第8話 光のオシッコで、床にできた奇妙な模様。

 カウンターを抜けたとたん、奇妙な物を見つけたために、僕とおじちゃんは同時に声を漏らした。驚いたのは床をもぞもぞと這う、あれのせいである。芋虫のようにも見えたし、生命力が極端に弱い、でかいゴキブリだと聞かされてもまったく、違和感がなかった。だけどそれが光だと言うことに気がついて、僕らはどちらからともなく吹き出した。

 おじちゃんのジャージーが光の手足をしっかりと捕獲し、どうやら身動きの取れない状態であるらしい。その上、後頭部に載せてある白いリボンがやっかいで、上着と絡まって、互いを引っ張り合いながら面倒な関係に及んでいる。そのため光の頭はいまだにジャージーの中に埋まったままで、そこから脱出する手段を懸命に探している。ただしそれを阻むリボンとジャージーにも言い分はあるらしく、光の強引なやり方に対して、従う気などさらさらないようだった。

「大丈夫かい、光ちゃん」

 見かねたおじちゃんが光に近づいて、手を貸そうとしている。だけど僕は一歩も動けずにいた。床には光のオシッコが、そこら中にまき散らされている。うかつに部屋の中を歩きまわれないような、緊張感がひしひしと足の裏から伝わってくる。そのうち光のやつがおじちゃんの助けを借りて、顔をのぞかせる。それを確かめてから、僕はおじちゃんに向かって声をかけた。

「はやく洗濯を始めてよ」

「わかった。すぐにやるよ」

 いよいよおじちゃんが、問題の品を処理しようとしている。そのやり方に対して、僕は多少の興味があった。例のぶつは光のすぐそばにある。相当な水分を含んでいるため、普段よりもかなり重たいはずだ。よくよく考えてみればおかしな具合ではあったのだが、誰かがあれを始末する必要性に迫られているわけで、僕は絶対にいやだったから、おじちゃんにやってもらうしか、しかたがないというのが事の真相である。

 ようやくおじちゃんが、一歩前に進み出た。そのあとすぐにたじろいで、真っ青な顔をしながら立往生、とにかくおじちゃんはあきらめの悪い人だった。

「おじちゃん、はやくしなよ」

 僕はこうなることも予想していたので、間髪入れず、おじちゃんの背中に向かって強い口調で激励した。

「わかった――」

 おじちゃんはそう言ってから、何度かつばをのみ込んだ。のどの奥で鳴る、下品な音を僕の耳は確かに聞いた。それからようやくあきらめがついたらしく、腕を伸ばして例のぶつに触れようとした。だけど指先がそれに近づいたとたん、もう一呼吸の猶予を取る。見ている僕のほうはつらくてつらくて、悪いとは思ったんだけど、おじちゃんから視線をそらして横を向いた。

 そのすきに、例のぶつをつかんだおじちゃんが立ち上がった。あれだけオシッコのしみた、かわいいお洋服も珍しい。僕はもう一度おじちゃんに視線を戻したあと、指先にぶら下がる光の服をじっくりと観察した。そこでもう一度、息を呑んだ。なんとピンクの洋服からは、しずくがぽたりぽたりと滴って、床の上にはくっきりとした証拠のシミがつく。

 悪夢としか思えなかった。

 やがておじちゃんはそのままの態勢で、カウンターの向こうまで進み、小屋の出入り口とは逆のドアから出て行った。

 ――どうやら、裏口があるらしい。

 ドアの取っ手が壁と同じ色だったので、僕は今の今までそのことに気づかなかった。それにしても、おじちゃんのやり方はどこまでもき帳面と言ってよく、一連の動作の中で接地面を最小限に抑え込み、結局最後まで、右手の人さし指一本だけですべての処理をまかなったんだから、恐れ入る。

「ひどい、あんな持ち方なんて、ひどすぎる」

 いつの間にか光が僕の横に立ち、ほおを膨らませながら文句をひとしきり。どうやらおじちゃんのやり方に対して、抗議の気持ちがあるらしい。だけど普通の者にはあれくらいが精いっぱい、はっきり言うが、僕なら見るのもいやだ。

 その上、光の体からはまだまだ、しずくが垂れてきそうな感じがして、こうなったら早急に、床をきれいにしないと足の裏の緊張感が取れそうにない。しかたがないので部屋の掃除をしようと思い、急いで道具を探すことにした。

「後始末をしてやるから、お前は邪魔にならないように、はじっこへ寄れ」

 光のやつはおとなしく言うことに従った。するとうまい具合に、部屋の隅にはモップが立ててあった。モップを手にとって、念入りに床をふいた。だけどここでもまた、気になることが起こって首を捻った。どうやらモップの先には、フュースの排せつ物がこびりついていたらしく、床を汚す光のオシッコと混ざり合い、奇妙な模様がそこには描かれていた。

 ぞっとした。

 しかもそれ以上におぞましいぶつが、この部屋の中には存在している。ぐっしょりと、オシッコまみれになった段ボールの箱である。あまりにも無残な姿で、部屋の中央に横たわっていた。とりあえずそれとは向き合いたくなかったので、モップの先を段ボールの箱にあてがって、ずるずると部屋の隅に追いやった。すると箱が通ったあとには、オシッコで舗装された道ができあがる。

 僕の我慢も限界に近かった。嗚咽するような気分を懸命にこらえて、一番被害の大きい場所を、目いっぱいの力を込めてモップでこする。そんな友好的な僕の姿を、光のやつは部屋の隅からじっと眺めていた。

「光、大人用のジャージーなんだから、お前のようなチビなら上着だけでも十分なはずだろ。ズボンなんてはこうとするから、動けなくなるんだ」

 いらつく感情を光にぶつけてやった。

「お兄ちゃんの、エッチ」

「あきれたやつだ。お前の粗相したものまで掃除してやっているというのに、よくもそんなことが言えたもんだ」

 正当な反論をした僕に対して、光は返すことばもなく、横を向いて口をとがらすだけだ。その態度には腹も立ったんだけど、洗濯を終えたら急いでマンションに帰る必要があった。だから光のやつをこれ以上、刺激したくないというのが正直な気持ちである。

「お兄ちゃん、帰ったらママにしかられるかな」

 光はしきりに髪の毛なんかを気にしながら、ようやくそのことに気づいたようだった。

「あんな服を着て、ZOOなんかへ来るお前の神経が僕にはわからない」

「だって、お出かけするときの女の子はね、一番気に入ったお洋服を着て行くもんなの。こないだテレビでそう言ってたもん」

 大げさなまばたきを繰り返しながら、訳のわからないことを平然と言ってのける。僕はそれを見ながら唇をかんだ。おん念という感情は、こうした課程で生まれるのだろうと確信した。

「笑わせるな。そう言う女の人はな、お漏らしなんかしないものだ」

 まったく、テレビの悪影響がこんなところにもあったなんて、社会悪としか思えない。あまりにも身勝手な光の言い草を聞いて、僕はおじちゃんのことが少し気の毒になった。理不尽な光のパンツまで洗濯させられている。それを思うと、切なくてたまらない気持ちになった。

「ここでおとなしく待ってろ。おじちゃんに謝ってくるからな」

 円満な僕のことばに対しても、光のやつはそっぽを向いた。あごを突き出したままで、返事もしない。その様子をつぶさに見せられて、むやみに逆らわないほうが無難だと考え直した。人前でオシッコをちびったために、精神的にひどく不安定な状態になっている可能性がある。

 僕は黙ったままで立ち上がった。光に背中を向けて、カウンターの外へ出た。

「お兄ちゃん、ここにいてよ」

 そんな声も聞こえてはきたんだけど、光の相手はもうごめんだったし、それ以上におじちゃんの様子も気になった。はっきり言うが、おじちゃんほどあてにならない大人も珍しい。ほうっておくと、洗濯どころか、取り返しのつかない事態を招く恐れがある。

 裏口のドアをほんの少し開けて、そこから向こうをのぞいてみた。ハウスの裏は息が詰まるほどの広さしかなくて、そんな中に、無理やり洗濯機や乾燥機が押し込んであった。洗面台や流し台なども、ところ狭しと並んでいる。むき出しのブロックが、正面と左右を塞ぎ、天井だけが唯一、半透明の樹脂でできてはいたものの、そこからの明かりはかなり遠慮気味で、昼間にもかかわらず辺りは相当、暗かった。やがておじちゃんが僕に気づいて、こちらを向いた。

「卓君、もう少し時間をちょうだいね。できるだけはやく乾かすからさ」

 おじちゃんは光の洋服を流し台のシンクで、もみ洗いしていた。意外ではあったんだけど、なんだかすごく手慣れた手つきである。

「妹が迷惑をかけて、本当にすみませんでした」

 僕は丁寧なことばで謝った。その場で軽く頭を下げた。

「いいよいいよ。光ちゃんがあんなことになったのは、やっぱり僕の責任なんだしね」

 確かにそれは、そのとおりだと思う。

「そんなにフュースが怖かったのかなあ」

 シンクの中に置いた手を止めて、おじちゃんは額の汗を袖でぬぐいながら、ため息をついた。

「フュースってあんな外見だからさ、ZOOなんかにはもちろん連れて来られないし、メディアでさえも、彼の姿を報道できずにいるんだ」

 おじちゃんの声は心地よくて、柔らかい羽根でもついているかのようだった。

「でもね、調査ではフュースとダーリンの数は同じくらいなんだ。それからすると、ダーリンの数が減ってきたら、あのいかついやつが、柄にもなくやせ我慢をして、絶食してるのかと思うと可笑しくなっちゃうんだ」

「まさか、フュースがダイエットなんか、するはずがないと思うけど」

 僕が反論すると、おじちゃんがこちらを向いて笑顔を見せた。

「とにかくさ、フュースって本当は悪いやつじゃないんだよ。愛情が豊かで、この世の誰よりも、ダーリンのことを大事にしてるんじゃないかと思う」

 おじちゃんは手を止めることもなく、目を伏せながらつぶやくような調子で話している。そこにはまちがいなく、哀愁が漂っていた。たとえ女の人にまったく相手にされることがなかったとしても、男子には哀愁さえあれば、ほかにはなにも必要ない。

「おじちゃん、このモップで床をふいたから、ここに置いとくね」

「ありがとう、洗濯が終わったら、すぐに後始末をするよ」

 こうなると薄暗いのもかえって好都合と言ってよく、どんなに狭くても男同士の空間がここにはあった。友情、まさしくその二文字でしか、今を表すことはできそうになかった。その上、耳の奥、鼓膜よりもずっと内側から、パパに昔、教えてもらったスタンドバイミーが鳴り響いている。こうなったらもう、あっさりトドメを刺された感じ。そばにいて、あのとき僕がそんな風に訴えたら、パパはいったいなんと答えてくれたのだろうか――。

 少し頼りない僕を尻目に、おじちゃんがてきぱきと動いている。シンクから光の服を取り出して、それを洗濯機の中に放り込んだ。そのあと手際よく、タイマーをセットした。

 それにしても、おじちゃんに男を感じてしまう僕は、あまりにも不覚としか言いようがなかった。ただし、近所の高校へ通っているお姉さんたちの会話を立ち聞きしたとき、『相手がいなかったら、手近なところで我慢したら』などというアドバイスを耳にはさんだことがある。確かにそのとおりだと、僕はこのとき確信した。

「さあ、向こうで一服しながら、洗濯が終わるのを待つことにしよう」

 おじちゃんはそう言ってから、白い歯をのぞかせた。もちろん僕だって、さわやかな態度でほほえみ返し。そのあと二人そろって室内に戻る。気分はとにかく最高だった。だけどそこでまた、僕らはおかしな物を見せられる。

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