【日常】鮎川羽龍【人狼の話 四】
【人狼の話 四】
◇
冬の夜を風が駆ける。
時計はようやく八時を周り、しかし街は沈黙を始めている。
住宅街の窓々に灯る明かりこそあるものの、道歩く人の影は無いミスティック・アワー。
「……わふ」
隣を
「ひ、人いませんよね? 見られてませんよね?」
「あ、電柱の影におまわりさんが」
「わふう!?」
「嘘だよ」
……委員長の反応は楽しいなぁ。
思い、そして今の状況を振り返る。
今宵の夜のウォーキング。目的は委員長の為のリハビリテーション。
いや、
むしろやっている事は尊厳を奪うと言っても過言では無いようなことだから。
「?」
委員長がこちらを見上げ、きょとんとした感じに首を傾げる。
全裸で。
這いつくばって。
首輪を嵌められた状態で。
まあ今の委員長は狼姿なのだから、当然と言えば当然なのだが。
「なんでもないよ」
灰色狼に首輪をつけて、静寂の街を闊歩する。
知らずに見れば微笑ましいような日常風景。
知ってて見るなら背徳的な調教風景。
秘密を抱えるなんてのは常日頃だけれども、何だか恥ずかしさにもにた高揚感。
「こ、今夜は一体何時までこうしてればいいんです……?」
「ん……」
実は細かい事は考えていなかったのだった。恥ずかしいにも程がある無計画さに他ならないが、おくびにも出さないようにポーカーフェイス。
「委員長の家にでも行こうか。お宅の娘さんをお預かりしています、食事はしっかり信頼出来るメーカーのドッグフードを選んでいますので安心して下さいと挨拶に」
「それだけは止めて下さい! 絶対、絶対ダメですダメダメです!」
予想以上の反応で噛み付いて来る委員長。
……流石にドッグフードを食べさせようとするのはやり過ぎたか。
人間どの辺のラインまでなら冗談で済ませてくれるのか分かり辛いなぁと何時ものことを思いながら、さてどこまで行こうかと考える。遠すぎるのは面倒だし、近すぎたとしても趣が無い。結構悩むシンキング。
「委員長は何処まで行きたい? 望むとこまで願うとこまで、夜空の続く限り何処までも、連れて行くけど何か希望は?」
「そうですね……何かを見つけるところまで。思い出探しに気が向くまで」
誰も見てない夜の帳に、思わずお互い詩的になって苦笑する。
そういうことで、目的も無しにぼくら一人と一匹は夜を歩く。
夜は神秘と怪異の時間だ。隠していたものが現れて、昼間と違う様相を見せる。
闇黒が全ての物事を覆い、自ずと光を放つものの輝きが浮かび上がる。
違う何かに成れる時間。世界が最も価値持つ時間。
……とまあ、あの男なら言うのだろう。非日常を尊ぶ神秘主義者のあいつなら。
半年前のあの出会いも、夜に浮かされていたからに違い無い。
「…………」
「…………」
お互いに無言のナイトウォーク。
考えてみれば共通した話題と言うのも特にないのだ。
お互いに受け身のタイプだから、話を投げるのも苦手だし。
空を見る。文明の光に駆逐された夜空でも、強く輝くシリウスベテルギウスプロキオン。
天蓋を駆ける親子犬の姿を認識するには、ぼくには多少ロマンが足りない。
「なんていうか、いいものですねこういうの」
委員長がぽつりと顎を開く。ともすれば聞き逃しそうな小さい声で。
「首輪をつけられて四つん這い強要される事が?」
「ち、違いますって。……誰かとこうやって夜歩きするのが、です」
「ふぅん」
そう言うもの……なんだろうか。
正直言えば、ぼくにはすぐにはピンと来ない感覚だ。普段傍にいるのはあの職業引き蘢りの高等遊民で、クラスメイトとの付き合いも教室の中だけ。こうやって委員長の相手をしているのも、知ってしまったしなぁと言う行きずりの気紛れに過ぎない訳で、
――やっぱり、偽物めいてるなぁ。
「少なくとも、初めての私は楽しんでますよ?」
「それはよかった」
殆ど生返事のように言葉を投げる。
楽しい、楽しい、楽しいかぁ……。それが本音から来た言葉なのか、それともただの儀礼的な世辞なのか、今のぼくには分からない。委員長の感情が。そもそも人間と言うものが。
「委員長はさ、ぼくのことどう思う?」
思わずつい、その疑問を口にしていた。してしまった。
そんなもの、どんな答えが返って来ても、致命傷以外になりえないろうに。
狼の顎が開く。
囁くように、呪うように、とどめを刺そうと小さく開く。
それが落ちる瞬間を、恐れるように待ちわびて――
「――――――――」
ぼくらの眼前。道路を車がハイスピードで突っ切っていく。
委員長が口にした言葉は、喧しいエンジンノイズに掻き消されてしまって届かない。
「……」
ぼくは聞き返さなかった。
◇
さっきの車との遭遇から、なるべく人通りの無い道を歩かないかと提案が出た。
夜とはいえど、人間の影はゼロにはならない。何処で視線を向けられるかは解らない。二人きりでいたいぼくらにとって、それはとてつもない不都合だ。
ぼくらの事情が幾ら重くても、社会はそれを考慮してくれない。周りがそれを考えないなら、ぼくらの方から頑張るしかないのである。
そして散策を始めてから数十分。ぼくらは裏道を歩いていた。
住宅の塀と木々にに挟まれた細い道。日常のルーチンワークの間では、まず存在さえ知らなかったような隠れ小道。
「ここ、春になると桜がとても綺麗なんですよ」
前を歩く委員長が、秘密を囁くような声で言う。
「桜かあ……。春はまだまだ先だね」
真冬の今は、開花の時期にはまだ遠い。この道を彩る装飾品は地味な色をした落葉樹と、茶色く枯れた芝生だけだ。命の枯れる冬の色。
だから脳裏に幻視する。日没の道に咲き乱れて並ぶ夜桜の列。
此処じゃない何処かへ通じていそうで、少し足取りがふらついた。
「ねえ、この先って何があるのか知ってるかな」
「んー。特に変わったものは無かった気がします。せいぜい神社へ続いてるぐらいで」
ちょっとだけ考え込むような声を出して、委員長は答えを返す。
「鮎川君的には、どんなものがあって欲しかったんです?」
「どんなもの、ねえ」
変わったものを求めているか、と言われればノーでは無いのだろう。ただその変わったものと言うのが、ぼくには良く解らない。普段通らない道の先程度に、ただの街の一角程度に、日常を外れても居ない場所に、一体何を求めているのか。
非日常の事象に、まだぼくは何かを期待してるんだろうか。
あの夏を過ぎた今にもなって。
「動物病院? 犬を飼うなら去勢しないと」
「かかかか飼うって鮎川君本気ですか!?」
「冗談だよ」
告げると、委員長は溜息を吐いて大人しくなった。
「神社があるって言うのなら、ちょっとお参りでもしていこうか? 委員長の問題が早く解決しますようにと祈願にでも」
本来のご利益は知らないけれども、これは気持ちの問題だ。
こんな時代だからこそ、祈れば願いが届くかもと、そう錯覚するぐらいは出来るだろう。
◇
その神社の名前は、
名前を初めて知った時に何色だよ、とつっこむのはもはや町民共通。おそらくは正しい名前が失伝しただけなのだろうけど、色を表す文字が被ったあたりで何かおかしいと気付かなかったのだろうか。
「石段とか上がれる? 委員長」
鳥居を抜け、境内へと続く道はそれなりに急な階段状。最近出来た建物と違ってバリアフリーとか言う概念とは縁遠いような構造をしている。昔の人にそんなものを考えろと言うのも酷ではあるが、その辺を考えて作られている
「流石にそこまで四足歩行に慣れてない訳じゃないですから」
そう言うと、大丈夫である事をアピールしたいのか駆け出そうとして、リードに引っ張られて停止した。
「自分の体は解ってても、自分の状況は解ってなかったみたいだね」
「わふぅ……」
そういうことで、改めて石段をあがっていく。二人揃って一歩一歩。相手の短い歩幅にあわせて、置き去りにしないよう進んでく。
石段の途中の手水舎にさしかかってふと疑問。
「やっぱり手は洗っておいた方がいいんだろうか」
「こういうことは儀礼ですからね」
それもそうだ、と言う事で前進するのを一旦止めて、水盤の方へと歩いてく。
一礼して右手で
冬の夜に浴びる冷水は刺すようで、ちょっぴり伝統に文句をつけてみたくなる。
「ところで委員長はどうするのさ、これ」
地面で汚れる。
柄杓が持てない。
そもそも手じゃない。
「わ、私は遠慮しておこうかと」
「ふーん、人に冷たい思いさせといて自分は遠慮するんだ」
「わう……」
目の前で縮こまる委員長は可愛い。もっと弄りたくなってくる。
「……直接体に掛けてみようか」
「この寒いのにやったら風邪引いちゃいます!」
ぶっかける案は却下となった。当然だけどね。
その代わり、バケツで手(と言うか前足)だけでも洗っておこうと言う事で落ち着いた。
どうせすぐに汚れるとは解っているけども、委員長の言う通りこういう事は儀礼なのだ。
「どうぞ」
差し出したバケツに狼が前足をつっこんだ。
澄んでいた水が土の色に濁っていく。
ふとあいつから聞いた蘊蓄の一つを思い出す。狼の足跡に溜まった水を飲んだ者は人狼になる。
この泥水にも何か神秘的な、呪い的な、幻想的な力の一つでもあるのだろうかと考えて、心の中だけで首を振る。
伝承とぼくたちをとりかこむ日常とは、何の関係もないのだから。
何も考えないようにして、溜まった泥水を排水溝に流す。
◇
深夜の境内は音も無く、ひっそりと静まり返っている。
場所の空気も相まって、神秘性さえも感じさせるサイレントゾーン。
呪文でも唱えれば怪異の一つでも召喚出来そうな気さえする。
鳥居の内側。結界の向こう側。俗世日常を離れたその場所の中央――
「うーん……」
賽銭箱の前でうんうんと、頭をひねるぼくがいた。
何を悩んでいるかと言うと単純で、多分誰もが経験したこと。
「参拝の作法ってどうだったっけ?」
神社とお寺の区別もつき辛い、そんな現代人特有の悩み事情。そもそも常人でも年一しか来ない場所だし、そう言う時は本職の人に聞くと言う手もあるだろう。
こんな時間に人がいるわけないけどね!
「……委員長、覚えてる?」
狼は首を横に振る。
若者の信仰離れ……と大人がぼやきそうな言葉が脳裏に浮かんだ。
「こういう事は気持ちだし、適当にやろうか。適当に」
「そ、そうですよね気持ちですよね! 気持ちが籠っていれば大丈夫ですよね!」
おいこらさっきと違うじゃないかと言う内心の声は封殺した。
儀礼的な正しさと気持ちが籠っているかでは、後者の方が勝るだろう。多分。
「そもそもこの体だと、ちゃんとしたものは無理ですし」
狼姿で委員長が言う。
そういえば確か拍手だったか合掌だったかがあった気がするし、それらは流石に四足歩行じゃ出来ないだろう。気持ちの方が、とか以前の問題だった。
「それじゃあここでちょっと戻ってみる?」
「さ、流石に屋外全裸は無理です……!」
やっぱり人型で全裸は恥ずかしさが違うらしい。
今も全裸なのは変わらないはずなのに、一体何処が違うのだろうか。
◇
じゃらじゃらと鈴を鳴らして、適当な感じで手を合わせて礼拝。
こんな適当で申し訳ないなと思いつつも、込める念だけは気合いを入れて。
そしてそれが終わったら後はお賽銭の奉納。この場合の相場ってどのぐらいなのかなぁ、と悩みながら、適当に五百円玉を放り込んだ。
「わぁ」
「……どしたの委員長」
「いえ、結構大きな額入れるんだなぁって」
間違えただろうか、と少し焦る。
常識の感覚を知らないと思われるのは、致命極まるミステイク。
日常作業の続行に、支障を来すスーパーエラー。
「作法が行儀悪かった分、金額で気持ちを上乗せしようと思って」
誤摩化す。これならそう無理な言い訳でもないだろう。
「委員長の分も入れとこうか? 同じ量だけワンコイン」
お願いします、と頷く狼。
「利子はトイチね。十分一割」
「高過ぎです!?」
冗談だよ、といいながらお財布から賽銭を落とす。
そしてお互いに声を上げずに笑いあう。
こういうのが楽しさ……なんだろうかと人間らしいことを思いながら。
誰かと笑いあえると言うのが喜ばしい事ならば、これがそうなんだろうか。
ひとしきり儀礼を済ませた後、ぼくらは神社を後にしようと歩き出した。
「相談出来た相手が、鮎川君で良かったです」
参道を半分程行った所で委員長は小さく言った。
秘密の共有。抱え込んだ全てを誰か他人に曝け出す行為。
馬鹿馬鹿しいとも言えるかも知れない。責任放棄とも言い換えられるかも知れない。
それを預けられる相手を見つけられたと言う事が、委員長の幸せなんだろうか。
ぼくなんかをそれに選んでよかったのだろうか。
そもそも自分にそんな権利なんて、最初からありはしないのにと悩んで――
「おや、鮎川くんじゃーん?」
――――!?
不意打ちのようにかけられた、背後からの声に襲われた。
顔を向ける。
「ぐっいぶにーん。随分と奇遇だねぇけっけっけ」
「…………」
クラスメイト。教室の姉御。人蛇。
「……何時からいたの」
「んにゃ、ついさっき。見かけたんでちょいっと声かけてみようかなーって」
尻尾を揺らしながら名賀さんは答える。
そのタイミングなら、委員長と話してたところは見られなかったのだろう。さっきの呟きはかなりの小声で、きっとぼくで無ければ聞き逃していたに違いないから。
しかし見つかるなんて予想外で想定外で考慮外だ。少しだけ焦っているのを自覚する。
「てかこんなところで何してんのさ。夜中だよ夜中」
答え難い質問に、ぼくは眼下の委員長を意識する。
そう、”一糸纏わぬ姿”で”四つん這いになっている”委員長を。
別にやましい事をしている訳ではない。やましい事をする趣味も無い。
そもそも狼姿の状態で、服を着てたり二足歩行をしている方がおかしなビジュアルだ。
だが。だがしかし。字面にすればそんなことなど些末な事だ。
重要な前提を抜いた上で言えば、どう見ても変態の所行である。
文面自体は完全に真実であることがなおさらこの状況をタチ悪いものへ進化させている。
絶対に知られる訳にはいかない。この狼が委員長だと言う事は。
このおしゃべりキャラにかかったら、どんな尾ひれをつけられたものか!
結論。隠し通さなければ、世間体が、終わる。
「そっちこそ、どうしてこんな夜中に出歩いてるのかな」
こんな深夜に出歩くのなら、向こうにもやましい理由があるのだろう。
そう期待して質問返しで攻めてみたが、向こうは照れくさそうに笑うだけで、
「ちょっとコンビニおでんが食べたくなったのさ」
あまりにも気楽な場違いの言葉に、思わず肩の力が抜ける。
いや、場違いなのはこちらの方だ。
この世界に溢れているべきなのは、こっちの日常の案件であるべきだと思い出す。
ぼくの思いに気付かずに、名賀さんは呑気な笑顔のまま続ける。
「んで帰って来てみたら、
賽銭泥棒とかだったりしたら悪・即・斬! しときたいじゃん?」
そして両手を組むようにして、バットを振り抜くジェスチャーをする。
ウチの境内か……。そう言えば神社の娘だったっけか名賀さん。
鮎川羽龍なら覚えているべき情報だと言うのに、すっかり意識の外だった。
と言うかこの敷地の中に在るのか、家。
「勇気あるんだね。名賀さんは」
「いやいや、流石に自分で戦おうとまでは言わないさ。悪即斬とは言ったけど、本当に
危ない人なら見つからないように逃げてから警察に電話だよ」
最近は殺人事件とか物騒だしねー、と他人事のように名賀さんは言う。
「ごめん、本気で戦うつもりで言ってるのかと。運動部の人って、なんだかそういうこと出来そうな気がしたし」
「あっはっは。そもそも陸上部は自分以外と競うような部活じゃないよ」
口の端をあげて、まあ私は元、なんだけどさ、と呟いて。
「ところでさ鮎川くん、」
「……なんでしょうか」
「その犬、どしたの?」
……聞かれてしまった。
解答に困り、委員長の方へ目をやった。
向こうも同じく困ったように、こちらの顔を見上げていた。
その視線は語る。『お願いだから黙っていて』、と。
アイコンタクトで返す。『解った頑張って誤摩化してみる』、と。
「ちょっとね、親戚が旅行するから預かっててと頼まれたんだよ」
我ながら苦しい言い訳だ!
どこからボロが出るかも解らない上にありがち過ぎるベタベタなダミー理由で、そもそも鮎川羽龍にそんな親戚がいるのかどうかすら知らない。少し突かれれば瓦解は必至。
表情筋に力を込めろ。平常心を保ち続けろ。ポーカーフェイスを貫き通せ。
名賀さんの口元が動く。
人蛇特有の長い舌を、艶かしくはみ出させて開く。
そこから出る言葉が何なのか、緊張しながら待ち受けて――
「なーんだ、そんな理由かー」
通じた!
「いやいやお姉ちゃんてっきり闇の世界の住人とでも戦ってるのかと」
「あの、名賀さん? クラスメイトを一体何者だと思ってるのかな」
抜けた気力が更に抜けた。
呆れて半目になったぼくを差し置き、名賀さんは続ける。
「いやいや、半年前からの鮎川君ってそんな謎めいた風格あるし。
家族と離れて自活していて、学校では成績優秀。そして、」
”半年前の記憶喪失”。
「全くさ、どこの少年漫画の主人公の設定だろうねと思うようだよ」
「…………」
「例えるんだったら平凡な高校生は仮の姿、真の姿は最強の魔術師! みたいな?」
「すいません流石に高校生にもなってそういったこと言われるのは恥ずかしいんですが」
「だけどさ、こんな時代だもん。そういったことが何処かにあると思ってもいいでしょ」
そうでないなら、なんだか少し寂しいじゃんと、俯きがちに目を伏せて名賀さんは言う。
その気持ちは解らない。非日常よりも、日常を選んだ自分には。
「それはそうとして、ほれ」
表情をさっきまでの笑顔に戻した名賀さんは、狼に向けて手を差し出した。
「あの、その手は何なのかな名賀さん」
「ん? お手に決まってるじゃん」
委員長の顔を見る。
その視線は語る。『無理無理無理無理無理です許して』、と。
アイコンタクトで返す。『不自然に思われたく無いならやるしかないよ』、と。
「……くぅ」
羞恥に震えるようにぴくりとするのも一瞬。
ゆっくりと右前脚を上げて、名賀さんの手に肉球をおろす。
「きゃー、かーわーいーいー!」
黄色い声をあげる名賀さん。
「だけど随分ぎこちないね? ほぅら怖くない怖くないぞー」
「いや、その体つきで怖くないはちょっと難しいと思う」
「何か言ったかな鮎川君?」
顔を背けて委員長の方を見る。
その視線は語る。『一体どうすればいいんですか』、と。
アイコンタクトで返す。『何でもいいからもう一押し行こう』、と。
「……きゅぅ」
うめき、そして口付けをする前のように目を閉じた。
そして、少しだけ開いた口の隙間から、恐る恐る舌をつきだして、
「……」
指先を舐め拭った。
「ひゃぁう!」
舐められた名賀さんは顔を真っ赤にして飛び退いた。
そしてそわそわして狼を指で指し示しながら、
「いいなぁペット……ねえ鮎川君、ちょっとこの子私にくれないかなねえねえ」
「だから預かりものだってば」
狼に頬擦りしだす名賀さんに甘引きしながら、嘘の言葉をもう一度。
それにしても、今にも抱きついて巻き付いて全身で締め上げそうな勢いだ。
女の子同士の絡み合い。そのうち片方は素肌を晒している。
……この事実を教えたら、名賀さんどんな反応をしてくれるんだろうかなぁ。
明かせないことに少し欲求不満を感じてみたりする。
「と、じゃあそろそろ私帰るね。見たいテレビが始まるからさー」
明るく気楽に俗っぽく、名賀さんはさっと踵(無いけど)を返す。
にょろにょろとマリンブルーの尻尾が揺れながら、土の地面に跡を残していく。
……ふと疑問が浮かんだので、ちょっと去り往く背中に投げかけてみた。
「ところで名賀さんって、石段大丈夫なの?」
「あっはっは、心配してくれるのかな鮎川君。実は裏手にスロープがあるのさ」
バリアフリーはあったのか。侮り難し、中津国市。
「んじゃーねー、また明日学校でー」
そして名賀さんは、足音も立てずに去っていった。
「ふう。……びっくりしました」
名賀さんの姿が闇へと消えて、狼がやっと口を開いた。
そう言えばさっきは全裸調教の悪評を危惧して黙っていて貰ったけれども、よく考えるとそこ以外に黙らせる必要ってないんだよな……。
と言うか知り合いなんだから明かしたとしても特に問題も無い筈だろう。
ぼくに対してすんなり全てを曝け出してくれた昨夜のように。
そもそもこの病の時代、人狼であることを隠す理由なんて、実際どこにも無いだろうに。
「委員長はさ、」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
口にしようとした疑問を寸前で止める。
知った所で、多分ぼくにはどうしようもない話だろう。
それならばきっと、聞かないでおくのが礼儀。マナー。
「ところで委員長、本当に名賀さんの家の犬になる気はあったりしない?」
「…………それはちょっと遠慮したいです」
◇
さて。
その後は特に語るべきようなことも起きず、鮎川家まで帰還して委員長を送り返した。
狼から元に戻る時にも結構な嬌声を上げていたが、そっちの方は慣れていたのか出発前程に乱れるようなことも無かったのは褒めるべきか物足りなく感じるべきなのか。
「ところで鮎川君、ちょっと聞きたいことがあるんだよ」
「なにかな、憂里」
水槽の中に身を横たえて、うちの人魚姫が問いかける。
「人助けしようだなんて思ったのは、一体どういう風の吹き回しかな」
「…………」
「”鮎川羽龍”と言うのは、ボクが知る限りじゃそういうキャラクターじゃ無かったはずだ。
日常偏愛者。ルーチンワークを繰り返せるなら人心なんて気にしない鬼畜外道。
そもそも人の心さえも解っているのか疑わしい、人の皮を被った真性怪異」
「…………」
事実を並べられたところで、響くような心は持っていない。
それを憂里も解っているのだろう、ガラス越しの瞳は嬲るように輝いていて。
「だから疑問なんだよ、鮎川君。キミがそんな事をやるだなんてのは驚天動地だ。前代未聞だ。
放っといたら眠れなくなりそうで、ボクの美貌が損なわれる。それは大いなる損失だ。
だから教えてくれないかな。――命令だよ」
全く、もう。
我侭な人魚姫の詰問に、ぼくは軽く溜息を吐いて、
「決まってるだろ」
そう。何時もと同じ。
たまたま問題がそこにあって。断る理由がそこに無くて。
ようするに。
「出来そうだから、やっただけ」
相変わらずの人でなしだ、と、憂里みくには犯しそうに、嗤った。
◇
そして月は沈んで朝が来る。
日光に照らされた通学路は、日常の喧噪に溢れている。
追い抜いたりすれ違ったりしていく人の中、異形の姿がちらほら混ざる。
それさえも、ぼくたちにとっての慣れ親しんだ日々の一幕。
「おはよう、委員長」
道を行く人の間に見覚えのある姿を見て、ぼくは後ろから声をかけた。
「おはようございます、鮎川君」
彼女は礼儀正しく挨拶をして、何事もなかったかのように前を向く。
それでも横を歩くぼくの方を、ちらちら見てるのがばればれだけど。
「……昨夜はお楽しみでしたね」
声を変えて囁いてみた。
「わにゃぁ!?」
おお、なんか派手に反応したぞ。
「ぼくだよ、ぼく」
「お、驚かさないでください……。誰の声かと思いました」
「実は声真似とか結構得意でね」
実際は得意と言うか、アイデンティティの一部のようなものだけど。
「ところで結局気分はどう? すっきりした?」
あの男が言う事だから、やってはみたが正直半信半疑だったのだ。
下手をすればクラス委員長、深夜の雌犬調教、とかそんなアオリをつけて楽しむ為に唆した可能性だって十分以上に有り得るかも知れない。
「あ、はい。何だか肩の荷が下りたような気がします」
「それはよかった」
そんな懸念を抱いていたが、どうやら効き目はあったようで委員長は輝いたような笑みを浮かべた。まあプラシーボかも知れないけれど、喜んでいるならいい事だろう。多分。
「あれってこの後も続けた方がいいんでしょうか」
少しもじもじしながら委員長が聞く。
「……どうなんだろう。確か理屈自体は溜め込んでいるのが良く無い、とかそういうこと
だったような気がするけれども」
犬の散歩自体は確か毎日やること推奨らしいけれども、この場合は事情が違うしなぁ。委員長は人間な訳だし、ストレス溜まったら自分から言い出してくれることを期待したいのだけれども、それが出来るキャラクターかと考えると……うん怪しい。
「また我慢出来なくなったら早めに言ってね」
「わふっ!?」
こちらから誘ってみると、委員長は大きく派手に反応した。
尻尾があったら間違いなくふってただろうと思うぐらいの食いつき具合。
「出来れば予定を決めて来てくれると助かるけど。予定表考えるのに必要だから」
ついでに憂里を隠すのも必要だし。
「……ふ、ふつつか者ですが」
「委員長、ちょっとそれは重た過ぎ」
しかし、これでまた毎日の過ごし方を微修正しないといけないのか。自分が迂闊な事を言ったのが発端だってことは十分に解ってはいるけども、いざ確定すると悩ましい。
学校で過ごす時間の方に問題が生まれたりしないだけ、まだましか。
なんとなく腕時計に目を落とすと、そろそろ走った方がいい時間だった。
駆け出しの準備に入る前に、言い忘れていた事を告げておこう。
「ところで委員長」
「……?」
可愛らしく、首を傾げる委員長。
その首元へ視線をやって、
「首輪。つけっぱなしだけど気に入ったの?」
「――――!?」
走り出したぼくの背後から、いい悲鳴が路上に響いた。
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