第19話 チャンスは社内恋愛にあり。
やがてドアの外から、妙な声が聞こえてくる。
「ああん、いやぁねえ、なに言ってんのよ。そんなことないわよん」
この声にも聞き覚えがあった。あれは確か、深夜番組の『君だけが命』だったと思う。三話のラストシーンで似たような音声が流れていた。
僕はもう一度、外の様子をうかがうことにした。するとどうやら、ロビーでは社内恋愛の真っ最中であるらしい。右端のお姉さんの前に、青い制服を着た警備員さんが仁王立ち。
「いやだってば。仕事中なのよ。こんなところを見られたら、しっかりうわさになっちゃうじゃないの」
ほかのお姉さんたちはうつむき加減の上に、やたら視線を遠くに飛ばしている。『わたしは見ていません、聞いてるもんですか』それをこめかみの辺りで、色濃く主張した。ところが端から見れば社内恋愛の二人に対して、興味津々であることは明らかだった。
「今が絶好のチャンスだ」
みんなの注意があの二人に向いているすきに、階段へ一気に駆け込めばいい。ようやく僕らの前にも、希望の明かりが見え隠れしていた。
「そうかあ、あの二人だったのか――それさえわかれば僕だって、心置き無く計画にまい進できるよ」
おじちゃんにもとうとう、やる気が出てきたらしい。珍しく信用の置けることばを口にした。僕のほうは光の手を強く握り、スクランブルな現状をわからせようとした。
「行くよ、僕について来て」
二人に声をかけたあと、部屋を出る。そのままジュースを運んでくれたお姉さんのそばに近づいた。
「すみません、トイレに行きたいんですけど、いいでしょうか」
「えっ、ああ、いいわよ。あっちだからね。お客さまの迷惑にならないようにしてちょうだいね」
「わかりました。だけど大きいほうなんで、戻るのが遅くても心配しないで下さい」
そう言ってから、エレベーターの右隣にあるトイレを目指した。だけどおじちゃんと光の足はどうにものろい。
「はやくおいでよ」
いくら注意をしても無駄な努力であるらしく、二人の興味は社内恋愛から戻ってはこなかった。いまだにうつろな目をして、気もそぞろといった具合である。僕はたまらず、きつい口調で訴えた。
「言っとくが、ああ言うのはさほど珍しいことじゃないんだ。深夜番組を見れば、もっとすごい場面だって目にすることができる」
「へえ――」
おじちゃんと光はひどく感心した様子で、口を開けたままムクな視線をまっすぐに伸ばしたままだ。まるで足かせの取れた、囚人のような顔をしている。
「とにかく急ごう」
二人は背後を気にすることもなく歩き出し、ようやくトイレまでたどり着くことができた。
「なんて豪華な造りの便所なんだ」
おじちゃんはしきりにため息を漏らしながら、うろついた。確かに僕でさえ、ここでオシッコをひねり出すのは意外と難しい。清潔感あふれる便器は光沢の具合も半端じゃなくて、極端に目を細めながら慎重にファスナーを下ろす必要があった。
「さあ、いよいよだ」
誰にともなくそう言って、辺りを入念にチェックした。一方の壁には金隠しの便器が四つ並んでいる。それと向かい合うのは、個室のトイレである。扉の数は全部で三つあった。
出入り口のドアを少し開けて、表をのぞいてみた。幸いだったのは、入り口の前にブラインドパネルが備えつけられてあることだった。あれに隠れてチャンスをうかがったとしても、受付のほうからは見えないはずである。
「行くよ」
出口から身を乗り出すようにしながら、背後に声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
待ったをかけたのは、おじちゃんである。振り返ってみると、おじちゃんは金隠しの便器の前に立ち、辺りに不気味な音を響かせている。並の神経では考えられないことだった。しかたがないので息を殺し、その場でじっと待つことにした。
だけど僕は気が気じゃなかった。
こうしてる間にも、見知らぬ人がトイレに入ってきたら、身動きさえも取れなくなるし、なかなか戻らない僕らを心配して、お姉さんたちが様子を見に来る恐れも多分にあった。そうなったら、万事休すである。
「ごめん、待たせたね」
――ふぅ、おじちゃんの声を聞いてほっとした。
「じゃあ、行くよ」
トイレを出たあとブラインドパネルに身を隠し、そこからロビーの様子をうかがった。どうやら社内恋愛は一時中断の模様である。だとすると、ここで一番注意すべきなのは、青い制服に身を包むあの警備員さんだ。油断をすれば、彼の立ち位置からだと僕らは発見される。
だけど現在の様子から判断して、その恐れはあまりなさそうに見えた。
彼はエレベーターの前にいながらも、離れた場所にいる恋人に無我夢中と言ってよく、視線のほとんどが受付のほうに注がれたままである。現状は僕らにとって、願ってもないほど好都合だった。次に社内恋愛が始まれば、絶好のチャンスが訪れる。こうなったらすぐにでも、階段へ向かって駆け出す準備を整える必要があった。
「もうじきだよ。警備員の人が持ち場を離れたら、僕らは一気に階段へ進むんだ」
「だけどもし、見つかって呼び止められたらどうすればいいの」
事ここに至っても、おじちゃんはどこまでも僕を頼りにした。
「そのときは逃げるしかないよ。構わず階段を駆け上るんだ。ただしそうなったら、光の足じゃ簡単に追いつかれてしまう。だからおじちゃんには、こいつをおんぶしてほしいんだ」
「わかった」
おじちゃんは床にかがんで、光を呼んだ。光のやつはその上にまたがって、なんだかやけに得意げな顔をした。どうやらおじちゃんの背中が、よほど気に入ったらしい。
「卓君にはなにからなにまで、世話になったね」
――まったくだ。
「僕だけじゃとてもここまで来られなかったと思うし、卓君がいるだけで、すごく心強い気持ちになるんだ」
「言っとくけどね、僕は自分の意志で、行動しているわけじゃないんだよ。ダーリンをほうっておけないから、しかたなく協力してやってるだけなんだ」
「わかってるよ。感謝してる」
「それに今回はおじちゃんに脅迫されて、いやいやついてきたようなものなんだ。それだけは絶対に忘れないでよ」
はっきりさせておかないと、裁判では相当、不利になる。おじちゃんに念を押したあと、もう一度ロビーのほうに注意を向けた。するとついに、警備員の彼が動き出す。受付のお姉さんの元へ歩き出そうとしていた。
「いよいよだ」
おじちゃんはそう言いながら、腰を浮かしかけた。今にも飛び出さんばかりのそぶりを見せる。
「まだはやいよ、落ち着くんだ」
はやるおじちゃんを押さえつつ、心の中で数をゆっくりとカウントした。
一つ、二つ……。たとえ誰もがうらやむほどの恋人同士であったとしても、ことばを交わし始めてから、気持ちがうち解けるまでには、わずかな時間がかかるだろうし、ほかのお姉さんたちにしても、聞き耳を立てる心の準備というものが必要だ。
十、十一。やがてロビーの隅にある、受付の辺りが華やかに様変わり、どこまでも社内恋愛にうつつを抜かす男と女がいる。はっきり言って、就業時間内であるにもかかわらずだ。
十五、十六。ようやくほかのお姉さんたちも、うつむいた。みんなの興味が社内恋愛へ一斉に向いている。それを僕らはきっちりと目撃した。
「今だ」
チャンスは一度切り。しかもこれから行うことが、果たしてダーリンのためであるのかどうか、それさえも僕の意志にはもはや届かず、今はただ懸命に走るのみである。それだけしか考えられなくなっていた。
とりあえず壁伝いを進む。おじちゃんも、あとに続いた。お姉さんたちがこちらに気づいた様子はない。目指す場所は奥の階段である。距離にして、約十メートル強といったところだ。やがて階段の手前に差し掛かった。そこで僕はようやく足をとめ、大きく息を吸い込みながら、下半身に力を蓄えた。そのあと振り返る。低い声で、おじちゃんに向かって合図をした。
「走るよ」
指示を出したあとは、もはや階段に向かって一直線である。ところが何段か上ったときに、背後から怪しげな声が聞こえてきた。果たしてあれは、受付のお姉さんたちの声であったのか、それとも耳もとを鋭く切る、風の泣き声でしかなかったのか――それを確かめる勇気もさらさらなくて、懸命な思いでただ床を蹴った。ここまで来たら、もはや後戻りはできないし、背中に張りつく魔女よりも決断力に優れたママの存在が、僕をやたらとかき立てた。
はやくこの場を離れたい、その一心で階段を二段ずつ、飛び越えている。光をおぶったおじちゃんは、かなり遅れてしまったようだ。それでも二人を待つだけの余裕が僕にはさらさらなくて、追われる者はただひたすら、前の道を選ぶ以外に方法は残っていない。やがて太ももがしびれだす。そのせいで、足下がふらついた。
三階をすぎる。
四階にたどり着いたころには、体の中に太い棒でも入っているかのように、手足の自由を奪われた。それでも震える体を容赦なくむち打って、ようやく五階まで上りきる。そこで足を止め、そのまま踊り場にへなへなと尻もちをついた。視線の先は階下へ伸ばし、おじちゃんと光が上ってくるのを心待ち。そのうち体中から汗が噴き出して、皮膚の表面に白いポロシャツがはりついた。周囲は清潔なロビーとは大違い、ほこりっぽい空気でいっぱいだったから、そのせいで、やたらとせきが出る。止まらないままに肩で呼吸をし、ぜいぜい言いながら、二人が顔をのぞかせるのをひたすら待った。
やがて階下から、足音が聞こえてくる。
靴音がこつこつと鳴るたびに、僕の心臓も強烈な悲鳴をあげた。もしも上ってくる者が、おじちゃんではなかったら、それを考えると不安で不安でたまらなくなった。その上おじちゃんや光には、状況の変化についていくだけの柔軟さのかけらもなくて、もはや捕まっていたとしてもなんの不思議もなかったし、さらに尋問を受ければ、僕のことまで道連れにしようと考えるのは明らかだった。
ますます、目の前が真っ暗になっていく。
いよいよ上ってくる者が、姿を現した。あごを突き出して、上体を不格好に揺らせる男、それは紛れもなく、光をおぶったおじちゃんである。
「卓君、はあ、はあ」
おじちゃんが近づいてきた。ただそれだけのことで、予想外にも僕の心臓は危うく止まりかけた。おじちゃんの背後に、人の姿を見つけたからだ。しかもそこに立っていたのは、おじちゃんよりも体のでかい男性だったんだから、なおさら恐怖を煽ってしまう。
「ちょっと待ちなさい。君たちはいったい、ここでなにをしてるんだね」
男性の身なりは、なかなかシブい。黒のスーツに赤いネクタイを締め、角刈りと鋭い目つきがなお恐ろしく、その上どすの利いた声がワンポイントである。とてもじゃないけど、テレビ局の人とは思えなかった。
危険を察知した光のやつは、おじちゃんの背中からさっさと下りて、僕の背後にすばやく身を隠した。おそらくこういう場面では、おじちゃんよりも僕のほうが頼りになると、小さいながらも直感したにちがいない。この辺の抜け目のなさは、やっぱりさすがである。
「じ、実は――わたしは」
こうなったら極端に人見知りなおじちゃんでさえも、言い訳を始めるしかないといった顔つきであった。ただしこれで計画はすべておじゃんになる、そんな気がした。おじちゃんの言い訳が通じる世の中とは、とても思えなかったからだ。
「今日の特番に、ぜひとも参加してほしいと依頼された者です。東亜大学研究所、ゲスト所員待遇の福西徹と申します。これが身分証明書ですので、どうぞごらんになって下さい」
おじちゃんが懐から取り出した物は、光り輝く一枚のカードである。それを見たとたん、前に立つ男性の態度が明らかに様変わり。
「これはどうも、失礼いたしました」
男は深々と頭を下げて、丁寧な態度を取った。
「行き先はご存じですか」
カードを返した男性が、おじちゃんに向かって質問した。それがまずかった。目の前の男性にじっと見つめられたおじちゃんの顔は、青ざめるどころか唇までが震え出した――そう言えばおじちゃんは、うそをひたすら拒否する体の持ち主だった。
「いや、その、なんと言ったらいいのか、よくわかりませんが――」
そばで聞いている僕のほうが、もっとわからない。どう考えても応用に欠けるとしか言いようがなくて、カードを出したまではよかったが、そこから先は見ているのもつらいほど、しどろもどろになりながら、すがるような目つきを僕の視線に絡ませた――言っとくが、僕だってどうしようもない。
「なんでしたら、わたしが控室までご案内いたしましょうか」
意外なことに、助け船を出してくれたのは、いかつい男性のほうだった。
「特番と言えば、収録予定の物は一つしかありません。それにあなたの容姿と学歴を拝見する限り、失礼な言い方ですが、やっぱり飛び抜けてます。おそらくあの番組のメーンキャラではないかと思われます」
おかしい――おじちゃんがテレビ出演するなんて、そんなことが許されてもいいのだろうか。ただしこうなると、どこまでも向こうのペースと言ってよく、おじちゃんはもはや言いなりになるだけが唯一の意志である。あなた任せな行動を取るしかない。僕にしたっていかつい男性に対して、うかつに口をはさむこともできず、二人のやり取りをただひたすら見守るしか、すべがなかった。
「さぁさ、どうぞこちらへ」
そんな風に招かれて、おじちゃんはおずおずと階段を下りる。しかたなく、僕と光もあとに続いた。
「いったい、どこへ行くんだろうねえ」
おじちゃんの間抜けな声が耳もとにあった。あんなカードなんかに頼ってばかりだから、肝心なときに脳みそが昼寝をするんだと思う――自業自得だ。まったく、ひきょうとしか言いようがなかった。
それにしても、こうなってしまうと、僕だってやや緊張気味だ。おじちゃんに至っては顔色も真っ青で、アンモニア系の汗が額からにじみ出ている。ただし唯一、光だけは、この状況においても涼しい顔でついてくる。しかも、さっきかすめ取ったキャンデーを、時折ポケットから取り出しては、口もとへ運んでいる。あの神経の図太さにはさすがの僕も、驚かされた。
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