グラヴィ爺(1)
「ダメッ! 逃げてぇ――!!」
「ほいっ!」
気の抜けたかけ声とともに、宿梨の体はいとも容易く三メートルほど投げ飛ばされた。
「宿梨くん、気をつけて! そのお爺ちゃん、柔道、黒帯の上の上の、赤帯だから!」
「枯恋ちゃん、言うの遅ぇーよ!」
「え、なに、今の!?」
「ちょ、
さっき一度見ているはずなのに、巧厳は改めて驚いている。
「あぁ、うん。泰山さんの能力はグラビティ・キャンセラーって言って、重力を打ち消す能力だから。気をつけて!」
どこか緊張感の欠ける声で枯恋が注意した。
「兄ちゃんは、政府と
先ほどまでの鳴に対する慇懃な態度とは打って変わり、いっそ気さくとも思える様子で泰山は問いかける。
「それは……」
巧厳は答えに窮してしまった。
「しょせん、議員の連中なんざ、人気取りがうめぇだけの凡人じゃ。鳴様みたいに立派なお方に、兄ちゃんたちの力を使ってもらおうや。の?」
「い、いや、そもそも、政府に協力して女になりたいわけでもないんだけど」
かといって――、言うなれば犯罪者である鳴について行っても良いのか、先ほどの言葉に嘘はないのか、その判断が巧厳にはつかない。
その時、泰山の背中に枯恋が抱きつき、両腕を封じた。
「二人とも、泰山さんはあたしが抑えておくから、急いで逃げて! 鳴先輩たちって、目的のためなら手段を選ばないところがあるから。何されるか、分からないよ!」
その言葉に、巧厳はハッとする。
(そうだよ……! この二人について行ったところで、女にならないで済むという保証はないんだった)
鳴も泰山も、まるで武士みたいな価値観の持ち主である。大義のためなら、死ねとすら平気で命じそうな恐ろしさがあった。巧厳が女になることが人類の進化のために必要だと判断したら、鳴は迷うことなく実行するだろう。
泰山を羽交い絞めにし、枯恋がまなじりをつりあげる。
「泰山さんの能力ってフィジー領域でしょ? 諦めて、帰ってもらえないかな。エニアのあたしに、勝てるわけないんだから」
泰山は一つため息をついた。
「勝てもせんけど、負けもせんわい。……しっかしまぁ、お嬢ちゃんは投げてもシメても立ち上がってくるけぇ、ゾンビみたいで、よう好かん」
「ごめんね。気絶とか、出来ない体質なんだよね」
体内の異常をキャンセルできる枯恋の能力が、傷や骨折などもキャンセルできるのだとしたら――、おそらく、物理的な攻撃に対しては無敵を誇るだろう。
しかし、泰山はそのことをまるで問題にしていないように、短く宣言する。
「ちっとのことじゃ死なんってのは分かったけぇ、荒っぽく行くど」
次の瞬間――、
巧厳の目には、泰山がおじぎをしたように見えた。
それだけの動作で、枯恋の体が上下反転し、上空に投げ出される。すらりとした両脚が二葉のように開いた。泰山は両腕を押さえられながらも、腰を支点に、枯恋を投げ飛ばしたのだ。
「きゃあああああっ! ――って、え? あ、あれ?」
枯恋が地面に叩きつけられるのを覚悟して身を固くした、そのとき、あり得ないことが起こった。――投げられる途中の、逆さまになった大股開きの状態で、枯恋の体が空中に静止したのだ。ひらひらレースの淡いグリーンのパンツがあらわになる。
「じゃあの。しばらく、飛んどいてくれや」
そう言うなり、泰山が枯恋の肩を思いっきり蹴り上げた。瞬間、枯恋の体がすさまじい勢いで上空に弾け飛ぶ。
「きゃあぁぁおおぉぉ……」
枯恋の悲鳴はドップラー効果でどんどん低くなってゆき、やがて聞こえなくなった。
「テメェッ! 枯恋ちゃんに何をした……っ!?」
宿梨がよろよろと起き上がり、泰山をにらみつける。
「なに。重力を消して、空に浮かんでもらっとるだけじゃい」
「ぶっ殺す!」
気合いの声とともに、宿梨は泰山に殴りかかった。だが、老人とは思えない俊敏さで、泰山は宿梨の猛攻を軽々とかわしきる。
「元気があっていいんじゃがの。わしからすりゃ、どの攻撃も隙だらけじゃい」
そう言って、泰山は右手の親指を宿梨の喉元に突き立てた。
「うげぇっっ、えほっ、うえっ!!」
えづくような咳をして、宿梨がむせこむ。
「大人しくつかまりゃあ、痛い思いはしないで済むんじゃがの」
「だれが……!」
宿梨は、今度は泰山の腰にタックルした。
だが、宿梨の全体重を乗せたタックルでも、泰山の体はぴくりとも動かない。細い脚のどこにそれほどの力があるのかと思えるほどの力で、泰山はタックルに耐えてみせた。泰山の体勢を崩せなかった宿梨は、慌てて泰山の腰にしがみついて、その動きを封じる。
その隙を見て――、巧厳はその場から駆け出した。
土足で体育館を通り抜け、校庭へと逃げる。
「仲間を置いてさっさと逃げるたぁ、男の風上にもおけんやつじゃ」
「おい、爺さん、よそ見すんな! 今相手してんのはオレだろ! あんたの背骨このままへし折ってやる!」
宿梨が両腕に力を込めるが、泰山は意に介した様子はない。
「ふん。少々、うっとおしいのう。おい、放さんか」
宿梨の腹に蹴りを入れた。
「うぎっ! ……げぅっ! ぐぇっ!」
悲痛な叫びが響くが、宿梨は泰山を放さない。泰山が、何度も何度も蹴りを見舞う。体育館裏に、断続的な叫びが響いた。
「しつこいやっちゃの」
「枯れた爺さんの蹴りごとき、何発もらおうが、放すもんかよ」
「――こりゃ、ちぃとばかし、シメんとあかんか」
泰山はそう呟くと、宿梨の頸動脈に親指を食いこませた。急所を押さえられ、脳へと向かう血流が急激に停滞する。的確にツボを突いた攻撃に意識が飛びそうになるが、それでも宿梨は泰山の体を放さない。
「……ちっ」
業を煮やしたか、泰山は宿梨ごと空へ舞いあがる。
空中で、再び泰山の蹴りが宿梨を襲った。腕の力では、腕の三倍あるという足の筋力には勝てない。足場を失って踏ん張ることができなくなった宿梨は、泰山の蹴りでいとも簡単に吹き飛ばされた。
どさっという音とともに、宿梨の体が体育館裏に横たわる。
「あがっ!」
「そこで大人しゅうしとけ」
泰山はそう告げると、巧厳を追って体育館の上空に飛び上がった。空を飛ぶ老人を目の当たりにして、まだ校庭に残っていた生徒たちが騒いでいる。
「おい、ちょ、あれ見てみ」
「うおっ、あれってまさか、ミライトってやつ?」
「すごぉい、飛んでる! わたし、ミライトって初めて見た!」
騒ぐ生徒たちには目もくれず、泰山は辺りを見回す。
その両眼に、校門を出ようとしている巧厳の姿が映った。
「あそこか」
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