第15話 フュースのウンコでリズムに乗る。

 ZOOの入場口で二人分の切符を買った。もちろん支払いはすべて僕のお小遣いである。なのに光のやつはどこまでも感謝しらず、澄ました顔でゲートをくぐっている。

 なんてずうずうしいやつなんだ。

 平日にしては珍しく、園内は人が多くてZOOはやや混雑気味だった。両脇のチューリップが迷惑そうに首を揺らしている。光のやつはいつもどおり、ダーリンの檻に向かって突進した。それからまた、怪しげな会話を始めだす。

 あいつは本当におばかとしか思えなかった。ダーリンが光の存在に気づいているはずなんてなかったし、どう考えても一人上手であることは明らかで、あそこまで思い入れが強いと、人ごとながらも将来が不安になった。

 それにしても、ここに来るとおじちゃんの最後の顔を思い出す。

 いくら未遂に終わったとはいえ、誘拐の罪は相当、重いだろうし、しばらく刑務所暮らしになるのは避けようがない。しかもそうなれば、犯罪者となったおじちゃんは即刻ZOOをクビ、だけど遅かれはやかれ辞める運命だったんだから、この件に関してはあきらめもつくはずだ。それよりも問題なのは、東亜大学研究所へ戻る道も、これで完全に閉ざされてしまったという事実である。

 犯罪者を所員に戻してくれるほど、研究所のえらいさんはお人よしではない。だいたい、えらい人というのは、ママと同じように自分にはどこまでも甘いが、他人には極端なくらい厳しいものなんだ。だからといって恨んでもだめだ。どんなにあがいても、事態が好転することなどあり得ない。それよりもまず、犯罪に手を染めた自分自身の行いを悔いるべきだと思う。

 とにかく、残念だが今度こそ、おじちゃんの人生は破滅と言ってよく、刑務所から運よく十年くらいで出られたとしても、就職口どころか住む家にさえ困るだろう。賃貸はあきらめたほうが無難である。身元保証人が必要になるから難しい。

 確かママが今のマンションを借りたときも、パパが保証人になってくれたはずで、そんな人はおじちゃんには皆無だろうし、だからやっぱり無理がある。だけどよくよく考えてみれば、刑務所というところはひどい環境だと言うし、そんなところでおじちゃんが何年も耐えられるはずはなく、学歴よりも犯罪歴のほうが珍重される現実を受け入れることもできずに、二年後くらいに獄中で――。

「やあ、君たち、今日も来たのかい」

 僕の予想を裏切って、おじちゃんがいきなり姿を現した。

「無事だったんだね。ほんとによかった」

 光がおじちゃんに向かって、何度もジャンプした。

「大丈夫だったさ。卓君が教えてくれたことが役に立ったんだ。研究所で身元の確認が取れたら、警察の人も僕の言うことを信用してくれたよ」

 ――ひどすぎる。警察のずさんな捜査がこれでもかって言うくらい暴露される結果となった。この事実から判断すれば、官公庁でさえもやっぱり学歴には弱く、ここにいるおじちゃんはまだくたばったわけではないし、その上僕に感謝までしている。

 やっぱり、ママの考え方は正しかった。勉強して優秀な大学に入る必要性をひしひしと感じる午後だった。

「ほんとにありがとね。卓君」

 おじちゃんはさわやかな態度で、僕に対してお礼を言った。僕のほうは複雑な思いをかみ殺し、頭を左右に振ってほほえみ返し。そのとき光がずうずうしくも、僕らの話に割り込んできた。

「おじちゃん、ダーリンはね、ちゃんとお話ができるんだよ」

 光のやつは相変わらず、うそをつく。

「すごい。光ちゃんはやっぱり天才だ」

 おじちゃんは光のそばで大げさにはしゃいでみせる。すると今日もまた、ダーリンが二人のそばに近づいてきたんだから、驚きである。

「そうだったのか、ダーリンは寂しかったんだね」

「そりゃそうよ、誰だってパパと一緒にいたいもの」

 どうやら二人して、また危ない会話を始めようとしている。

「卓君、奇跡だよ。光ちゃんがダーリンと会話をしたということは、彼にも知能があるという証明になる」

 ――ばかばかしい。光の知能でさえ、僕はいまだに信じられずにいるんだ。

「そんなの、光のうそに決まってるじゃないか」

「そうとばかりは、言い切れないさ」

 東亜大学を卒業したおじちゃんでさえも、光にはころっとだまされる。勉強をして、優秀な大学に入ることの意味が、僕にはやっぱりわからなくなった。

「はっきり言うけどね、僕は光のやつをずっと観察してきたんだ」

「兄妹なんだから、当然だよね」

「その経験から言えば、光の話はまったくのでたらめ、それどころかこいつの言うことを信じたら、人類はやがて滅亡するよ」

 きっぱりと断言してやった。そのほうがおじちゃんのためになると思う。だけどおじちゃんはまるで取り合おうとはせず、涼しい顔をして、今度はとんでもないことを言いだした。

「そんなことよりさ、僕らもフュースの排せつ物を食べてみようよ」

 それを聞いたとたん、返すことばもなく絶句した。

「物事には必ず原因が存在するし、今回のことも例外じゃない。昨日、光ちゃんはフュースの排せつ物を食べた。おそらくそのせいで、ダーリンと会話ができるようになったんだ」

「ちょっと待ってよ。だったらあの檻はいったいどうなるのさ。音や声なんて通さないはずじゃなかったの」

「そのとおり。だけどそれはあくまでも僕らの常識でしかないし、不可能だと決めつけたときから、その先へは進めなくなるんだよ」

「へ理屈としか、思えないよ」

「とにかくさ、正直に言うと僕は、理屈なんてどうでもいいんだ。この発見は人類にとって願ってもないチャンスだと思うし、僕らはそれをぜひ体験するべきだ」

 きれい事を言ってはいるが、おそらく自分一人では心細いから、僕を道連れにしようと考えているにちがいない。さすがのおじちゃんでさえも、フュースのウンコを食べることには抵抗を感じている様子である。その気持ちにはなんとなく同調した。

 結局、僕らの議論は平行線に終わった。にもかかわらず、わがままなおじちゃんは、僕を無理やりダーリンハウスへ連れ込んだ。今度こそ、誘拐犯らしい行動を取っていると断言できる。

 ハウスの中はうだるような暑さで、入ったとたん、体中の毛穴が一気に口を開けて不平を言った。そんな中にあって、フュースのウンコから漏れる甘い香りだけがあまりにも鮮明で、僕らをむやみに刺激した。

 おじちゃんは一気にカウンターの向こうへ進んで、乳白色の容器の前に立った。僕はとてもおじちゃんと行動をともにするだけの勇気がなかったから、入り口のところで立ち止まり、そこから様子をうかがうことにした。

 室内は意外と明るくて、窓から差し込む日差しが長く伸び、そのせいで逆光になったおじちゃんの顔には異様な影が載っている。それを眺める僕はやけにおぞましく感じてしまい、目を細めて、わずかに視線をそらすのみだ。

 その間もおじちゃんの決心が鈍ることはなく、こちらを見ながら深呼吸を一つした。そのあと容器のふたに右手をかけた。次の瞬間、僕の脳裏には昨日見た、フュースの姿が鮮やかによみがえった。動くたびに飛び散る体の破片、蛇のようにとぐろを巻くあの目でさえも、やけに生々しく感じてしまい、不快な気持ちをじっとかみしめている。その上おじちゃんの前に置いてあるフュースの排せつ物に、うっかり注意を向けたらもう最後、僕の食わず嫌いは一気に爆発した。

 そのうちおじちゃんの指先が、フュースのウンコに触れた。

「さあ、食べるよ、卓君」

 おじちゃんはそう言ったあと、指ですくった物を口もとへ運んだ。最初の一口はやや遠慮気味、だけどそれをいったん過ぎてしまうと勢いがつく。のどを鳴らしながら、口の中へ押し込んだ。ただし事が終わったあとのほうが、もっとおぞましい。あごの辺りまで、粘土のようなウンコがこびりついている。それを見ているだけで、下痢と便秘が交互に訪れたような気分になった。

「大丈夫? おじちゃん」

 恐る恐る聞いてみた。

「ヒック、ヒクヒクゲップ」

 不気味なしゃっくりとともに、おじちゃんの体は激しい上下運動を繰り返した。それをつぶさに見せられて、僕は思わず二三歩、後ずさった。

「大丈夫だ……ちょっとショックを受けてるだけ」

 無理もないと思う。ウンコを食べるなんて、おじちゃんにしたって初めての経験だったにちがいない。

 そのうちおじちゃんが、こちらに近づいてくる。こうなったら逃げるしかないと思った。震える足に叱咤激励、そのまま出口のドアに体当たりをかましてやった。ところがそのとき目の前の扉がいきなり開いて、ここでも僕は何歩か退くことになる。ドアの向こうには、光のやつがいた。

 まさに僕の立場は絶体絶命である。

 二人の状態からすれば、いつ襲いかかってきても不思議じゃないと思った。宇宙生物の大腸菌に体を乗っ取られたおじちゃんと光、僕の想像力はどんなときでもたくましかった。足が震え、奥歯がかちかちと悲鳴をあげている。

「卓君、ダーリンのところへ行ってみようよ」

 おじちゃんがそう言って、近づいてくる。僕のほうは身動きさえもできずにいた。そんな僕を尻目に、おじちゃんはさっさと光の元へ歩み寄った。

「光ちゃん、おじちゃんもフュースの排せつ物を食べたよ。これでダーリンと話ができるんだ」

 やがて二人はハウスを出た。僕はたった一人で小屋の中に取り残された。しかもなんと、不思議なことなんだけど襲われることもなく無事だった。

 とにかく落ち着こうと思い、大きく胸を揺らしながら息を吸い込んだ。出入り口のドアは開いたままである。それのおかげで恐怖心は幾分やわらいでいたが、油断は禁物だった。二人の行動を十分に監視する必要があった。すぐさま出口に張りついて、そこから外の様子をうかがうことにした。

 おじちゃんと光のやつが檻の前でしゃがんでいる。ちょうど井戸端会議のような格好だった。しかもダーリンまでが澄ました顔で、それに混じっていたんだから、なんとも不思議な光景である。どう見ても、みんなで楽しくおしゃべりをしているとしか、思えなかった。光の話したことは本当だったのだろうか――そう考えると焦りのために、冷たい汗が幾筋もにじみ出た。おじちゃんまでがダーリンのことばを理解してしまったら、僕だけがあっさりと取り残される。そんな未来をのぞき見て、がく然とした。

 人類の進歩は、とてつもなくはやい。油断をすると子どもでさえも、すぐに取り残される。若いから新しいわけではなくて、進歩するから新鮮さを失わない。前進する気持ちがなくなったら、誰もが手遅れになる。僕の場合、光においていかれるのはしかたがないにしても、おじちゃんの背中を見ることだけは、絶対に避けたかった。そうならないための手段は、たった一つである。

 決心してドアを閉めた。そのあと急いで、奥の部屋に足を向けた。フュースのウンコが詰まった容器の前に立った。だけどそのとき窓が開いてることに気づいて、はっとする。すばやく壁際に移動して、カーテンを引いた。

 ――ふぅ、危なかった。

 やっぱり誰にも見られたくないと思う。ウンコに手を出すなんて、最低だ。思い直してもう一度、容器の前で直立不動、今度こそふたを開けた。すると一気に甘い香りが解き放たれて、つかの間の放心状態を味わった。頭を振って自分を取り戻す。気持ちを落ち着かせるために、深い呼吸を心がけた。

 そのとたん、まぶたの裏で数々の思い出が浮かんでは消える。それを遮るかのように、僕は右手に力を込めた。指先の神経はしびれたままで、フュースのウンコ目指して動き出す。人さし指をきりりと伸ばし、その指をウンコの海へ沈めると、経験したことのある感触が、皮膚の表面に広がった。確かに、この触り心地には覚えがある。トイレでお尻をふいたとき、時たま失敗することがあるんだけど、あのときとまったく同じ手応えが指先にあった。こうなったらもう後には引けず、ウンコをすくった指を口もとにあてがったあと、心を決めてほんの少しなめてみた。

 はっきり言うが、相当うまい。

 あとはそのままのどの奥に詰め込んで、息ができないほど、むさぼり食った。そんなとき、いきなり出入り口のドアが開いてどきりとした。向こうから例の二人組が、じっと僕をにらんでいる。僕は慌てて容器のふたを閉じ、二人のほうに歩み寄った。

 おじちゃんは肩を落としたままで、うつむいている。僕のほうはカウンターの上に両手をついて、やや目を伏せながら、愛想笑いを繰り返した。どうやら僕の行為におじちゃんが気づいた様子は、なさそうである。それだけでも救いがあったし、できればウンコに手を出したことは、このまま誰にも知られたくないとひたすら願っていた。

 そんな円満な考え方をあざ笑うかのように、突然こめかみの辺りに違和感が走る。異様な気配を感じ取った僕の体は、すばやく硬直した。まるで警視庁第一課のような視線がそこにはあった。光のやつがじっとこちらをにらんでいる。

 ――こいつには感づかれたかもしれない。まったく、計り知れないやつだ。

「僕にはダーリンの声が聞こえなかったよ。だめだったんだ」

 おじちゃんの悔しがりようは、かわいそうなくらいである。ただし口もとには、いまだにフュースのウンコがこびりついたままだ。それを見ていると、僕の想像は容赦なく膨らんだ。

 皮膚に付着したウンコはやがて本性を表し始め、ウンコらしいにおいに目覚める恐れが多分にある。そうなったらハエのたぐいがほうっておくはずがなかったし、これだけ甘いウンコならば彼らにとっても珍味のはずで、口コミで広がって、行列のできるウンコになる可能性も十分にあった。とにかく僕は、二人に悟られないようにと気を遣い、なに食わぬ顔でおじちゃんに向かって話しかけることにした。

「あの檻がある限り、ダーリンと会話なんかできるはずがないんだ。それなのに、あんな物を食べるなんて、どうかしてるよ」

「そうだね、卓君の言うとおりかもしれない。それにしても、残念だ」

 やっぱり光のうそだった。だけどよくよく考えてみれば、当然のことだと思う。大腸菌にそんな大それた能力を期待するほうが、無理というものだ。

「さあ次は卓君の番だ。はやくダーリンに話しかけてみなよ。子どもの君だったら、会話ができるかもしれないよ」

「おかしなことを言わないでよ。僕はフュースのウンコなんか食べてないんだから、会話なんてできるはずがないじゃないか」

 こうなったら、きっぱり否定しておくべきだと思った。今の状況から判断して、黙秘権の行使だけではあまりにも不十分な感じがした。

「だって口の周りに、フュースの排せつ物がいっぱいついてるよ」

「ヒクヒク、ヒックック」

 僕のしゃっくりは、なんと十六ビートだった。

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