interlude

魔法の言葉

第58話 interlude 魔法の言葉 1/2

「笑ってる顔、はじめて見た」

 井上くんは、天使みたいな人だ。

 それはまるで、背の高い向日葵みたいに。

 麻生くんや湯本くんと笑う井上くん好き。

 須藤さんを見てる井上くん嫌い。

 須藤さんを見てる井上くんを見てる私、嫌い。


 私とお話してくれませんか?

 心でなら、言えるのになあ。


 みんな、日焼けしてる。

 夏休みが明けて、始業式の次の日。

 どうしてだろう。なんでなんだろう。学校なんて嫌いなのに、私の心が、会いたがってる。

 麻生くんがよく言う言葉、「おい、クラスのモブたち」。

 私はきっと、そのモブの中でも、顔すら描いてもらえないモブだって分かってる。

 キラキラしてるな。そう思う。

 ひがみでも何でもなく、クラスメイトは、キラキラしてる。

 夏休みのこと。

 夏休みに楽しかったこと。

 夏休みの恋のこと。

 夏休みの、人には言えない、おとこの子とおんなの子のこと。


「てめーら! 夏休みの作文は今日までだ。夏にしこたま楽しかった思い出を心の五線譜に浮かべて、てめーらだけのメロディを奏でてみせろ! 俺か? 俺はもう死んでもいいくらい色々あったぞ。聞きたいか? 途中から18禁のネタとか入っちゃうけど別にいいよね? では行くぞ、あれはそう、真夏のサマービームが降り注ぐ暑い波打ち際、推定Eカップの爆乳とプリンプリンのケツがたまんねえピーチガールが…。おい、太一! 引っ張るな! テルも足を拘束するんじゃない! とにかくモブたちよ、作文今日までだからなあっ!」

 うるさいな。あの人なんで毎日あんなに元気なんだろう。

 麻生くんは私の理解を超えている。奇人って呼ばれてる。実際、奇人だなって思う。

 井上くんは何で麻生くんと一緒にいるんだろう。

 井上太一。

 古臭い、可愛い名前。

 勉強もスポーツも人付き合いも。

 私にはもっていない全てを持っている人。

 麻生くんと出会わなかった井上くんは、どんな人だったろう?

 麻生くんと出会っていない、きっと、本当の井上くん。

 そして。

 須藤さんと、出会っていなければ。

 そんな考えは甘くて、自己嫌悪で眩暈がする。


「森島さん。作文、できてる?」

 え、誰?

 ぽけーっとしていた私は、焦点が合わない。

「森島さん、だよね?」

 困った顔は、井上くん。

 ウソ、なんで、私、話しかけられてる!

「さ、作文。できてねえっす!」

 井上くんは複雑そうな顔になって、それから、ふわっと、夢のように笑った。

「ふっ、あははっ。できてねえっすか。できてねえなら、しょうがないよね」

 そう言って、井上くんが前の席に腰かける。

 あ、うぅ。心っ、勝手にときめくな!

「井上くんは、夏休みどうしてたの?」

「俺? 俺は剣道部の合宿と、将たちと泊まりでバイトかな。あんまりぱっとしないな」

「ううん。良いと思うよ。そういうの、羨ましい」

「森島さんはどうしてた?」

 聞かれて、困る。私なんて、犬の散歩しかしてない。

「………。ペットの、散歩…」

「え、何でそんな顔? いいじゃん、家族と一緒だったんだろ。俺そう言えば、この夏家族との思い出ないなあ」

 当たり前のように、ペットが家族。そんなセリフが言える井上くんは、本当に良い人なんだって思える。

「書く事ないなって、困ってるんだろ? 何でもいいんだよ。点数が付く訳でもないし。散歩なら散歩で、うーん、どんな花が咲いてたとか、こんなもの見た、とかさ」

 私はあの散歩のとき、何をしていたんだろう。何を考えていただろう。

 太陽が眩しかったこと。早く日陰に入りたかったこと。小学生を見て、あんな風だったなって思ったこと。

 なにも、なにもない。

 こんな風に私の高校一年生の夏休みは浪費されていったんだ。

「うーん。思いつかない。ほんとに、小学生が羨ましいとか、麦茶冷えてるかなとか、ほんと、他にないのかって思うよね」

 そう言うと、井上くんは笑って目を細める。

「なんとなくわかる。そん時その瞬間って、もっと面白いこと起これ、って思うんだよな。でもさ、その時間、ほんとにムダか? 説教じゃないよ。でもさ、俺たち生きてて、色々考えてて、それでその時その行動をとったんだろ? だったらそれはムダじゃない。ガンバッてる方が、ダラダラしてるよりやってる気になるけど、森島さんにはその時ダラダラが必要だったんだよ。ペットの散歩して、あっちいな、休みたいなって思ってる森島さんがいたから、今の森島さんがあるんじゃないの?」

「今の私に、私、必要性を感じない」

「………」

 井上くんの表情が引きつる。私こんな事が言いたかったんじゃない! 話しかけてくれた井上くんに、こんな事が言いたいんじゃない!

「でも、森島さんにだって…」

「ゴメンね。ほんと、ゴメン。愚痴が言いたいんじゃないの。構ってくれて、ありがと。井上くんが優しくしてくれたからちょっと勘違いしちゃった。私だって、ほんとは変わりたい。井上くんが笑えるような事を、私だって言いたい。それから、それから…」

「うん。どうした?」

「井上くんに、『森島さんにだって』なんて、言われたくない…」

 最悪だ。最低だっ、私っ!

 困らせたいんじゃない。笑って欲しい。そんな笑顔を、私が引き出したい。それなのに口が、逆の事をしている。

「森島さん?」

 柔らかい、降り注ぐような声が、顔を伏せた私に落ちかかる。

「俺、無神経だね。でもそんなつもりじゃない。俺、ずっと思ってた。森島さんは、もっと普通に笑えるのにって。隅っこの方で、俯いて愛想笑いする子じゃないのにって。森島さんにだってって言葉、そういう意味で言ったんだ。傷つけるつもりじゃなかった」

「じゃあ、笑わせて?」

 今思えば、どんなに勇気を振り絞っても言えない言葉。

 でもその時、その瞬間、ムダじゃない、何かがもたらした言葉。

「アッチョンブリケっ!」

 え? 時が止まる。なんだ、それ。なんなんだ、そのセリフ? 井上くんは顔を赤らめて微妙な苦笑いになっている。恥ずかしさで消え入りそうな井上くんを見ていたら、もう止まらなかった。

「アハハハっ! ちょっと待って、何それ? アハハハハっ!」

「ははっ、アハハハっ! 自分でびっくりした、俺、センスねえな」

 井上くんが無理をして、井上くんが必死に絞り出した「アッチョンブリケ」。

 なんかもう、涙が出るくらいに嬉しい。

「ふふっ。ゴメンね。ありがと」

 笑い疲れて、お互いの顔を見つめながら、つまらない何かを共有している私たち。

 井上くんは涙を拭いて、自分の髪をくしゃっと撫でる。

「笑ってる顔、はじめて見た」

 井上くんは、天使みたいな人だ。

 それはまるで、背の高い向日葵みたいに。


 休み時間。

 トイレの個室に入っていると、声が聞こえた。あれ、クラスの子だ。

「奇人くん、困ってたね」

「あいつが困るなんてあんまりないから面白かったけどね」

「だよね。でもさ、森島さんも変わってるよね」

 え、私? 私の話してる?

「クラスで作文出してないのあの子だけらしいよ。相手があの森島さんだから、奇人くんもいつもみたいに強く言えないらしくってさ」

「あー、森島ね。宿題やってないから、なら分かるけど、作文なんて写しようのない物やってこないとか、サボり方がなんかズレてるよね」

「それでさ、奇人くん、井上くんに頼んだらしいんだけど、あの子なんか勘違いして、キャラ違うくらい笑ってたよね」

「ね、ちょっと可哀想とか思っちゃった。大体、誰がどう見ても井上は凛子に惚れてるのにね」

「惚れてるとか、言い方ね」

「あ、古かった?」

「別にいいけど」

 声が遠くなる。

 私はトイレに腰かけたまま、頭がボーっとしていた。

 勘違い。そっか、勘違い、してたなあ。

 なんか浮かれて、なんかはしゃいじゃって、だけどそれは、周りから見たらキャラがちがくて、可哀想で。

 そっか、頼まれてたんだ…。

「ひっ、ひっぐ、うぐ、ふ、ふえぇ」

 学校で泣くとか、カッコ悪すぎる。高校生なのに、なにやってんだ私。

 でもここはトイレの個室で、誰にも見られないから、泣いていいやって思って、狭い個室で声を殺していた。


 目、ぼやんとする。

 クラスの色が違って見える。さっきまでさくら色だったのに、今は夜のように真っ暗だ。

 はれぼったい目が、未練がましく、井上くんを追いかけている。

 麻生くんと、湯本くん。碓氷さんに、えーっと、柴田さんか、それと、須藤さん。

 不登校だった柴田さんはもうあんなにみんなと話しているのに、私は泣きはらした顔で好きな人をぼんやり見つめるだけ。

「将、あんたふざけんなよ! 太一も言ってやってよ」

 須藤さんの声が聞こえる。

 この声が、いつの頃からか、嫌いだった。

 誰かに愛されてると知っている、その声。

 夏が明けて、髪を切った須藤さん。

 男子の目の色が変わったことくらい、察しが悪い私にだって分かる。きっと、井上くんだって、何かしら思ってる。違うな、何かしらじゃない。きっと、想像したくないことを、思ってる。だけじゃない。きっともきっと、現実逃避なんだろうな。ああ、なんか頭こんがらがってきた。

 早く帰りたい。

 須藤さんの笑顔を見ていると、苦しい。

 須藤さんは綺麗で、快活で、魅力的だ。

 世間には、綺麗な人なんて、たくさんいる。

 私が、そうじゃなかっただけで。


 授業が終わった。ホームルームも終わった。

 やっと帰れる。帰ったら、もう一回泣いて、寝よう。

 そう思っていると、大きな声が上から降って来た。

「おい、森島。帰んな! お前には帰宅するという選択肢は存在しない。お前は今から俺とマンツーマンで創作活動にいそしんでもらう。特別にスイートルームを予約済みだ。さあ来いっ! 青春と、童貞の射精は待ってくれないぞ」

「そんな誘い方があるかっ!」

 見ると、麻生くんと、井上くん。二人が、私を見ている。

 誰も、口が裂けても言わないが、学校一のイケメンと、好きな人がダブルで目の前にいるという現実に、私の頭はパニックを起こしている。

「えっ、あの、えっ? もしかして、作文のこと?」

「そうだ。俺はこれから部活がある。よって、お前は二分くらいで文章をしたためろ。あと最低でも一つは笑えるところがなかったら書き直しだからな。俺が代筆してやってもいいが、その場合対価におパンティーをいただく」

 バシィ! 麻生くんの頭に、井上くんのツッコミが入る。

 い、痛そう。

 でも、ふふっ。

「そうだ、その顔だ。いいか、森島。学校で泣くな。俺が委員長でなくても心配になる。ぶっちゃけお前の笑顔はたいして可愛くないが、泣き顔よりははるかにマシだ。笑え。笑えば人生は楽しいんだ」

「みんな気付いてたよ、森島さんが泣いてたこと。みんな気になってたけど、なんて言えばいいか分からなかったんだと思う。将はこんな奴だからさ、素直じゃないけど、こういう時、楽だろ? 安心して、あーだこーだ言いながら、作文ガンバって。俺も部活あるから付き合えないけど、応援してる」

「うん。ありがと」

 ありがとう、麻生くん。ありがとう、井上くん。

 だけど。

 私は今笑顔だけど、この笑顔が、綺麗だったらって、やっぱりちょっと思う。


 生活指導室。

 入るの初めてだな。

 向かい合わせのソファと、真ん中に机と灰皿。

 麻生くんは奥のソファにどっかりと座り、私は原稿用紙とシャープペンを構えて苦戦中。

 カリカリカリ。ケシケシ。カリカリカリ。

 音が、大きく聞こえる。

 耳を澄ませば、グラウンドからは運動部のかけ声。

 だけどこの部屋は、静かだ。

「森島」

「なに?」

 話しかけられて、私は手を止めて麻生くんを見る。

 麻生くんは携帯を見つめたまま話し出す。

「例えばだ。トイレの大にこもっている時に、たまたまクラスのモブが自分の悪口を言っていたとしよう」

「………」

「モブたちは、あいつらは、ただ会話していただけだ。毎日顔合わせて、毎日無限にネタがわいてくる訳じゃない。なんかあるだろう? 自分と関係のない誰かをちょっと悪く言って、笑い合う、みたいな、な。俺には理解できんが、モブとはそういう物らしい。あいつらは、お前が嫌いなんじゃない。憎んでもいない。お前はただ、たまたま会話のネタにされて、たまたまそれを聞いてしまっただけだ。今日は特別悲しい日じゃない。今日は昨日と同じ今日だった。そうだろ?」

 麻生くんは、私は、麻生くんは、そうか。この人、思っていたよりもずっと、人を見ているんだ。

 だけどね。

「違うよ」

「あ?」

「昨日と同じ今日だったら、私はこんなに泣いたり笑ったりしない。麻生くんや井上くんの言葉を、こんなに大切に思ったりしない。昨日から続く今日だったから、なんか、なんかムダじゃない。変かな?」

 そう言うと麻生くんは携帯を机の上に置き、初めて私の顔を真っ直ぐに見た。

「森島」

「はい」

「お前は見てくれよりもずっとイイ女だ。自信を持て。自信をもって誰かに話しかけ、誰かの肌を想い、誰かの声を聞け。叶うか叶わないかじゃない。太一はお前が思うよりもずっと、イイ男だ。お前がぶつかっていけば、あいつは誠意を返してくれる。井上太一は、そういう男だ」

 この、胸の、気持ち。

 張り裂けそうな、熱量。

 何かが、音を立てて弾けた。

 井上太一がイイ男だなんて、お前に言われなくても、知ってんだよっ!

 だからこんなに、苦しいんだよっ!

 涙が、溢れた。溢れてきた涙が、原稿用紙を汚す。

 もういやだっ、もういやだっ、もういやだっ!

「叶えたいんだよっ! ムリじゃダメなんだっ! 抱きしめてキスをしてセックスしたいんだっ! たいち、くんが、どこかの誰かになるなんて、嫌なんだっ!」

 激昂していた。前も後ろも分からなくなるくらい、取り乱していた。

 一瞬で沸騰して、熱くて持てない鍋みたいだった。

 私の顔はきっと真っ赤で、ブサイクで、でもそんなことはもう、関係なかった。

 あの時の事が忘れられない。あの時の事が今も頭の隅っこにいる。

 笑ってる、太一くん。

「あぁっ。あああぁ。うわぁーーー」

 誰かの前で泣くなんて、いつ以来だろう。

 涙はただ温かくて、夏の空気が、ただ暑い。

 なにもかもなにもかもなにもかも、ただ全部流して、壊れたように泣いていた。


「ゴメン」

「いや。俺は今の今までアイドルの平野麗美のことを考えていたからノープロブレムだ。どうだ、少しはすっきりしたか?」

「うん、した。麻生くんの物言いはほんとムカつくけど、心がちょっとだけ届いてきたから、許してあげる」

「それから、一度だけ言おう」

「ん?」

「お前に話しかけるのを、俺は躊躇っていた。太一に頼んで、結果、お前に悲しい思いをさせた。済まなかった」

「ううん。私にとって一番ベストな選択肢だったよ」

 そう言うと、麻生くんは意外な物でも見たような顔になって、こう言った。

「お前、実はホントにイイ女だったんだな」

「じゃあさっきのは、ウソだったの?」

「ああ。心の底から適当に言ってた」

「ホントムカつく」

 くそっ。やっぱり、やっぱりほんのちょっとだけカッコいいな、この人。

「さあ続きを書け。言っただろう、俺はこれから用事があるんだ。待っててやるから作文ごときさっさと書いてしまえ」

「気を遣うって言葉、知ってる?」

「遣ったら誰かと仲良くなれるのか?」

「なるほど」

 麻生くんは考える顔になり、そしてにやっと笑った。

「そうだな。よし、お前にいい言葉を教えてやる」

「なに?」

「これは、俺が気に入った奴にしか教えない、言わば俺の座右の銘だ。普段おちゃらけている俺が言っても笑わない、そんな奴にしか教えない言葉だ。お前にはおまけで教えてやる。聞け。『成せる事があるなら、成すべきだ』。普通だろう? だが、出来るけどやらない、みたいな、逃げている奴には絶対に響かない言葉だ。お前に響いたかどうかは知らん。だが、何か感じるところがあるなら、覚えておけ。一つの覚悟が人生を切り開く事だってある」

「うん。覚えとく」


 帰り道。

 心が、軽い。

 泣いたの、ほんと、いつ以来だろう。しかも、一日に二回も。

 帰りのバスに揺られる。進む先で日が暮れかけていて、バスの前面のガラスは、鮮やかな橙に染まっている。

 私は、オレンジ色を浴びながら、ティンカーベルを思い出していた。

 その小さな妖精は、生まれてきた赤ん坊の初めての笑顔と共に生まれ、彼女の不思議な粉を浴びると、信じれば、空を飛べる。

 勝ち気で少し嫉妬深いところのある、「ティンク」。

 私の胸に今、ティンクがいる。

 ティンクは空を飛びたくて、手を繋いで信じれば、私も飛べるような、そんな気がする。

 それくらい、心が、軽い。

 まるで浮かび上がってしまうみたいに。

 好きだって、ほんとのほんとに自覚してしまえば、心は羽よりも軽くて、気持ちはエンジンみたいに震えてる。

 太一くん。

 太一くんって名前。

 太一くんって言葉。

 太一くんって響きが、エンジンを揺らす。

 この空は、今日だけは、私だけのためだって思える。

 くるくると回る地球儀のほんの一日くらい、私のために回ったっていいじゃないか。

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