第11話 ママへの言い訳は、東亜大学研究所。
窓の外が暗くなり、向こうから聞こえてくるざわめきも、底抜けに明るいものはすっかり影を潜めてしまい、遠ざかるときの後ろ髪だけが鼓膜のそばで揺れていた。
「くしゅん」
光がくしゃみをした。おそらくバスタオルだけでは寒いにちがいない。僕は壁際に近づいて窓を閉め、そのあと奥の時計に視線を向けた。時刻は午後七時、五分前である。もうすぐZOOの閉園時間に届いてしまう。さっきまでなら絶望的な時間帯ではあったんだけど、なんとか帰るための言い訳もできたことだし気分も晴れやかで、時計の針に神経をいたぶられることもなくなっていた。
「お兄ちゃん、さっきからすごくうれしそうな顔をしてるんだけど、なにかいいことでもあったの」
光のやつがそんなことを言いながら、僕の顔をのぞき込んだ――こいつには気をつける必要があった。妙に勘の鋭いところがあるからだ。
「なあ光、東亜大学っていうのを知ってるか」
とりあえず、予備知識だけは入れておくべきだと考えた。
「ううん、そんなの知らないけど」
「東亜大学というのはな、日本で一番頭のいい人たちが通う大学なんだ。しかもおじちゃんはなんと、そこの研究所に勤めている。信じられないだろ。僕だってまったく同じ気持ちだ。だけどどうやらほんとのことらしい。いいか、これだけは忘れるな、とおあだいがくだ、言ってみろ」
光もなんとか覚えてくれたようで、安心した。金魚が昼食を取るような口をしながら、やつは懸命に同じ言葉を繰り返した。
「おじちゃんったらすごいね。それならきっと、ママもおじちゃんに優しくしてくれるよね。よかった」
どう考えても、おじちゃんよりも光のほうが、しっかりしているように思えてしまう――気のせいだろうか。
「ジャーン、さあ乾いたよ。おまたせー」
奇声とともに、おじちゃんが室内に登場した。こういう態度を見せつけられると、僕の不安はどこまでも膨らんでしまう。しかもおじちゃんは、部屋の中央で陽気にダンスダンス、フラダンス、右手で光の洋服をつかんで、その手を天に向かって突き上げた。両足はマネキンのように肩幅でそろえたまま、左手に至っては腰の辺りでミスユニバース――はっきり言うが、その格好はとても日本人には似合わない。特におじちゃんの場合、そう言うポーズを人前で取れる性格に、問題がある。
「おじちゃん、そろそろ閉園の時間だけど、僕らはまだここにいても構わないの」
「従業員専用の出口があるから平気さ。ゆっくり慌てずに行こうよ、ねっ」
おじちゃんはこの世の春をおう歌していた。光のやつまでが、一緒に楽しんでいることに対して、僕は強い憤りを感じている。こうなったらせめて卒業証書くらいは持参しないと、ママがおじちゃんを信じるとは、とても思えなかった。
「ヒクヒク、ヒック」
そんなとき、上体を大きく反らしながら、光のやつが奇妙なしゃっくりをした。いつものそれとはまったくちがう。背中にバネでも仕掛けてあるかのように、体を激しく上下に振った。それを見た僕の胸のうちでは、いきなり不吉な予感が芽を出した。ひょっとして、フュースのウンコを食べたせいで、体が異常を訴えているのかもしれない。そう考えると想像だけが一人歩き、予感がどんどん現実味を帯びだした。
いくらなんでも、宇宙生物のウンコをほおばった人間の体に、なんの変化も起こらないはずがない。光が怪物に変身する可能性だってあるし、姿形はそのままで、凶暴な内面的変化を見せることだって十分に考えられる。だけどそれだけならば、僕にはなんの不服もなかった。自業自得どころか、どう考えても人ごとだ。ただしその場合、今の状況から判断する限り、犠牲者第一号は僕と言うことになる。
今夜はとても眠れそうになかった。
「さあ、行くよ」
おじちゃんが出口のドアを開けたとたん、屋外の闇が部屋の中に紛れ込んだ。僕はただそれだけのことでおじ気づき、足の指でさえも小刻みに震えだした。
「どうしたの、卓君」
ドアの近くから、おじちゃんが僕に向かって呼びかけている。光のやつもその横で、こちらをじっと見つめていた。僕のほうは光の視線に押されてしまう。だけどいつまでもこうしているわけにもいかなかったから、しかたなくカウンターを抜けて出口へ向かった。
外へ出ると光は、またもや激しいしゃっくりを繰り返した。体を上下に揺らしながら、ダーリンの檻に向かってダッシュしている。
「待ってよ、光ちゃん。暗いから走ると危ないよ」
おじちゃんが慌ててあとを追いかけた。周囲はもう真っ暗で、檻のそばにある、二本の外灯だけが辺りを頼りなく照らしていた。その上、夜半のZOOはやっぱり不気味としか言いようがなく、猛獣たちの脅す声がそこら中から聞こえてきた。たまらず僕は、足をはやめて二人のそばに駆け寄った。
意識の表面には想像という悪しきベールがかかったままで、意志に反してどうにも足もとがおぼつかない。そんな僕を、かろうじて現実に引き戻したのは、おじちゃんのあの格好である。
おじちゃんが着ているつなぎには、フュースのウンコと光のオシッコが、こびりついている。そこから発するにおいがたとえ甘いものだったとしても、大腸菌の存在だけは消しようのない宿命といっても過言じゃなかった。そんな服装のおじちゃんを、いきなりママに紹介するなんて、やっぱり気が引けた。
「おじちゃん、きれいな服と着替えてよ」
ママは外見などにもうるさいほうだったし、学歴を他人に信用させるためには、それなりの身なりも必要だと思う。
「さっきのジャージーが唯一の私服だから、もうほかには着替えなんてないんだよ」
光が着ていたジャージーが唯一の私服だったと言うんなら、おじちゃんの給料もだいたいの想像がついた。ますます目の前が真っ暗になる。
「光、急いで帰るぞ」
そう言ってから、出口へ向かおうとした。だけど光のやつは何度、呼んでも立ち上がろうとはしなかった。いつものように、ダーリンに向かってなにか話しかけている。どう考えても学習能力に欠ける行為としか思えなかったが、今夜は珍しいことに、ダーリンが起き上がって光のそばに近づいてきた。
「おしゃべりは楽しいかい」
おじちゃんまでが光に調子を合わせて、のんきなセリフを口走っている。
「帰ると、言ってるだろ」
少し乱暴に肩を押して、不満を訴えてみたんだけど、光のやつはそれでも立ち上がろうとはしなかった。首だけまわして、僕のほうに顔を向けるのみである。
「ダ、ダーリンとお話をしたよ」
また光がうそをつく。
「そうか、よかったな」
僕はあっさりと聞き流した。
「うそじゃないよ。ほんとのことなの」
「もうやめろ、はっきり言うが、僕はひどく疲れてるんだ。今日の出来事のために、おそらく年単位で寿命を消費したにちがいない。その責任をお前に押しつけるつもりはさらさらないが、今度こそ、おとなしく僕の言うことに従ってくれ」
正直な気持ちだった。暖かいベッドが懐かしい。ママの顔でさえ、はやく見たいような、そんな弱気な気分になっていた。
「ダーリンとは、いったいどんなお話をしたんだい」
おじちゃんが話に割り込んでくる。薄ら笑いを浮かべながら、光の顔にほおを近づけている。
お人よしとしか言いようがなかった。言っとくが、光には友達と呼べる子どもなんて、一人も存在しない。よその子と遊んでいるところを、兄である僕でさえ、まだ一度も目撃したことがないというんだから、異常な事態である。どう考えても変態だ。
それと言うのも、光のやつがどうしようもなく、うそつきだからだ。
「はやく帰ろうよ。いつまでもぐずぐずしてたら、ママの人相が変わっちゃうよ」
二人ともママということばに対しては、敏感に反応した。光は言いかけたことばをすばやくのみ込んだし、一方、おじちゃんのほうは、こぢんまりとした瞳を微妙に広げ、少女マンガの主人公のような顔をして、不気味なまばたきを繰り返した。
ようやく僕らは出口へ向かうことになった。従業員専用口はもはや明かりもなくて、足もとさえ危うい感じである。だけど外へ出たとたん、ウエルカムのネオンが僕らの前を照らしてくれた。光のやつはやや疲れ気味で、歩くのがのろくてのろくて、それに歩調を合わせる僕らは困惑したが、しばらくすると、おじちゃんが光をおんぶしてくれたので助かった。
そのうちおじちゃんの背中でくつろぐ光は、眠そうな目をこすり始め、やがて口を開けたままでよだれを垂れる。ただし僕のほうはどんなに疲れていても、やらなければならないことがまだ残っていた。
「おじちゃん、ママと会ったらね、すぐに自己紹介をしてよ。ダーリンの研究のために、東亜大学研究所からZOOへ派遣されている福西徹と申します、そう言えばいいんだ。わかったね」
かんで含めるように、言い訳のしかたを一から教えてやった。おじちゃんは一夜漬けの高校生みたいに、素直な態度で復唱した。
「それからね、もう四五日もしたら研究所へ戻ります。わっはは――ここまでだよ。絶対に余計なことをしゃべらないでね。あとのことは全部、僕に任せてくれたらいいんだから」
とにかくおじちゃんは、世話のやける人だった。
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