第59話 interlude 魔法の言葉 2/2
翌週。朝。ホームルームが終わる。
さあ、一限目か、と思っていると、朝のあいさつを終えた山寺先生が、私に近づいてくる。
「森島さん?」
「はい?」
私が返事をすると、山寺先生は私の目を見つめて笑顔を浮かべる。
「話を聞こうかと思ったのだけど、必要なさそうね」
「先週の、ことですか?」
「ええ。いい顔してるわね、今日のあなた。このクラスにね、本当に悪い子なんていない。こうやって先生やってるとね、世界には本当に悪い人なんかいないんじゃないかって、錯覚してしまうの。誰もが誰かを愛している。誰もが誰かを想って、叫びたい夜を経験している。それなのに争いが消えないのはなぜなのかしらね。ふふっ、関係ない話しちゃった。森島さん。今日も笑顔で、ね」
山寺先生の背が遠ざかる。
天然さんの、愛され先生。
そんなことを思っていると、また声がかかって来た。
「森島さん。話、いい?」
あ、トイレの二人だ。
二人の顔は神妙で、用件が、分かってしまう。
「あのね。ゴメンね。聞いてると思ってなかった。私たち森島さんが嫌いなんじゃなくて、なんていうか、ほんと、ただの悪ノリで」
「森島、私もゴメン。たぶん傷つけたの主に私の言葉だよね。私、毒舌だから、思ってない言葉でもぽんぽん口から出ちゃって。ほんと、マジゴメン。森島の事、じっれたい時もあるけど、全然、全然良い子だって知ってるし。ほんとさあ、ほんとにごめん。反省してる!」
私は二人の言葉を噛み締めて、間を開けて答える。
「大丈夫。ちゃんと伝わった。私にだって、本気の人の言葉くらい分かるよ。二人とも、いつも仲良しで、あのノリ聞いてるの、けっこう嫌いじゃない」
そう言って、三人で笑い合う。
「なんかあったら、私たち何でもするから。ちゃんと恩返し? 違うか、お詫び込めて何でもしちゃうから。ほんと、森島さん、ほんとマジゴメン」
「さっきっから、ずっとマジゴメンだね」
「森島責めんなよお。私たちだってさ、心があって、反省だってするよ。週末とか自己嫌悪でマジヘコんだんだから。だからさ、マジゴメンだからマジゴメン。他の言い方なんて、そんなすぐ出てこないんだって」
「ふふっ。もういいよ」
山寺先生の言葉が甦る。世界には、悪い人なんて一人もいないんじゃないかって。
それはきっと幸せな幻想で、とても、暖かな夢だ。
今日は何だか、先週のことがウソみたいに平和だな。
授業も、お昼休みも、淡々と流れていく。
何人かの人が、主に女子だけど、話しかけてくれた。
例の二人が、お昼を一緒しよう、と誘ってくれた。
嬉しかった。私もこれから、勇気を出して話しかけようって、そう思えた。
だけど。
この変化は、私の努力じゃない。
太一くんと麻生くんと、偶然が勝手に打ち寄せてきた、奇跡みたいなきっかけ。
だから。
違うと思う。二人が本当に教えてくれた事とは違うと思う。
自分から。その。一歩を。
私は、きっと、思ってたよりもずっと、イイ女だ。
そう、暗示をかける。
授業が終わって、クラスは騒めいている。
部活に行く人。帰る人。残って話す人。でも今は誰もが教室にいる、そんな時間。
太一くんと湯本くんが、座って話している。
湯本くんがふにゃけたドヤ顔で人差し指を立てる。
太一くんはそれを見て大笑いだ。
「太一、今日部活は?」
「俺? いや、今日は休みだな。みんなでジョナサンでも行くか?」
「いいね。あ、でも、将くんたちは部活みたいだよ。凛子もバイトだって言ってた」
「ふうん、そうか。二人でいいなら行くか?」
「どうしよう。とりあえず歩きながら考えよ」
「そうだな」
二人が席を立とうとする。私はその前に、ダッシュで下駄箱へ。
別に今日、何かが起こるって訳じゃない。何かを成そうって覚悟も、別にない。
でも、ただ眺めていた何かは、遠くにある何かじゃなくて、手を伸ばして、伸ばして伸ばしてジャンプすれば、もしかしたら届くのかもしれない、そんな何かなんじゃないかって。
下駄箱で、靴を履き替える。
ゆっくり、ゆっくり。
二人分の足音が、近づいてくる。
「あれえ、森島さんじゃない。今帰り?」湯本くんが声をかけてくる。
「うん。私部活やってないし」
「そっか。あれ、ローファーじゃなくて運動靴なんだ?」
「ローファー、足痛くって苦手なんだ」
「そっか」
三人で靴を替える。さすがに男子、早い。
私は履き終わらなくてもたもたしている。でも、ゆっくり、ゆっくり靴を替える。
これでもし、井上くんたちが待っていてくれたら。
そしたら、勇気を出して。
顔を上げる。
二人が、私を見ていた。
待っていて、くれた。
それなら夢を見ても、いいよね?
「井上くん?」
「ん? なに、どうした?」
「あの、さ」
私は思い出す。「成せる事があるなら成すべきだ」。あの、力強い言葉。私にもほんの
「井上くん。よかったらさ、少しだけ、お話しませんか?」
言った! 言って、しまった。
怖さで、足が震える。
どう思ったかな? ゆっくりと、視線を戻す。
湯本くんが、笑って下駄箱から出て行った。
太一くんは驚いた顔をして、じっと、私の顔を見つめる。
「おっけ、いいよ、分かった。森島さんは、駅まで?」
「うん」
「そっか。テルのやつがバスだから、俺たちは歩くか」
「へえ、じゃあ家この辺?」
「ああ。地元民ってやつだな。最初は家から自転車だったんだけど、部活ない日は将たちとつるんでるから、みんなに合わせて俺も駅までのバスの定期買ったんだ。だから駅からは自転車」
「ふうん。須藤さんも?」
「ああ。ついでに言えば柴田もだな。碓氷は朝、駅前まで歩いて来て、そこから将とバス通学。帰りは将が駅前で降りて、碓氷は家まで乗っていくらしい」
「そう言うのって、やっぱ聞かなきゃ知らないよね」
「だな」
並んで、歩いている。
夕日の影が、振り向くと遠く伸びている。
太陽に向かって歩く。
それは、今までで一番幸福な帰り道。
駅前に着く。
大きな広告に映る、「石アート」の文字。
「石アート?」
太一くんが言う。
「駅ビルの展示室みたいだね。見て、来週までだって」
「このまま帰るのもあれだしな。学割使えるみたいだし、行くか」
「うん」
エレベーターが閉まり、私たちを運んでいく。
想像する。
扉が閉まった直後、太一くんは私に唇を押し付ける。
それはおんなの子の唇が欲しかったのか、それとも私のことが好きなのか、分からないまま私の頭はボーっとして、押しつけた唇を全身で感じる。
上に登るエレベーター。私は階を進むごとに小さく鳴る鐘の音を聞きながら、扉が開くその瞬間まで太一くんに身体を預ける。
鼓動と、息と、知らない感触。
そんな小さな夢を見ながら、15センチ先にいる太一くんの背中を見つめる。
「エレベーターってさ」
「うん?」
「早いのか遅いのか分かんないよな」
「それが?」
「いや、そんだけなんだけど…」
それが緊張してくれていたから出てきた言葉なら、私は今ここで爆発したっていい。
だけど分かんない。
背を向けた背中は、私に都合のいいことしか喋らない。
ガラスケースに入った、大小の石。
大きなものは人間くらい、小さなものは豆粒ほどしかない。
描かれる、風景、無機質、顔。
「これすごいな。一本の線とか、何ミリだよ」
「それに、絵と違って立体だよね。凹凸とか影もきっと計算してるんだよね」
「すげえな。なめてたね、駅ビル展示」
「ね。あっ、あっち。ルーペで見るやつみたい」
私は今、主人公だ。自分の人生なのにどこか脇役みたいだった今までとは違う。マンガのヒロインみたいに私は感情を自由に晒して、気持ちをハイにして、マンガの主人公みたいに、おとこの子と過ごす私。
何だったら少し、余裕すらある。太一くんが何となく言葉に詰まる時、自然に次の話題が出てくる。
はしゃぎ過ぎたら、きっと痛い子だ。それだけ注意していれば、私はヒロインでいられる。
「ねえ。あれ」
「ん? 展示ここまでか。なに、お土産コーナー?」
「ううん。お土産も見たいけど、あれ。石アートの体験だって。太一くん、時間、まだ大丈夫?」
「ああ、いいけど…」
「ん?」
「いや、うん、そうだな。やってこう」
どうしたんだろう? 太一くんは視線を合わせずに歩いて行き、体験コーナーのスタッフさんと話している。
私は数秒振り返って、気付く。
今、「太一くん」って言ったんだ。
だから、あの間。
呼んじゃったよ。意識してなかった。
「森島さん。体験できるって」
私なんかが名前で呼んで、それなのに太一くんは意識してくれている。
こんなちっぽけなこと、経験済みのクラスメイトが聞いたらきっと笑うだろうな。
でも、私はこれでいい。
これでいいんだって、胸を張れる。
「くそっ。あっ、やべっ。ちょっと、ちょっと待ってみよっか」
太一くん、独り言面白いな。
渡されたサイズの違う絵筆で石に色を付けていく。
彼はこぶし大の石。
私は豆粒大の石。
プラスチックの容器に入った絵の具を、針のように細い絵筆の先につけ、撫でるように色を付けていく。
私はもう表面が終わって、裏面の仕上げ。
太一くんは両手を絵の具でべたべたにしながら、完成へのビジョンはいまだ見えていない。
サイズが違うからしょうがないんだけど、太一くんってあんがい不器用なんだな。
なんか、彼は勝手に何でもできるんじゃないかって思っていた。
「森島さん、どうしようこれ。塗ってくほどに掴める面積が減っていく訳よ。なんか意図しないとこに勝手に色付いちゃうし」
「とりあえず、一回、手、拭こっか」
「あ、ああ。そうだよな」
ほんと、マジ可愛い。
意外な一面、見せてもらいました。
「ああ、もう。いっそ現代アートみたいなのに変更するかな」
「現代アートと適当は違うからね」
「ははっ。森島さん、慣れてくると結構ツッコミできるね」
「そう? 意識したことなかった」
しばらく黙々と作業が進む。
できてきたな。コンタクトくらいの、太一くんの顔。
太一くんはどうかな?
ふふっ。
ほんとに、なんか、現代アート。
でも色を付ける彼の目は真剣で、こんな目で見つめてくれたらって思う。
真剣だから、集中してるから、私の視線には気付かない。
だから、眺め放題だ。
「ねえ、ここさあ、波線みたいにしたいんだけど、どうすりゃいいの? さっき森島さん、なんか技みたいなの使ってたでしょ? あれよ、あれ」
「別に技じゃないよ。端と端はね、細い筆で書くの。あいだを太いので塗って、また細いのを重ねて分けていく感じ。ちょっと貸してみて」
太一くんから石を受け取る。「見てて?」なんて言いながら、黄色と黒で波線を描いていく。
「それ! それね。なるほどなあ。おっけ、コツは掴んだ」
私は手に持っていた太一くんの石を渡そうとする。
その時、指と指が、触れた。
ヤバい、来るっ!
胸騒ぎみたいな甘い波が身体と喉を包んで、全身が震えた。
きもち、いい。
一人で始めた夜のアレみたいに、電流が身体を駆け抜ける。
甘い息を吐きたくて喉が苦しい。
駄目だ、早く、普通にしなきゃ!
「ここ掴んで。ここまだ塗ってないから」
渡そうとして、理性の端っこにあったドキドキを封じ込める。
その時、太一くんの手が、私の手を包んだ。
「あっ…」
ひゅうぅー、ピチャ。
手をひいた私の手から落ちる、太一くんの現代アート。
それは着陸飛行みたいに、見事に、絵の具の中へ落ちた。
「ご、ごめ…」
「は、ははっ」
「太一く…」
「これで、元通りだ。真っ黒。うん。付き合わせて申し訳ないけど、もうちょっと待ってて」
太一くんは笑って手を伸ばす、私の頭を撫でようとして。
だけど、自分の手の絵の具に気付いたのか、太一くんは手を引っ込める。
「せっかく黒くなったんだから、どうせなら銀とか使いたいよな。稲妻的な。あれ、銀って何色と…」
ごめん、太一くん。
でもすっごくすっごく愛おしいよ。
神さま。全部なくなっていい。お願いだから、私のこの先の幸福が、全部なくなっていいから、この人を、振り向かせてください。
「稲妻よ。暗き天を駆ける稲妻な訳よ」
「それ、もういいから」
太一くんはご機嫌だ。
出来上がった太一くんの夜の稲妻と、私の太一くんの顔。
私はその横で、おんなの子みたいに、後ろ手で腕を組む。
「結構いい時間だな」
「そうだね」
駅ビル前のロータリー。
辺りはもう薄闇が広がってバスやタクシーのヘッドライトがちかちかと濃紺を切り裂く。
「今日、楽しかった。夢みたいだった」
「大げさすぎ」太一くんが笑う。
「聞いて。こんな日はもう、二度とこないと思う。稲妻みたいにあっという間の、人生で一番素敵な時間だった」
「………」
言おう。今、言える。今しか、もう、永遠に来ないチャンス。
音が消えた気がした。目に映る風景も、吹き飛んでいく様だった。
目の前の太一くんが、私の全てになる。
「太一くんのことが、好き。叶えたいって思う。叶わなきゃおかしいって思う。でも、太一くんの気持ちだから、太一くんが、決めて? でも、私には太一くんが全部なんだ。重くしないし、もし受け入れてくれたら、太一くんが一番好きなおんなの子になってみせる! だから、返事を下さい」
太一くんは目を閉じ、そして開いた。
世界中のキラキラを集めたような、水分の多い瞳が、一度空を見て、私に向けられる。
「俺は、ダメだ。ごめん」
「うん」
知っていた。知っていた。この光景を、私は知っていた。
背の高い、太一くんの顔を見上げていると、涙が零れた。
その顔は戸惑っていて、苦しそうで、揺れそうな、そんな気がしていた。
「キスを、してくれませんか?」
大胆も、ここまでいけば厚顔だ。
だけど、砕けた今でも、叶うような気がしていた。
こんなに切ない気持ちっ! 叶わないって、なんなんだっ!
「森島」
太一くんが、ゆっくりと、夢みたいに、近づいてくる。
15センチが、0になる。
私はこのキスの意味を取り違えたりしない。
この上ない、親愛の味がした。
永遠が、吹き荒ぶようだった。
この唇が私の全てで、今何かを考えている私はウソなんじゃないかって思う。
「俺、凛子が好きだ」
「………」
「ずっと、ずっと好きだった。森島の気持ちと同じように、俺の気持ちは凛子に向いてる。キスだって、ホントはきっとダメだった。でも、森島が可愛かったから、こんなこと言うの、ズルいんだけど、森島が可愛かった。でも俺は、バカみたいに、凛子が好きだ」
「私はっ、永遠にっ、太一くんが好きだよっ!」
本当に何かが終わった。
今でしかない永遠なんて、きっと何の意味もない。
でも私が永遠を願ったら、叶うような、きっと俯いて過ごしてた毎日みたいに、当たり前のように、繋がる未来を、同じくらい願っていた。
最後が、近づいていた。
お互いの一瞬も暴走も落ち着いて、最後なんだから、最後はやっぱり、私が言わなきゃって思う。
「井上くん?」
「ん?」
「昨日と同じ今日なんてなくて、毎日毎日、新しいものが塗りつぶしていって、変わってった毎日の上に、私のも、井上くんのも、須藤さんの気持ちもある。だから。叶わなかったら、許さないから。井上くんのその気持ちは、叶えなかったらダメな恋だから。責任感じて、大事にしてあげて」
振られて、応援して、下らない、読む気もしなかった少女マンガ。
永遠が今、終わる。
「森島は素敵な人だ。凛子と出会わなかったら、そして森島をもっと早く知ってれば、変わってたのかも知れないけど、ありがとう。上手く言えないけれど、その気持ち、嬉しかった」
「うん」
分かってないな。まるで分かってないな。
この気持ちはその気持ちと同じ、世界を変える気持ちなんだよ。
君の未来を変えていたのかもしれない気持ちなんだよ。
背を向けて、歩き出した。
井上くんの喉に引っかかる「待って」を聞いた気がした。
だけど私は歩く。
「アッチョンブリケ!」
あの日、あの時の魔法の言葉。
呟いて、私は歩き出す。
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