第5話

 「なんだよ、これ」

 有里の体のあちらこちらに口付けしていた男が、左手首に無数に走る傷跡を見つけて、素っ頓狂な声をあげた。ぬけるような白さの有里の肌の中で、左手首だけが、蚯蚓様に爛れた無数の傷で穢れている。

 「自分でやったんだよ」

 有里はしっれとして言った。自分の体を犬みたいに舐め回す男の姿も可笑しかったが、手首の傷を見て物音に驚いた猫みたいに動かなくなってしまったのも滑稽だった。

 「何だよ、おまえ、アブねー奴かよ」

 うんざりしたようにそう言うと、男は前かがみになっていた体を起こした。

 男には、渋谷駅前で声をかけられた。スーツを着てブリーフケースを提げていたが、未だ十代に見えた。血がサラサラしている感じがしたし、今夜の寝床を探しあぐねていたので、オーケーした。

 カラオケに行き、男が何曲か歌った。歌えと誘われたが、有里はマイクを手にしなかった。流行の歌なんて知らなかったし、カラオケルームの汚れた空気の中で大きく息を吸ったり吐いたりするのも嫌だった。

 男はたいしたことのない歌唱力なのに、自分に酔って振りまでつけて歌っていた。有里はカロアミルクを飲みながらぼーっと眺めていただけだが、男は別に文句を言わなかった。面倒臭くない、いい男を見つけた、と有里は思った。

 数曲歌った後で、男は有里の隣に座った。飲んでいるビールのせいか、歌い上げた満足感のせいか、男の顔が上気している。血が少しドロドロしてきたような感じがした。

 男はいきなり口付けしてきた。巨大な蛞蝓みたいに口の中を這う舌が、気持ち悪かった。手は胸をまさぐっている。蛞蝓が顎から首筋に移動する。それと同時に、男の手が下腹部に動いた。

 その手を払いのけ、「ここじゃ、嫌」と有里は言った。

 男は迷わず、有里をこのラブホテルに連れてきた。

 「なんでこんなことすんだよ。死にてーの?」

 身を起こした男は、左手の傷跡を凝視めながら、呆れたように言う。触れてみる勇気はないらしい。本当は、その傷にキスして欲しいのにと有里は思う。自殺と自傷の区別もつかない、間抜けな質問には答えない。

 「痛そうじゃん。よくやるなー」

 「痛いよ。痛くて、いろんなこと忘れちゃうんだよ。ぼーっとして来て、だんだん気持ちよくなるんだ。どんどん体が冷たくなって、どんどん気持ちよくなっていく」

 嘘だ、と有里は思う。手首にカッターを滑らせたところで、その前と後とで何かが変わるわけではない。間抜けな大人は相変わらず間抜けなままだし、自作の詩の陳腐なフレーズはいつまでも輝き出さないし、退屈は決して癒されない。流れ出る血が妙にサラサラしている時は、その美しさに一瞬心を奪われるが、それだって長続きはしない。

 「ひえー、アブねーな、おまえ」

 何かを期待していたわけではないが、男の口をついて出て来た言葉の月並みさにがっかりする。

 ―みんな同じだ。みんな手首の傷を見ると、急に私をわかった気になる。「変人」「奇人」「危険人物」「病人」「狂人」…そうやってレッテル張りをして、それで私へのアプローチはおしまい。私は、奇怪だが、当たり前の風景の一部になってしまう―

 そんな当たり前の風景になりたくないから手首を切っているのに、そうすることでかえって当たり前の風景に溶け込んでしまう。だから、当たり前になるまいと、ますます深く、長く、手首にカッターの刃を走らせる。それが悪循環であることはわかっているが、でもリストカットは止められない。手首を切ることもできない凡人は、有里にとって最悪の自画像だった。

 そもそも自分は当たり前の人間ではない。小六の時に、父親に犯された。中一の夏、運よく父親が事故で死んだので、その不潔な関係は数回を数えるだけで、終わった。だが、当時はその事故も父親を呪った自分のせいだと、激しい罪悪感に苛まれた。

 父は財務省の役人だった。職場でも、近所でも、係累の間でも、真面目な人物で通っていた。有里は、父にされたことを誰にも話していない。だから、そのことを誰も知らない。いや、たった一人、それを知っているかもしれない人物がいる。母親だ。

 最初に父親が有里の部屋に忍び込んで来た時、あまりのことに有里は、声を出すことも身じろぎをすることもできなかった。明らかに泥酔していた父親が出て行った後、有里は狂ったように泣き叫び、部屋を駆け出た。そこに、母が立っていた。母は、何があったかを問うでもなく、有里の体を抱きしめるでもなく、ただじっと有里を見ていた。そして、有里には、母の眼が、こう言っているように感じられた。

 「お前が、悪い」

 それからも数回、泥酔した父が有里の部屋に入ってきた。その度に、有里は、母に気配を悟られぬよう気を遣った。あの母の目を、二度と見たくなかったからだ。

 母が全てを察していたのかどうかはわからない。しかし、有里は、母が知っていたと思っている。最初の出来事が、中学受験を間近に控えた時期だったので、当たり前のように有里は受験に失敗し、三流の私立女子中に通うことになった。通っていた塾では、難関の第一志望校の合格に太鼓判を押されていた。小学校の教師も、塾の講師も、有里が受験に失敗したことを訝しんだが、あれほど第一志望校の合格に執着を見せていた母親は、受験失敗の理由を教師たちに尋ねられても、「この子も私も力が及ばなかっただけです」と潔い諦念を見せた。それは、母親がすべてを知っていてそれが外に知られるのを恐れたからに違いない、と有里は確信している。

 中一の夏に、泥酔した父がホームから落ちて轢死した。その知らせを聞いた時、母の顔に確かに安堵の色が浮かんだと有里は思っている。それまで、なぜ当たり前のように普通の家族を演じきれたのか、今では有里には不思議でならない。

 リストカットを始めたのは、中高一貫のその三流校で高一になった時だ。学生生活は実に退屈なものだった。有里は誰とでも普通に友達付き合いをしたが、誰かに対して友情を感じたことなどなかった。当たり前のように恋愛相談などを持ちかけてくる友人に対しては、いったい誰に向かってものを言っているのか、と腹立たしくなったりもした。交わされる話題はいつだって友情と恋愛をテーマにしていたが、そんなことに真剣になれる友人たちを、有里は心の底から「馬鹿」だと思った。そして、中学生から高校生へと肩書きが変わった頃、自分がそうした「馬鹿」の仲間ではないことを示すために、初めて手首を切った。

 最初のうちは、血がにじむ程度だった。やがて、流れる血を見なければ満足できなくなり、今では脂肪が見えるまで深く切る。傷跡は増えていくばかりである。

 「おまえ、イジメにでもあってんの?」

 手首の傷を見ながら、同情したような声で男が言う。

 貧困な想像力は、有里を傷つける。この男も「馬鹿」だ、と心の底でため息を衝く。

 「苛められてなんかいないよ。私は苛められた腹いせに手首を切るようなブタじゃない」

 「はーん、そうなの」

 男はいかにも興味がなそうな返事をして、「ま、いっか」と言うと、また有里の上にのしかかってきた。

 事を済ますと、男は帰ろうと言い出した。今晩の宿を見つけたつもりだった有里は、うろたえた。

 「泊まろうよ。今晩、帰るところがないんだよ」

 だが、男は首を振る。

 「学生と違って、こっちは明日、仕事があんだよ。家に帰んねーわけにはいかねーの。おまえも家に帰りゃーいいじゃん」

 帰れるなら、おまえなんかとこんなところにいるわけがない、と有里は思う。

 「ねえ、お願い。泊まろうよ。もう一回やっていいよ」

 男はうんざりしたように、有里を見た。

 「うっせーよ。はっきり言って、おまえ、キモいんだよ。おまえなんかと泊まったら、俺の手首まで切られちゃうんじゃねーの。とにかく、出るぞ。服、着ろよ」

 ベッドの上で裸のまま座っている有里を傍目に、男はそそくさと服を着ていく。

 そんな男を、有里は暗い眼で凝視めた。

 ―いつでも、そうだ。手首の傷は、正確なメッセージを伝えない。カッターで刻んだ一筋一筋に込めた思いは、ことごとく誤解される。この傷が、わたしの癒されない孤独や、どうしようもない寂しさや、他人を傷つけることのできない弱さを証し立てている筈なのに、この傷を見た人は皆、わたしを怪物だと思う。

 母親でさえもそうだ。わたしの手首に傷が増えれば増えるほど、母親の眼は怯えを含んで遠くなった。こんなに自分を罰しているのに、こんなに許しを請うているのに、まるで邪悪な快楽に耽る悪魔のようにわたしを恐れた。いつかはカッターの刃が自分に向けられるのではないかと懸念しながら—

 「あにやってんだよ。早くしろって。延長料金払わなければなんねーじゃん」

 男が急かす。

 有里は仕方なく、ベッドから身を起こす。男が剥ぎ取った下着や衣服が、部屋のあちこちに散らばっている。涙が出てきた。手首の傷が疼く。

 ラブホテルを出ると、そこは喧騒を日常とするいつもの渋谷の街だった。溢れかえる人、騒然たるイルミネーション、こだまする雑音、漂う生活排水の臭い。

自分はもう、昨日までの自分とは違う筈なのに、街はまるで何事もなかったかのようにいつもと同じ貌を見せている。自分は小さい。自分のしでかしたことも小さい。いくら手首に傷をつけようが、街はその貌を変えるわけではない。自分は、罪悪感や孤独や不安でいっぱいになっているのに、街はそんなことを微塵も意に介していない。

 夜のセンター街を歩きながら、有里はすれ違う人間たちの顔をまじまじと眺めていた。

 「ガンをつけられた」と怒り出す者は誰もいない。それは、有里が少女であるからばかりではない。有里は、返り血で赤く染まっていた。

 それにしても、すれ違う人間は「馬鹿」ばかりである。カッターで首筋を傷つけて血を噴き出してしまえばもうそれでおしまいだというのに、なんであんなに偉そうに顎を持ち上げて歩くことができるのだろう。たいして綺麗でもないないのに綺麗だと思い込んで闊歩している女も滑稽だし、たいして強くない癖に強そうに装って肩で風切っている男も不様だし、若さに嫉妬して眉間に皺を寄せながら原色の服で武装している婆アも醜いし、若い体が目当てですまし顔で眼だけきょろきょろさせているスーツ姿のオヤジも不気味だ。とにかくすべてが不潔で「馬鹿」っぽい。この中に溶け込めないことは、果たして自分の罪なんだろうか。

 溶け込めるものなら、溶け込みたかった。当たり前に「馬鹿」っぽく流行の服を着て、当たり前に「馬鹿」っぽくアイドルバンドを追っかけ、当たり前に「馬鹿」っぽく近くの男子校の生徒と恋愛し、当たり前に「馬鹿」っぽく親に反抗して、当たり前に「馬鹿」っぽく仲間と群れてみたかった。でも、「馬鹿」になるには、自分は特別過ぎる。特別な存在である自分には、どう足掻いても普通になることなんてできなかった。

 ―わたしが特別だから、お父さんは―

 自分は、それがわかってほしくて、手首にカッターの刃を滑らせていただけなのに。

 ―お母さん―

 スプリンクラーみたいに首筋から血を噴き出している母の姿が、突然脳裏に蘇った。

 殺すつもりなんてなかった。ただあまりにも自分のことを遠い眼で見ていた母に、まるで自分のことが見えないみたいに虚ろな眼になっていた母に、自分がここにいることを教えてあげたかっただけなのだ。

 ―だって、いくら手首を切っても切っても、お母さんには、わたしが見えないみたいだったから。手首を切れば切るほど、どんどん見えなくなってゆくみたいだったから。もうわたしには、お母さんを―

 どうやって切ったのかは覚えていない。気づいたら、母親が首から血を噴き出しながら後退っていた。その顔は、怯えていた。

 何に怯えていたんだろう、と有里は思う。死ぬことに、だろうか。カッターを持った娘に、だろうか。

 いずれにしても、その怯えた表情のまま、母親は腰から崩れて、しばらく痙攣してから息絶えた。

 さっきの男は、噴き出る血を必死になって押さえ込もうとしながら、諦めがつかないように泣き叫んでいた。部屋中を駆けずり回ったせいで、あの部屋は血だらけになってしまった。しばらく使うことは出来ないだろう。

 後ろから切りつけたから、初めのうちは、何が起こったのかわからなかったようだ。噴き出した自分の血が壁に描いた前衛アートめいた模様を見て、初めて事態を飲み込み、大声で喚いて腰を抜かした。あんなにはっきりと驚きという感情を示したのに、それから大して時間も経ずに、男はもう息をしなくなっていた。

あっけない、と有里は思う。あんなにあっけないならば、死には大した意味なんてないのかもしれない。一本の木を枯らす方が、よほど手間がかかる。

 有里の周囲が騒然としてきた。誰もが足を止めて、血に染まった有里を見ている。いつもなら人混みの中を掻き分けるようにして歩かなければならないのに、今は、有里の前に道ができる。唖然とした顔、眉間に皺を寄せた顔、怯えた顔が、有里の進行を妨げぬようにと、道を空ける。有里は、その道を、まるで特別な存在ででもあるかのように、悠然と進んでゆく。

 いつの間にか制服警官が二人、有里の後をつけていた。有里の後方五十メートルほどのところを、有里に気づかれないように、ほぼ有里と同じ速度で進んでゆく。凸凹コンビの小さい方が、トランシーバーを耳に当てながら、何やら誰かと話している。

 左右に掻き分けられてゆく人々を見ながら、有里は「本当に、『馬鹿』ばかりだ」とうんざりする。死ぬことを恐れている脆弱な血の革袋たちが、遠巻きに有里を眺めている。自分とは関係のない、歪な怪物を見物する眼で。

 ―仲間はどこにもいない―

 ポケットの中で握り締めたカッターが、ギチギチと音をたてて刃を伸ばしてゆく。

 こんな「馬鹿」ばかりなら、みんな死んでしまっても、きっと何も変わらない。

 ギチギチ。

 だったら、教えてあげる。死に大した意味なんてないってことを。

 ギチギチ。

 お父さんも、お母さんも、友達も、おまえも、おまえも、おまえも、おまえも、みんな死んでしまえばいい。

 ギチギチ。ギチギチ。ギチギチ。

 制服警官たちが足を速める。二人と有里の距離が縮まる。

 ギチギチギチギチギチギチギチギチ。

 あと数歩で、警官たちが追い縋ろうというところで、有里は完全に刃の伸びきったカッターをポケットから振り上げると、自分の首筋めがけて切りつけた。

 その時、有里の行く手を遮るように、黒い影が立ちはだかり、カッターを握った有里の手を摑んだ。

 長身の黒衣の男。

 有里は見上げた。優しい顔立ちの中に光る、冷酷な眼。笑みを浮かべた口元から、うっとりするような言葉が零れ落ちる。

 「美しい血だ」

 有里は思わず微笑む。そして、

 「やっと会えた」

 そう呟いていた。

 「おいで」

 黒衣の男は、季節はずれの外套の中に有里を包み込んだ。

 慌てて警官たちが、有里の体を摑まえようとする。

 黒衣の男が、掌を翳した。触れたようには見えなかった。しかし、掌を向けられたノッポの警官は、優に三十メートルは吹き飛ばされ、カメラ量販店の二階のコンクリートの壁に猛烈な勢いで頭から激突した。ごん、という硬いものと硬いものがぶつかり合う鈍い音の中に、ぱきっ、という硬いものの折れる鋭い音が混じっていた。潰れた頭を筆先にして壁にかすれた血の帯を描きながら、警官の体がどさりと地上に落ちる。血の中に、脳漿が混じっている。仕掛けられた機械のように、頭に穿たれた穴という穴が、圧力に耐えられない赤い体液を流し出す。それがもうただの体ではなく、死という文字で形容される体だということは、誰の眼にも明らかだった。

 呆然として同僚が惨殺されるのを見守っていたチビの警官は、弛緩して血を噴き出した同僚の姿を見て思わず失禁していた。そして、自分が失禁していることを意識すると、猛烈な恐怖に襲われた。

 振り返って、黒衣の男を見る。澄ましたその表情の中に、警官ははっきりと妥協のない殺意を感じた。

 耳に当てたトランシーバーに何か言おうとするのだが、それは言葉にならなかった。

 圧倒的な恐怖。

 しかし、その精神的な苦痛も長くは味わわずに済んだ。味わったことのないような束の間の激しい肉体的苦痛の後で、チビの警官は事切れていた。警官の背中から、心臓を鷲づかみにした黒衣の男の腕が突き出ていた。

 警官の体から腕を引き抜き握った心臓を投げ捨てると、黒衣の男は、両腕でそっと有里を包み込んだ。ざっ、と警官の体が崩れ落ちる。そして、男は易々と有里を抱き上げると、くるりと向きを変えて、歩き出した。

 外套が風に靡く。

 惨劇に凍りついた人々は、誰も二人を追おうとはしない。

 しばらく歩いたところで、男が、呆然と見送る人々を振り返る。そして、有里を抱きかかえたまま、ふわりと宙に浮いた。あちこちで、恐怖に堪えきれずに悲鳴が轟く。ところが・・・

 男が、見上げる人々を俯瞰しながら、何事か呟いた。何かが変わったようには見えなかった。相変わらず二人の警官の惨殺死体の周囲で、人々は恐れ戦き、慌てふためいている。

 しかし、人々の記憶の中に、最早黒衣の男も血まみれの少女もいなかった。

 やがて二人は、暗い夜空の闇の中に消えた。

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