第6話

 礼拝はいつでも退屈だ。「荘厳」という形容詞つきのミサ曲が鳴って、「敬虔」という形容詞つきの賛美歌をみんなで歌い、「謹厳」という形容詞つきの神父様がどこからか呼ばれ、「篤実」という形容詞つきの説教が語られ、生徒たちは「退屈」という形容詞つきの表情でアーメンを唱える。

 ロザリオ女子学院中学校・高等学校の一日は、朝の礼拝で始まる。しかも、学校が開いている限り、それを欠かすことはない。たとえ試験期間中であろうとも、神への愛と忠誠は、必ず毎朝試される。

 試験期間中くらい礼拝を中断しても罰は当たらないだろうに、と鏑木瀬理菜は思う。

 そもそもこの学校の生徒に、敬虔なクリスチャンなどほとんどいない。皆、それなりの進学校であることが魅力で、この中高一貫校に入学しているに過ぎない。聖書の数行を読むことより数学の解法や英単語の一つも覚えることの方がずっと大事な生徒ばかりだ。勿論、数学や英語よりアイドルの動向や自分の恋愛の行方の方がはるかに大事であることは、言うまでもない。

 それなのに、学校は、試験勉強の徹夜明けで眼をショボつかせている生徒たちに、朝の礼拝を強制する。こんな過酷な試練から、神への愛に目覚める生徒なんているんだろうか、と瀬理菜は本気で訝しんだ。もしミッションスクールが、少しでも敬虔な信徒を増やそうと目論んで設立されているなら、少なくともロザリオ女子に関しては、その目論見は完全に外れている。

 今日は、一学期末試験の最終日である。苦手な物理と地理があるので、瀬理菜は昨晩、ほとんど寝ていない。得意の現代文はまったく勉強しなかったが、とにかくこの三教科が終われば、明日からは実質的に夏休みである。取り立てて素晴らしい計画があるわけではないが、目覚まし時計に追い立てられて飛び起きる朝だけからはしばらく解放される。

 しかも、九重礼一の話では、近く『黒魔☆団』の公演があるらしい。自分が、キャスティングされるかどうかはわからないが、いずれにしても公演があれば忙しくなることだけは確かである。劇団の仕事は大変だが、礼拝堂でちんまりと座っていることに比べれば百倍マシだった。

 鏑木瀬理菜は、劇団『黒魔☆団』の女優である。勿論、女優をやるなどということは、躾と徳育に厳しいロザリオ女子学院の教師たちに知られれば、退学ものの暴挙である。だから、これは秘密である。友人たちにも知らせてはいない。

 眠気と必死に闘いながら礼拝を終え、同じように眠そうな集団に交じってだらだらと教室に向かっていると、背後からいきなり声をかけられた。

 「おはようございます、瀬理菜さん」

 か細い大人しげな声である。声だけを聞いて、出た、と瀬理菜は思った。声の主は、幼馴染、高等部二年C組森沼千奈美である。

 「あ、おはよう、千奈美ちゃん、元気~」

 瀬理菜は、満面に笑みを浮かべて振り向いた。ついでに、額に汗も浮かべている。

 瀬理菜は、千奈美とはできるだけ会いたくないと思っている。だから、鉢合わせすると、そんなことを考えている後ろめたさから、必要以上に愛想がよくなる。我ながら不自然だと思うくらいに。

 「あはははははは」

 訳もなくなく笑っている瀬理菜を、千奈美はきょとんと凝視めている。

 別に嫌いなわけではない。ただ、苦手なのだ。真正のお嬢様、ロザリオ女子では稀少な本物のクリスチャン、自称に「わたくし」を使い、しかもそれが不自然ではないノーブルな人柄と容姿、邪気というものがまったくないくりくりした黒目勝ちの眼―どれもこれも、瀬理菜にはない属性で、どう扱えばいいのか、困惑してしまう。

 ところが、森沼千奈美の方では、鏑木瀬理菜を慕っている。

 そんな「浮世離れした」子だから、友達が少ない。嫌われているわけではないのだが、敬遠されている。

 校則絶対遵守の優等生が交じっていると、遊びも何かと制約される。そして、徒党を組んで遊ぶ時には、大抵校則の一つや二つは破ることになるので、勢い千奈美は仲間から外される。

 昼休みには校則を破る必要性も生じないので、一緒にランチを食べたりすることもあるが、そんな時にも、みんなが好きな横文字のバンドの話で盛り上がっているのを、ちょっと小首を傾げながらただ黙って楽しげに聞いていた後で、二人っきりになった瀬理菜に向かって「わたくし、みなさんの仰ってる英単語の意味を知らなくて、お話がよくわかりませんでした。あれって、教科書のどこに載っているのですか」なんて大きな眼をぱちぱちしている。可愛い。しかし、やりにくい。

 北洋銀行の頭取の娘という結構な背景を背負っているので、金に任せて取り巻きを集め、その中でボスに納まるなんてこともやろうと思えばできる子なのだが、とにかくやろうとは思わない。恐らく想像だにしない。

 というわけで、友達が少なく、勢い瀬理菜を慕うようになる。瀬理菜がC組の別の知り合いから聞いたところによれば、千奈美は瀬理菜を「親友」と呼んでいるらしい。

 「あのう」

 もうすぐ一時間目の物理の試験が始まるというのに、ひどくスローモーである。

 「なになに、千奈美ちゃん? え? なになに。何か、用?」

 相手が一話す間に二話す、これが今時の女子高生の鉄則である。しかし、瀬理菜が千奈美と話す時は、この鉄則が崩れてしまう。千奈美が一話す間に、瀬理菜が五も十も話してしまう。

 「実はあ」

 「ん? 何?」

 「そのう」

 瀬理菜は少しイライラする。試験の前にもう一度、物理の教科書に眼を通しておきたいのである。

 「だから、何なんだってばっ? 一時間目始まっちゃうでしょ。早く・・・」

 瀬理菜は、はっとして、きつくなりかけた言葉を飲む。眼の前で、黒い瞳が上目遣いにうるうるしている。別に泣いているわけではない。この眼はいつもうるうるしているのだ。でも、この眼には魔力がある。きつい事が言えなくなる。可愛いのだ。

 ロザリオは女子校なので、男子生徒はいない。しかし、もしここが共学校なら、恐らく千奈美は異性の友達に不自由することはないだろう。学園のマドンナの地位を掌中にすることは間違いない。

 自分だって満更ではない、と瀬理菜は思う。ひょっとしたら、美貌という点では、千奈美に勝っているかもしれない。スカウトされた経緯はともかく、何と言っても女優をしているくらいなんだから。でも、男子人気では、絶対に千奈美に敵わない自信がある。そんなことで自信を持っても仕方ないのだが、このうるうるの魔力に勝てると思う女子がいたら、それは馬鹿だ。

 「ええと、ご相談が・・・」

 「あ、なんか、相談があるのね。ふむふむ、それは聞いてあげなきゃね。でもさ、ほら、もう試験が始まるでしょ。あんまり時間がないじゃない。後でね、後で。試験が終わってからにしよう、そしたら、たっぷり相談に乗ってあげられるよ。ね、ね。じゃ、そゆことで」

 眼さえ合わせなければいいのだ、と瀬理菜はあらぬ方向を見ながら一気にそれだけ捲くし立てると、踵を返して「じゃねー」と教室に向かって駆け出した。

 勿論千奈美のせいではないが、物理の試験は散々だった。出題者は、瀬理菜が山を張ったところを悉く無視していた。この外しっぷりも立派な才能だ、と瀬理菜は悲しく自分に感心した。いいんだ、物理学者になるわけではないから。

 地理も外した。いいんだ、ツアコンになるわけじゃないから。

 現代文は、いつもの通り楽勝だった。女優には、やっぱり日本語の才能がなければいけない。納得しつつも、なぜか妙に悲しかった。

 帰りがけ、薫と芳美が憂さ晴らしにカラオケに行こうと誘ってきた。薫も芳美も物理学者にはなれないことが判明してしまったらしい。「いいよ」と返事して、三人で校舎を出た。

 ロザリオ女子学院中学校・高等学校には制服がない。正確には、なくなった。二年前まで着用が義務付けられていた制服は、在校生が鼻高々の可愛らしいデザインで、それが着たいという理由だけでロザリオを目指す受験生もいるくらい人気があった。問題は、その人気が受験生の間だけに留まっていなかったことだ。ロザリオの学生が金輪際足を踏み入れそうにないいかがわしい界隈の店で、ロザリオの制服が売られるようになった。勿論買いに行くのはロザリオの学生ではない。ロザリオの学生がもしその店に姿を現すとすれば、それは自分の着用した制服を売るためである。

 そんな事態が問題になり、理事会の喧々囂々の議論の末、制服は廃止されてしまった。二万円もしない制服の、しかも中古品に、仮に顔写真つきなら十万円もの値段がついてしまうという歪んだ資本主義がいいわけはないので、瀬理菜はこの決定を仕方ないと思っている。しかし、制服がなくなったせいで、着ていく服に毎朝悩まねばならないという厄介事が増えたのは確かだ。

 その代わり、学校帰りにできる娯楽の数は増えた。

 制服が義務付けられていた頃の学校帰りのカラオケは、なかなか覚悟のいる一大イベントだった。朝着替えを持って出かけ、それを駅のコインロッカーにしまっておく。学校が終わったら、それを引っ張り出して駅の公衆トイレで制服と着替える。今度は、制服をコインロッカーにしまって、やっと堂々とカラオケ店に入る準備が整うといった具合である。

 しかし、制服廃止以降、思いついた時に「カラオケでも行こうか」と気軽に仲間を誘えるようになった。但し、森沼千奈美がそこにいない場合に限って。

 瀬理菜と二人の友人は、物理教師石田のテスト作成能力に疑問を呈し、ついでに、だから服装の趣味が悪いのだ、禿なのだ、などとあらぬ悪態を吐きながら、キャンパスを正門に向かって歩いていた。

 石田は一生独身に違いないと意見が纏まり、三人でキャーキャー盛り上がっていたその時、瀬理菜は急に足を止め、押し黙った。ゾクゾクとしたのである。何かがこちらを伺っている。恨みがましい視線が、じいっと自分に注がれている。瀬理菜は、恐るおそるオーラの出所と思われる方に視線をやった。

 出たあ。

 桜の木の陰で、森沼千奈美が、小さな握り拳を口元に当てて、上目遣いの黒目勝ちの眼をうるうるさせながら、立っていた。

 やば、忘れてた、と瀬理菜は思った。そして、すかさず薫と芳美の方を向くと、

 「ごめん。約束があるのを忘れてた。悪いけど、カラオケには二人で行って。この埋め合わせは、今度する。マジ、ごめん」

 顔の前で、手を合わせた。

 薫と芳美は、えー、と非難の声を揃えたが、瀬理菜はそれを振り切るように「ほんと、ごめん」と言いながら後退ると、くるっと向きを変えて千奈美の方に駆け出した。薫と芳美はいささか不満げな様子で顔を見合わせていたが、瀬理菜の向かった先に森沼千奈美の姿を認めると「仕方ない」といった様子で微笑み合い、正門に向かって歩き出した。

 瀬理菜が駆け寄ると、千奈美の顔がぱっと輝く。そして、嬉しそうに、

 「こんにちは。瀬理菜さん」

 何事もなかったかのように挨拶をする。

 「あ、うん、ええとね。ちょっとそこまで、薫たちを見送ってたんだ。うん。で、今から千奈美ちゃんを探しに行こうと思ってたとこだったんだよ。そうそう。こんなとこで会うなんて、なんか絶妙のタイミングだね。あはははは」

 瀬理菜は狼狽している。しかし、そんな瀬理菜の様子に何らお構いなく、

 「いい天気ですね」

 千奈美は眩しそうに空を見上げた。

 相談があるという千奈美を連れて、瀬理菜は近くの公園に行った。本当は喫茶店でお茶でも飲みながら話を聞きたいところなのだが、帰宅途中の喫茶店への出入りは校則で禁止されており、歩く生徒手帳森沼千奈美がそんな不良行為に同意する筈がなかった。

 抜けるような青空の下、駆けずり回る黄色い帽子を被った子どもたちに交じって、瀬理菜と千奈美は公園のベンチに腰を下ろした。

 「で、相談って、何?」

 本当に今日はいい天気だなあ、などと今更思いながら、瀬理菜が尋ねた。

 「はい。他にこんなこと、ご相談する方がいらっしゃらなくて・・・」

 そう言って、千奈美は少し俯き、

 「ごめんなさい。薫さんたち、怒ってますよね」

 さらに俯いた。

 何だ、意外に周りが見えてるじゃん、と思いながら、

 「あはは、バレてた? 大丈夫。あの子たち、性格いいから。それに、ダブルブッキングしたわたしが悪いんだしさあ。謝るのは、わたしの方だよ。ごめん」

 瀬理菜は頭を下げる。

 「とんでもない」

 千奈美が頭(かぶり)を振る。

 そして、二人は、顔を見合わせ、同時に笑った。

 「で、相談は、何?」

 瀬理菜が問う。千奈美はにわかに真顔になる。

 「はい。覚えていらっしゃるかかどうかわからないんですけど・・・槇村有里さん」

 「ああ、勿論、覚えてるよ」

 槇村有里。瀬理菜と千奈美の共通の知人である。中学受験の時、同じロザリオ女子を目指す塾仲間だった。抜群に成績がよく、塾のテストでは常にトップスリーに名を連ねている秀才だった。ところが、受験を間近に控えた最後の模試でとんでもなく酷い成績を取ったかと思うと、本番でも、大方の予想に反してロザリオの受験に失敗、遥かに格下の羽村女子に進学を決めて、周囲を驚かせた子だった。

 綺麗な子だった。あの当時はまだ小学生だったわけだが、大人っぽい魅力があった。色が白く、光沢のある長い髪で、体も瀬理菜や千奈美より一回り大きかった。

 「千奈美ちゃんほど仲は良くなかったけどね、でも、よく覚えてる」

 森沼千奈美と槇村有里は仲が良かった。何でも父親同士が知己だとかで、家族ぐるみの付き合いをしていた。

 瀬理菜は、千奈美を介して槇村有里を知った。しかし、その妙に大人びた雰囲気に臆するところもあって、心から打ち解けた仲にはならずに終わった。

 「で、槇村さんがどうかしたの?」

 「いえ、有里さんがどうのというのではなくて、問題は神父様なんです」

 「え? 神父さん?」

 はい、と言って、千奈美が事情を説明し始める。

 森沼千奈美は、毎朝、車で学校まで送ってもらう。正門の前に乗り付けるのはいかにもなので、いつも学校に一番近い大通りの交差点で降りることにしていた。

 今朝もその交差点で車を降り、学校に向かって歩き始めると、

 「森沼千奈美さんですね」

 背後から声をかけられた。

 振り向くと、そこに神父が立っていた。纏った衣装から神父には間違いないのだが、やけに精悍な顔立ちをしていた。

 「槇村有里に近づいてはいけません」

 神父は、唐突にそう言った。

 「え?」と聞き返す千奈美に、

 「向こうが近づこうとしてきても、近づけてはいけません。これを持っていなさい」

 小さな十字架のペンダントがついたネックレスを差し出した。

 「あのう。どういう意味で・・・」

 問いかけた千奈美を無視して、強引にネックレスを握らせると、踵を返して神父は立ち去ろうとする。

 「あの、神父様」

 さっぱり事情の飲み込めない千奈美は、神父を立ち止まらせようと声をかけたが、神父は振り返らず雑踏の中に消えてしまった。

 「なんなんだ、その神父?」

 千奈美にしては手際のよい説明の後で、瀬理菜は思った感想を口にした。

 「そうなんです。あの法服は神父様のものに間違いなかったし、お優しい眼をされてもいたんですけど、何が何やらわからないし、しかも、槇村さんに近づくなというのは、どういう意味なのか。何か、気味が悪くて」

 「だよねえ。なんか神父の言うことじゃないもんねえ。でも、その神父は、千奈美ちゃんのことも槇村さんのことも、知ってるってことだよねえ。どこかで会った覚えはないの?」

 「存じ上げている神父様は何人かおりますけど、今日のあの方に見覚えはありません。わたくしが知っている神父様たちとは、少し雰囲気が違う方でした。何と言うか、神父様というよりは、スポーツ選手のような」

 「ふーん。でも、何だか本当に不気味だね。槇村さんには、聞いてみたの?」

 「それで、困っているんです。槇村さんに聞けば何かわかるかもしれません。でも、あの神父様は槇村さんに近づくなと仰っているわけですし、わたくし、どうしたらいいのか・・・」

 「どう考えても、その神父は怪しいよ。別にそいつの言っていることを真に受けなくてもいいんじゃない」

 「はい。わたくしもそう思います。でも、その神父様は、綺麗な眼をされていたんです。誠実なお人柄に見えました」

 ああ、こういう子が悪い男に騙されたりするんだろうなあ、と思いながらも、

 「まあ、確かに、なんか槇村さんには会いにくいよねえ」

 瀬理菜は同意した。そして、しばらく考え、

 「わかった。わたしが槇村さんに会ってみるよ。それで何か知らないか聞いてみる」

 そう提案した。

 にわかに千奈美の表情が輝く。

 「ほんとうですか。そうしていただけると、とてもありがたいです。とても嬉しいです」

 黒目がちの大きな眼が、うるうると瀬理菜を見ている。

 ああ、こういう子が男を手玉に取るんだろうなあ、と思いながら、

 「任しとき」

 瀬理菜は千奈美の頭を撫でた。


 槇村有里が住む街の駅で電車を降りる。学校が午前中で終わっているお陰で、まだ昼下がりという時刻である。

千奈美には、駅前のコーヒー店で待っているように言って、瀬理菜は一人で槇村有里の家を目指した。千奈美はコーヒー店に入ることに躊躇いを見せたが、「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」という瀬理菜の一喝で渋々店に入って行った。

 豪邸の街である。高い塀で内部を伺わせない家ばかりが並んでいるせいか、街並みは落ち着いているというよりどこか閉塞感があって暗い。

 電車の中で千奈美が描いてくれた地図は、電車の揺れのせいで線が乱れてはいるが、正確な情報を伝えていた。街角の、注意していなければ見落としてしまうような祠まで描き込まれている。

 地図によるとそこを上れば槇村有里の家だという短い坂の下に立った時、瀬理菜は、にわかにとても嫌な感じに襲われた。

 やばい、見えちゃいそうだ、と瀬理菜は思った。

 瀬理菜には特殊な能力がある。実はそれが、『黒魔☆団』にスカウトされた理由でもある。鷲巣英輔に言わせると、それはレトロコグニションまたはポストコグニションと言われている能力で、これを持つ人間は過去に起こった出来事を記憶や記録を介さずに認知してしまうのだそうだ。

 坂を上る一歩ごとに、嫌な感じが強くなってゆく。瀬理菜には、この感覚をコントロールすることができない。感じたい時に感じることができるわけではないし、感じたくない時に感じないで済ますこともできない。そして、大抵この能力を介して瀬理菜が認知する過去は、悲劇だ。

 足が重い。大して勾配の急な坂ではないのに、まるで一歩進む毎に粘着性の坂の表面が足に絡みつくように、途轍もない重力を感じる。恐らくこれは、防衛本能である。今まさに発揮されようとしている特殊能力を、全身が押し止めようとしているのである。

 見るな! 見るな! 見るな!

 行くな! 行くな! 行くな!

 しかし、一体何が見えるのだろう。この先に、どんな過去の悲劇があったというのだろう。瀬理菜は、好奇心に衝き動かされて、重い足を止めることができない。

 ついに坂を上り切る。そして、立ち並ぶ家々の中で、一軒の家に強く感応した。それは、千奈美が地図上にマークをつけた、正にその家だった。

 暗い。まだ昼間だというのに、その家だけが寒々とした暗晦の中にある。

 槇村という表札の貼られた門の前に立った。すると、門の向こう側にも、暗い眼をした少女が立っていた。久しく会っていない相手だったが、確かに槇村有里の面影がある。その少女が、後ろ向きに歩き出す。玄関の扉が開く。少女はその中に、背中から吸い込まれてゆく。そして、瀬理菜の意識もその後を追った。

 家の中はしんとしている。有里は後ろ向きのまま、暗い廊下を進んでゆく。居間の扉が、音も立てずすーっと開く。有里は、居間に背中を向けて横向きになると、その中にするすると吸い込まれていった。暫し躊躇った後、瀬理菜の意識がその後に続く。

 居間は暗かった。その闇は、とても忌まわしい臭いがした。何だろう、この臭いは、と瀬理菜が思った時、ぱっと居間の灯りがついた。電灯のスイッチから離れた有里が、スイッチの方を向いたまま、ソファの向こう側に移動する。

 立ち止まった有里が、何かを見下ろしている。瀬理菜からは、ソファの陰に隠れていてそれが何であるのかは見えない。瀬理菜の意識は、その立ち位置を変える。

 見えた。その瞬間、強い吐き気が瀬理菜を襲った。有里の視線の先には、血の海に横たわる女がいた。周囲を見回すと、壁のあちこちが鮮血で彩られている。忌まわしい臭いは、まだ生暖かいその血液の放っていたものだ。

 女が沈む血の海が、その面積を徐々に狭めてゆく。首筋にぱっくりと開いた傷の中に、血が逆流してゆく。と、突然、女の体が、びくっと動いた。

 床に落ちていたカッターが宙に浮き、すっと有里の手の中に納まる。そして、有里は、血に染まったカッターナイフを勢いよく振り上げた・・・

 気がつくと、瀬理菜は槇村家の門の前にいた。眼の前には当たり前の家が建っていたが、今や瀬理菜はその中にとんでもないものが横たわっていることを知っていた。

 踵を返すと、瀬理菜は坂を駆け下り、その勢いで駅まで走り続けた。ちょっとでも立ち止まれば、激しい震えで一歩たりとも歩けなくなりそうだった。しかも、後ろからは、血の海からすくっと立ち上がったあの女が、物凄い形相で追いかけてきていた。無論、それは、恐怖が瀬理菜に見せた幻影にすぎなかったが。

 千奈美を待たせているコーヒー店の前まで来ると、ガラス張りの店の中に、千奈美の姿を探した。千奈美は窓辺の席に、心細そうに座っていた。向こうでも窓の外を伺っていたようで、すぐに二人の眼が合った。途端に千奈美の顔が、ぱっと輝く。

 瀬理菜は、手招きした。急いで、という合図のつもりで、走る真似をした。

 慌てて千奈美が、外に出てくる。

 「どうしたんですか。そんなに汗を掻いて。顔色も蒼いですよ」

 千奈美の眼が、不安げに瀬理菜の顔を覗き込む。

 「まずいよ、千奈美ちゃん。その神父、正解だよ。槇村有里には近づいちゃだめだ。すごくやばい。ああ、どうしたらいいんだろう」

 荒くなった息遣いを必死に整えながら、瀬理菜は言った。

 「瀬理菜さん・・・」

 千奈美の表情が、益々不安に曇る。

 「うーん、どうしよう。とにかく警察に知らせなきゃ。ああ、でも、どうやって説明しよう。困った。ああ、どうしたらいいんだろう。ねえ、千奈美ちゃん、どうしよう」

 瀬理菜は、千奈美の手を固く握った。千奈美は訳がわからなかったが、取り敢えずその手を握り返した。

 とにかく誰かに相談しなきゃ、と瀬理菜は思う。九重と鷲巣の顔が浮かんだ。ここからだと、九重礼一の店は遠い。鷲巣英輔の事務所なら、電車で五駅くらいだ。鷲巣は何を考えているのかよくわからないので苦手だが、この際、仕方ない。しかも、これは歴とした殺人事件だ。相談する相手は、酒場のマスターより、やはり探偵の方がいい。

 そう決めると、瀬理菜は千奈美の手を握り締めたまま、駆け出した。

 「あっ。瀬理菜さん」

 「ごめん、千奈美ちゃん。後でちゃんと説明するから、今は取り敢えず急いで」

 走りながら、どうやって千奈美に説明すればいいのか、と瀬理菜は途方に暮れていた。


 「愛想は悪いけど、恐い人じゃないから」

 鷲巣探偵事務所というプレートの貼られた扉の前に立って、瀬理菜は千奈美に耳打ちした。

 「はい」と千奈美が、囁くような声で答える。老朽ビルの中の、老朽オフィスに設えられた、老朽扉の前に立って、いささか千奈美は怯えている。

 ここに来る電車の中で、千奈美は盛んに何があったのかを知りたがった。しかし、それを説明するのは骨が折れる。千奈美を納得させるには、自分の特殊な能力のことを打ち明けなければならない。しかし、その能力を他人に教えることは、『黒魔☆団』の団員が厳しく戒められていることだった。

 「着いたら説明するから」と千奈美の質問をかわしながら、瀬理菜は下駄をすべて鷲巣に預けるつもりでいた。

 扉を叩く。

 「どうぞ」と愛想のない声が応える。

 中を伺いながらゆっくりと扉を開けると、正面の事務机の向こうに側に、黒尽くめの男が座っていた。机に片肘をつき、その先に作った握り拳の上に側頭部を載せて、何やら分厚い本に読み耽っている。下を向いているせいで、顔は見えなかった。

 瀬理菜と千奈美は殺風景な事務所の中に入り机の前に佇んだが、机の向こう側の男が訪問者に注意を払っている気配は微塵もない。

 仕方なく、

 「こんにちは」

 瀬理菜が怖ず怖ずと声をかけた。

 「やあ、鏑木君」

 下を向いたまま、男が言う。

 しかし、会話はそこで途絶えた。男は相変わらず、分厚い本から視線を外そうとはしない。

 完全に無視されている、と瀬理菜が不安になり始めた時、

 「で、そちらは?」

 やはり下を向いたまま、いきなり男が尋ねた。

 「あ、友人です」

 瀬理菜は、すかさず答える。

 しかし、男の反応はすぐには返ってこない。沈黙がまた、しばらく続く。

 そして、いい加減待ちくたびれた頃になって、

 「で、用件は?」

 いかにもお座成りな調子で、俯いた男が訊いた。

 「はい。あのう。例の力のせいで、あるものを見てしまったので、ご相談に」

 瀬理菜は、千奈美にはわからぬように、しかし男にははっきりと伝わる言葉を選んで説明した。

 しかし、男からの反応はない。本に顔を埋めたまま、「この方法は疑わしい」などと小声で独り言を言っている。

 瀬理菜はしばらく反応を待ったが、ついに耐え切れなくなり、

 「とんでもないものを見ちゃったんですっ!」

 男の関心を惹きつけようと、勢い込んで大声を出した。横で、千奈美が猫みたいに身を竦めた。

 しかし、男は微塵も動じた風はなく、

 「とんでもないもの?」

 そう言って、やっと読み止した本から顔を上げた。端正な、しかし冷たい感じの顔だった。

 その男、鷲巣英輔はやれやれといった様子で机の上の本に栞を挟み、重い扉を閉ざすかのようにすすけた表紙をバタンと閉じた。埃が舞い上がってもおかしくないような、古ぼけた本だった。

 「そこに座りなさい。そちらのお嬢さんも、どうぞ」

 そう言って、眼で客用のソファを指示すると、

 「で、何を見たんだ?」

 関心がなさそうに、そう訊いた。

 瀬理菜は隣に千奈美を促しながら、言われた通りソファに腰掛ける。そして、「あのう」と言いながら、千奈美と鷲巣を順番に見た。

 意図を察した鷲巣が言う。

 「構わないよ。そのお嬢さんは、どっちにしても君の秘密を知ることになる」

 自分の秘密を明かすお墨付きを貰った瀬理菜は、千奈美が不審な神父に出会った一件から自分がレトロコグニションで見た光景まで、要領よく鷲巣に話して聞かせた。

 横で聞きながら途中までうんうん頷いていた千奈美は、槇村家で起こった血みどろの惨劇に話が及ぶと眼を丸くして蒼ざめてしまった。

 「なるほど」

 一部始終を聞き終わった鷲巣は、深く頷くと、「恐い目にあったねえ」と一応の同情を示した。

 その一言を聞いて瀬理菜がほっと安堵した刹那、信じられない言葉が、鷲巣の口から発せられた。

 「で、俺に何の用だ?」

 思わず瀬理菜は鷲巣を見た。まじまじと見てしまった。しかし、冗談を言っている気配はない。

 「君たちが体験した出来事については了解した。だが、まさかその話を聞かせたいだけで、わざわざ俺のところまで来たわけではないだろう」

 当たり前です、という怒声を飲み込んで、

 「鷲巣先生が探偵だから、ここに来たんです」

 瀬理菜は言った。

 「なるほど・・・。で、探偵である俺に、何の用だ?」

 「何って・・・」

 ああ、なんてこいつは意地悪なんだ、と思いながら、

 「どうしたらいいかわからないから、相談に来たんです!」

 少しばかり涙声になりながら、瀬理菜は言った。

 「なるほど。クライアントとして探偵である俺に相談に来た訳か。なら、話が早い」

 眼の前で女子高生が泣きそうになっているというシチュエーションに、心を動かされた様子は微塵もない。平然と、

 「あの中に、依頼したい項目があるか」

 入口の扉の横に張られた掲示板を指差した。

 そこには、

 1 信用調査(法人・個人)

 2 人事調査(採用・雇用)

 3 素行調査

 4 ストーカー対策調査

 5 いじめ・非行実態調査

 6 盗聴機器調査

 7 盗撮機器調査

 8 債権・債務に関する事実関係調査

といかにも私立探偵の営業項目らしきものが列挙されていた。

 「ありませんっ!」

 瀬理菜は本気で声を荒げた。

 「なら、いい。あれがうちの非営業項目だ」

 言われてみると、確かに掲示板の列挙項目の最後に、「当事務所では以上の業務を扱っておりません」と書かれていた。

 完全におちょくられている、と瀬理菜は思った。こうなったら全面対決だ、と身構えたところに、

 「さて、本題に入ろう」

 そう言って、鷲巣が立ち上がった。そして、千奈美の横に立つと、

 「お嬢さん、その神父から渡されたクロスというのを見せてくれないか」

 そう言って、腰を屈めた。

 千奈美が怖ず怖ずと、鷲巣にクロスを差し出す。

 それを手に取り、しばらく様々な角度から眺めた後で、

 「これは肌身離さず持っているといい」

 千奈美に返す。

 「なんなんですか、それ?」

 出鼻を挫かれた瀬理菜が、横から口を挟む。

 「アミュレット。簡単に言えば、魔除けだ。今流行の言葉を使えば、結界発生装置だな。これを持つ者の周囲に、小規模ながら結界が張られる。呪符、神像、宝石など様々なものがアミュレットに利用されるが、これがクロスであることには意味がありそうだ」

 そう瀬理菜に説明すると、今度は千奈美の方を向いて、

 「いずれにしても、君にこれを渡した神父は、魔性の者が君に近づく危険を懸念している。想定されているのは、カッターを振りかざす殺人鬼程度のものではない」

 鷲巣の説明に、千奈美は戸惑った表情を浮かべている。顔色が悪い。

 「さて、鏑木君。君の認知した槇村邸での出来事は、まず間違いなく事実だろう。女優としては大根だが、遡知能力者としての君の才能は、大いに買っている。従って、こちらのお嬢さんには気の毒な話だが、槇村有里という少女は殺人者ということになる。恐らく殺されたのは母親だろう。つまり、尊属殺だ」

 「待ってください」

 この事務所に入って初めて、森沼千奈美が口を開いた。

 「わたくしには、お二人のお話がよくわかりません。大体瀬理菜さんは、なぜ有里さんのお宅に入ってもいないのに、中の様子がおわかりになったのですか」

 友人が殺人を犯しているという結論が気に入らないのだろう、千奈美にしては珍しく、少しばかり食ってかかる口調になっている。

 「鏑木君は、女優としては大根だが、サイ能力者としてはかなり優秀な人物なんだよ」

 余計な一言を交えながら、鷲巣が説明する。

 「サイ能力?」

 千奈美には、意味がわからない。

 「超能力と言ってもいい。しかし、超能力という言葉は通俗的な文脈で使われ過ぎたせいで、いささかいかがわしい語感を伴うようになってしまった。そこで、ロバート・ヘンリー・ソーレスとB・P・ウィースナーという二人の心理学者が、サイという呼称を提唱したんだよ。彼らの目論見がどこにあったかはともかく、結果として、こうした超常的能力に対する研究環境が若干は改善された。尤もパラダイムが変わるまでには至っていないし、抜本的問題が解決されない限り、今後もサイ研究に目覚ましい進展は望めないだろうがね。

 目下一般に容認されている見解では、サイ能力は、ESP―つまりテレパシーや予知のような五感を超えた認知能力と、PK―つまり物理学では説明のつかない形で物理現象を引き起こすサイコキネシスに分類されているのだが、鏑木君の使うレトロコグニションというのは、そのうちのESPに属するサイ能力だ。彼女には、記憶にもないし記録を読んだわけでもない過去が認知できてしまう」

 「そんな・・・」

 千奈美が言いかけ、しかし瀬理菜への遠慮から言い淀んだのを、鷲巣が引き取った。

 「馬鹿なと思うだろうが、現象としてそういったサイ能力は確かに存在する。ま、今はにわかに認めがたくても、いずれ認めざるを得なくなるよ。

 問題は、その研究がまともな形ではなされていないということだ。だから、いつまで経っても、『サイが存在するか否か』がサイ研究の主要なテーマであることを止めない。

 実験による仮説の立証という自然科学的方法では、サイは本来研究できないはずなんだ。なぜなら、科学知がサイを承認すれば、科学知は自ずから瓦解せざるを得ない。例えばラザフォードの散乱実験は、そこにサイという契機を加味して考えると、その信頼性が著しく低下する。ラザフォードというサイ能力者のもとで発現した特殊な実験結果に過ぎないと見做す可能性も生まれるわけだからね。言わば科学知とは、サイを否定することで成立している世界の解釈原理なわけだ。ところが、なぜか今のサイ研究者たちは、科学的方法という形式に執拗に拘泥する。その結果、研究法そのものが根源的矛盾を孕んだまま、当然研究は一歩も先に進まないという悲劇的事態に陥っているわけだ。

 ま、兎も角、科学主義的パラダイムの中にいる君に、サイを認める土壌がないのは仕方のないことだ。幸いにして、今の俺の役割は、君にサイを認めさせることではない。話を先に進めるよ」

 千奈美は思わず頷く。

 「当面の問題は、どうやら状況から判断するに、このお嬢さん・・・」

 鷲巣は千奈美の方を向きながら、一拍置いた。

 「森沼千奈美です」

 妙にはきはきと千奈美が言う。

 「森沼君が、何者かから身を守らねばならない立場にあるということだ。神父が渡したアミュレットから考えるに、その何者かとは槇村有里という少女ではない。アミュレットに人間の加える物理的な力を妨げる効力はないからねえ。もっと忌まわしい何かが、このお嬢・・・森沼君を狙っていると考えられる。少なくとも、その神父はそう信じている」

 どこまで鷲巣の話を信じているのか、千奈美はとても不安げな表情になる。

 「従って、やるべきことは、三つだろう。

 まず、鏑木君。君は森沼君から離れないこと。女優としては大根だが、そのくらいのことはできるだろう。出来れば今夜からしばらくの間、彼女を君の家に招待するといい。しかし、君だけでは心許ないなあ。そうだ、真壁がいる。うん、彼にボディーガードをやらせよう」

 「えーっ! 真壁瑛ですか。あいつ、くらーい」

 真壁という名を聞いて、思わず瀬理菜は叫んでいた。

 「この際問題になるのは、女優としての力量ではないし、性格の明暗でもなく、森村君を保護しうる力を持っているかどうかだ。彼はバイロキネシスの能力者としては十分信頼するに足る。俺から話をしておく。後で君に連絡させよう。

 そして、その神父が何者であるかを探る必要もある。もし見つけ出せれば、事情が詳らかになるだろう。これは探偵の仕事だ。任せてもらおう。

 最後に、槇村邸にある有里という少女の母親の遺体をそのままにしておいては気の毒だ。警察に知らせた方がいい。これは君の仕事だ」

 そう言って、鷲巣は瀬理菜を見た。

 「えー、どうやって説明すればいいんですか」

 「大根だが、女優だろ。何とかしろ」

 瀬理菜は心の中で、鷲巣に思いっきりあかんべーをした。

 その後、鷲巣は、神父について千奈美に幾つか質問をし、「ちょっと待ちなさい」と言うと奥にある別室に消えてしまった。

 千奈美と二人残され、瀬理菜は会話のきかっけが見つからず、ぎこちなく沈黙していた。

 「瀬理菜さん、すごい方だったんですね」

 見ると、千奈美が、大きな黒目勝ちの目をうるうるさせて、本気で尊敬の眼差しを瀬理菜に向けている。瀬理菜は、あはは、と頭を掻きながら笑って見せるしかなかったが、千奈美のうるうるの眼の中に、聞きたいことはたくさんありますわよ、という好奇の光も宿っていることに気づき、後で質問攻めに遭うのは必至だ、とため息交じりで覚悟するしかなかった。

 「これを持って行くといい」

 別室から出できた鷲巣が、何やらわけのわからない図形と文字の書かれた布らしきものを、千奈美に渡した。

 「何です、それ?」

 訊いたのは、瀬理菜である。

 「羊皮紙で作ったタリスマンだよ。まあ、お守りだと思ってくれればいい。相手を特定していないので、どこまで効力があるかは保証の限りではないが、多少は役に立つだろう」

 何やら薄汚いものだったが、受け取った千奈美は、

 「ありがとうございます」

 深々と頭を下げた。

 数刻後、相談に乗ってくれたことに瀬理菜が口先だけの謝辞を述べ、千奈美が「さようなら」と手を振って、女子高生二人は鷲巣探偵事務所を後にした。その背中に向かって、

 「相談料は劇団の給料から引くからな」

 これが、鷲巣英輔の別れの挨拶だった。


 「優しい方だと思います」

 それが森沼千奈美の、鷲巣英輔に対する評価だった。

 「どこをどういう角度から見ると、そういう歪んだ結論になるわけ?」

 鏑木瀬理菜は気に入らない。

 ここは、森沼千奈美の邸宅である。鷲巣からは瀬理菜の家に千奈美を招くように指示されたが、いざとなると、千奈美にとっては外泊が極めて難しい、というよりほぼ不可能であることが判明した。

 大騒動だった。

 鷲巣探偵事務所を出た後、瀬理菜は、鷲巣から命じられた通り、槇村家の様子がおかしい、と近所の主婦を装って公衆電話から警察に連絡を入れた。少し嗄れた声を出しお節介なおばちゃんを演じた瀬理菜に、「さすが女優さん、お上手ですね」と千奈美が言った。露骨なお世辞だった。言った人間が千奈美でなければ、完全な嫌味である。

 次は、千奈美が家に電話をかけて、外泊許可を取る番だった。

 友人の家で外泊などしたことがないという千奈美は、最初、電話をすることに躊躇を見せていたが、「やってみれば大したことないよ」「大人になるんだよ」という再三再四の瀬理菜の激励で、やっとその気になった。友達の少ない千奈美らしく、携帯は学生鞄の底に埋まってしまっていて、それを探り当てるのに、教科書やら筆入れやらを取り出してベンチに広げなければならなかった。やっと手にした携帯を開くと、「あら」と千奈美は驚きの声をあげた。

 「こんなにいっぱい」

 瀬理菜が覗いて見ると、確かに驚くほどの数の着信履歴が、ほぼ三分おきぐらいに記録されている。この時、瀬理菜には少し嫌な予感がした。

 電話には、妙におろおろした家政婦が出た。その家政婦の言うことがどこかおかしい。

 「どうしたの、村田さん。何を慌てているの?」

 千奈美は携帯を耳に当てながら、瀬理菜と顔を見合わせて、首を捻る。

 「ええ、一緒にいるのは、お友達よ。そうよ。え、お名前? 鏑木瀬理菜さん。そう、ロザリオのお友達よ」

 千奈美と頭を寄せ合っている瀬理菜にも、相手の声が受話器を通して聞こえてくる。何を言っているのかはわからないが、恐慌状態に陥っていることはそのハイな口調で伝わってくる。

 「はい? なんですか? 警察? え? どういうこと?」

 それからしばらく訳のわからない遣り取りが続いて、結局千奈美は外泊のことなどひとことも言わずに電話を切った。

 千奈美は、困ったような顔を瀬理菜に向けて、

 「わたくし、誘拐されたらしいです」

 一層困った顔になった。

 結局、その場で待つように指示された千奈美を、黒塗りの車が迎えに来て、誘拐されかけた女子高生と誘拐犯になりかけた女子高生は、一緒にその車に乗ることになった。

 それにしても、北洋銀行頭取の娘ともなるとさすがに凄いものだ、と瀬理菜は思う。瀬理菜と千奈美が鷲巣事務所にいる間に、一部隊の警察が森沼家にやってきて、電話の配線をいじったり逆探知装置を設置したりと、誘拐犯からの連絡を待つ体制が瞬く間に出来上がったらしい。予定通りに帰宅しなかったというだけで、国家権力を動かしてしまう女子高生、それが森沼千奈美なのだ。

 黒塗りの車は、森沼邸の門を入ってから、まだしばらく走った。壮大な洋風建築の、壮大な観音開きの玄関前で、凡そ十人くらいの人影が、一団となって車の到着を待っていた。千奈美が車を出ると、背の高いロマンスグレーが手を差し伸べながら近寄って来て、千奈美をギュッと抱きしめた。これが北洋銀行頭取森沼壮一郎だった。その背後で、上品な婦人がハンカチで目元を拭っていた。これが頭取夫人雪乃だった。その周囲で、使用人と思しき人々がおいおい泣いていた。多分一団から少し外れたところで難しい顔をしていたのは、警察関係者だろう。

 映画だ、と車の中からその様子を眺めていた瀬理菜は思った。

 この状況で、友人の家に泊まりに行くなどと千奈美に言い出せるわけがない。というより、たかが帰りが少し遅れたくらいでこの大騒ぎをする両親が、千奈美の外泊を許すわけがなかった。

 結局、鷲巣の指示には少しばかり反するが、一緒にいることには変わりないということで、瀬理菜が森沼邸に泊まることになった。

 外泊許可を得る為に、今度は瀬理菜が自宅に電話をかけた。

 「友達の家に泊まるから」

 「ああ、そう。気をつけて」

 母親との会話は、あっけなく終わった。横にいる千奈美が、下々の家庭の親子の遣り取りを羨ましげに眺めていた。ああ、なんて自分は自由なんだ、と確かに瀬理菜は思った。しかし、同時に、自分に対する親の愛にちょっと疑問を感じたりもした。

 その後、ここは五つ星のフレンチレストランかと見紛うほどの本格的なフレンチを食べ、ここは高級リゾートホテルかと見紛うほどの豪華なお風呂に入り、今、二人は、瀬理菜の家が一軒丸々納まりそうな千奈美の部屋で寛いでいた。

 「ちょっと冷笑的な諧謔がお好きなだけだと思います」

 千奈美は飽く迄、鷲巣を擁護する。

 「諧謔? あいつの言ってることに、ユーモアなんて感じられる? 加虐の間違いじゃない?」

 散々大根女優呼ばわりされた瀬理菜は、飽く迄鷲巣を攻撃する。

 「それにしても、真壁さんという方、場所がおわかりになったでしょうか?」

 千奈美が話題を変えた。

 先刻、真壁瑛から瀬理菜の携帯にメールが届いた。

 ―どこにいる?―

 文面は、それだけだった。絵文字も顔文字も使われていない。瀬理菜には、暗い真壁瑛の顔が見えるようだった。森沼邸の場所を教えるメールを、絵文字と顔文字をふんだんに使って送り返した。返事は来ていない。

 「大丈夫だよ。暗い奴だけど、方向音痴じゃないと思う」

 真壁瑛も『黒魔☆団』の劇団員である。裏方に回ることが多いが、幼い頃に親に捨てられた孤児の不良とか、恋人に裏切られて捨て鉢になっているバイクだけが友達の不良とか、誤って友人を殺してしまい自暴自棄になっている不良とかの役があると、たまに舞台に立ったりもする。性格俳優である。

 外的な刺激を加えずに物体を発火させる能力―バイロキネシスの保有者で、二メートル四方程度のものなら瞬時にして火だるまにすることが出来る。鷲巣によれば、これはバイロキネシスでも、かなり強力な部類に入るそうだ。

 年齢は十七歳、瀬理菜や千奈美の一つ先輩である。高校には通っていない。

 「本当にうちにお泊めしなくていいんですか」

 千奈美は、真壁瑛を外で待機させておくのは気の毒だという。

 「いいのよ。いつも夜の街をほっつき歩いているような奴だから」

 実際、家に入れといっても真壁は入らないだろう。闇に潜んでいるのが、本当に性に合っているらしい。

 しばらく千奈美は釈然としない表情だったが、

「ところで、瀬理菜さん」

 身を乗り出した。

 ほら、来た、と瀬理菜は思った。今まで普通に付き合ってきた友人が、実は超能力者なのだと急に知らされても、まともな人間なら戸惑うのが当たり前である。これから猜疑に満ちた容赦のない質問攻めにあうぞ、と瀬理菜は覚悟した。

 「瀬理菜さん、女優さんだったんですね」

 千奈美が眼をうるうるさせて言った。

 そっちかよ、と瀬理菜は拍子抜けする。

 「うん、まあ、女優つっても、小さな劇団の端役しか貰えないカスみたいなもんだよ。舞台に立って演技してる女は、みんな女優だからさあ。あはははは。なんかジョユーって凄い響きだけど、あたしはそういうんじゃないから」

 「吉田一樹さんとかとお会いになったりするんですか?」

 吉田一樹というのは、TVドラマによく登場する二枚目俳優のことである。

 「あ、いや、だから、そういうんじゃないんだってば。わたしはTVとかには出ないわけ。舞台女優だから。あ、こういう言い方すると、またなんかご大層なものに聞こえちゃうけど、つまり、ほとんど誰も見ないようなちっぽけな劇団で、細々と女優業をやっているわけで・・・まあ、学芸会みたいなもんだよ。自分で言ってて情けないけど。

 さっきの探偵、鷲巣英輔。あの人がうちの劇作家もやってるの。あ、うちってのは、『黒魔☆団』ていう劇団なんだけど。で、もう一人、九重礼一って人がいて、この人が演出家。この二人がうちの偉い人。で、どうせ名前言ったってわからないような役者が何人かいて、裏方がいて、年に二回くらい公演をやっているのよ」

 そして、この劇団の構成メンバーは、すべて何らかの特殊能力の持ち主でもある。実は劇団への入団条件は、演技力でもなければ演劇の知識でもない。特殊能力の有無こそが、『黒魔☆団』団員の資格なのである。

 しかし、瀬理菜は、千奈美にそこまでは説明しなかった。

 「楽しそうですね」

 千奈美は夢見るような表情をしている。孤独な箱入り娘の、偽らざる気持ちなんだろう、と瀬理菜は思った。「女優」の件は一段落ついたと判断した瀬理菜は、徐に話題を変えた。

 「ねえ、千奈美ちゃん。わたしが変な能力持ってるってこと、どう思う?」

 「ああ、それは・・・」

 千奈美の顔から夢見るような表情が消える。

 「少し驚きましたけど、鷲巣先生の御説明で納得しました。それに、瀬理菜さんがそういう能力をお持ちだと言うなら、その通りなんだと思います。瀬理菜さんが嘘を吐く訳ありませんから」

 「信じてくれるの。だったら・・・」

 瀬理菜は一拍置く。そして、訊きにくいが一番訊きたいことを、怖ず怖ずと訊いた。

 「あたしのこと、恐くない? というか、気味悪くない?」

 千奈美は一瞬驚いたように瀬理菜を見たが、

 「ちっとも」

 そう言って、すぐ無邪気に笑った。

 その笑顔を見て、瀬理菜も破顔した。


 森沼邸の庭は広い。隠れる場所はいくらでもあった。屋敷の前面がほぼ見渡せる生垣に身を潜めて、真壁瑛はじっと邸内を窺っていた。

 コンビニのバイトを五時で上がり、することもなくゲーセンを冷やかしていた真壁に、鷲巣から電話があった。

 ボディーガードを頼む―鷲巣の要件は、かいつまんで言えばそういうことだった。することもなかったし、「黒魔☆団」のお偉いさんからの頼みとあっては断れなかった。

 「襲撃者はかなり手強い。用心しろ」

 鷲巣は電話の最後にそう言ったが、今のところ、剣呑なことは起こりそうもない。

 ポケットの中で、携帯電話が振動する。取り出して見ると、メールを受信していた。瀬理菜からだ。


 おやすみ。


 文字はそれだけだったが、文字と文字の間に、いちいち絵文字が挿入されていた。笑った顔、ワイングラス、並んだナイフとフォーク、温泉マーク。真壁には何を意味しているのかさっぱりわからない。

 二階の部屋の一つの灯りが消えた。

 ―あそこにいるのか―

 そう呟くと、「何も起こる気配なし。ずっと見てる。安心しろ」とメールを返信した。

 しばらくすると、また携帯が振動した。


 さんきゅ。


 その後に、ハートが五つ並んでいた。

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