第5話 おじちゃんはなんと、下っ端だった。

 平日ということもあり、園内は人影もまばら、檻の周囲なんてほとんど人もおらず、ここまでダーリンの人気が下落してしまうと、人ごとであるのはまちがいないんだけど、やっぱりどことなく寂しい限りである。そうは言ってもいったん落ちた人気の回復は、著しく難しい。しかたがないとあきらめて、あたりを見渡しながら、おじちゃんがいないかどうか探ってみた。だけどどこにも見あたらず、どうしたものかと思案にくれる。そんなとき、光のやつが僕の腕を強く引っ張った。

「おじちゃんはあそこにいるんじゃないの」

 檻の近くにある小屋を指さしながら、光のやつはやたらと口をとがらせた。

「行ってみようよ」

 そう言ったかと思うと、すぐさま走り出した。

「ちょっと待てよ」

 叫んではみたものの反応はなく、あまりにも積極的な光の態度を眺めながら、僕は少なからず不安な気持ちになった。おじちゃんが僕らを見て、どんな態度を示すのか、急にそれが心配になってきたんだ。ママに言わせると、たいていの大人は子どもに対して愛想がいい。かわいいなんてことばもしょっちゅう口にするが、それは本心とは大違い、他人の子を、心底かわいいなんて思っている大人はほとんどいない、らしい。

 だから調子に乗るな。やたら話しかけると、良くないことが起こる。

 その辺の考え方には僕としても同調できる部分が数多くあり、大人、特に男の人に対してはついつい身構えてしまう。ただしこういう場面では、光のやつはとても頼りになった。やつは小屋の入り口に近づいたあと、なんのためらいもなくドアを開け、あっという間に室内に上がり込んだ。

 こうなったら僕だって、ぐずぐずしてはいられなかった。足をはやめて光のあとを追いかけた。

 小屋の中は閑散とした雰囲気で、入るとすぐに白いカウンターがあった。高さは僕の背丈と同じくらいである。それが室内を仕切っているため、部屋の中をくまなく見渡すことはできそうになかった。ただしそれほど広いというわけでもなかったので、奥へ向かうまでもなく、室内に誰もいないことは明らかだった。

 なのに光のやつはずうずうしくも、カウンターの端へ向かい、そこから奥の部屋へ入ろうとした。

「やめとけ、光」

 僕が叫ぶと、光のやつは足を止めて、こちらを振り返った。

「どうしてだめなの」

「誰もいない部屋へ勝手に入ったら、きっとしかられるにちがいないぞ」

「ふぅん」なんて鼻を鳴らしながら、光はきつい目で僕をにらみつけた。そのとき背後で突然、物音がした。入り口のほうから、ぎぎぎ、ばたんなんていう音がしたかと思うと、中年の男性が、ドアのすき間から、こちらをのぞいているのがはっきり見えた。

「こらこら、勝手に入ってきちゃいかんよ」

 男性の身なりは柄物のネクタイに、エンジのスーツ姿である。子どもを脅かすには十分すぎる服装だった。ただしそれよりもなによりも、少しアンバランスな顔立ちこそがこの人の真骨頂と言ってよく、鼻の下には毛虫のようなひげがあるにもかかわらず、それより上に位置する部分には、なんと言ったらいいのか、多少、寂しい風景しか存在しない。それなのに、この人の首筋には産毛とは呼べないほどの毛根が根づいている。そのことに対して、僕はひどく圧倒された。

 結局のところ、僕らは小屋を追い出されてしまう。ダーリンの檻の前で、うろうろするばかりである。光のやつは口をへの字に曲げて、へたり込んだ。不機嫌そうな顔をしながら、ついには僕に向かって抗議のことばを口にした。

「それで、いったいいつまでこうしてるつもり?」

「そんなこと、僕が知るもんか」

「無責任」

「どういう意味だ。そう言う態度を取るんなら、はっきり言うが、僕はもう帰ってもいいんだぞ」

 思い切って言ってみた。

 入場料の四百円はとても痛い。だけどあんな言い方をされてまで、ZOOに未練なんてないと言うのが正直なところである。これ以上ばかにするような態度を取るんなら、いくら円満な性格の僕だって、いつまでも黙ったままではいられなかった。

 そんな険悪な状態はしばらく続いたが、やがて光のやつが、両手をめいっぱいに伸ばして、大声を出した。

「あっ、いたよ。おじちゃんだ」

 揺らぐのような陽光を身にまといながら、あまりにも頼りなげな人影がこちらへ近づいてくる。それにしても、あの手の風ぼうはどうしても昼間は不利だと思う。情けなさがなおさら際立って、今にも消え入りそうな予感が予想以上にふくらんだ。

「やあ君たち、今日も来たのかい」

 おじちゃんがすぐそばまでやって来ると、待ってましたとばかりに光のやつが勢いよく突進した。

「二人だけ?」

 辺りを見渡しながら、おじちゃんが僕らに向かって尋問口調で問いかけた。

「ママはお仕事だから、今日はお兄ちゃんと一緒に来たの」

 光の頭のてっぺんから、金属音が鳴り響いている。「ダーリンやフュースのことを、いっぱい教えてねえ」などと言いながら、なおも怪しげな声を連発した。

「光ちゃんって、ほんとにかわいいね」

 おじちゃんは僕のほうに注目しながら、見え透いたお世辞を二言三言、口走った。僕は寛大な気持ちでそれを聞き流し、早速、自己紹介を開始した。

「相川卓です。今日はよろしくお願いします」

 両手を体にくっつけたままで真下へ伸ばし、腰の辺りを回転の中心にしながら、上半身を前方へ四十五度くらい傾ける。

「いやあ、こちらこそ。僕は福西徹、お兄ちゃんのほうはすごく礼儀正しいんだね」

 男同士というものは、一定の距離を保ちながらつきあう必要があった。僕とパパにしたって同じである。たまにしか会えなくなってからは、丁寧なあいさつを交わしてから会話を始めるのが常だった。

「さあ、みんなでダーリンハウスへ行こう。おもしろいものをたくさん見せてあげるよ」

 そう言いながら、おじちゃんがさっきの小屋へ僕らを案内しようとした。だけどなんとなくいやな予感がした。そのせいで、僕の足は一向に前へ進もうとはしなかった。先ほどのおじさんがまだあの小屋の中にはいるはずで、あの人がいる限り、僕らはまた追い出されるにちがいなかった。

 事情を話そうと思っても、能天気なおじちゃんは、光と二人でさっさと小屋に向かってスキップを踏む。それを見せられる僕としては、ついつい言い出すことができずに黙ったままで、二人のあとを追いかけるしかなかった。やがておじちゃんがハウスのドアを開けた。そのとたん、室内からどなり声が聞こえてくる。

「福西、おまえというやつは、いったい今までどこでサボってたんだ」

 どなり声の主は、スーツにひげのおじさんだった。

「今度こそ、本当に最後のチャンスだぞ。またダーリンの飼育に失敗したら、お前はすぐにでもこの職場を去れ」

 それにしても、上下関係があまりにも鮮明すぎて、僕は思わず苦笑した。しかも今の話によれば、おじちゃんがZOOにいられる期間は、長くてもあと一週間といったところである。

「すみません、実はかわいいお客さんが僕を訪ねて来てくれたもんで――」

 ――なんで僕らのせいにするんだ。

「なんだそのこせがれは?」

「ダーリンに興味を持ってるらしいんです」

「ふぅん、それで」

「僕が知っていることを、多少なりとも教えてやりたいと思っています。飼育のほうは最後まであきらめませんので、ほんの少しだけでも時間の猶予を下さい」

 はっきり言うが、自分のクビが危ないというときに、いったい僕らになにを説明しようというのか、どう考えても社会人としての自覚に欠ける。しかもこのままではおそらく、ひげのおじさんはもっと怒りだすにちがいない。

「勝手にしろ。その代わり、ダーリンが死んじまったら、二度とおれの前に顔を見せるな。わかったな」

 予想どおりである。言い方は多少、下品かもしれないが、ひげのおじさんの主張はもっともだと感心した。一本筋が通っている。

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