第19話 side真生

 壁もベットもカーテンも白一色の病室。窓から見えるのは泣き出しそうな空の色。吹きこむ風にカーテンがブワリと膨らむ。


 窓枠に手をかけて深呼吸すれば、湿った空気が鼻腔を擽る。薄暗い部屋の中、静かな気持ちで空を見上げると、雨が近づく窓を閉じた。物憂げな空間を、突如バンッという激しい音が切り裂く。驚いて背後を振り返れば、そこにいるはずのない人物を見つけて目を疑った。


「祐二せんぱ──」


 その名前を呼ぶ前に、腕を引かれて、力強い彼の腕に抱きしめられる。


「……真生……」


 初めて耳にする細く弱い声に、心臓が不安に大きく一つ鳴り、真生は驚きに見開いた目を、そっと細めた。


 ──あぁ、そうか……。


 それだけで、理解するには十分だった。痛み出した心を隠し、真生は懸命に普段通りを装って、明るく聞こえるように努力する。


「先輩にだけは、知られたくなかったなぁ」

 

 しかし弱る心をどれだけ叱咤しても、言葉は不格好に掠れたまま、掴まれた腕の力を強くしただけだった。


「頼むから、違うって言ってくれねぇか? そんなわけない、お前がいなくなるわけねぇって」


 絞り出された声が、震えが伝わる身体が、ただただ胸を痛ませた。それでも真生は、抱き返せない両手をきつく握りしめ答えない。答えられないことが辛くて、胸が引き絞られるように苦しくなる。


「…………祐二先輩」


「なぁ、頼むから……っ、違うって言ってくれよ!」


 身体を引き放されて、祐二に懇願するように縋られた。壊れそうな心にまた一つ傷が増える。切り裂かれた傷口から血が流れるように、心が悲鳴を上げていく。


 必死で自分を繋ぎ止めようとしてくれる祐二の想いが伝わるのに、それでも答えは一つしかなくて、真生は堪え切れず涙が零れ落ちるままに笑った。


「──やっぱり、わたしは狡いですね。こんな時でさえ、貴方がわたしの名前を呼んでくれたことが、どんな形であっても、わたしを必要としてくれたことが、嬉しく思えてしまうんだから」


 好きだった。

 ただひたすらに、好きだったのだ。

 たとえ届かない想いにどれだけ苦しもうと。

 誰に無駄なことをと言われても。


 今この瞬間に命が尽きたとしても、自分は祐二を想って消えるのだろうとわかるくらいに、心の底から彼のことが好きだった。


「名前なんて、これからいくらだって呼んでやる。約束だってしたじゃねぇかよ。勝手に自己完結してどっか行こうとするな!」


「──ごめんなさい……」


 嬉しくて、幸せで、切なくて、ちりぢりに乱れた想いの欠片が心を引き裂いてゆく。どんなに乞われても返せる返事は一つしかなくて、胸が潰れそうに辛かった。


「オレが……お前を好きだと言ってもか?」


 言葉の意味が理解できなくて、真生は祐二の顔を見上げる。


「何を……」


「わからねぇか? お前がオレを好きだと言ったように、オレも真生のことが好きだって言ってるんだ」


「嘘、ですよ。先輩が好きなのはあの人でしょう? わたしの想いには応えられないって何度も言ったじゃないですか……」


 眉を顰め、苦しそうに祐二が言葉を紡ぐのに、真生は首を振って否定した。それなのに、その目の何処にも嘘の気配はなくて、真生の心臓が嫌な音を立てて軋む。


「嘘じゃねぇって……くそっ……どう言ったら信じんだよ? たしかに真生の想いを受け入れられないって、ずっと言い続けて来た。お前からすれば急に気持ちを変えたように見えるかもしんねぇけど、オレは本当にお前のことが───」


「言わないで下さい! 嘘じゃなきゃ……駄目なんです」


 真生は祐二の言葉を悲鳴交じりの声で遮った。胸の痛みが涙に変わり、滑り落ちる滴は頬から顎を伝い、床を叩く。


「駄目って、どういう意味だ? もうオレのことは好きじゃねぇってことなのか?」


「先輩の気持ちは、本当に嬉しいですよ? だけど、わたしじゃ駄目なんです……」


 固い声で問い質す祐二に、真生は俯きそうな自分を励ますように両手を握りしめた。


 ──どうして、わたしは好きな人にこんなことを言わなければいけないんだろう。こんなこと本当は言いたくないのに……。


 唇が震えて、言葉は途絶え途絶えになった。好きだと言ってくれたのは、自分が想い続けていた相手なのに、それを受け入れることは今の真生には許されない。あまりの苦しみに、真生はいっそ言葉を殺してしまいたくなった。


「お前が病気だからか? そんなの理由になるかよ。治すのにどんだけ時間がかかろうが、いくらだって待ってやるさ。それでお前が信じるならな」


 祐二の真摯な言葉が、胸に響く分だけ真生は涙を零す。言わなければいけない言葉に、自らの身を切り裂くような思いで口を開いた。


「たしかに手術を受ければわたしの病気は治ります。だけど……どんな手術にもリスクが必ずあるように、わたしも病気を治す代わりに支払わなければいけない代償がある」


 祐二の強張った顔を見ていられずに、真生は嗚咽を噛み殺して俯いた。何一つ望むことをしなければ、こんなに辛い思いを祐二にさせてしまうことも、自分がすることもなかったのだろうか。それでも出会わなければよかったとは、嘘でも思えない。それほどに祐二を想うのに、それさえも今となっては許されなかった。


「わたしが払う代償は、わたし自身の記憶なんです」


 固く目を瞑り、真生は血を吐くような声で真実を告げた。どうしてそれを知りながら、祐二に応えることができるだろうか。真生はゆっくりと顔を上げて、涙に霞んだ目で、血の気の失せた祐二の顔を見つめた。


「記憶って……お前……」


「──……一年前、突然襲った酷い頭痛に病院へ行って検査しました。その時、わたしの頭の中に時限爆弾が見つかったんです。その爆弾は取り除かなければ、いずれは脳を圧迫してしまうものでした。何もしなければ持って三年だろうと、言われました」


 告知された時の記憶はあまりない。現実離れした言葉に、頭が理解するのを拒んだのだろう。目の前が真っ暗になったのだけは覚えている。一緒に聞いていた母は、なんとかならないのかと担当医である涼の父親に必死に訴えた。しかし、医師として告げられた言葉は、不可能の三文字だった。


「薬療法で一年頑張りました。けれど、爆弾は消えませんでした。だから、手術を受けることになったです。重要だったのは、手術をする場所が記憶を司る海馬にかかっていたことでした」


「手術を受ければ、お前は全部忘れちまうってことか?」


「そうです。……手術が成功したとしても、わたしという存在は死ぬんですよ」


 真生はその瞬間だけは、けして祐二から目を逸らさなかった。お腹に力を入れて、声を震わすことさえ自分に許しはしなかった。それが自分を好きだと言ってくれた祐二に返せる、精一杯の想いだ。


 死ぬだなんて、他人からすれば何を大げさなことをと思うかもしれない。しかし真生にとって、今まで生きてきた十七年間のすべての記憶を失うことは、真生自身が死ぬことと同義だった。


 人は歩んできた過去があって初めて、その人がその人であるといえるだろう。もし進んできた道の中で一つでも違う方向を選んでいたなら、よく似た人物にはなっても、その人自身にはなれないのだ。真生はやるせなさを胸に秘め、泣きながら微笑む。


「だから先輩は、こんなわたしを好きだなんて言っちゃ駄目なんです。先輩が好きなのは、今まで通りあの人です。先輩はわたしが病気だから可哀そうに思って、ちょっと勘違いしちゃっただけですよ」


「違うっ、勘違いなんかじゃない!」


「違いません! そうじゃなきゃいけないんです」


 わかっていた。それが偽りでないことなど。それでも、そうやって否定する以外にいったい何ができるというのか。このまま祐二の想いを認めてしまえば、いずれ消えることになる自分の存在が、彼の心を苦しめることになる。


 ──そんなこと望んでいないのに……っ。


 どんなに離れたくないと願っても、自分は残して逝く者にしかなれない。記憶の片隅にひっそりと残ることができたなら、それだけで自分は笑っていられる。祐二のためを本気で想うから、どんなに辛くても真生は否定しなければいけなかった。


「聞けよ、真生!」


「帰ってください。わたしにはもう、会いに来ないでください」


 真生は祐二に背を向けて、話すことはもうないと態度で示す。自分を想う言葉を聞いて、揺らがない自信が真生にはなかったのだ。懸命に堪えてきた想いが溢れてしまう気がして、頑なに聞くことを拒む。その間も涙がぽたりぽたりと床を濡らしていく。背後で重い溜息が吐かれる。


 あまりの身勝手さに呆れられたのかもしれない。それを好都合だと思わなければいけないのに、真生の心は正直に痛みを訴える。嗚咽を漏らさないように、真生は両手で口を押さえた。


「それでもオレは、お前が好きだ」


 掠れて聞こえた声に顔を上げると、窓を反射して祐二の大きな背中が見えた。その光景にまた一滴、涙が頬を伝う。背中を追い掛けかけて、この想いを声を大にして伝えたかった。


 ──わたしも貴方が好きなのに……っ。


 見えなくなった背中に、真生は崩れ落ちるように膝をついた。





「ごめんなさい……ごめ……なさいっ……祐二、先輩……」

 

 謝罪の言葉を口にしながら、どれだけ泣いただろう。いくら唇を噛みしめても、殺しきれない嗚咽が病室内に響く。もし、大事な人を傷つけずにすむ方法があるのなら、誰かにそれを教えてほしかった。


 その時、温かなぬくもりが真生を守るように包み込んだ。


「──やっぱり泣いてたな」


 いつだって自分を救ってくれた幼馴染の声に、真生の涙は壊れたように止まらなる。誰にも頼ることがないように、迷惑をかけないようにしてきたのに、甘えだとわかっていても限界だった。


「どうすればよかったのかなぁ……っ? 嘘をつけばよかった? 先輩が気付く前に消えていればよかったの? もう、わかんないよ──……たすけて……いっくん……」


 後ろから回された郁也の腕を痛みを縋るように掴んで真生は泣いた。皺の寄ったシャツに大粒の涙が滲んでは消える。


「お前が助けを求めるなら、オレはいくらだってこの手を差し出すし、お前のことを守ってやりたい。けどな、傷つけてる相手がお前自身じゃ、助けたくても助けてやれねぇよ」


 安心する腕の中で、言われた言葉の意味を噛みしめて真生は小さく頷いた。


「真生、もう無理は止めろよ。お前の想いの深さはオレが一番よく知ってる。だからこそ言うんだぜ? あいつを想うのを止めろって言っても無理なくらい、あいつが好きなんだろ? あの野郎が相手ってのがしゃくだが、お前自身を不幸にする選択だけはすんな」


 優しく頭を撫でる仕草は、同い年のはずなのにまるで兄のようだった。昔からそうなのだ。郁也はいつだって単なる幼馴染でしかない自分を守ってくれていた。幼い頃、内気だった真生が、クラスのガキ大将に苛められた時も、まるでテレビの中のヒーローのように駆けつけて、相手を殴り飛ばして助けてくれた。


 自分のせいで乱暴者扱いされて怖がれるようになった郁也に、真生は何度も周囲の誤解を解こうとした。しかし、それを止めたのも郁也だった。


『真生だけわかってれば、それでいい』


 そう言って、傷だらけの顔で笑った郁也を真生は今でも覚えている。大事な幼馴染に守られているばかりは嫌で、幼かった真生はそれから努力した。怖がってばかりじゃ駄目だと、自分から発言するようになり、苛められても泣かずに、最後まで戦うことを覚えた。郁也を助けようと、取っ組み合いの喧嘩に飛び出したこともある。


 二人して遊んで、二人してボロボロになって、傷だらけの顔でそれでも笑い合った。いつだって自分の傍にいてくれた彼は、真生の唯一無二の親友だ。


「わたしは、祐二先輩も、いっくんも、家族でさえも、置いていくんだよ? 置いて逝くわたしが、そんな人間がっ、先輩に好きなんて口にするのは許されないよ!」


「それは誰が許さないんだ? 許さないのはお前自身だろ、違うか? たった一度の人生の、たった一つの恋なんだ、誰よりもまず、お前が許してやれよ」


「だけど……」


 俯いた真生の顔を郁也が、がしりと掴んで上げさせる。射抜くように強い目に、真生は思わず目を揺らし、逸らそうとした。


「目ぇ逸らすな! 今のお前は逃げてるだけだ。いいか真生、よく聞いとけ。お前に相手を想う気持ちがあるなら、相手の感じた痛みからも逃げるな! そんでもどうしようもなくなった時は、オレを頼れ!! オレは絶対にお前を否定しねぇ」


 力強く、まるで宣言するかのように大声で叫んだ涼に、真生の胸は熱くなる。


「もしあいつがお前を背負い切れない弱っちぃ野郎なら、オレがぶっ飛ばしてやる。だから、一人で我慢ばっかしてないで、ちゃんと話し合え」


 男らしく胸を張る幼馴染に、真生は照れくささを滲ませておかしそうに笑った。


「……ここが病院だってわかってる? そんな大声出したら寝てる人も飛び起きちゃうよ」


「耳を塞いでた誰かさんには、このくらいでかい声じゃなきゃ届かなかったんでな」


 にっと歯を見せて笑う祐二が仕返しに額をぶつけてくる。しかし思いの外強くて、二人して頭を抱える羽目になった。痛む額を真生が擦っていると、僅かに赤くなった額を同じように擦っている郁也と目が合って、二人は揃って噴き出した。


「なんかほんとにかっこ悪いね、わたし達」


「その方がオレ達らしいだろ」


「うん、そうだね……ありがとう、いっくん」


 最後まで絶対的な味方でいてくれる幼馴染に、真生は今度こそ心からの笑顔を浮かべた。

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