第10話 おじちゃんの正体が明らかになる。

 部屋の時計は五時半辺りを指していた。もうじき、夜がやってくる。

「ふぅ、やっと光ちゃんが、きれいになったよ」

 おじちゃんが光を連れて、部屋の中に戻ってきた。グレーのつなぎは胸から下半身にかけて、びしょぬれである。おじちゃんが精いっぱいの労働をしたことを、物語っていた。それとは対象的に、光のやつは白いバスタオルで体をすっぽりと包み、なんだか妙に気持ちよさそうな表情を浮かべていた。

「はやくタオルで髪の毛をふけ。カゼでもひいたら、それこそ大変だ」

 僕はここでも慎重だった。光のやつがカゼをひけば、僕の立場はますます危うくなる。たとえ病人であったとしても、ママは容赦など決してしない。自分にはどこまでも甘いが、わが子に対しては、人が変わったように厳しい姿勢を貫ける。

 光の病気はおそらく、僕のせい。どこまでいっても変化することのない、あまりにもかたくなで女王様的なママの考え方は、被害者である僕からすれば、ただひたすら頭の下がるような思いである。

「お兄ちゃんの言うとおりだよ。はやく髪の毛を、ふいちゃおうよ」

 おじちゃんが光に近づいて、あれこれと世話をやいている。光のほうはおじちゃんの前に仁王立ち、それが当然であるかのような顔をして、時折あごで指図までするんだからあきれてしまう。僕はそれを見ているのがいやだったから、窓のそばに近づいて、表の景色を眺めることにした。背後から聞こえてくる声にはとことん無視を決め込んで、光のことはおじちゃん一人に任せっきり、とにかくやつが落ち着くのをひたすら待った。

 やがて光も少し静かになったので、さっきから気になってしかたがないことを、思い切っておじちゃんに尋ねてみようと決心した。

「ねえおじちゃん、研究所って、いったいなんのことなの?」

 おじちゃんはいまだに光のそばでタオルを使っていたが、僕のことばを聞くと、驚いたようなしぐさを見せて振り返った。

「卓君がなぜ、研究所のことを知ってるんだい」

「おじちゃんがさっきから、何度もそう言ってたじゃないか」

「そうだったかな――別に隠す必要なんてないんだけどね」

 とまどい気味のおじちゃんは光のそばから離れて、テーブルの上にタオルを置いたあと、僕らのほうに向き直った。

「僕がこのZOOへ勤めだしたのは去年からでね、それまでは東亜大学研究所というところに、勤務していたんだ。だけどどうしても現場でダーリンを育ててみたくなって、無理をお願いして、雇ってもらっているというわけさ」

「東亜大学って、ひょっとして、あの東亜大学?」

 ――驚いた。

「そうだよ、同じ名前の大学なんて、ほかにはないだろ」

「そりゃあ、そうだけど――」

 東亜大学と言えば、日本で一番の大学なわけで、そこの研究所だとしたら、とてつもなく優秀な人たちが集まっているはずだ。おじちゃんがその研究所のメンバーだったとは、とても信じられないというのが、正直な気持ちである。だけどよくよく考えてみれば、頼りなく見える人が実はえらい学者さんだった、そんな展開は映画やマンガの世界ではすでにおなじみで、それでも僕がどうしても半信半疑なのは、実際にこうして実物にお目にかかってみると、予想以上に頼りなさが際立つからだ。

「だけどおじちゃんは、もうすぐこのZOOをクビになるんだろ」

 ダーリンが生きている間ということは、あと四五日くらいの猶予しかないはずだ。確かひげのおじさんが、そう話していた。

「残念ながら、そうなんだ。今回が僕にとって、最後のチャンスだと言える。来年からはZOOにダーリンを呼ぶこともなくなるみたいだし、今までの失敗を、ここでなんとか挽回したいと思ってる」

 やっぱりそうか――肩書を持っているからと言って、能力があるとは限らない。おじちゃんのZOOでの待遇も、おおかたの予想がついた。それもおそらくおじちゃんが、どうしようもなく情けない性格の持ち主であることを、ZOOの関係者に知られたのが原因にちがいない。でなかったら、東亜大学という肩書を持つおじちゃんに対して、あそこまでくそみそに怒れるはずがない。

 しかもひょっとすると、これがうわさに聞く、転落人生とか言うやつではないのか、そう思い当たったとたん、なんだか不思議なくらいにわくわくした。

 他人の不幸は蜜の味、それはどこまでいっても消えない人間のDNAで、生きている証だと言い換えても差し支えなかった。隣のおばちゃんが毎朝、話している雑談を聞けば、誰もがその事実を疑うことはないだろう。しかもここまで予想を立ててしまうと、おじちゃんの決定的な未来でさえも、僕には容易に想像がついた。

 結局のところ、東亜大学研究所を辞めてしまったのが運の尽き。理想に燃えたまではよかったが、おじちゃんにとって不幸だったのは、性格の一部始終をZOOの関係者に見抜かれてしまったことだ。これだけは決して挽回できない不手際だったと言えるし、とうとう最後には、上司からも見捨てられてクビになる。そのあとは大した働き口にもありつけず、酒におぼれて自暴自棄、やがては年を取り、狭い自宅で電灯もつけずに自分の人生を振り返るのだ。

『あのときおれは、なぜあんなことをしてしまったんだろうか』そんなことをおじちゃんが後から考えたとしても、いったん転落した人生は下へ下へと転がるのみ。はっきり言うが、もはやあとの祭りだ。失意のうちに肝臓かなにかの病気を患い、しがない病院のベッドの上で、のた打ちまわる。

 確か、こんなストーリーのドラマを、前に見たことがある。

「ZOOをクビになったら、そのあとはいったい、どうするつもりなのさ」

 おじちゃんの身の振り方について、僕はとても興味があった。

「そうだなあ、力及ばずそうなってしまったら、残念だけど東亜大学研究所に戻るしかないと思ってるんだ。ゲスト所員という名目で、今でも研究所に僕の籍はある。だけどね、なんとかダーリンの飼育を成功させたい、そんな気持ちでいっぱいなんだよ」

 やっぱりママが言ってたとおりである。世の中というものは、とことん不公平にできている。日本で一番の大学の研究所へ、おじちゃんはしかたがないからという、あまりにも身勝手な理由で復帰する。そんなことばを平気で口にできる神経が、僕はうらやましかった。

 だとしたら、いったい僕はどうなってしまうんだ。言っとくが、東亜大学なんて僕にはまるで縁がないし、リニアモーターカーで行く道順ですらわからない。

 いや、待てよ――突然、悪魔が耳もとでささやいた。名案とか、世の中の真理を得るためには時たま訪れる、魔物の声に耳を貸す必要がある。

 とにかく僕らは今日、おじちゃんに家まで送ってもらうことにしよう。今からではいくら急いでも、ママよりも早くマンションへ帰ることは不可能である。そうなると僕の運命もやっぱり転落気味、ところが事態は、いきなり好転した。そのはずである。ただしそうなった原因がおじちゃんであることに、僕としては一抹の不安を感じずにはいられなかった。

 だけど状況は決して悪くない。僕の横には日本で一番の大学の、しかもその研究所へ、しかたがないからという身勝手な理由で復職できるおじちゃんが控えている。こうなってくると、おじちゃんの略歴は僕の近未来にとって、重要な意味を持っていた。

 ただし言っとくが、出身大学などを自慢げに話す人たちを、僕はいつだって軽べつしている。とは言っても別に隠す必要などないし、おじちゃんのような、ほかになんの取りえもない人間にとって、自己紹介の中で学歴は、生命線だと言い換えても差し支えなかった。その上それを聞いたときの、ママの表情を思い浮かべるだけで、僕は精神安定剤がむやみに効いた、うつ病患者のような気分になった。

 ――うっとりする。

 これは絶対に成功しそうな予感がした。息子の言うことでさえ、決して信じようとしない、あまりにもかたくなな姿勢のママであったとしても、東亜大学のしゃべることならば、どんな荒唐無稽な話でも鵜呑みにする。

「どうしたの、卓君、一人でにやにやしてさ。なにか楽しいことでも思いついたのかい」

 危ない危ない――もう少しでおじちゃんに感づかれるところだった。

「おじちゃん、今日はすごく遅くなっちゃったし、暗くなると怖いから、家まで送ってくれないかな」

「いいとも、もちろん送ってあげるさ――そ、それに、君たちのお母さんにも会って、今日のおわびをしないといけないだろうしね」

 おじちゃんはなぜか、顔をほころばせながらうつむいた。それを横で眺める光の表情が、どことなく不審に思えて気もそぞろ。そんなとき、裏口のほうからけたたましい物音が聞こえてくる。

「あっ、洗濯が終わったみたいだ。光ちゃんの洋服を乾燥機に移してくるから、二人ともしばらくここで待っててね」

 おじちゃんはそう言いながら、裏口へ向かった。しかもさっきまでとは打って変わり、なんだか妙に、ご機嫌さんな表情を浮かべながらである。

「おじちゃんって、ママのことが好きみたい」

 光のやつがうれしそうな顔で、とんでもないことを言い出した。

「なんだと、おじちゃんがママのことを――」

 すぐには信じられなかったが、十分に考えられる話である。おそらくおじちゃんのストライクゾーンは、とてつもなく広いにちがいない。その上ママははっきり言うが、美人である。自分で言ってるんだから、息子の僕が口を挟む余地などまったくない。しかもそうなると、おじちゃんは昨日、ママに一目ぼれしたことになる。

 それにしても、なんて身の程知らずなんだ。

「ひょっとするとママだって、おじちゃんのことを好きになるかもしれないよ。おじちゃんって、結構、かわいいもん」

 ほうっておくと、光はどこまでもつけあがった。

「それだけは、絶対にあり得ない」

「そうかなあ――」

「言っとくが、おじちゃんは今まで女の人と会話をしたことなんて、おそらく数えるほどしかないはずだ」

「まさか、そこまでひどくないと思うよ」

「それはお前の買いかぶりだ。そんなおじちゃんがママを恋人にしようと考えるなんて、あまりにも無謀すぎる」

 首を横に振りながら、ちっちっち。

「わたしはそうは思わないけど」

 光のやつはどこまでも食い下がった。

「しつこいやつだ。ママは鏡の前で、女優にでもなればよかったわ、なんて独り言を言うほどなんだ。おじちゃんとはとても釣り合わないし、僕にしたってそんな不純な考え方を、絶対に許すわけにはいかないと思っている」

「お兄ちゃんってひょっとして、やきもちやいてんの」

「なんで僕がやきもちなんかやくんだ。そんなことを言うんなら、もうこの話題には二度と触れたくない」

 結局、僕らの話し合いは物別れに終わったが、おじちゃんの魂胆はまるっこ読めた。それにしても、さすがは東亜大学、油断もすきもあったもんじゃない。学歴をエサにして、ママを釣るつもりだ。だけどそうなると、やっぱりまずい。東亜大学研究所というエサなら、ママは簡単に食いついてしまう恐れがあった。

 なんてひきょうな人なんだ。

 だけどよくよく考えてみると、おじちゃんが身の程知らずにもそんな計画を立てているのだとしたら、今回の作戦はそれを逆手にとって、ママをエサにすれば必ず成功する。おじちゃんが送ってさえくれれば、たとえ帰りが深夜になったとしても、ママは僕らを快く許すだろう。

 そこまで考えてから、僕は思い違いに気がついた――やっぱりちがう。エサはママではなくて、どう転んでもおじちゃんになるような予感がした。

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