第22話 おじちゃん、頑張れ。
壁際にはゾウやキリンの姿を模したセットが置いてある。その陰に光のやつが入り込もうとしている。背後では第二ラウンドが始まろうとしていた。みんなが踊るダンスのおかげで、床が激しく振動した。それを足の裏で感じ取りながら、光のあとを急いで追いかけた。
「こんなところに紛れ込んだら、係の人にひどくしかられるぞ」
僕が常識的な呼びかけをしているにもかかわらず、光のやつは涼しい顔で壁伝いを歩き、しばらくすると足を止めて、こちらを振り返った。
「この向こうには、おじちゃんがいるんだよ」
突き当たりにあるドアを指さして、得意げな表情で僕の顔をにらみつけた。今となってはおじちゃんに対して、それほど強い思い入れはなかったんだけど、光のやつがさっさとドアを開けて外へ出て行ったもんだから、しかたなく後を追いかけた。
扉の向こうに部屋はなく、四方の壁に張りつく通路が見えるだけだった。室内側はガラス張りになっていて、階下のスタジオがこの場所からは見下ろせる。光はガラスの壁に額を押しつけて、熱心に下のスタジオをのぞき込んでいた。僕も同じようにしながら、向こうの様子をうかがった。
中央には丸いテーブルが、四つ並んでいる。その周りに座っている人の姿もよく見えた。彼らを取り囲んでいるのは、大勢のスタッフたちである。カメラが四台、備えつけられてあった。照明にマイクスタンドなども置いてあったから、どうやら撮影中であるらしい。
「ほら見て、あそこにおじちゃんがいる」
光が指さした方向に、目を凝らした。
確かにあれはまちがいなく、行方不明だったはずのおじちゃんである。と言うことは、さっきどうしても出てくれと頼まれていた番組がこれにちがいない。しかもどうやら、出演中のようだった。
はっきり言うが、勘違いも甚だしい。おじちゃんがテレビに出演するなんて、僕はどうしても許せなかった。黒服のおじさんの話によれば、おじちゃんが興味を持たれたのは、学歴や職業のせいだ。だとしたら、卒業証書や健康保険カードだけでも十分のはず、にもかかわらず、のこのことカメラの前に立とうとする神経には、鳥肌が立った。
「厚かましいにも、ほどがあるじゃないか」
思わず独り言をつぶやいた。
「なにが厚かましいの」
光のやつが、ほうけた顔で質問した。
「お前は知らないだろうがな、おじちゃんは向こう見ずにも、テレビに出演するつもりだ」
「ほんとなの、すごいすごい」
「どこがすごいんだ。はっきり言うが、おじちゃんはラジオ向きだ。テレビでは絶対に生き残れないタイプだと思う」
「そんなことはないよ。ここではおじちゃんが、一番かっこいいもん」
光の美的感覚には相当な傷があるとしか思えなかったが、確かに周りにいる面々はさっき控室で見たあのキワモノぞろいだったから、一概におじちゃんだけを責めるわけにもいかないと、僕は謙虚に反省した。
おじちゃんが席についているのは右奥のテーブルで、そこには男性が四人いた。おじちゃんの隣にはスーツを着込んだあのナルシシスト、その向こうにいるのが、はっぴにぼうず頭のお祭り好きで、真向かいにいるのはなんと、例のひげ面のおかまである。まさに、このテーブルだけは、別次元と言っても差し支えなかった。
「それでは始めます。三二一、キュー」
いきなり開始の合図が聞こえてくる。マイクを通した声が、スタジオ中をこだました。
「いやっしゃあい」
中央に走り込んできた男性が、大声でカメラに向かって呼びかけた。にこやかな表情と、律義にそろえられた七三分けを見て、僕は思わず絶句した。
「まさか、五六が司会を務める番組だったなんて――」
驚きとしか言いようがなかった。笑いの天才『五六』が白いタキシードを着て、髪の毛をかき上げながら下のスタジオにいる。
「いよいよ始まりまっせ。今回もスペシャルな番組の司会を務めさしていただく、桂五六でございます」
彼がそこまで話したとき、いきなり一人の男性が飛び出してきた。
「しっとるけえ」
メーンの五六を若手芸人が押しのけて、ずうずうしくもカメラを独占しようとする。あれはどこまでも目立ちたがり屋の『おサバ』、かぶり物と形態模写、連続する一発芸に勢いがあるタレントである。
「こらこら、わしがテレビに映らへんやろうが」
そんな注意もどこ吹く風、とにかく目立ってなんぼの世界にちがいない。
「それではそろそろ、始めよか」
五六がそう言って仕切ろうとしても、おサバの態度は相変わらずだった。
「ナイスやなあ」
「なに言うとんねん」
「ああら、下ネタかよ」
「ちゃうちゃう、ものずきやがな」
「うっ、気持ちが悪い。つわりかな」
「どうでもええわ」
しばらく二人の掛け合いが続き、それからようやく五六が主導権を握った。
「もうええ加減にしとき。こうなったら早速、マドンナたちに登場してもらうでえ」
そのことばとともに軽快な音楽が場内に流れ、やがて空気でさえも華やかに染める者たちの入場となった。ドレスを着た十数人の女性である。まるでマネキンが歩いているみたい。そこらにいる男性たちとは、体の造りそのものがちがっている。どう考えても、神様のいたずらとしか思えなかった。
「ではしばらくの間、双方うち解けるために、おしゃべりを楽しんでいただきます」
アナウンサーの指示が飛ぶと、マネキンたちがスタジオ内を優雅に闊歩する。気に入った男性のそばに腰かけて、和やかな会話を楽しめということなんだろうけど、いったいここにいる男性の、どこをどう気に入れというのか、あまりにも局側の無謀な企画に対して、僕は激しい憤りを覚えていた。
それでもおじちゃんたちのテーブル以外には、何人かの女性が着席した。あろう事か白い歯をのぞかせて、マネキンがほほえむ姿を目撃した。これだからメディアというものは、恐ろしい。町なかであれば、目を合わすことでさえ憚られる相手に対して、あそこまで愛想よく接することができるのはほとんど病気、伝染病以外の何者でもないと断言できる。
「おじちゃん、頑張れ」
光のやつが、無謀な声援を送っていた。はっきり言うが、励ましや同情だけでは救われない人種がいる。その証拠に、きれいなお姉さんたちは、おじちゃんのテーブルを避けてう回しているような感じである。近づきたくもない――きっぱりと主張する歩幅がなんとなくあっぱれで、僕にしたってその気持ちは十分に理解できるし、おそらく視聴者にもこの空気は伝わっているはずだった。
「ここはやっぱり、人気がないなあ。においからして他所とは違うし、お笑いだけでは決して、越えられない壁がある。やるせないけど、しゃあないわ」
あまりにも常識的な意見を述べながら、おサバがおじちゃんたちのテーブルに近寄った。
「しっとるけえ」
かぶり物は真っ赤なぬいぐるみ、その上、顔中に描かれた落書きは、どこかタヌキを連想させる。情けない格好とも言えるんだけど、それでもあのテーブルの四人よりは随分ましだ。
「あんたらちょっと、固すぎるわ。顔にマニキュアでも塗ってあるみたいや」
ターゲットは完全におじちゃんである。近くにいるナルシシストやお祭り男、それからあのおかまをさしおいて、おじちゃんが選ばれたのには理由がある。おそらく学歴重視、肩書きのみの評価を下した結果にちがいない。
「あんたはなんと、東亜大学を出とるそうで、やっぱり見た目からして、ただもんやないわなあ。その固まり方は、並のもんにはでけへん芸当やわ」
おサバの声はマイクを通して、スタジオ内に響き渡っている。そのせいで、東亜大学ということばを聞きつけたお姉さんたちが、わずかに反応した。それにしても、せっかく話題の中心に据えられたにもかかわらず、おじちゃんはどこまでいっても電池の切れた湯沸かし器、ガスは出るくせに、火がつかない。いつもの愛想笑いだけが唯一の表情で、学歴以外の自己主張はどこにも感じられなかった。
「ほらほら、そこのお姉ちゃん、はようこっちへ来んかいな」
おサバが両手を振って、辺りの注目を集めにかかる。
「将来のノーベル賞候補が、ここで退屈そうにしとるんやでえ。後悔は忘れたころにこんにちは、それにもまして、アピールは家を出る前に、すまさなあかん。鉄則やな」
予想外にもおサバがおじちゃんに肩入れをし、スタジオ内の空気が不穏になった。やがて赤いドレスの女性が、おじちゃんに近づいてくる。まるでエサを見つけた金魚よろしく、惜しげもなく口をパクパクさせていた。善意の第三者でしかない無責任な視聴者からすれば、この光景はほとんど奇跡に近い。
まさに、ものずきとしか言いようがなかった。
おじちゃんの隣に座り、金魚のお姉さんがにっこりとほほえんだ。それを見つめるおじちゃんは、いきなり立ち上がって直立不動、そのあと体を深々と折り曲げて、上体を戻したとたんに、しゃべりだす。あのしぐさには見覚えがあった。おそらく自己紹介を始めるつもりにちがいない。悪夢としか思えなかった。
しかもこうなると、ほかの面々が黙っているはずがなく、われ先にとお姉さんの周りに群がって、しきりにおじちゃんの邪魔をしようとした。だけどどう考えても、あのひげ面のおかままでが、きれいなお姉さんを目標にするのは不自然である。支離滅裂な番組の流れに僕はあきれ果て、いったんは目を覆ったが、おじちゃんの行く末がどうしても気になって、またスタジオ内に視線を戻した。
おじちゃんのテーブルに着席したのは、金魚柄のドレスを着たあのお姉さん一人である。それからすると、ものずきは他には見あたらず、番組のインパクトとしては弱すぎた。
「おじちゃん、しっかりしてよ」
光のやつがたまらず、悲痛な叫び声をあげている。おじちゃんがお祭り男に席を奪われて、なんだかふらふらしながらうろつきだしたからだ。哀れとしか言いようがなかった。おじちゃんの人生を見ているようで、たまらなくつらかった。
おそらく研究所でも居場所を無くし、ZOOに転職してもクビ寸前、その上こんなところでも席を奪われてしまうなんて、普通の神経の者なら、あんな風には絶対に笑えない。冗談でさえ言えないはずだ。あんまりかわいそうで、胸が詰まって鼻水が出そうになった。
そうこうしているうちにもサバイバルは続き、お祭り男はここからでも雄弁であるのがわかったし、お姉さんの後ろには、背後霊のようなナルシシストが立っている。おかまは一つ離れた席に座りながらも、長い腕を伸ばしてボディータッチを試みていた。どこまでも特殊能力に秀でた彼らを見るにつけ、おじちゃんの取りえのなさにはあきれ果ててぐうの音も出ない状態である。
そんなおぞましい光景を十五分ほど見せられたあと、司会者の二人が飛び出してきて、その場を仕切り直した。
「いらっしゃあい」
五六がカメラに向かって、例のギャグを連発した。
「ええ加減にしなはれ。はよう番組を進めなあかんやろ」
おサバが突っ込みを入れたりもしたが、今度は五六がやや暴走気味に突っ走る。
「こんだけ濃い素人が集まると、やっぱり、やれることはやっとかんとな――」
ひたむきなことばからは、まじめな性格がうかがい知れた。
「難儀な人や」
お笑いのプライドが素人にはね返されて、どこまでも天然な味付けには頭が上がらない。
「ほんだら、早速、次の段階に進むでえ」
ようやく五六がそう言って、ドレス姿の女性たちを壁際に並ばせた。
「いよいよや、ちょっとものずきな告白タイム」
予想どおりの番組の流れではあったんだけど、どう考えてもここでカップルが誕生するとは思えなかった。遺伝子レベルの問題である。そんな僕の心配をよそに、番組はどんどん先へ進み、案の定、振られた男がテーブルの上で叫び声をあげながら周囲から失笑をもらっていた。
失恋の恥ずかしさをギャグに置き換えて、照れ隠し。次から次に、敗者がドアの向こうへ消え去るなか、ついに多士済々な面々の登場となった。最初に告白を行うのは背後霊ナルシシスト、予想どおり赤いドレスの女性が目当てのようである。居並ぶお姉さんたちの前を通りすぎて、最後に控える彼女の前で足を止めた。
それに対して、赤いドレスの女性は落ち着いたもの。彼女はここでも食わず嫌いを克服して、潔い態度を貫いていた。
「愛してると、言ってくれ」
ナルシシストはいきなり、そんなことを口走って目もうつろ。
「はあ――」
お姉さんは明らかにとまどい気味だ。にじみ出る感情が、僕の胸には無性に痛かった。
「ちょっと待ったあ」
そのときマニアな面々から、横やりが入る。
「これはおもろいでえ。人ごとやから、なおさらや」
僕もおサバとまったく同じ意見である。はっぴを羽織った男性が、ナルシシストとお姉さんの間に割り込んだ。
「だんじりと、君と、それから僕」
意味がわからない――最後に立ちふさがったのは、やっぱりあのおかまである。
「男なんてクサいクサい。日本にはもう清潔な男性なんて、存在しないの。いまだにきれいな心を持っているのは、わたしたちだけよ」
おかまは相当な勘違いをしている。あのひげ面を見ていると、体のあちこちにやたらと虫ずが走った。
前に立つお姉さんは、告白してきた三人に対して、ひどく無関心な態度を取った。それは当たり前のことなんだけど、引っ張り方が尋常ではなかった。五六やおサバが懸命に答えを引き出そうとしても、お姉さんはうつむいたかと思うと、次の瞬間には顔を上げ、あらぬ方向へ視線を飛ばす。しかもその視線の先には、テーブルに載ったチキンにせっせとかぶりつくおじちゃんの姿があったんだから、たまらない。
今まさに、筋書きのないドラマが繰り広げられようとしていた。
「お目当ては、あの人やなあ」
どうやら司会者たちも感づいた様子で、番組はここから意外な展開を見せる。
「さあ、どうする」
五六がそう言ったとたん、四台のカメラが一斉におじちゃんのそばに近づいた。当のおじちゃんは迫ってくるカメラのあまりの勢いに、怖じ気づくような感じで二三歩あとずさった。ところが運悪く、そこにいすがあったため、ぶざまな格好で尻もちをついた。なのにいまだに愛想笑いだけは欠かすことがなく、あのどこまでもへりくだった態度にはあきれ果て、僕は思わず唇をかみしめた。
「あんたはいったい、どうすんねん」
おサバがおじちゃんに近づいてしった激励、番組に参加しろと脅している。だがしかし、おじちゃんには自分の意志というものが、まるでない。その上きれいなお姉さんに見初められた経験など、生まれる前から皆無のはずで、こぢんまりとした瞳をぱちくりさせながら、まるで無銭飲食をとがめられた犯人のような態度を取った。
「す、すみません。テーブルに載っていたから、食べてもいいもんだと思ってました」
見当違いな言い訳を繰り返しながら、おじちゃんは部屋の隅に向かって一直線、どこまでも逃亡しようとするあの姿勢には頭が下がる。ところが四台のカメラは決して、あきらめようとはしなかった。執ようにおじちゃんを追いかけて、ようやく壁際で絡め取る。行き場を失ったおじちゃんは、両腕で顔面をかばいながら許しを請うた。
スタジオ内は爆笑の渦である。視聴者の反応こそリアルタイムではなかったが、ここまでスタッフ受けする出演者も珍しいにちがいない。
「おじちゃんが、かわいそう」
光がガラスの壁をたたきながら、抗議した。
「やめろ、光。見つかるじゃないか」
なんて感情移入の激しいやつなんだ。
「だって、みんなひどすぎるんだもん」
光が文句を言ってる間にも、状況はどんどん変化した。
「あんたなあ、一人で目立ちすぎや」
おサバがそんなことを言いながら、スタジオの隅でうずくまるおじちゃんの肩を強く抱きしめた。
「ええか、向こうの彼女を見てみ。かわいいやろ。あの子が告白を待ってるんやでえ。こんな経験なんて、あんたの人生では二度とないはずや」
まったくだ――それからしばらくの間、おサバがおじちゃんを懸命に説得する。耳もとに前歯が当たりそうなほど、口を寄せて内証話の真っ最中である。そのうち顔面蒼白のおじちゃんは、観念したように立ち上がって、体をぶるぶると震わせた。
「わかったやろ。今、教えたように言うんや。絶対にいけるから、頑張りや」
どこまでも人ごとなおサバは、無責任な態度でおじちゃんの背中を乱暴に押した。たまらずおじちゃんは、二三歩前に踏み出した。それを見て、四台のカメラが一斉に道をあける。おじちゃんはふらつきながらも、足を止めずに前へ進んだ。向かうは赤いドレスのお姉さん、どう考えても口車なおサバのことばを信じ、視聴率のために犠牲になる。それがおじちゃんの行く末であることはもはや疑いようがなく、たとえ好き嫌いが極端に少ないお姉さんが実在したとしても、学歴だけでおじちゃんがカップルになれるとは、僕にはどうしても思えなかった。
哀れだ――せめて僕がそばにいれば、事前に告白の権利は放棄させた。だけどもう遅い。今となってはすでにあとの祭りだ。スタジオ内に弁護士でもいるんなら話は別だが、そうでないのなら、おじちゃんがとことん惨めに振られる姿を僕でさえも、こうなったら見てみたいと願うのみである。
みんなの期待を一身に受けて、おじちゃんがお姉さんのそばに近づいた。それに対してマニアな面々は、どうやら納得できない様子に見えた。険しい表情でおじちゃんのことをにらんでいる。彼らの形相にひるんだのか、おじちゃんはおもむろに足を止めて、あらぬ方向へ視線を飛ばした。そのとき突然、光が高い声で、僕に向かって訴えた。
「あっ、ママだよ」
僕の体はそれに対してむやみに反応し、両ひざが激しく左右に揺れて、固く握りしめた拳の中にはビー玉のような汗が浮いた。
「なにを言ってるんだ。こんなところに、ママがいるはずなんてないじゃないか」
正直に言うと、そんなことはない。ここはもともとママの職場なんだから、スタジオ内にかかわらず、背後にいきなりママが立っていたとしても、なんの不思議もなかった。
「どこにママがいるって言うんだ」
――冗談だったら、絶対に許さない。
「ほら、あそこにママがいるよ」
光が指さした方向に、僕の視線も動く。そのとたん、内蔵が一瞬で活動をやめた。本当だ。確かに光の言ったとおり、事の成り行きを見守るママの姿を、スタッフの中に確認したのである。
ママはどうやら、ヘッドホンのような物を頭にかぶっている。しかもタイトなスーツがどこまでも業界人、視線は鋭く、そればかりか片足を前に出し、右手を腰にあてがったポーズは、まさしく戦りつに値する。
「逃げよう、光」
もしここにいることをママに見つかったら、そう思っただけでも、胃腸薬が必要になる。僕は光の手を取って、通路を駆け出す準備をした。
「だめだめ、ちょっと待って」
そう言ったままで、光はてこでも動こうとはしなかった。
「ぐずぐずするな。このままいれば、いずれママにも見つかっちゃうぞ」
「だって、おじちゃんがママに告白するみたいなんだもん」
「そんなばかな――」
あとのことばが続かなかった。
僕はもう一度、ガラスの壁に張りついて、階下のスタジオを見下ろした。するとさっきまでふらふらと歩いていたおじちゃんの足取りが、力強いものに変わっている。
確かにママに近づこうとしているようだった。
しかもおどおどと辺りをうかがうような態度もすっかり消えて、ママの顔を見据える視線は相当、危ない感じである。その目つきに押されるようにして、ママを取り囲んでいたスタッフたちでさえも、あえなくおじちゃんに道を譲るような状況に様変わり、ママがフロアを移動すれば、おじちゃんの体もそちらへ動く。その上、司会者やおサバ、スタッフに至るまで、今の流れを容認しているところが憎らしかった。
「もう少しだよ。はやくママを捕まえて」
光の神経にはあきれてしまう――それにしても、なんて人なんだ。さっき同情した僕がばかだった。
「言っとくが、おじちゃんがママに告白しても、絶対にうまくいくはずなんてないぞ。その上おじちゃんは、あまりにもひきょうだ。僕は心底、軽べつする」
「なぜおじちゃんが、ひきょうなの」
「こうなるために、おじちゃんは僕らを利用したんだ。ダーリンを助けるなんて、全部うそ。初めからママに近づくのが目的だったにちがいない」
いまさら後悔したって遅かった。ついにおじちゃんが、ママの前に立った。
「もしもママが、ひきょうでもいいって言ったら、どうするの」
頭の中では複雑な思いが、絡み合っていた。確かにママは東亜大学研究所の言うことならば、どんなにひきょうでこそくな言い訳であったとしても、困難をあっさりと乗り越えてしまう可能性があった――心配だ。
「ぼ、ぼ、僕と――」
いよいよおじちゃんの声が、スタジオ内に響き渡った。そのとたん、手元にあるはずの意識が一瞬、飛んだ。まるで綿菓子の上にでも、立っているかのようである。そのくせおじちゃんの前に立つ、ママの表情だけはしっかり見えた。
ママは目を丸くして、驚いている。
だけどおじちゃんの前で、黙ったままで身じろぎもしない。あんな顔のママを、今まで一度も見たことがなかった。やがておじちゃんが奇声をあげる。震える体を両手で抑え、天を仰いで頭を振った。そのあとまた、ママの顔に視線を戻した。
このころになると、僕の気持ちに微妙な変化が現れた。
絶対にいやだ。なにがいやなのか、それさえもわからないから、もっといや。まるでおじちゃんから告白されるのは、ママではなくて僕のようだった。このままだと手遅れになる。そう思ったとたん、体が無意識のうちに反応した。
両腕を頭の上に目いっぱい伸ばす。拳を固く握って、上半身を後ろに反らした。そのあとこん身の力を込めて、ガラスの壁を連打する。
「ママ、ママ、ママー」
とにかく、懸命に叫んだ。隣の光も僕を真似て、同じようにしている。
ここからママの立つフロアまでは結構距離があった。そのせいか、一呼吸置いてからママが僕らの訴えに、反応した。
ママの視線がこちらへ動く。
目があったとたん、僕はすぐさまわれに返った――まずい。数々のトラウマがとびきりのドラマを演出した。ガラスをたたくのを即座にやめて、光の体をひざで強く打つ。状況がいきなり変わったことを、知らせてやった。
「逃げないとだめだ。今度こそ、僕らは追い込まれた」
必死な思いで通路を走った。
「待ってよ、お兄ちゃん」
スタジオ内は騒然とした雰囲気で、こちらを見上げてみんなが叫んでいる。おじちゃんもさすがに危険を察したようで、ママに告白することをあきらめて、出口に向かって慌てて駆け出していくのが見えた。
「はやく来い、光」
通路の壁に備えつけられてあるドアは、全部で四つだ。それがみんな似たような造りであったため、入ってきた扉がいったいどれであったのか、今となってはまったく見当がつかず、とにかく次のドアから出るしか方法はなかった。
扉の前で光を待った。ようやく追いついた光が、惚けた顔を僕に向けて口を開いた。
「お兄ちゃん、ママが下から呼んでるよ」
――なんてのんきなやつなんだ。
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