第17話 あなたのAAA。

 やがて僕らはF1シティに到着した。

 AAA局のビルは駅から歩いて、一二分のところにあった。真下から建物を見上げると、ガラスに覆われた姿はまるで、シルクのドレスをまとった巨大なロボットを思わせる。玄関には『あなたのAAA』などと彫られた石碑が立ち、それを見ているとつい、いつから僕のものになったのか、そんな疑問がふとわいた。

「ところでおじちゃん、どうやってスタジオまで行くつもり?」

 僕と光だけならまだしも、おじちゃんはやっぱり不審者に見られがちだ。僕でさえそう思うんだから、このまま局内に入ろうとしても絶対に無理だと思う。

「スタジオっていうのは、何階にあるんだい?」

「きっとたくさんあるだろうけど、僕が知っているのは、五階にあるスタジオだけだよ」

 何年か前、ママに連れて来てもらったことがあった。

「五階か――そこへたどり着くまでが、一番の難関というわけだね」

 確かにそうだ。

「かといって思案ばかりしていても、仕方がない。とにかく玄関からフロアの中をのぞいてみようよ」

 おじちゃんがそう言ったので、僕らはビルの正面へ向かうことにした。玄関先には両側に植え込みが並んでいる。そこに隠れて慎重にフロアの様子をうかがった。

「すごいな、まるでホテルのロビーみたいだ」

 おじちゃんは口を開けたままで視線もうつろ、僕のほうはそれどころじゃなくて、これからどうやって局内部へ進入すればいいのか、そのことで頭の中はいっぱいだった。幸い正面のドアがガラス張りだったので、ここからでも室内の様子を見渡せる。一階のフロアはまるで、体育館並の広さである。ロビーは吹き抜けで、二階部分と思われる個所には、三方に通路が張り付いていた。

「あれが受付なんだろうね」

 おじちゃんが指さした方向には、横長のテーブルがあった。玄関を入ってすぐのところである。テーブルと言っても、フランスパンをネジったような形をしている。僕の家のリビングにあるものとは随分、見た目がちがうし、その向こうには若草色の制服を着たきれいなお姉さんたちが三人、座っていた。

 視線を右に移せば、エレベーターが見える。その両脇にあるのはおそらく、トイレだと思う。あとはその向こう、ロビーの一番奥には階段があった。

「やっぱりあの階段を使うしかないのかなあ」

 僕は思わず独り言を呟いた。

「エレベーターじゃだめなのかい」

 おじちゃんがこちらをのぞき込みながら、反論した。

「よく見てごらんよ。青い制服を着た男の人が、エレベーターの前にいるだろ」

「ああ、確かにいる」

「あれはきっと警備員さんだと思う」

「そうかもしれないね」

「言っとくけど、あの人は決して、おじちゃんをビル内には入れてくれないよ」

「なぜだい」

「見た目が悪すぎる」

 残酷だとは思ったんだけど、正直な感想を述べることにした。

 僕が一緒なら、難なくテレビ局を乗っ取れる、おじちゃんはきっとそんな風に思っていたにちがいない。だけどそれほど簡単に事が運ぶはずがなかったし、そういう他力本願な考え方を捨ててほしかったから、多少きつい言い方かもしれなかったが、思ったままを口にした。一方おじちゃんのほうは、一瞬たじろいだが予想外にも立ち直りがはやく、すぐに顔を上げて、なおも僕に対して口答えをした。

「だけど階段で上ったって、警備員さんに注意を受けるのは、同じことじゃないか」

「いやちがう。階段なら途中の階で姿を隠すこともできるけど、エレベーターだとどの階で下りたかも、すぐにわかっちゃうだろ。それを見た警備員さんが上の階に連絡したら、ドアが開いたとたんに僕らは捕まっちゃうよ」

「なるほど、確かにそうだね――」

 ようやくおじちゃんが、納得してくれた。

 フロアにいる人の数は、エレベーターの前に警備員が一人と、受付に女の人が三人だ。ほんのわずかな時間でも構わないから、彼ら全員の目を逃れることができれば、あの階段へ駆け込むことは、それほど難しいことではないように思えた。それでも全員が一斉に注意をそらすような状況は偶然、以外には考え難いし、僕らがそれを望んでも無駄である。もっと確実な方法が、必要になってくる。

 玄関を通り抜けて、そのまま顔パスでエレベーターへ進む人も中にはいた。

 通りがかる人に事情を話して、局内部へ侵入する手伝いをしてもらうというのが、一番穏便なやり方ではあったんだけど、この局に出入りしている人は、ラフな格好であったとしても、清潔な身なりをしていた。それに比べておじちゃんは、相も変わらずグレーのつなぎ姿である。どう考えても、事が穏便に済むとは思えなかった。しかも僕らはまだ子どもときてる。

 結局ダーリンを助けるなんて、僕らだけでは無理だったんだ。

 社会的に地位のある人とか、上等な洋服を身につけた者だけが、自分の主張を口にできる。話の内容なんて本当はどうでもよくて、うわべだけで物事の善しあしなんて、決まってしまうにちがいない。だとしたら、僕らがすべきことは他人の目から見て、恥ずかしくないだけの地位を手に入れること、それ以外にはないんだと思い知らされた。まさに、絶望的としか言いようのない状況である。

 そんなとき、奇妙なことに気がついた。

 受付にいるお姉さんたちはほとんどその場を動かなかったが、警備の男性だけはたびたびエレベーターの前から離れ、受付に近づいてはしばらく会話をする。僕はその様子をじっくりと観察した。

 どうやら警備員さんは、かなり若そうに見えた。しかもおじちゃんとはまるで正反対のタイプと言ってよく、小さな顔はどことなく印象的で、細いあごのラインなどはまさに繊細そのものである。だとすると、これがうわさに聞く、あれではないのかと突然ひらめいて、僕はむやみに体を震わせた。

「おじちゃん、時計を持ってるかい」

「あるよ」

 おじちゃんの腕時計はディズニーのキャラクター商品だったから、ここでも僕はまゆをひそめるしかなかったが、思い直しておじちゃんの腕に顔を近づける。ミッキーの針の動きと、フロアの様子を厳重にチェックした。警備の男性が、持ち場でおとなしくしている時間は十分程度である。それをすぎると彼はお姉さんたちに近づいて、おしゃべりの時間をやたら持とうとした。

「なんとかなるかもしれないよ」

 おじちゃんのほうを眺めながら、唇をゆがめてほくそ笑んだ。

「どういうことなんだい」

「どうやらここには、社内恋愛があるみたいだ」

「へえええ――」

 僕のことばを聞くと、光のやつまでが身を乗り出してきた。

「おそらく警備の男性と、受付にいる女の人は恋人同士だと思う」

「三人ともかい」

 ――なにを言ってるんだ。

「あのうちの一人に決まってるじゃないか」

「そうかあ、いったいどの人なんだろうね。すごく興味がある」

 おじちゃんの目が、いきなり皿になった。

「警備の男性は恋人と離れていることに、きっと耐えられないんだ。いつも一緒にいたいと願っているはずだ。だから十分ごとに持ち場を離れ、お姉さんの元に近寄ろうとしている」

「十分かあ――確かにそれが限界だと思う。彼の気持ちは僕にもよくわかるよ」

 おじちゃんが大きくうなずいた。

「いいかい、これから僕らは受付に近づいて、トイレを貸してほしいとお願いをするんだ。あとはそこでじっと待つ――」

「なにを待つんだい」

「だから言ってるじゃないか。警備の人が持ち場を離れる瞬間を狙い、チャンスがきたら、一気に階段を駆け上るんだ」

「その考えは名案だと思う。ところでね、一つ聞きたいことがあるんだけど、構わないかな」

 ここへきて、ようやくおじちゃんの顔にも、緊張感が色濃く見えた。僕にしたって、おじちゃんがやる気にさえなってくれたら、やたら細かいことなんて言いたくないと思っている。

「いったい、どの人が社内恋愛をしているんだい」

 そう言ったまま、おじちゃんの視線はフロアの奥から、しばらく戻ってこなかった。

「いい加減にしてよ」

 向こうずねを、け飛ばしてやった。おじちゃんはどことなく、不満げなそぶりを見せたがすぐにうつむいて、反省の色を表情ににじませる。そのうちもう迷わない、なんて言いだして、ビルの玄関に向かって歩き出した。

 ついに僕らは、決心した。

 自動ドアが開くと、すばやい動作でフロアの中に足を踏み入れた。室内はひんやりとさわやかで、どうやら除湿、もしくは弱冷房除湿の真っ最中であるらしい。この季節にエアコンをつけるなんて、どう考えても不経済なテレビ局だと思ったし、このあいだ、『生活費を切り詰めて、ゆとりのあるマイライフ』などという特集をやっていたが、あのときの放送も、これでは鵜呑みにできないだろうとつくづく思い知らされた。

「いらっしゃいませ」

 受付のお姉さんたちが、僕らに気づいて会釈をした。

「あっ、どうも、は、はじめまして」

 おじちゃんはふらふらと、お姉さんたちのほうに近づいていく。悪い予感がした。おじちゃんの場合、見てくれも悪いが性格のほうはなお、不審者だ。いきなり非常ベルを押されたとしても、反論できない弱みがあった。僕は慌ててあとを追いかけた。

「なにかご用でしょうか」

 やばい――お姉さんのその一言がまずかった。おじちゃんは立ったままで貧乏揺すり、訳もなく頭をかいて、フケをそこら中にまき散らした。

「僕は、東亜大学卒業後、同、研究所勤務、あっ、今は事情があって、ZOOでダーリンの飼育係をしている、福西徹と申します。血液型はB型で、趣味は――」

 どう考えても、普通の神経を所持しているとは思えなかった。お姉さんたちにしても、ひどくとまどい気味だ。いきなり訪れたホームレスのような男が、自己紹介を始めたんだから、驚くなというほうが無理である。

 せき払いをしながら、おじちゃんの足を何度も小突いてやった。懸命に黙らせようと試みた。

「休みの日には、釣りに行ったりもします。そのほか――」

 ところがおじちゃんは僕の体を押しのけて、くだらない自己紹介をあくまでも続けるつもり。こうなったらおじちゃんに体当たり、お姉さんたちの注意をこちらに向けた。

「こんにちは」

 腰の辺りを中心にしながら、六十度くらいの前傾姿勢を取った。顔を上げたときにはお姉さんたちの視線が、一斉に僕のところへ集まった。そのおかげで、神経はまさに筋肉痛、いきなりバイオリズムが崩れかけたんだけど、用件だけを話せば事は済む、そう自分に言い聞かせながら、落ち着くために、まずは自己紹介から始めることにした。

「相川卓と申します。サンサンシティ中央小学校、六年二組、出席番号はなんと、一番です。しかももうすぐ、中学校へ通います」

 僕の呼吸は相当、荒かった。

「こんにちは、どんなご用かしら」

 真ん中のお姉さんが応えてくれる。それに対してなんの文句もなかったんだけど、頭の中がなぜか真っ白で、その上むやみにチョウが飛ぶ。今となってはどんな用事があったのか、それさえも思い出せなくなっていた。

「毎週月曜日、夜七時半から放送してる、ドロップドロップというアニメの大ファンです」

 思いついたことから口にするしかなかった。

「そうなの、ありがと」

「だけどドロップはいつも不幸な目にあうし、悔しくて寝付けない夜も、たびたびあります」

「確かにそうねえ、で、えっとぉ、名前はなんて言ったかしら、足立君だった?」

「いえ、ちがいます。相川卓です」

「そうそう、相川君ね。ところでこの局に、誰か知り合いでもいるの」

「はい、知り合いと言うか、ほとんど身内と呼んでもおかしくない人がいます」

「身内? 相川君って言ったわねえ――」

 お姉さんは突然、うなり声をあげた。腕を組んだままで、頭をひねった。そのうちなにか思い当たったらしく、僕の顔をしげしげと、やたら角度を変えながら観賞した。

「ひょっとして、相川玲子さん?」

「あっ、そうです。僕のママです」

 まるで条件反射のような会話だった。

「えーっ、ほんとに相川さんの息子さんなの」

 会話はいきなり弾んでしまう。

「うそじゃないです。ママは相川玲子、今年で確か、三十三か、四歳になると思います。僕はちなみに十二歳です」

「こんなに大きなお子さんがいたなんて、驚きだわ」

 ママはメークがうまいから、実際の年齢よりも若く見える、それがパパの口癖だった。

「ちょっと待っててね。すぐにお母さんを呼んであげるから」

 ――おかしい。なぜだかママが、ここにやってくる。

「受付です。恐れ入りますが、相川さんをお願いします」

 真ん中のお姉さんが、内線電話でママを呼び出そうとしているみたいだった。それを見たとたん、僕の周りはいきなり真空管のように遮断された。こうなったら、ぐずぐずしてはいられない。

「ママを呼ばれると、かなりまずいんです」

「えっ、まずい?」

「と言うか、計画がすべて台無しになってしまう――」

「計画って、いったいなんのこと?」

 受話器を片手で押さえながら、お姉さんが僕のほうに顔を近づけてきた。

「実は、今日はママの誕生日なもので、脅かすつもりでここまでやって来たんです」

「へえ、おもしろそ」

「しかもママはああ見えても期待してるし、毎年、僕らのたくらみにきゃっきゃっ喜んだりします。おかしいでしょ?」

 震えながら話す僕のほうが、よっぽどおかしいような気がしていた。

「とてもそんな風には見えないわ」

「でも事実です。それに未成年の僕が、独断でやめるなんてことできないし、今年は仕事が終わるのを見計らって脅かすつもり。だからなんとか、僕らをかくまってもらえないでしょうか」

「お母さんの誕生日か、それでお祝いにやって来たというわけね。とてもすてきな親子だと思う」

 おかしい。そんなはずはない。確かママの誕生日は、僕と同じ十二月だったはず――このころになると、僕の思考は明らかに正常な機能を放棄していた。

「とにかく、どうかお願いします」

 必死の訴えが功を奏したのか、真ん中のお姉さんは慌てて受話器を置いた。

「えっと、それじゃあねえ、奥の休憩室で待ってるといいわ。あとはわたしがなんとかごまかしといてあげる」

 助かった――それにしても、いつの間にか会話の主役は僕に変わっている。こうなると完ぺきな独壇場と言ってよく、おじちゃんや光の出る幕なんて、どこにもなかった。本当に、哀れとしか言いようがない。

 とにかく僕らは奥の部屋に案内された。ここまでくれば一安心、危険はどうやら去ったようにも思えたが、計画はどんどん狂ってしまう。

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