第20話 side祐二

 外に出ると、大粒の雨が空から降ってきた。普段は気にも留めないそんなことが、今の祐二には憎くて仕方なかった。いや、本当に憎いのは自分自身なのかもしれない。


 真生が泣いているのを目の前にしながら、何もできずに、ただ立ち竦んでいた不甲斐無い自分。そんな 自分を、殺してしまいたいとさえ思う。


 何も考えたくなくて祐二は歩き出した。大雨の中を濡れるままに、時間の感覚を失うまでただひたすら足を進めた。しかし、歩いても歩いても昇華されない苦しみが、大事な想いをじりじりと焼いていく。

 

 窓に反射して見えた彼女の姿が、目に焼き付いて離れない。嗚咽を隠すように、口を塞いでいた小さな両手。気付かぬうちに細くなっていた震える身体。真生の心を表すように、途絶えることなく流れ落ちた涙。声を殺し、壊れてしまいそうな泣き方をした彼女に、胸は疼くように痛む。何処へ向かうのかさえ思いつかず、ただ歩いた。

 

 ──なぁ、お前はどんな気持ちでオレの傍にいたんだ……?

 

 彼女の微笑みに隠された痛みは、どれほどのものだったのだろうか。ようやく気付いた気持ちは、祐二が目を逸らし続けたものだった。誰が悪いと聞かれたら、きっと逃げていた自分こそが責められるべきだろう。


「……真生」


 彼女の名前を呼ぶことさえ避けていた。最初は情が移るのを避けるためにしていたことが、次第に逃げ道の一つになっていた。真生はきっとそれさえも気付いていて、全部を許していたのだ。


「ごめん。ごめんな……真生」


 そんな言葉を何度繰り返したところで、彼女痛みには到底とどかない気がした。思えば彼女は最初から、ただ祐二に想いを伝えることだけをしていた。「好き」とは言っても、「付き合ってほしい」と口にしたことは一度もない。自分がいずれいなくなることを前提に行動をしていたのだろう。そして最後には、何もも言わずに消えてしまうつもりでいたのだ。


『わたしという存在は死ぬんですよ』


 涙に濡れてなお、真っ直ぐだった彼女の目が忘れられない。覚悟を決めている者の持つ強さがそこにはあった。きっとそれは優し過ぎた真生が残してくれた最後の逃げ道だった。自分の想いを貫けば、祐二は失った彼女の影を追いかけて苦しむことになるだろう。


 残される祐二のことを考えたから、真生は突き放した言い方をしたのだ。嫌いだと言わなかった彼女の気持ちを考えると、身勝手でしかなかった自分を責める気持ちは大きくなる。その優しさが、こんなにも辛いと思ったことはない。苦しいはずなのに周囲ばかりを気にかけ、自分の想いよりも祐二の心を優先させて、少しも真生は自身を顧みない。


 そんな彼女の性格を実感して、祐二は歯痒さに頭を掻き毟りたくなった。彼女を鈍い奴だなんてよくも思えたものだ。その笑顔に目を眩ませて、いろいろなものを見落としていたのは自分の方だった。


 正面から走ってきた人と肩がぶつかり、祐二はよろめいて足を止めた。ふと周囲を何気なく見回した祐二は目を見開く。そこは真生と待ち合わせした駅だったのだ。時間通りに来た祐二に、満面の笑みで手を振った真生。脳裏に描かれたその笑顔に、切なさが込み上げて、目頭が熱くなった。


 ぽたりと一つ、水滴が地面に落ちた。一度落ちると、滴は、二つ、三つと零れ続け、黒く染まった地面に溶けていく。


「なんだよこれ……」


 濡れた感触を頬に感じて、指先で触れれば、雨とは違う温かなものが伝っていた。涙が零れるほど、彼女が好きだと。想わずにはいられないと。気付く前に、心が先に叫んでいたのだ。


 祐二は掌で顔を覆うと、熱い涙が流れるままに彼女を想って涙した。





 門の閉じた学校へバイクを取りに戻った祐二は、それから家に向かった。自宅に帰りつくと、真っ先に心配していた涼と無断欠勤になってしまったバイト先へと電話をかける。涼には明日は休むとだけ伝え、バイト先へは諸事情で暫く休ませてほしいと頼んだ。首になることも覚悟していたが、幸いなことに店長は何も聞かずに了承してくれた。祐二はその好意に頭が下がる思いだった。


 次は熱いシャワーと食事だ。濡れ鼠のまま空腹ではどうしようもない。鴉の行水で風呂に入り、簡単な軽食を取り終えると、祐二はソファに深く腰がけた。そうして、組んだ両手を額に押し当てじっと考える。


 真生がいつ手術を受けるのかはわからないが、時間は確実に限られている。彼女ともう一度向き合うためには、覚悟が必要だった。自分を曝け出す、覚悟が。


 どれだけそうしていただろうか。祐二は組んだ両手を解くと、一つの決意をして厚手のジャケットを手に取った。


 家から出ると夜の外はまだまだ寒い。祐二は一瞬身震いして駐車場に向かう。バイクからメットを出し、キーを回してエンジンを吹かす。そうしてバイクが十分温まると、祐二は出発した。

 

 大通りへの道を進むと、肌を切るように冷たい空気が流れる。祐二はスピードを上げた。夜も更けて、三時も回れば昼間は賑やかな街も束の間の眠りにつく。誰もが眠る時間にありながら、黒い空に浮かぶ傾いた月だけは、一際強く輝いていた。

 その明かりに背中を押される様に、バイクは道路を疾走する。

 

 周囲から建物が消えた頃、バイクは公道から脇道へと逸れて山道に入った。狭い道を上りきり、砂利が敷き詰められた広い場所に出ると、祐二はようやくバイクを止めた。

 

 普段は近づかないその場所は、深い静寂に包まれている。祐二は一つ息を吸うと、敷かれた石畳の上を歩き出した。周囲が白み始める。夜明けが近い。少し歩いた場所で祐二は足を止める。そこは祐二が避けて通っていた場所だった。

 

 ──一生ここには来ない、そう思っていたのにな……。

 

 目の前の物をじっと見つめると、祐二は静かに語りかける。


「情けねぇよな。覚悟を決めなきゃなんねぇ時に、思いついた場所がここだなんてよ。今のオレを見たら、あんたはきっと笑うよな──兄貴」


 細めた目の先には、兄が眠る墓があった。

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