【非日常】飛倉ちぎり【真性怪異ヴァンパイア 七】
◇
私は将来という言葉が嫌いだ。
虚無のような日々を送っていた頃、その言葉の意味は退屈だった。
変わらない明日。何もない明日。どうしようもないぐらいつまらない明日。
モノクロのように乾いた日々が、ただ生きてるだけの虚無の日々が、延々と続く幻視光景。
そんな未来予想図はしかし、運命のように出くわした吸血鬼によって打ち砕かれた。
モノクロはカラフルに。乾燥は潤沢に。虚無だった日々は輝いている薔薇色に。
けれど、生きることが楽しくなってもしかしなお、将来は嫌悪の対象だった。
何故ならその幸福は、嘘の上に成り立つ儚さだから。
何故ならその幸福は、現在だから成り立つ脆さだから。
明日、嘘がバレて見捨てられてしまうかもしれない。
十年後、若さを失って捨てられてしまうかもしれない。
将来というものは飢餓の苦行から喪失の恐怖に変化した。
だからなおさら、私は終わりが欲しかった。
決定的に破綻する前に、美しく綺麗に幕を引いて欲しかった。
延々と続く自殺遊戯に終焉を。それもできれば都合よく。
そう。私はまおりに、吸血鬼に、私を殺して欲しかった。
彼女に吸われて終わりたかった。彼女の糧になりたかった。
そうして消えることだけが、意味を永遠にできると信じて願って望んでいた。
それにふさわしい瞬間が何時か来てくれないだろうかと、ぼんやりしながら待っていた。
そしてその時が来たはずなのに。悪魔が運んで来てくれたはずなのに。
彼女が殺すに値する対等の敵になれるかもしれないと思ったのに。
死ななくたって一緒に居られる私になれるかもしれないと思ったのに。
やっと未来に希望を持てると、そう思えたはずなのに。
――どうしてこんな、あっという間に、私の願いが破綻するんすか。
◇
「――まおり」
両目を困惑に見開きながら、私は校庭への闖入者の名前を呼んだ。
剣月まおり。もう一人の真性怪異ヴァンパイア。
幻想を束ねた結象ではなく、生まれついての純血の吸血鬼。
「ちぎり」
ヴァンパイアは私の名前を呼んだ。
普段は温和に細められた瞳は、今は普通に開かれて。
紅く染まったその両目で私のことを見据えながら、剣月まおりは口を開いた。
「昨日から家に帰ってないって聞いて、とっても心配してたのよ?
これでも彼女なんですもの、町中を走り回って探したわ。
なのにまさか、異性に浮気しているとこを見ることになるなんて……」
「ち、違うっすこれはそういうことじゃなくて、そう、誤解! 誤解なの!」
言い訳をする。
だけど戸惑いは止まなくて。
見開いた両目からはぽろぽろと涙だって溢れてく。
さっきまでの緊迫した戦闘の雰囲気が急激にコメディの空気に溶けていく。
まるでぐらぐらジャグリング。
もしくはかくかくパントマイム。
どうしたらいいかわからなくて、両手をおろおろ動かして。
「私、とっても悲しいのよ? 久しぶりに涙だって流してしまいそう。
この辛さ、一体どうやって慰めればいいのかしら?
ねえちぎり、あなたの口から聞かせて欲しいの。
私とこれから、一体何をしたいかを――」
蠱惑的に潤んだ瞳に見つめられる。
できることなら今すぐその胸の中に飛び込みたい。
愛してるって抱きつきたい。
そのまま甘えて押し倒されて、まおりのいい香りを胸いっぱいに吸い込みながらくんかくんかすーはーすーはーああダメっすこんな野外でそんな、でも私たちもう人間じゃないから人間の倫理なんて知ったことじゃないっすよねなら問題ないか私はまおり専用のスイーツパフェ、どうか心ゆくまで貪って――はっ。
「ああああ、ダメ、ダメっす飛倉ちぎり。今の私は闇夜の女王、真性怪異ヴァンパイア。それが欲望に任せて胸元ダイブとかあってはならないイメージブレイク……」
「我慢しなくていいんじゃないかな。あと剣月さんの胸に飛び込むのは危ないと思う」
「鮎川くん? 助けるのやめていいかしら?」
「ごめん、まさか意味が通じるとは思ってなかった」
「全くもう、ひどい人でなしっ」
まおりは笑った。
鮎川くんは笑わなかった。
そして私も。
「まあ私が助けに入らなくても問題はなかったのだけどね。
鮎川くんには私の血の加護をかけていたから」
「あ、やっぱり昨日のケーキはそういうものだったんだ。
料理する時に自分から指先を傷つけるのは、それを混ぜるため以外にはないだろうし。
偶然指を切っちゃったとかも、剣月さんに限ってはないよね、うん」
「それに吸血鬼の血入りのパンは吸血鬼よけのおまじないだもの。魅了も昏倒も呪殺も何もかも、それが吸血鬼の権能から来る限り今の鮎川くんには通じないわよ?」
剣月まおりはにこりと笑って、チェックメイトを口にした。
ズルい――結局私は掌の上だ。剣月まおりには敵わないままだ。絶対的な上下関係。戦う前から負けている。
彼女は輝く月輪だ。天頂で輝く綺麗なものだ。
私じゃ所詮池の中から見上げるだけの、引き篭もってる生き物にすぎない。
糧になるにも役者が不足。捧げられるようなものなんて、ずっと生き血しかなかったのに。
例え空飛ぶ翼が生えても、対等なんかにはなれはしない。
月の元まで飛ぶことなんて不可能だ。
本物の、御伽噺の、ホラー映画の、オカルティクスの吸血鬼には、偽物の私では届かない。
「――どうして、」
嗚咽が思わず口から漏れた。
「どうしてこんなタイミングでやってきちゃうんすか! 幾ら何でも早すぎる、準備も何も出来ていない、私はまだ何もしてないのに、まだ何も出来てないのに、まだ何者にもなっていないのに……!」
私はやっと私になれた。
本物の吸血鬼へと昇華した。
けれどもそれはまだそれだけだ。
彼女と釣り合うような何かを、まだ私は成し遂げていない。
世間の噂にもなっていない。
伝説を成し遂げたりもしていない。
信仰を集める幻想にだって届いていない。
そもそも何から始めようかと、それ自体すら決まっていない。
私自身で誇れるような、そんな私にはなっていない。
なのに。
「恥ずかしいんすよ。悔しいんすよ。まおりはこんなにすごいのに、私は全然すごくなくて、普通の人間と違うと胸張って言えるところなんて全然なくて、だからいつか飽きられて捨てられるんじゃないだろうかって、いらないものとして吸い殺されちゃうんじゃないだろうかって、それならもっとまだマシである日突然幻のように消えちゃうんじゃないかって、そんな不安が捨てても捨てても湧いてきて、だから、変わって、別物のように強く恐ろしく綺麗になって、誰もが見惚れる私になって、隣に立てる私になって、それからまおりに再会しようって、そう考えたから去ろうとしたのに、なんで、こんな、始める前にまた会っちゃって、会わせる顔がないのに来ちゃって、私――」
吐き出した感情は止まらない。怒りと嘆きと疑問と悔しさが血飛沫のように吹き出て来る。
やだ、私、そんな、どうしよう。見苦しい。最低だ。思っていた気持ち全部バレちゃって、恥ずかしいこと全部ぶちまけちゃって、今度こそ本当に嫌われちゃっても仕方なくて、止まれ、止まれ、止まれって言ってるんすよ私の心、けれども弱い私だから、自分の心の状態でさえも、コントロールは出来なくて――
「ごめんね、ちぎり」
いやだ、その先に来る言葉が何であれ、私はそれを聞きたくない。
慰めの言葉を受けたりしたら、私は粉々に砕け散る。
断罪の言葉を受けたりしたら、私はバラバラに引き裂かれる。
お別れの言葉を受けてしまったのなら、私はもはやどうなるか解らない。
嘘つきだったと、騙していたと、そう思われて接するのはいやだ。
殺されたいとは思っていたけど、別れたいとは思ってなかった。
吸い尽くされると言うのなら、愛された果てに、想われた果てに、心と心を交わした果てに、忘れられない思い出として、永遠のものにしてほしくて。
決別としての終わりなんて、何がなんでもいやだった。
吸血鬼の唇が開く。
牙を見せるその唇が、吸い付きたくなるような紅い唇が開く。
私を終わらせる一言を、とどめを告げる一撃を、絶望のように待ち構えて、
「あなたも真性怪異だっただなんて、気づいてなくてごめんなさい」
――え?
「酷い恋人よね、私。同類に出会えるとなんて思っていなくて、あなたが吸血鬼だって名乗った時に本気で信じてなかったの。所詮はクウェンディ症候群で血が飲めるようになっただけの人間だろうって、そんな見下しを思っていたわ。傲慢の大罪で怒られちゃう」
……嘘だ。それも私のものより解りやすい。
まおりのような存在が、本物の、御伽噺の、ホラー映画の、オカルティクスの吸血鬼が、私程度の嘘なんかを本気にするようなはずがない。少しのことから証拠を集めて真実だけを見抜くような、そういう存在であるはずだ。
それがどうして嘘をつくのか、疑問の答えは明白で――
「まおり、……いいの?」
「さあ、なんのことかしらっ?」
慈愛の顔で吸血鬼は笑んだ。
ああ――私は、最悪だ。
この笑顔に、また甘えてしまおうと思っている。
倫理だとか道徳だとか常識だとかそんなものを今更脳裏によぎらせるほど、プライドなんて考えるほど、私の愛は薄くないけど。
そんな資格が私にあるかと、そういう不安は拭い去れなくて。
明日とか常識とか真実とか、そういう振り払ったはずのものが、急に再び怖くなる。
現実の壁と戦うことへの恐怖が夜闇の向こうから帰ってくる。
例えまおりが勝てたとしても、私なんかが勝てるのだろうかと、怯える気持ちは強大で。
ぶりかえしてくる緊張感。
ずきずき痛みだす罪悪感。
どきどき震えだすハートビート。
私に勇気をもう一度と、深呼吸して祈りをかける。
今度の今度の今度こそ、なりたい私になるために。
まおりとまっすぐ向き合うために。
「私、結構面倒くさい女の子だったっぽいっすよ?」
「私はその程度で困ったりしないわよ?」
「嫉妬とか、結構しちゃうタイプっすよ?」
「私が浮気するようなタイプじゃないって知ってるでしょ?」
「家だって由緒あるような血筋じゃないっすよ?」
「私のところにお嫁さんにくれば問題ないわよ?」
「時々、見栄はって嘘ついちゃったりしちゃうっすよ?」
「一緒に本当にしてあげるからそれでいいと思うわよ?」
「おっぱい、あんまり大きくないっすよ?」
「私が揉めるぐらいはあるから大丈夫よっ」
……ダメだなあ、全く一つも勝ち目がない。
矢継ぎ早に繰り出した不安の言葉は、放った先から受け止められて。
本物だとか偽物だとか、そういう話以前のところで、私は剣月まおりに勝てない。
対等なんて到底無理と、そんな事実を今更悟る。
だけどそれでも、そんな私を、まおりは愛してくれているんだ。
「……私の負けっすね。そりゃあもう全面的に何もかも」
「違うわよ」
「えっ……?」
「惚れた方が負けだって言うのなら、そこにおいては引き分けよっ」
そう微笑んで、私の胸に飛び込んでくる吸血鬼。
そのまま体重をかけられて、羽のような彼女に押し倒される。
え、と声をあげる暇もなかった。
まおりの顔が、私の顔と重なって。
何をすればいいのかは、乞われるまでもなくすぐにわかった。
「んっ……」
為されるままにするのではなく、自分からまおりに口付ける。
彼女の唇は、初めての時と同じ鉄の味がして。
「ちゅ……ぐ……」
彼女の牙が唇に当たる。そのまま軽く噛み切られ、口の中に血の味が滲む。
今の私なら治すこともできたけれど、与えられた傷口は、そのまま痛むに任せておいて。
そうして、私の味に満ちた口腔に、彼女の舌が入ってくる。
それはいわゆるデイープ・キス。
味わわれて、貪られて、まおりに美味しく頂かれて。
だけどそれだけで済ましたりしないと、私の方からも舌を絡める。
貪り合う。一方的に捕食されるのではなく、お互いがお互いを味わって。
「ん……っぷ……、はぁ」
たっぷりと、あたまがぼぅっとしかける程にお互いを求めあって、それからようやく口づけを離す。舌の上にはまだ少し、彼女の味が残ってる気がして。
「今度一緒にあなたの家に行きたいわ。お父様とお母様にそろそろ挨拶しておきたいの」
「うん。彼女が私の大好きな人ですって、胸張って堂々言ってみるっす」
「二人で旅行に行くのもいいわね。イギリス、ハンガリー、ルーマニア、色んなところを巡りましょうよ」
「うん。困ったことが起きたとしても、私たち二人ならきっと何とか出来るっすよね」
「ケーキバイキングとか行ってみたいわ。あなたの好きな味、もっとたくさん知りたいの」
「うん。ケーキもいいけどまおりも食べたい」
「……もうっ。いいわ。もっと色んな味を教えてあげる。これから二人でゆっくりと、ね」
そう、これから二人でゆっくりと。
もう捨てられる心配なんてしなくていい。
もう嘘をつき続ける必要なんてない。
嘘を本当にして行こう。
ゆっくりと、時間をかけながらでいいから。
今すぐにじゃなくたって、まおりの前で胸を張れる私になっていこう。
「まおり」
「ん?」
ポケットに手を突っ込んで、蝶のペンダントを取り出した。
渡せなかったプレゼント、思いと一緒に届けよう。
「私に、あなたのことを愛させてもらってもいいっすか」
「もちろんよっ」
輝くような笑みを浮かべる吸血鬼に、もう一度唇を重ね合わせる。
唾液と血液とそれ以外のものがお互いに行き渡りますようにと願いを込めて。
そして私はここでやっと、吸血鬼の奴隷から吸血鬼の恋人になったのだ。
◇
【NeXT】
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