第12話 哀れな念仏。
帰り道の両脇に立つ街灯は、まるで光の乱ぐい歯のような並びで立っている。そこから降ってくる明かりが光の顔を照らし、やつの寝息と虫の羽音だけが、僕の鼓膜を微妙に震わせている。辺りに人の気配は一切なくて、整備された町は息を潜めて、早々と眠りについた。夜道を歩いたことなんて滅多になかったから、小さな物音に対しても、僕の体は敏感に反応した。その上、視界が悪くて、向こうがのぞけない。見通しのよい昼間には、地の果てまで続くかのように思えた松林でさえも、闇の中では僕らの世界をわずかに圧迫するだけのこと、パパとはちがう男の人と今一緒に歩いている、それが僕には一等、不思議な出来事である。
「卓君、さっきはパパのことをあれこれ聞いたりして、悪かったね」
おじちゃんはうつむきながら、つぶやくように話している。
「いえ、いいんです」
気がつくと、僕らの頭上にはいっぱいの星が浮かんでいた。
「パパがいなくて、寂しいと思うことだって、やっぱりあるだろ」
もしも僕がそれを口にしたら、いったい誰が悲しむのだろうか――。
「いいえ」
一番、短い答えを用意した。
「だけど卓君のママってやっぱりすごいよね。きれいだし、その上こんないい子に君たちを育てあげた」
おじちゃんの顔が月明かりに照らされて、真っ赤な色に染まっている。
「なんて言ったらいいのかよくわからないんだけど、たとえ物質文明がどんなに進歩しようとも、人の心を癒やす生活がないと、幸せを感じたりはできないと思うんだ」
黙っていると、おじちゃんはどこまでも調子に乗った。
「君たちには優しいママがちゃんといる。だからさ、パパを思う気持ちを抑えるんじゃなくて、ママをもっと身近に感じるべきだと思うんだ。そうすれば、今よりもほんの少し幸せになれるはずだよ」
まったく意味がわからない。と言うよりも、おじちゃんのほうこそ、自分の考えをしっかりと吟味するべきだ。ママが優しい? 言っとくが、これ以上ママを身近に感じたら、僕はかなり危ない状態になる。
それにしても、クサいせりふを平気な顔で口にできる、タフな神経が心底、うらやましかった。しかもおじちゃんは僕の顔色を一切見ずに、なおもあとを続けるつもりのようだった。
「それからね、君たちのママは、その、つきあってる人と言うのか、仲良くしている男性はいるのかなあ、なんて――やっぱりだめだよね。こんなことを聞くのはルール違反だ。ごめんごめん、今のは忘れてよ」
いいや、忘れない。おじちゃんの魂胆が、まるっこ読めた。なんという人なんだ。こんなときにママの身辺調査を始めようとするなんて、ずうずうしいにもほどがある。これだって十分にセクハラだ。もしも僕が警察に通報すれば、おじちゃんはすぐにでも刑務所行きになるだろう。
それにどう考えても、おじちゃんの想像はいやらしい。ママに男友達なんているはずがないじゃないか。心底、むかついた。だけど今夜だけは大目に見てやるしか、しかたがなかった。僕が無事に帰るためには、おじちゃんの存在がどうしても必要だったからだ。
そんな僕の弱みにつけ込んで、ママのプライバシーを探ろうとする、どこまでもひきょうでこそくなおじちゃんには、ほとほとあきれてしまう。あんまり腹が立ったので、黙り込んで無視してやった。
するとおじちゃんは、とんでもないことまで言い出した。
「人類は宇宙へ出て行く必要があるんだ。でなければ滅びるだけだ。もしも宇宙人というのが、この先、存在するのだとすれば、それは宇宙へ移住したホモサピエンスの子孫たちにちがいない。別の環境で違う進化を遂げた人類が、互いを宇宙人と呼ぶ未来が、きっとくるはずさ」
いったい誰と誰がホモなのか、僕にはそれさえも分からずじまい。
「ダーリンとフュースが生息しているのはね、実は月の表面じゃないんだ」
自慢げな顔を隠しもせず、月の生物についても語り始めた。
「月にはかつて溶岩が流れた空洞が地下にあって、ダーリンやフュースの住処は、そこにあるんだ。ちなみに月のクレーターの底には氷があって、なんと月には水が存在してるんじゃないかと言われてるんだ、すごいことだよね」
なぜかウインクをしながら、自信満々な態度で喋り続けている。それがなんのためのウインクだったのか、僕はしばらく理解に苦しむしかなかった。
やがて僕らはマンションの前に到着した。
「こんなところにパトカーが止まってるなんて、おかしいね」
光を背負ったおじちゃんが、独り言を漏らしている。僕はそれを眺めながら、いやな予感を懸命にかみしめていた。
「どうしたんだろうねえ、まさか、なにかあったんじゃ――」
「はやく入ろうよ」
僕が急かすと、おじちゃんはようやく歩き出した。玄関から吹き抜けのロビーを通り抜けて、そのまま奥のエレベーターへと向かった。
――それにしても、おかしい。
マンションの前に止まっているパトカーと、そこにいるはずの警官が見あたらない現状を考え合わせれば、どうやらお巡りさんは、なにか用事があってこのマンションに入ったと考えられる。普段ならこんな時間帯に、お巡りさんが見回りに来ることなんてまずなかったから、泥棒とか事件絡みの恐れもあったが、もしそうだとすれば、お巡りさんがそこらをうろついているはずである。それにしてはロビーに人影はなかった。
思いを巡らしながら、おじちゃんの顔をしげしげと眺めてみた。それに気づいたおじちゃんが、僕に対して愛想笑い。僕もしかたなく笑い返したが、心の中では絶望的な予感にこれでもかって言うくらい、苛まれていた。
そんなとき、チンという音とともにドアが開く。僕らは急いでエレベーターに乗り込んだ。
「卓君、何階に行けばいいんだい?」
「二十四階」
僕がそう答えると、おじちゃんの指がボタンにかかる。ドアが閉まると僕の記憶は一瞬、飛んだ。そのせいで、あっという間に二十四階へ到着する。しかたなく、エレベーターの外へ進み出た。前方へ目をやると、幅一メートルほどの通路が向こうの壁まで続いている。そこを僕とおじちゃんは、ゆっくりと肩を並べて歩いている。
「大丈夫だよ、ママと会っても、きっとうまくやるからね」
上気させた顔で、おじちゃんが的外れなことを口走っていた。それにしても、この人の鈍感な神経がどこまでもうらやましかった。
やがて部屋の前におじちゃんが立ち、姿勢を正して軽いせき払いを何度かした。緊張感が僕にまで伝わってきて、体中の産毛が角度鋭くとがってしまう。視線の先にはドアノブがあった。それに手を伸ばしかけて、ややためらった。けれどももはや、開けるしかほかに方法はなかった。ノブに右手をかけて力を込めた。
たいていの場合、悪い予感は現実の不幸な双子である。
予想通り、ドアを開けるといきなり、屈強な男たちが現れた。濃紺の制服を身にまとい、銀バッジが冷たい輝きを放っている。男たちは全部で四人いた。どれもこわもての男性だったもんだから、迫力のほうも申し分なし。そのうち彼らが、こちらへ一歩、進み出た。
「きさまはなんだ」
男たちは有無を言わさず、おじちゃんを確保した。しかも彼らをかき分けるようにして、ママがすごい剣幕で玄関先へ飛び出してくる。
「このお、誘拐魔ー」
ママの腕がこちらへ伸びて、おじちゃんのほおの辺りで、ぱちんという乾いた音が鳴る。そのとたん、事態が劇的に変化した。それまで間抜けな笑みを浮かべながら、多少の余裕を見せていたおじちゃんの顔が、一瞬で凍りついた。
こういう場合、僕のような子どもにとっては、本能だけが頼りである。本当だ。言い訳がましいかもしれないが、僕はまだ小学生なわけで、事の善悪でさえも判別できずにいる。とりあえず、ここはおじちゃんから距離を置くほうが、無難だと判断した。
おじちゃんはこわもての男たちに取り囲まれて、もうすでに鈍く光る手錠までかけられている。日本の警察がいかにすばやいか、それが見事に立証された。しかもおじちゃんは、いまだに自分の置かれた立場をよくわかっていない。男たちが乱暴におじちゃんの体を小突くうちに、ようやく生への執着をのぞかせ始め、やや抵抗する姿勢を見せた。
それがなお、悪かった。
「おとなしくしろ」
怒声はやがて暴力に変わる。男性の一人がおじちゃんを、羽交い締めにした。他の三人が代わる代わる拳を振るっている。その上、彼らの後ろでは、ママがひたすら叫んでいた。
「この変態を、二度とうちの子どもに近づけないで。できることなら、今すぐにでも死刑にして」
痛々しい光景だった。僕はママの陰に隠れて、この世に神様はいないのかと、憤るのが精いっぱいである。おじちゃんの場合はどう考えても、出来心としか思えなかった。誘拐を企んで、主犯になるだけの知恵も人望も皆無である。だからなんとか助けてあげてほしい。
ようやくおじちゃんにも事情がのみ込めたらしく、口をパクパクさせながら必死に弁解を試みた。その姿があまりにもかわいそうで、とても直視には耐えられず、僕は横を向いて唇を噛んだ。そのうち男性の一人が、僕のほうに近づいてくる。
「もう大丈夫だよ」
そう言いながら、頭をなでてくれた。そのとき僕は、「そうか」これでようやく助かったんだ、そんな風に思うだけ。今の流れに逆らうと、自分の身が危ういような恐怖をひしひしと感じていた。
それに対しておじちゃんは哀れとしか言いようがなく、僕と帰り道にリハーサルをしたとおり、「東亜大学卒業後、同、研究所勤務、何がし」繰り返すことばもむなしく空回り。やがてママがひざを折り、両手を大きく広げたあと、僕の体を抱きしめようとした。僕のほうはおじちゃんのすがるような視線を見事に交わし、ママの胸に迷わず飛び込んだ。
「卓、無事でよかったわ」
どうやらママは、泣いているようだった。それを見てしまうと、僕の胸まで熱くなる。やがてママは僕の手を握りしめて、愛情を強く表現した。おじちゃんの前で、こんなことをするのはあまりにも残酷だと思いながらも、ついつい僕もママの手を握り返してしまう。
そのあとは涙腺が、一気に爆発した。
感動的なシーンだったと思う。幼い兄妹は卑劣な誘拐犯からようやく解放されて、今夜、ママの元へ逃げ延びる。わが子の無事を確認し、ママの両目からはこらえきれずに真珠の涙――ここまで条件がそろってしまうと、僕にしたって声をあげて泣くしかなかった。ただし、怒とうのように押し寄せてくる感動の中に身を置きながらも、僕はおじちゃんの様子を確認することも、決して忘れなかった。いまだに必死の形相で助けを求めている。
本当にしつこい人だ。
「東亜大学の何がし」まだそんなことを叫んでいるんだから、救いようがなかったし、状況の変化についていけないおじちゃんの性格は、どう考えても致命的としか言いようがなく、こうなったら、潔くあきらめてほしいと願うのみである。
ようやく誘拐犯は警官に連行された。だけど一抹の悲哀だけはいまだにこの場を去らず、廊下に出てもなお、「東亜大学卒業後、同研究所勤務――」例の念仏が消えることは、決してなかった。そこにははかない哀愁さえも漂っている。
とにかくこうして僕の長い一日は、なんとか無事に終了した。
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