第四章 鮮し仁

謎の狐面

 暗く深い東京の底に、澄明な池が一つある。


 国会議事堂の地下には、衆参両院の議員会館を経由して九段下の議員宿舎まで続く地下通路があることはよく知られている。だが、そもそも、現代の人間が認識している地面は、江戸時代に水道整備のために新たに造られた人口の大地であり――、本来、地上だった場所、すなわち、一般人は立ち入ることすら許されぬ秘密通路の最奥にある池のことなど、知っている者は限られていた。


 池のほとりには一本の榊が横たえられ、手前に、一人の礼服姿の男が片膝をついている。


 池の全容は、暗くて見えない。


 男のいる先に、暗がりでなお仄かに光を放っているかのような、朱色の鳥居が建っているのだけが確認できた。


 ――鳥居のあたりの水面に、一つ波紋が生じる。


 礼服の男が平伏した。


 ふわり、と、鳥居の手前に降り立ったのは、狐の面で顔を隠した男。小柄な体を、宮司が大祭の際に着用する衣冠に包んでいる。色は特級を表す黒、ほうの紋は輪無唐草わなしからくさ


比留間ひるま


 音のない空間に響いた声は若い。礼服の男――千代古ちよこみん党総裁、第一〇八代日本国内閣総理大臣・比留間ともるが頭を地になすりつける。


「いまだ来たらざりし者は、どうなっておる」


 一本歯の下駄をはき、波紋だけを残して、狐面の男は悠然と水面を歩く。いっそ少年のようにも思える声であるが、端々に満ちた威厳の前には、空間そのものすらも畏怖をし、息をひそめるであろう。


「み、ミライト計画でございますか。――は、話してもよろしゅうございましょうか」


 平伏する一国の宰相の鼻先に、狐面の男が降り立つ。見えるはずもない面の奥を上目で覗こうとでもいうのか、比留間がわずかに顔を上げた。


 ――その時、狐の面が比留間のほうを向く。


「おおお、奥の間の方々に、聞かれてはいないかと」


 畏れ、許しを請うように、比留間は先ほどより強く地に頭をなすりつけた。


「よい。大和の神々も、出雲の神々も、今はお眠りあそばしておいでじゃ」


「おお、我らが当主よ――。か、かしこみかしこみ、申し上げます。やはり、石動いするぎと名乗る小娘が、邪魔立てをしております。あ、あのような力は前代未聞。おかげで合衆国では、同盟破棄の議論まで湧き起こっているありさまで。い、いま、同盟を引き上げられでもしたら、日本は終わりです」


「石動、めいと言ったか……」


 そうつぶやき、狐面の男は沈黙する。


 平伏していた比留間だったが、動かなくなった狐面の男を見上げ、声をかけた。


「あ、あの……?」


「――いや、つまらぬ思議じゃ。石動とやらがこれ以上邪魔立てするようなら、さっさと始末してしまえ。それで、紅毛が同盟を破棄すると?」


「いえ。公式には、まだ何も。ですが、アメリカの国内世論はだいぶ紛糾しているようで」


「ふん。やつらが何を言ってこようとて、恐るるに足らぬ。それより今大事なのは孺子こぞうどものほうじゃ」


「で、ですが……。わたくしも国民の代表として、彼らの生活を守る責務が……。それに、あの少年らが本当に鍵なのでしょうか」


「――比留間」


 瞬間、内閣総理大臣は再三、頭を地面にすりつけた。勢いあまって池につっこみ、挿さっていた榊を倒し、だいぶ薄くなった毛髪を濡らす。


「おぬし、自分の立場を忘れてはおるまいな」


「めめっ、滅相もございませんっ!」


「我が神示、いささかなりとて外れたことはあったか」


「そ、そのようなことは……!」


 恐縮し平伏する比留間を見下ろし、狐面の男はダメ押しをする。


「良いか。此度の計画には、我らが父祖より受け継ぎし一族千年の宿願、高祖アテルイが為し得ざりし大望がかかっておるのじゃぞ」


「は、ははっ!」


 比留間は平伏のまま数分、頭を上げることが出来なかった。やがて、恐る恐る顔を上げたとき、そこにはいかなる気配も残ってはいなかった――。

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