第20話 僕は穏便な暮らしが欲しかった。
四階まで下りた僕らは通路を抜けた。先頭を行く男性のあとにはおじちゃんが続き、僕と光がそれを追いかけるような配置である。
「ここが控室です」
黒服のおじさんは突き当たりから、二つ手前の部屋に入ろうとした。すぐそこにはエレベーターがあり、近くには人の姿もちらほら見えた。
「出番が来るまで、ここで待機していて下さい」
ドアに貼られた紙には、『ものずき』出演者、ならびに関係者控室と記されてある。どうやら本当に、デビューの可能性があるらしい――驚きだ。
「あっ、それから君ねえ」
そんなことを言いながら、男性がドアノブを握ったままで、僕のほうに注意を向けた。突然のことだったので、慌てたのは確かである。だけどすかさず上体を前方に傾けて、「相川卓です」とやってみた。自己紹介だけは決して忘れない。初対面ではやっぱりあいさつが基本になるし、相手よりも先に名乗りなさいと、ママからいつもきつく言われている。
「君は相川君と言うのかね」
「はい、そうです――」
男性が僕の名字にこだわっているような感じがした。まさか、ここでもママのことを言われるのかと思い、体を固くしたままで、ごくりとつばをのみ込んだ。すると状況を察したおじちゃんが、よせばいいのに僕らの話に割り込んでくる。
「この子は知り合いの子どもなんですよ。今日はどうしても、テレビ局が見たいと言うもんで、しかたなく連れてきたんです」
珍しく事を収めようとした。
「そうなんですか、ただねえ、子どもに局内をうろつかれると困るんで、くれぐれもこの控室から出ないように、十分な注意をお願いします」
「わかりました。よく言い聞かせておきます」
ようやく黒服のおじさんが納得し、目の前のドアをノックした。しかも中からの応答を一切待たず、いきなりドアを開けて、おじちゃんの背中を強く押した。そのためおじちゃんは勢いよく何歩か進み出て、入り口近くに立ったままで、ほおを緩めて頭をかいた。どうやら室内にいる人たちに向かって、あいさつをしているつもりのようである。だけどどう考えても中途半端としか言いようがなくて、そばにいる僕までが恥ずかしくてたまらないような気持ちになった。
やがておじちゃんが奥へ進む。こうなったら僕もあとに続くしかなかったんだけど、部屋の中に足を踏み入れたとたん、きゅう覚にこびりつくものがあったので、急いで鼻先に袖をあてがった。
――なんだか、すごくクサい。
室内にいる人の数は十人以上である。しかも全員がむさい男だったもんだから、この臭気にも妙に納得がいく。
「ここにいるのは、あなたと同じ番組に出演する方々です」
後ろにいる黒服のおじさんが、僕らに向かって説明してくれた。
「みんな、あなたのライバルなんですよ。どうです、どきどきしてきたでしょ」
男性の顔がいきなりほころんだ。おじちゃんに対することばにも、力がこもっている。この部屋にいる人たちがライバルだとすると、おじちゃんの出演する番組がキワモノであることは、まずまちがいなかった。
ただしそれにしても、キャラが相当、濃いめである。スーツを着込んだあの人は、見てくれはまずまずと言えるのだが、口を半開きにしながら姿見に見入る様子からは、賞味期限の喪失をむやみに感じさせるし、隣に立っているあの人は、はっぴに鉢巻き姿でやたら元気な声をあげている。
どう考えても、守備範囲が広すぎるとしかいいようがなかった。
他に目につく存在といえば、まちがいなく彼である。髪の毛は長くてストレート、さらさらという音がここまで聞こえてきそうなほどさわやかで、それとはあまりにもコントラストなみかん肌が恨めしい。しかもそこかしこに見えるのは、みかん畑にずうずうしくも咲いたゴマ、ああまで不協和音なものが育つなんて、農家の人に対して申し訳なくて涙が出る。しかもどうやら、あの人はおかまではないかと予想した。ゲイだと言い換えても、差し支えなかった。
ただしそれだけのことであれば、僕にはなんの偏見もなかったし、言っとくが人それぞれ、誰に迷惑をかけているわけでもないのだから、思い切っておかまライフを楽しんでほしいと願うのみ。だけどそれとこれとは話がちがう。僕にしたって、どうしても譲れない物が多少はあった。
とにかく、あのゴマのようなひげだけは、絶対に許せなかった。
ただしどこまでいっても人ごとであるのは、確かである。でもだ。ストライキだ。あそこまで性に対して主張できる人が、むだ毛処理を怠るなんて、はっきり言うが、どうしても我慢できないというのが正直な気持ちである。
「この方も、出演なさるんですか」
いきなり背後で声がした。振り返ってみると、まるで視聴覚室に一輪のバラが咲いたように、周囲が華やいでいる。この部屋では唯一の女性がそこに立ち、こちらを見つめている。
「そのはずなんだけどね。社内で迷っておられたのを、運よく僕が見つけて、控室まで案内してきたんだ」
黒服のおじさんがそう答えると、書類のような物を眺めながら、前に立つ女性がしきりに首をひねりだす。
「だとすると、人数が合わなくなるんですよお」
「合わない?」
「はい、どうやら一人、多いみたいです」
「そんなはずはないだろ」
「まちがいないです」
まずかった――黒服のおじさんはいきなり、こちらを振り返って、疑惑混じりの視線を僕らに投げかける。
「すみませんねえ、どうやら手違いがあったみたいです」
「そ、そうなんですか」
露骨に疑われたおじちゃんは、慌てることしきりである。
「じゃあ、僕らはこのまま帰ります。そのほうがうまくいくだろうし」
おじちゃんにしては上出来の言い訳だった。人数が合わないと言ってるんだから、今からすぐにでもテレビ局をあとにして、リニアモーターカーに乗ってサンサンシティに戻ればいい。あまりにも穏便な答えが見つかりそうで、僕の胸には熱いものがこみ上げてくる。
光にしても同じ気持ちだろうと思い、そばにいるはずの、やつの姿を探してみたが、なんと光はどこにも見あたらない。
どうやら行方不明である――いったいどこへ行ったんだ。
今度は僕が、完全にパニくっていた。その上、黒服のおじさんは執ように僕らを引き止めにかかっている。
「あなたにはどうしても、出演してもらいますよ。ええ、もちろんあきらめません」などと言いながら、おじちゃんの顔をじっと見つめたままで、まばたきさえも忘れていた。
「せっかく東亜大学研究所にお勤めの方が、当番組に参加してくれると言ってるのに、わたくしどもの手違いなんかで、お帰しするわけにはまいりません」
おじちゃんたちのやり取りには、軽い見せ場もあったんだけど、僕の注意はもはや二人のもとにはとどまってはいなかった。光のことが心配で気もそぞろである。
「あとのことはわたくしが処理をいたしますので、あなたはすぐにでも、出演の準備に取りかかって下さい」
今やおじちゃんの行く末はなすがままと言ってよく、黒服のおじさんに腕をつかまれたまま、身動き一つの余裕もないようだった。
「さあ君、この方にも急いで、メークをして差し上げなさい。もう時間がないんだ」
おじちゃんの番組出演は、本決まりである。めまぐるしい転機が訪れて、僕まで巻き込まれそうで怖くなる。やがて黒服のおじさんは、「それじゃあ、頼んだよ」などと言いながら、せわしげな態度を見せて、部屋から出て行った。
「では、こちらへいらして下さい」
残った女性がおじちゃんを、奥の部屋へと積極的に誘う。それに対するおじちゃんは、いつものように顔を真っ赤にしながら、照れ笑い。どうやらまた、自然な感じで交際を始めるつもりにちがいない。哀れとしか言いようがなかった。だけど僕のほうはそれどころじゃなくて、光のやつがそばにいないと、大人とのコミュニケーションにはかなりの問題があった。おじちゃんはあの調子だし、頼れるのが自分だけでは、あまりにも心細かった。
そのうちおじちゃんは、奥の部屋に姿を消した。僕だけが控室に取り残される。「卓君、すぐに戻ってくるからね」去り際にそんなことばをほざいたが、おじちゃんの場合、僕に対する注意力は、もはや散漫だと言えるだろう。
しばらく光を捜してはみたけれど、どこにも見あたらず、やたら悪い予感ばかりが脳裏をよぎり、焦った僕は慌てて控室のドアを開ける。そのまま通路に向かって飛び出した。「いたぁい」部屋を出たとたん、勢いよく誰かにぶつかって、僕はそのあおりで尻餅をついた。
「誰よ、もう、乱暴なんだからぁ」
そこには僕よりも年下の子どもが、六七人いた。しかもその子らが、さんざんな不満を僕に対して口にする。
「世間知らず。年上が気をつけろ」
――なんてやつらだ。
「どうしたの。ちゃんと並ばないと、おやつをあげないからね」
子どもたちのそばには、引率の女性がいた。その人が大きな声で、僕らをなじっている。
「だって、このお兄ちゃんがいきなり、ぶつかってくるんだもん」
みんなそろって僕一人のせいにするんだから、ひきょうとしかいいようがない。
「きちんと並びなさい。でないとしまいに怒るわよ」
お姉さんは相当、頭にきている様子である。その上タイプ的にも短気に見えたし、むやみに逆らえば、なおさらヒステリックに怒り出す可能性があった。しかたなく僕も子どもたちと一緒に並び、おとなしく状況の変化を待つことにした。
「隣の子と手をつないでちょうだい。ぐずぐずしてたら、ほうっていくからね」
両親がそばにいないときの子どもの立場は、極端に弱い。こうなったら二列縦隊で、さっさと歩き出す以外に道はなかった。
「はやく行け」
ぐずぐずしている前の子どもに対して、乱暴な言葉遣いで命令した。なんだか妙に、気持ちが急いてしかたがない――このままおじちゃんと、離ればなれになっても構わないのだろうか。一抹の不安を感じてはいるものの、いまさらあとには引けず、隣にいる子どもの手を取りながら、通路の奥に向かって元気よく行進した。
僕らが目指しているのは、エレベーターとは逆方向のようである。階段を通りすぎて、突き当たり近くまで来たところで、ようやく先頭のお姉さんが足を止めた。「はいストップ、やっと着いたわ、ふぅ」ため息のあとに振り向いて、唇に指をあてがいながら、息をしっかりと吐く。『シー』どうやら静かにする必要があるらしい。
「どこへ行くんだろうねえ――」
隣の子どもはどことなく情緒不安定な印象が強く、緩みきったまなざしを僕に向け、震えるような声で質問した。だからしかたなく、僕もやっぱり『シー』そのあと顔を近づけて、「お前はしばらく、黙ってろ」だめ押しに、低い声で脅してやった。
やがてお姉さんがドアを開ける。順番に、僕らを室内に招き入れた。
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