第9話 フュースのウンコを頬張る光。

「なんてことだ――」

 おじちゃんのつぶやきが耳もとにある。まさに悪夢としか思えなかった。僕らの視線の先には乳白色の容器があった。その中に両手両足を突っ込んでいるやつがいる。そいつはフュースの排せつ物を、むやみに食らっていた。

 あまりのことにしばし息をのんだが、それが光だとわかると、気分が一気に落ち込んだ。こんなやつが妹だったなんて、認めたくない気持ちでいっぱいになる。だけどこうしてばかりはいられない。しかたなく、僕らは光のそばに近づいた。するとやつはおもむろに顔を上げ、妙に人懐っこい笑顔で迎えてくれた。

 乱れた髪の毛にはおぞましいフュースの排せつ物が、こびりついていた。その上、箱の中に深く埋まった四股に至っては、もはや自力で引き抜くことは難しいと思えたし、食後、あそこからどうやって降りるつもりだったのか、それを考えると、あっぱれとしか言いようのない気分である。

「光ちゃん」

 たまらずおじちゃんが、光の肩をつかんで声をあげた。光は隠れる場所もなく、意味のない笑いで照れ隠し。光の顔はこのあいだ見た時代劇の山賊とそっくりで、もしもママがこの場にいれば、人目もはばからず号泣するにちがいないと予想できた。

 さすがのおじちゃんも、顔をしかめて渋い顔である。こうなったら絶対に怒るべきだと思った。二度とこんなことができないように、悲惨な結末を僕は望んでいた。

「大丈夫かい。あぁあ、ひどいなあ、こんなになっちゃって――」

 結局のところ、おじちゃんは怒れない人だった。

「おじちゃん、こいつをもっとしかりなよ。こんなことまでされて、へらへら笑ってるなんて、ただの腰抜けだってみんなから言われちゃうよ。それに女の子を甘やかすと、あとで絶対、良くないことが起こるはずだ。おん霊みたいなものなんだ」

 とにかく必死で訴えた。それなのに、僕の言うことなんてまるで聞こうともせず、おじちゃんは光の体を抱きかかえて箱から出し、ご丁寧にも頭をなでた。

「これからは、気をつけるんだよ」

 もはやおじちゃんには、なにを言っても無駄である。だけど横でへらへら笑っている光の顔を見ていると、僕の気持ちはどうにも収まりがつきそうになかった。

「絶対にこいつはまたやるよ。まちがいない」

「そうは言うけどね、小さな子どもの失敗は、たいていが大人の責任なんだ。僕に注意が足りなかったからこうなった。光ちゃんはなんにも悪くないよ。むしろ悪いのは僕のほうさ」

 ここまでくると、おん霊の思うがままだ。ただアーメンとしか、かけることばでさえも見あたらなかった。

 それにしても、この状況でなおかつ、フュースの排せつ物を口に持っていってはもぐもぐと食らう、光の生命力には恐るべきものを感じてしまう。そしてこれがもし、八歳の子どもの偽りなき正体だったとしたら、ナイチンゲールでさえも、三十八度五分の熱を出し、座薬を入れて寝込むにちがいないと予想した。しかも、ここまでの光景を見せつけられるとおぞましい想像でさえも、解禁される。ひょっとして、光の魂はもはや消滅していまい、体をフュースの大腸菌に乗っ取られてしまったのではないだろうか――そう思わずにはいられない午後だった。

 僕がそんな心配をしているうちに、おじちゃんは光を抱きかかえてカウンターの外へ出ようとした。

「どこへ行くのさ」

「今度は光ちゃんを洗濯しないとね。このままだといくらなんでも、ひどすぎるだろ」

 そう言ったあと、おじちゃんは光を抱きかかえたままで、ドアの向こうへ姿を消した。僕のほうはそれを見送りながら頭を抱え、二人が通ったあとに残る、チョコのにおいにとまどうだけである。やがて向こうから水流の音が漏れ聞こえてくる。そのあと、「冷たい、おじちゃんのエッチ」そんな声まで聞こえてきたんだから、じっとしてはいられなかった。舌打ちを繰り返しつつもしかたなく、二人のあとを追いかけて裏口へ向かった。

 ハウスの裏ではステンレス製の流し台が大きな口を開けて、光の下半身をくわえ込んでいる。

「ジャージーを脱いでくれないと、うまく洗えないじゃないか」

 おじちゃんは相変わらず、優しげな声でお願いを繰り返していた。

「くすぐったいよー」

 ここでもやはり、光は楽しそうな声を出していた。僕の我慢はもはや、限界である。

「いい加減にしろ。あんなものを食べたら、死んじゃうかもしれないぞ。汚れだってはやく落とさないと、さっきのフュースみたいに、皮膚がぼろぼろになっても知らないからな」

 フュースみたいになるぞ、という言い方はどうやら効いたようで、さすがの光も一瞬ひるんでうつむいた。だけどすぐにまた、顔を真っ赤にしながら言い返してくる。

「あんなものってなによ。チョコなら毎日、食べてるもん」

 ――なんてやつだ。

「さっきお前が食べたのはな、チョコレートなんかじゃないんだ」

「お兄ちゃんのうそつき。わたし知ってるもん。自分だって狙ってたくせに」

 光のやつはシンクの中から、なおも強い口調でかみついてきた。

「ばかなことを言うな、僕が排せつ物なんか、狙ったりするもんか」

「ぶぅるるる」

 唇を振るわせて、目玉をむく。口で負けると光のやつは、いつもこれだ。だけどどうやら、光は排せつ物ということばの意味がわかっていないらしい。説明をしてやったほうがいいのかどうか、兄として僕は、しばし生真面目に考え込んだ。

 いくらなんでも、自分がフュースのウンコを食べたと知れば、たとえ恥知らずな光にしたって手ひどいショックを受けるはずである。その事実がトラウマとなり、将来に多大な影響を及ぼす可能性だって、まったくないとは言い切れなかった。しかもその真相をあばくのが裁判官ではなくて、兄である僕であったとは、人生っていうのは、ほんとに皮肉――だけどそこまで残酷な決断を、僕にしたって簡単にできるわけがなかったし、きっぱり話すには、あまりにも事が重大すぎた。

 悩んだ末にうつむいて、次に顔を上げたときには、ようやく決心をつける。ウンコの事実は光には明かさず、一生、僕の胸にしまい込んでおくつもり。悲壮な決意とともに、気持ちをむやみに和ませた。哀れな妹に対して、優しく微笑んでやろうと心に決めた。

「ぶるうううう」

 ところがまた、光のやつが唇を振るわせて、口でおならをする。それを見たとたん、僕の自制心は陰に隠れてあくびをした。

「ダーリンはな、フュースのウンコを食べるんだ。つまり、お前がむさぼり食ったのは、宇宙生物のウンコというわけだ」

 とんでもない大声を張り上げて、自分がいったいなにを食べたのか、いやと言うほどわからせてやった。ひるんだ光は僕のほうをしばらく眺め、そのあと図々しくも、おじちゃんに向かって助けを求めるそぶりを見せた。

「お兄ちゃんの言ったことなんて、全部、うそだよね」

 質問されたおじちゃんは即答することができず、うつむいたままで肩をぶるぶると震わせた。そのうち顔色でさえも青ざめて、わずかな時間のうちに、唇は死人のように色つやを失った。ここまでうそを拒否できる体を、初めて見た。

 確かにうそつきは悪人にちがいない。だけどまったくうそをつけない人の行く末は、どこまでいっても悲惨であると、たやすく予想がつく。僕はおじちゃんの将来に対して一抹の不安を感じつつ、心の内で手を合わせながら、かすかに呟くしか方法がなかった。

 ――アーメン。

 ただし光にとっても、沈黙はやっぱり効果があった。おじちゃんの態度から、なにも感じないほど鈍感な性格ではもちろんなく、こそくなほど機転が利く光の顔は見る見るうちに変化した。どうやら泣く準備に取りかかったようである。

 困るとこいつは、すぐに泣く。

「大丈夫だよ。死んだりなんかしないから安心してよ。前に研究所でネズミに食べさせたことがあったんだけど、そのときにはなんともなかったから、たぶん平気さ」

 たぶんということばじりに、おじちゃんの正直さと事の信ぴょう性が感じられた。しかもおじちゃんはまた、研究所と言った。それが僕にはどうしても引っかかる。

 そのあともおじちゃんは光を、しきりに慰めていた。だけど光が泣きやむことは決してなく、それからすると、ネズミと自分がちがうことくらいは、さすがのやつにもわかっている様子である。

「皮膚がめくれてくるの?」

 泣きじゃくりながら、光がおじちゃんに対して、質問を繰り返している――しつこいやつだ。

「そんなことはないさ。おじちゃんだっていつも、手についたりしてるけど、まったくなんともないからね」

 それを聞くと、光の顔にやっと赤みが差した。

「お兄ちゃんのうそつき、おじちゃんが大丈夫だって言ってるもん」

 あっという間に泣きやんで、僕に向かって悪態をつく。やつの急変にあきれ果て、その上僕は、なんだかひどく疲れも感じていた。どう考えても光のほうが、僕よりも口は達者である。ひきょうでこそくな性格と相まって、並の神経の者には耐え難いことが多すぎる。後のことはおじちゃんに任せて、一足先に室内へ戻ろうと決心した。

「うそつきお兄ちゃん、逃げるのか、ぶるるう」

 円満な態度を貫く僕の背後から、不埒な声も聞こえてはきたんだけど、ここではやつのことを完全に無視、収まらない気持ちを懸命に抑えてドアを閉めた。部屋に戻ったあとは深いため息に明け暮れて、額を両手で押さえながらその場に力なくうずくまった。

 それからしばらくの猶予があり、やっと気持ちの整理がつくと、さっききれいにしたばかりの床が、また汚れていることに気がついた。今度はフュースのウンコがあちこちに飛び散って、そこら中に異様な模様が浮き出ている。

 光がダーリンのエサをむさぼり食った結果が、これである。

 その上、部屋中に充満するチョコレートのにおいにしたって、今となってはウンコという事実からは逃れようがなくて、神経は手ひどいトラウマのために、へき易しながら横を向いた。とにかく窓を開けて、部屋中の空気を入れ替えるのが先決だと考えた。

 窓を開けたおかげで環境は幾分ましにはなったが、時間の経過だけはどうにもならず、窓から見える太陽が西へ傾く様子を目の当たりにして、僕の胸はどうしようもなく、きゅんきゅんと痛み出した。

 はっきり言って、このままだとママにこっぴどくしかられる。

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