点は必要になってくるんだし」
「それもそうだけど、相川さんも年だから、その辺は割り切ってると思うよ」
むごい――どこまでもディープな評価に、頭の下がる思いがした。それを聞くおじちゃんのほうは、かなり悲惨な状態である。うつむいたままで、全身を小刻みに震わせていた。
確かに学校のテストでも、平均点は重要だ。だからといって、あそこまではっきり言われてしまうと、どうやって慰めればいいのか迷うだけ――ただし言っとくが、ママは平均点では決して満足しない。僕のテスト結果を見たときの、あの顔を見れば誰もが納得するはずだ。
「それよりさ、相川さんの息子さんにも驚かされたわ。浅ましいって言うの――休憩室にあったキャンデーが、全部なくなってたんだよ」
「確かに下品なところもあったけど、あの子はまちがいなく、マザコンの典型だと思う」
光をにらみつけてやった。なんで僕のせいになるんだ――あんまりだ。
「さあ、メークもバッチリ直したことだし、そろそろ戻ろうか」
「あの人たちはどうする? もう少し探してみる」
「もうやめようよ。相川さんの知り合いなら別に問題ないと思うし、これだけやれば給料分は、きっちり働いてるしね」
「確かによくやってるわ、わたしたち」
「だから、そろそろ戻りましょ」
言いたい放題のあと、受付のお姉さんたちは、ようやくトイレから出て行った。そのあとしばらくの間、おじちゃんは顔を上げることもできず、ショックの大きさがリアルに伝わってきた。そんな姿を眺めつつ、僕は重要なことに気がついた。ここはママの職場のトイレなわけで、そうなると、ママがいつここにやって来たとしても、おかしくないわけだ。
「大変だ。ママだって、ここへやってくる可能性があるよ」
それを聞いたおじちゃんの表情が、険しくなった。
「大丈夫だよ。僕らがやろうとしていることには、人類の未来がかかってるんだ。これくらいの障害なんて、つきものさ」
――なにが言いたいのか、さっぱりわからない。
「ダーリンを救う、それを忘れちゃいけないんだ」
どう考えても、忘れていたのは、おじちゃんのような気がしていた。
「まだそんなことを言ってるの。僕らはここに閉じ込められて、身動きさえもできない状況なんだよ。それなのに、ダーリンを救えるはずなんてないじゃないか」
僕がいくらなじっても、おじちゃんの表情からは妙な余裕が消えずじまい。しかもいきなり僕の肩をたたき、にっこりほほえみながら、人さし指を天井に向けた。おじちゃんの指さした方向には、換気口があった。
「もしここでバルゴンを炊けば、このビルはいったい、どんな状況になると思う?」
ここへきて、おじちゃんは犯罪者としての自覚を取り戻しつつあった。
「バルゴンの煙は瞬く間に換気口に吸い込まれ、その結果、セキュリティーにはまちがいなく異変が起こる。あちこちで警報のベルが鳴り、それを聞きつけた職員たちは、慌てて避難するにちがいない」
「そのすきに、スタジオをジャックするつもりなんだね」
僕の質問に対して、おじちゃんは両目を軽く閉じてうなずいた。
「だけどこんな個室でバルゴンなんか炊いたら、僕らだって煙に巻かれちゃうよ」
「大丈夫、バルゴンの煙はね、無毒ガスのため、目に優しいと説明書には書いてある。酸素も多く含んでるから、空気の洗浄にもなるらしい」
急におじちゃんがしっかりしてきたんだから、たまらない。そんなとき、足もとで洪水のような音がした。僕とおじちゃんは慌てて辺りを探ってみたが、ドアの向こうに人の気配はまったくない。どうやら光のやつが、トイレの水を意味もなく流したらしい。
「いい加減にしろ」
そう言ってなじったが、やつは便座の上で、コオロギのように鎮座したまま不気味な笑いを繰り返すばかり、腹立ち紛れに、光の頭を殴ってやった。
「いたぁい」
その声が、いきなり僕らの野生に火をつけた。
「やろう、おじちゃん」
こうなったら、それしかない――僕はもうこの状態でいることに、限界を感じていた。
おじちゃんは早速、紙袋からバルゴンを取り出してにやりとする。僕らがこれからやろうとしていることは、おそらくとんでもない暴挙にちがいない。これだけネットが普及し、小学生のハッカーまでが存在する世の中で、バルゴンを使ってネットテレビを乗っ取るなんて、とてもじゃないけど誰も考えつかないし、史上まれに見る、肉体労働者的犯罪だと言える。
それを考えると、決断したとたんに気が重くなった。
不安を抱える僕とは対照的に、おじちゃんは終始無言である。なんのためらいもなく、バルゴンの赤いボタンに指をかけた。そのときふと、目につくものがあったので注目した。『心ない悪戯は止めましょう』そんな風に記された、赤いラベルのステッカーがボタンの横には貼ってある。ここまできても、僕は細かいことが気になった。
どちらにしてもいよいよ始まってしまう。多少の後悔が胸のうちをよぎったが、鼻をつく芳香剤のにおいが、それを一気にかき消した。
やがて容器から白い煙が吹き出して、個室はものの十秒足らずで煙の中に沈没する。視界が悪くなると、光が僕の手を強く握りしめた。こいつにしても、最終的に頼りになるのはおじちゃんではなくて、僕だということをひしひしと感じている様子である。無理もない話ではあったが、おじちゃんまでが僕の手を握ったまま離さない。その行為をどう受け取ればよかったのか、結局のところはわからずじまい。それでも幸いだったのは、おじちゃんの言ったとおり、煙がとても目に優しかったことである。おまけに吸い込む空気の中には、ミントの香りがびっしりと詰まっていた。
もはや、悪夢としか思えなかった。
しばらくすると、ベルが鳴る。セキュリティーの異常を知らせるそれは、僕の鼓膜を乱暴に揺らしていた。
「行くよ。おじちゃん」
ようやく個室から出ることができて、ほっとした。すぐさま出入り口に近づいて、表の様子を探ってみる。
『はやく降りろお、急げえ』
騒然とした状況であることが、ここにいてもよくわかった。こうなったらしかたがない。僕らは女子トイレのドアに耳をつけて、辺りが静かになるのをひたすら待った。
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