第18話 今度こそ、僕らの決心が揺らぐことはない。
通された部屋は十畳くらいの広さで、中央には革張りの応接セットが置いてあった。四方の壁は白地に、淡い花柄模様である。どこまでも清潔感がいっぱいで、そこに飾ってある絵画にしても、好感度を意識した絵の具遊びのようなものだった。こんなところで落ち着けるほど、僕の心には余裕がなくて、遠くにいるママをどこまでも身近に感じながら、抑えきれない不安を、そっと胸の奥にしまい込んでいる。
それに比べておじちゃんと光のやつは、なんだか妙に、ぎごちない姿勢でソファに腰かけていた。
「まずいことになっちゃったね」
話しかけても二人はまったく反応せず、時折、目玉が不規則に動くだけだ。そればかりか、バレリーナのように姿勢を正し、視線でさえも床と平行に伸びたまま微動だにしない。やがてドアをノックする音が、室内に響き渡った。受付にいたお姉さんの一人が部屋の中に入ってくる。僕らのために、わざわざジュースを運んでくれたみたいである。
「こんにちは、西条と申します」
「ど、どうも、福西徹です」
おじちゃんはすぐに立ち上がって、頭を下げた。
「あのぉ、失礼だとは思うんですけど、ちょっと質問してもよろしいでしょうか」
お姉さんのことばを聞くと、おじちゃんはその場に直立不動、貧乏揺すりでさえもぴたりとやめて、マネキン以上におとなしい態度で受け答えを開始した。
「なんでも、お聞き下さい」
「ひょっとして、相川さんのご主人さまですか」
――ばかな、ママにご主人さまなんて、いるはずがないじゃないか。
「いえ、とんでもないです」
「では、相川さんとは、どういうご関係なんでしょうか」
「そ、それが、たとえてみれば、ボーイフレンドのようなものです」
おじちゃんがママのボーイフレンド? 頭がおかしいとしか思えなかった。
「それってもしかして、ご主人さんには内証のお友達という意味ですか」
「いえ、ちがいます。どうやら聞く話によると、相川さんは独身みたいです。詳しい事情は、僕にもよくわかりませんが――」
――そのとおりだ。はっきり言うが、どう考えてもママがご主人さまだ。
相変わらず、おじちゃんは固まったままである。ドリルも通らないような体を保っていたが、お姉さんはそろそろおじちゃんとの会話にも、飽きてきた様子に見えた。出口のほうへ向かいながら、最後のことばを口にした。
「研究所勤務って、きっと大変だろうとは思いますが、どうか頑張って下さいね」
「大変だなんて、全然、そんなことないですよ」
おじちゃんのほうは、照れくさそうにうつむいて、柄にもないことばを並べている。
「一般企業のほうがもっと重労働だと思うし、僕なんか勉強しか取りえがなかったもんだから、これから先も、ダーリンやフュースの生態の謎を解き明かすために、この身を研究にささげていく所存です」
どこまで卑劣な人なんだ。学歴をこれほど見せびらかす人間なんて、初めて見た。だけど残念ながら、お姉さんはもうここにはいない。『ではごゆっくり』などと言いながら、さっさと部屋から出て行った。
「いったいこれから、どうするつもりなのさ」
そう聞いてもおじちゃんの顔つきは、いまだにうつろである。
「研究は一生の友として、いつも傍らから僕の魂を揺さぶり続け、人類のあしたのために――」
いったいこの人の人生は、この先どうなってしまうのだろうか、それを解き明かすほうが先決だと思う。見ているのもつらくなったので、乱暴におじちゃんの肩を揺さぶった。
「ごめんごめん、ちょっともうろうとしてた。あがってたのかなあ、あれ、西条さんはどこへ行っちゃったの」
ここまでひどいとは思わなかった。おそらく一生つきあう病気にちがいない。それにしても、むごい話だ。
「しっかりしてよ。これからどうするのか、少しは真剣に考えなよ」
「どうするんだと言われても、いきなり交際を申し込むのもおかしいだろうし、自然な感じで、しばらくつきあえたらいいと思ってるんだ」
救いようがなかった。今すぐ点滴が必要だ。
「おじちゃんがあのお姉さんとつきあうなんて、あり得ないよ。自分勝手な妄想なんて惨めなだけだし、聞いてる僕のほうが、よっぽど恥ずかしくなる」
「そう言われてみれば、確かにそうかもしれないね――」
事実関係がここまで鮮明だと、いくらおじちゃんでも反論ができず、ほおの辺りをぴくぴくさせながら、がっくりと肩を落としてうな垂れた。
「それよりダーリンの話は、いったいどうなったのさ」
「あっ、そうだった。ごめんごめん、ダーリンのことをすっかり忘れてたよ」
「ほんとに無責任なんだから」
なにが人類の未来だ。自分の将来のことしか考えていないくせに、あきれ果ててなじることばも出てこなかった。そんな僕に対して、さらに追い打ちをかけたのは光のやつである。
やつは僕らのやり取りには見向きもしていなかった。テーブルの上に置かれてある、ガラスのビンをじっと凝視していた。そこにはキャンデーが、山ほど詰め込まれてある。しかも光のやつは、それに対していちずな態度を見せつけている。辺りを多少、気にしながらも、松ぼっくりのような手を容器に伸ばし、しゃきっとふたを飛ばしたあと、すぐさまその手を引っ込めた。次には目玉を左右に動かして、僕らをけん制しながらも、すばやくキャンデーを一握り、ポケットの中にねじ込んだ。最後にやつはうふふと笑い、また一から同じ動作を始めようとする。
――なんてやつだ。
一息ついた光は僕の視線を避けながら、一個ずつキャンデーを取り出しては皮をむく。そのあと幸せなそうな顔をして、一気に口の中にほうり込んだ。それら一連の動作にはどこまでもスピード感が満ちあふれ、兄である僕でさえ、しばらくあっけにとられて見守るしか仕方なかった。
「光、いくつか寄こせ」
片手を前に出して、自分の取り分を請求したが、光は素っ気なく横を向き、あくまでも拒否の姿勢を貫いた。
「もう帰ろうよ。こんなんじゃとても無理だ」
僕はおじちゃんに向かって吐き捨てた。
「光ちゃん、お兄ちゃんにも、少しあげたらどうかな」
おじちゃんが取りなしても無駄である。光は口をもぐもぐさせながら、きっぱりと首を横に振った。しかも両手でポケットを大事そうにかばい、部屋の隅まで行って体を丸くした。それを見て、さすがのおじちゃんでさえも苦笑い。僕に至っては、おん念だけが残る結果となった。そんななか、おじちゃんが突然、語り出す。
「とにかく最初の計画に戻るべきだ。ここまで来たんだから、あとはトイレに行きたいと言って、この部屋を抜け出せば、必ず計画は成功するよ」
ずうずうしくも、急に僕らを仕切りだした。
「よくもそんなことが、平気な顔で言えたもんだね。おじちゃんだってダーリンのことを、すっかり忘れていたくせに」
「悪かった」
「それに僕らの身元は、もう割れちゃったんだよ。ここでなにかが起これば、真っ先に疑われるのはこの僕なんだ」
「大丈夫、卓君には決して、迷惑をかけないよ」
どうしても、おじちゃんのことばを信じることができなかった。そのとき背後がわずかにざわついて、いきなり背中に悪寒が走る。ドアの外から、聞き覚えのある声がした。
「誰かわたしのことを呼ばなかったかしら、内線が入ったみたいなんだけど」
不幸としか言いようがなかった。
「まずいよ、受付にはきっと、ママがいる」
僕がそう言ったとたん、おじちゃんはほおを緩めてにやりとし、光のやつはしっかりと両手で口もとを押さえ込んだ。
「確かめてみるよ」
僕のことばに、二人が同時にうなずいた。出入り口に近づいて、ドアノブを握る。それをわずかに引いて、すき間を作った。あとは勇気を振り絞って、そこから向こうをのぞいてみた。すると予想どおり、受付の前に立つ、ママの姿を発見した。
「いったいなんなのよ、みんなでにやにやして」
ママがお姉さんたちを、問いただしている。
「ええっと、さっきの呼び出しは、わたしたちのうっかりミスが原因でした。どうもごめんなさい」
どう考えてもあんな言い訳が、ママに通用するとは思えなかった。
「おかしな子たちね。ひょっとして、わたしを訪ねてきた人がいるんじゃないの」
受付に座る、三人の女性の顔をママは端から順番ににらみつけ、片方のまゆを上げながら意地悪く唇をねじってみせる。まさに、息が詰まるような瞬間だった。
「あっ、ママがいるよ」
いきなり足もとで声がした。光のやつだ。床にうずくまりながら、やつも向こうをのぞいている。そればかりか頭上にはおじちゃんの顔まであった。
「君たちのお母さんに、事情を話して協力を頼んでみたらどうかな」
なんて無責任な考え方をする人なんだ。僕とおじちゃんとでは立場がちがう。被害者はむやみに、楽観などできないものだ。僕はほんの少し背伸びをし、おじちゃんのあごの先端めがけて頭をぶつけてやった。
「ううっ」
そのあと視線を落として、光の顔をのぞき込んだ。
「言っとくぞ。今、飛び出したら、ママからどんな仕打ちを受けるかわからない。それにお前はキャンデーを、残らずポケットにねじ込んだ。この事実をママが知れば、ただで済むはずがないのは、お前にだってわかるはずだ。無事でいたかったら、絶対に声を出すな」
光は平気で裏切るやつだ。用心する必要があった。その上、状況は刻一刻と変化している。受付のお姉さんたちの声も、かすれ気味であった。今やどうすることもできず、最後にはひたすら謝るしか、方法がないように思えた。
「ほんとになんでもないんですよお。ごめんなさいね、ご迷惑をおかけしました」
それでもママの疑惑が晴れることはなく、他人をあそこまで信じようとしないかたくなな姿勢からは、ママの性格がほどよくにじみ出て、僕の胸の奥、皮膚の下を通る血管でさえも、硬化しながらおびえの色を隠すことはできなかった。
「相川さん、ひょっとするとですね、今夜はとてもいいことが、いきなり訪れるかも知れませんよ」
ジュースを運んでくれたお姉さんが、余計なことを言いだした。
「どうもおかしいなあ、すごくいやな予感がする」
ママの予知能力は予想以上に鋭かった。明らかに異変を感じ取っている。しかもママは、まゆを寄せながらテーブルに両手をつき、なおもお姉さんたちを締め上げる構えを見せた。それを見ている僕ののどがごくりと鳴り、産毛が針のようにとがったとき、突然フロアの奥からママを呼ぶ声がして流れが変わる。
「相川さん、次、出番ですよ」
それに対して、ママは背後を向いて返事をした。それからもう一度、お姉さんたちのほうへ向き直る。
「とにかく内線電話で、いたずらなんかやめてよね。これからは気をつけてちょうだい」
有無を言わさぬ迫力に、受付のお姉さんたちでさえも青ざめている。ママはそのあとエレベーターに向かって急ぎ足、遠ざかる後ろ姿を見送りながら、ようやく僕の脈拍も普段のリズムを取り戻した。ほっとしたとたんに力が抜けて、よろよろとふらつきながら、部屋の中央に戻って項垂れる。
「おじちゃん、こうなったら、今すぐ決断をするべきだ。やるか、それともこのままうちへ帰るか、僕はもう限界だ」
正直な気持ちだった。今度ママの顔を見せられたら、僕の心臓はまちがいなく何秒か停止する。
「もちろんやろうよ。ダーリンを助けるんだ。僕らがやらなくて、いったい誰がやるって言うんだ」
ようやく気持ちが一つになった――いったんおぼれかけた僕は、こうなったらなんにでもすがりつきたい気分である。その上おじちゃんはもとより、光の瞳でさえも、ビー球を磨いてワックスをかけたように光り輝いている。今度こそ、僕らの決心が揺らぐことはないと確信した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます