第2話 ママをお姉さんに決定する以外にない。

 ZOOの出口には、サンサンシティというリニアモーターカーの駅がある。この時間帯だとみんな帰り支度の真っ最中だったので、駅へ続く北側の出口付近はたくさんの人で混雑している。だけど僕らは南出口のほうから歩いて帰るので、それに巻き込まれる心配はまずなかったから安心だった。

 僕らの家はZOOから南へ一キロほど離れたところにあった。野球のバットを逆さに立てたような形をした高層マンションで、遠くからそれを眺めてみると、地面に近づくほど細く見え、いつか倒れそうな感じがして、あそこで生活をするのが少し不安な気持ちになった。

 サンサンシティはベッドタウンで、駅を取り囲むようにして高層マンションが隣接し、町の中央には学校とZOOが控えている。静かで住みやすいところだと言われてはいるが、買い物や仕事場へ向かうにはリニアモーターカーを利用する必要があったから、僕なんかに言わせると、不便な町という印象が強かった。それでもやっぱり僕は、どこに住むかということよりも、誰と住むか、そのことのほうがずっと重要だと考えている。

 ZOOの周りには大きな公園が広がっていた。帰り道の両脇には花壇が整列し、植物にそれほど興味のない僕にしたって、ここを歩いていると、とてもさわやかな気分になった。今日のような休日には両側に屋台のお店がぎっしりと並び、そこら中からわき上がってくる、綿あめやたこ焼きのにおいのせいで、この通りはそれこそ混雑する。その上屋台の向こうで待ち構えているおじさんたちはとても口がうまくて、幸運なことに、僕らはいつも綿あめをものにした。

「そこのきれいなお姉さん、お一つどう?」

 呼び止めるおじさんの声に、ママはすぐさま立ち止まった。まさか僕らとママが兄弟に見えるはずがなく、お姉さんということばに対して、過剰に反応するママの神経には決して逆らうことを許さない、あっぱれな決断力が存在している。

 しかもママはなんのためらいもなく、お姉さんと呼ばれたのは自分だと思っているらしく、仮に本物のお姉さんがすぐそばにいたとしても、その呼び名だけはてこでも譲ろうとはしなかった。『ああら、おじさん、わたしってね、見た目はお姉さんなんだけど、こんなに大きな子どもがいるのよ』などと言いながら、本物のお姉さんの前に仁王立ち、あっという間におじさんのことばをのみ込んでしまう。あまりののみっぷりのよさに、口が商売の屋台のおじさんでさえもあっけにとられ、ママをお姉さんに決定する以外に、選択の余地はどこにも残っていない。

 だけど僕は、ママのうれしそうな顔を見るのが嫌いじゃなかった。ママは笑うとえくぼが両ほおに出る。光にも同じえくぼがあって、それがママや光の気持ちを僕に伝えてくれる。言うなれば、信号機のようなものである。

 そろそろ沿道を抜けて、マンションにはさまれた通りに出た。この辺りにはお店なんてどこをどう探しても見あたらなかったが、だけど不便はなくて、雑貨はネットで買えばいいし、公園に囲まれた高層マンションで暮らすのが、人間にとって極上の幸せなんだとみんなが思っているらしい。日曜日の朝、七時半からやっている、『わが町、わが人生』という番組のアンケート結果がそれだ。

 昔は至る所に商店街や繁華街などもあったそうだが、美しい町造りのためにそんなものは消えてしまい、その代わりにできたのが巨大なモール群である。僕の町の近くには、K1なんて言う名前のショッピングモールがあった。サンサンシティからリニアモーターカーで二つ目の駅である。ママはF1というビジネスシティに、毎朝六時半に起きて通っている。結局この町に残されたものは、ZOOと学校と公園、それから僕たちくらいのものだった。

 それはいいとしても、僕のパパはなんと建築家らしい。

 仕事場にも何度か行った覚えがある。だいぶ前のことだったのでよくは覚えていないんだけど、確かリニアモーターカーで十個目の駅だったように思う。パパはいったいどんな建物を設計しているのだろうか、そんなことをときどき夢想したりもするが、パパが建てた建築物を、僕はまだ一度も見たことがなかったので、想像以外には、それを形にすることはできそうになかった。

 パパとは長い間、会っていないけど、別に寂しいと思ったことは一度もないし、パパが僕らに会いたいと言わなければ、僕のほうから会いに行きたいなんてことを、ママには絶対に言いたくないと考えている。『パパ、最近、忙しいみたいだから、また今度ね』そんな風に言い訳をするママが、とてもかわいそうに思えてしまうから、パパに関する話題はできることならしないに限る。僕はやっぱり、デリカシーのわかる男でありたいし、カルシウムも必要だとは思うんだけど、男にとってはデリカシーが一番大切な栄養分だと確信している。

 そんなことを考えてるうちに、僕らはようやくマンションに到着した。

 僕らの住む部屋は二十四階にあった。引っ越しした当初は、部屋全体が揺れているような感じがして、気持ちが悪くてしかたがなかった覚えがある。それからすれば、最上階の八十九階に住んでいる人たちなんて、目がまわるような生活だったとしてもおかしくはない。ところがママに言わせると、上の階へ行くほど見晴らしがよくて、家賃も高いらしい。だとすると、目がまわっている人たちのほうがおそらく裕福であることはまちがいなくて、地面に近い僕らなんて、あまりお金に縁のない人種だと勝手に解釈した。

 だけどママだって結構しっかり者で、学校の友達の家庭と比べてみても、パパがいないことをのぞけば、僕らの生活は裕福なほうだった。部屋の数もリビングにママの寝室と子ども部屋、その上ゲストルームまで揃っているんだから、僕にとってはなんの文句もないわが家だと言える。

 しかも室内は片づいていて、ちり一つない。

 ママはき帳面な性格の上、恐ろしくきれい好きで、僕が知っている限り、どんなに遅く帰ってきたとしても、部屋の掃除を欠かしたことなんて一度もなかった。

 家具はリビングに、テレビとサイドボードがあるだけだ。ちょっと寂しいような気もするんだけど、引っ越ししてから買いそろえた物ばかりだから、これ以上ぜい沢を言ったらバチが当たる。

 前に住んでいた家は郊外の一軒家で、今のおうちよりもずっと広かった。そこにあった家具をパパが全部、譲ってくれたとしても、この部屋にはとてもじゃないけど収まりきれず、持て余すことになるのは明らかである。家具なんかもらってきても、きっとママはありがた迷惑だったはずだ。だからパパがくれると言うのを、ママのほうがかたくなに断ったんじゃないかと僕は予想している。

 ママにはそんな片意地なところがあった。今の生活を続けていくためのお金にしても、パパには一切、迷惑をかけていないらしい。隣のおばちゃんが話してくれたことだから、まちがいない。『だから欲しい物があっても我慢するのよ』それがあのおばちゃんの口癖だった。

 ママはずうずうしくて意固地な性格のために、男の人とのつきあいがうまくない。そのせいで、僕はいつもはらはらしている。パパとの関係を見ているとよくわかったし、それだけじゃなくて、ママはたいていの男の人に対して、好印象を持たない性格のようだった。それなのに、僕の学校の先生だけは特別らしくて、担任の先生の話をすると、途端に機嫌が直るんだから、どう考えても不思議としか言いようがなかった。

 例えばママにしかられて、どんな言い訳も通じなくなったとき、『こないだ先生が、相川君のママはすごく美人だねって言ってたよ』そんな風に、何気なく言うのだ。これがママにはうそのようによく効いた。抗生物質どころの騒ぎではない。『あの先生ったら、ほんとに面食いなんだから』などと言いながら、ママは怒っていることでさえも忘れてしまい、気持ちが悪くなるほど上機嫌な態度を見せる。一瞬にして事態が好転してしまうんだから、はっきり言ってワクチン以上の効果がある。

 あっけに取られている僕の横でママは鼻歌交じり、『よかったね、卓。ママが美人なおかげで、先生にかわいがってもらえるんだから、感謝しなさいよ。それにしても、あの先生ったら意外と見る目があるわ。ああ言う人が卓の担任だったなんて、わたしたちってすごく幸運だよね』しばらくほうっておくと、訳のわからないことを口走ったりする。

 僕はどう考えても、担任の先生からかわいがってもらった覚えはなく、ママの勘違いだとわかっていながらも、本能が肯定することを強く推し、『うん、本当によかった』などと叫ぶ以外に、選択の余地はどこにも残っていなかった。なにがよかったのか、いまだによくわからないんだけど、ママの機嫌が直ることだけは、僕にとって幸運だったと言えるし、この手を使えば、ママの怒りはたいてい長くは続かなかった。

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