第4話
不吉な風は、夢の中でも吹く。饗庭譚一郎は、悪夢から逃げ出すように、うなされて目を覚ました。開いた眼に映ったのは、未だ暗い自分の部屋だった。狭い部屋の煤けた壁にかかった掛け時計に眼を凝らすと、まもなく午前四時を回る時刻だった。
たった今まで見ていた筈なのに、夢の内容はまったく思い出せない。ただ禍々しい思いだけが、心の底に堆積していた。
この悪夢は、もうここ何日も続いている。何か途轍もなく邪悪なものがそこにはいる。しかし、目覚めた饗庭の意識の中で、それがはっきりと像を結ぶことはない。いや、そうではない。饗庭はその禍々しきものの正体を知っている。饗庭自身が、その悪夢を回想することを望んではいないだけだった。
脂汗の浮いた額を、中指の欠けた右手で拭う。嫌な予感がした。そして、嫌な予感だけは、いつも驚くほど的中するのだった。
まもなく曙光が射す。その光が、全てを気のせいに変えてくれることを期待して、饗庭譚一郎はベッドから勢いよく身を起こした。
説教を終わり、神への祈りを捧げ、アーメンを唱えると、饗庭譚一郎は説教壇を下りた。礼拝に訪れた者の数は、ごく僅かだ。顔ぶれもいつもと変わらない。終始爪ばかり噛んでいる青年。固く眼を閉じて、ぶつぶつと間断なく独り言を繰り返す老婆。星空の下を寝床とする浮浪の老人。そして、ガムを噛みながら無表情に饗庭を凝視めている、髪を赤く染め厚い化粧を施した少女。しかし、その中に、いつもと違う人物が混じっていることに、饗庭は気づいていた。そして、嫌な予感が的中してしまったことを知った。
「久しぶりだね」
壇を下りた饗庭に、地味だが金のかかった身なりの件の男が近づいて来た。眼以外の全てが、笑顔を作っている。
「ご無沙汰しております。猊下」
迷惑だという表情を、敢えて殺さなかった。しかし、相手はそれを意に介した様子もなく、恭しく右手を差し出す。饗庭は仕方なく、膝をついて、その手に口付けした。
「立派な説教だったよ。感銘を受けた。あの話をもっと多くの人に聞かせたいものだね」
そう言って、諸橋大司教は帰りかけている数えるばかりの礼拝者たちの背中を見送った。
「申し訳ありません。布教には努めているのですが」
立ち上がりながら、うんざりした気分で、饗庭が言う。
「君が悪いわけではない、神父。布教の難しい時代だ。人々にはキリストを顧みる心の余裕はない。彼らを惹きつける宗教と言えば、現世利益を謳ったいかがわしい新興宗教だ。いわく不治の病が治る。いわく金持ちになれる。いわく超能力が身につく。残念ながら、本当の神の言葉は人々に届かない」
饗庭は、同意を示すように一回だけ瞬きした。
「ところで」
諸橋が、信徒を見送っていた顔を饗庭に向けた。相変わらず、眼以外のすべてが微笑んでいる。意志の強そうな四角い大きな顔。濃い、白い眉。きれいにポマードでなでつけた白髪。薄い唇。宗教家というよりは政治家というにふさわしい風貌の大司教は、選挙前の候補者のような笑顔で続けた。
「今日は大切な話があって来たのだよ」
疾うに察しはついていた。こんなうらぶれた教会に、お付の者もなく大司教自らが足を運ぶのは、異例のことだ。饗庭は過去に一度、同じ経験をしている。その時に起こった出来事のせいで、彼は肉体にも心にも、生涯消えることのない大きな傷を負った。
「奥で話した方がよくはないかね、饗庭神父」
この老人と話す場所などどこにもない、と饗庭は思う。
敬虔さと教会内部での位階との間には、さしあたって何の相関関係もない。世俗の組織同様、優れた政治力と金力を持つ者が、教会の険しい階梯を容易に上っていく。尊敬すべき篤信の宗教者が辺境の教会に赴かされ、この世での地位がそのまま天国への階段の高さだと誤解した俗物たちが中央の大きな事務机を前にふんぞり返る。そうした現実を、これまで饗庭はいやというほど見聞きさせられてきた。そして、今目の前に居る笑顔の老人こそ、饗庭にとってそうした教会のあり方の象徴だった。
饗庭は、自分が険しい表情になっていることを知っていた。しかし、それを取り繕う気持ちの余裕はすでに失せている。というより、敢えてこの大司教に、自分の嫌悪を見せつけていた。
「では、奥へ」
しかし、吐き出される言葉は、彼の真情を裏切る。大司教の笑顔には、「私はキリストの言葉を伝えにきた」という自信が溢れ、饗庭はそれに抗えない。
奥の、起居に使っている部屋に大司教を通すと、饗庭はコーヒーを淹れるために部屋の脇に設えられた小さな炊事場に立った。
「安物のインスタントコーヒーくらいしかありませんが」
「構わんでくれたまえ」そう言って大司教は、狭い部屋の中に居場所を探す。六畳ほどの部屋は、ベッドと机のせいで、大人二人が快適に過ごせる空間ではなくなっていた。
「君もこの教会を任されて、ずいぶんと長いのじゃないか?」
男だけの一人暮らしである。清潔を心がけているとは言え、部屋はどこかむさ苦しい。その部屋を十六年前と同じようにきょろきょろと見回しながら、大司教が言った。
「十七年になります」
旧式のガスコンロにマッチで火をつけながら、大司教には背中を向けたまま、饗庭が応えた。
「十七年か。すると、あの時は、この教会に着任して未だ一年しか経っていなかったということだね」
饗庭は応えなかった。十六年前の出来事の記憶は、彼から言葉を奪ってしまう。
返事がないことには構わず、大司教は話し続ける。
「あの戦いは苦しいものだった」
戦ったのはあなたではない、と饗庭は思う。恐怖に苛まれ、傷つき、大切なものを失ったのは、すべてこの私だ。
「妹さんが天国に召されてから、十六年になるわけだ。本当に気の毒なことをした」
饗庭は応えない。一言でも応えれば、堰を切って流れ出る感情を抑えきれなくなりそうだった。
「妹さんは十八だったね。尊い犠牲だった。今は神の御許で安らかに過ごしていることだろう」
饗庭は依然として、応えない。大司教を心の中で愚弄することで、口をついて出そうになる数多の不敬な言葉を辛うじて飲み込んでいた。
「この十六年を、君はよくキリスト者として勤めてくれたと思っている。ここは、信徒数では必ずしも名誉ある教会とは言えないが、そんなことは問題ではない。我々は、いや少なくとも私は、君を尊敬すべきキリスト者だと思っている」
十六年前の出来事以来、一度として自分と接触を持ったことなどないこの老人の、歯の浮くような賛辞を耳にしながら、朝方の嫌な予感が形をなしつつあるのを、饗庭は感じていた。
「瀬島久仁男が帰国したよ」
文脈を無視した大司教の発言は、しかし、饗庭には唐突なものではなかった。みなまで聞く必要はない。「セジマ」という音を耳にしただけで、饗庭の背筋は凍りついた。
目の前のガスにかけたケトルが、笛を吹き始めた。それにまったく気づかぬように、饗庭は厳しい顔つきでじっとしていた。
「神父」
背後から、諸橋大司教が声をかけた。はっとしたように饗庭はコンロのガスを止め、大司教を振り返った。大司教は、十六年前と同じように、ベッドの端に腰掛けていた。
「いつですか」
「正確にいつ日本にやってきたのかは、わからない。しかし、君も知っているだろう、渋谷のマンションで起こった猟奇事件。手口が十六年前とまったく同じだ」
大司教の顔から笑顔が消えている。
「昨今では、異常犯罪は珍しいことではありません。たまたま類似の事件が起こっただけで、必ずしも瀬島の仕業とは言えないのではありませんか」
これは饗庭の願いでもある。
「報道はされていないが、犠牲者の遺体からは血液がなくなっていた。首筋には肉を抉られた跡もあったそうだ。そして、犠牲者は十六歳だ。これが何を意味しているかはわかるだろう。それでも君は、瀬島ではないと思うかね」
思う、のではない。思いたい、のだ。しかし、饗庭は、言葉とは裏腹に心の中では瀬島の帰来を確信していた。いや、とうの昔にそれを知っていたというべきだろう。ここ何日もうなされ続けてきた悪夢の中の影が、はっきりとした面貌を伴って饗庭の脳裏で像を結んだ。
牙を剥いた瀬島久仁夫。
瀬島の面影は、十六年前の惨劇の記憶へと連鎖する。人の口に生えた狼の牙。噛み切られた中指。そして、もっとも思い出したくない光景を、饗庭は見る。
肉体を切り刻まれた妹―沙耶佳。
饗庭は激しく頭を振った。
「大丈夫かね、神父」
異常な様子の饗庭に、大司教は声をかけた。しかし、その声は冷たい。饗庭の心の中で起こっている出来事を、すべて熟知しているかのような醒めた声音だった。
「それで、私にどうしろと…」
我に返った饗庭が、大司教に問う。
「神父。わかっている筈だ」
そう、わかっている。諸橋の姿を説教壇の上から眼にとめた時、すでに饗庭にはわかっていた。しかし、饗庭の心を占めていたのは、「わかりたくない」という思いだった。
「この日本には、エクソシズムの知識と経験を持った聖職者は、君をおいて他にない」
諸橋大司教の声が、圧力を増す。イエス・キリストの名において。
教皇がキリストの代理者として霊界と俗界の二つの世界に君臨し、すべての人間の霊魂の救済を担っていた中世においては、異端審問と魔女狩りとエクソシズムが日常茶飯に行われていた。しかし、現在、カトリック教会は、戦争回避のための国際協力促進を主な任務とする世俗団体に姿を変えてしまっている。現代のカトリック教会の中に、いわば暗黒の中世を継承する者の数はきわめて乏しい。個人の尊厳という、ルネサンスに芽を吹き近代に開花した至上価値が、相対主義という光をカトリック教会にも投げかけ、神の絶対性の証たる異端審問と魔女狩りを地上から消滅させた。そして、時を同じくして、エクソシズムもカトリック司祭の表立った務めからは除かれたのである。
しかし、エクソシズムの技術そのものが、なくなってしまったわけではない。限りなく世俗と妥協し神の絶対性を自ら放棄するかのごときヴァチカンの姿勢に強烈な反発心を抱いているカトリック教徒は、今でも少なくない。そうした聖職者の間では、ヴァチカンが中世の遺制として封じてしまった数々の秘儀が、いまだに温存されている。普遍主義十字会は、そうしたカトリック教徒の集まりであり、饗庭譚一郎は、そこでエクソシズムの技術を学んだ。
「猊下。あなたは私を買いかぶっておられます。私には特別な力など、ありません。私には、あの怪物を滅ぼす力などないのです」
大司教は、首を振った。
「神父。それは、違う。現に君は十六年前、瀬島久仁男を倒したではないか」
「倒してなどおりません。この国の外に追いやっただけです」
だからこそ、こうして、奴はまたこの国に舞い戻って来た。あの悪魔を倒すことなど、人の力で叶うことではない。恐らくは原子爆弾でも死滅させることのできぬ怪物に、どうしてナイフ一本で脆くも屍と化す人間が対抗しえよう。しかし、饗庭には、大司教の口を付いて出る、次の言葉が見えている。
「これは、キリスト者の務めなのだよ、饗庭神父。清浄なる魂は継承されねばならない」
自分がカトリック教会の司祭である限り、この老人の言葉に抗えないことを饗庭は知っている。
老人は、イエス・キリストの名において饗庭に命じる。老人が敬虔な信仰心の持ち主であるかどうかは問題ではない。自分がカトリックの司祭であり、老人がその上に立つ者であり、そして、それこそが主の選択された世界であることが重要なのだ。
しかし、饗庭には納得しがたい。なぜ自分がまた、あの恐ろしい悪魔と対峙せねばならないのか。十六年前の恐怖に、なぜまたしても苛まれねばならないのか。たとえその答えが、天国の門をくぐった時に明らかになるのだとしても、今は瀬島の前から逃げ出したい。神が与えた試練を甘受するには、自分はあまりにも脆弱に過ぎる。
「主が、常に君の傍らに添うておられる。戦うのは、君だけではない。神父、これは主の思し召した君の務めだ」
諸橋大司教の言葉は強烈な圧力を帯びている。
饗庭には納得がいかない。しかし、信徒の務めは納得することではなく、神の意志に従うことだ。
自分を奮い立たせる回路がたった一つだけあった。主はそれを禁じているが、今瀬島の前に自分を駆り出すことのできる動機は、これしかなかった。
復讐。
陰惨な妹の最期の姿が、再び饗庭の脳裏に浮かんだ。聖職者にあるまじきことと思いながら、ふつふつと胸中に憎しみが滾るのを、饗庭は抑えようとしなかった。
「すでにヴァチカンの承認は取ってある。必要なものがあれば、何でも用意しよう。助手が必要ならば、人選する。これから、日増しに、犠牲者が増えていくことだろう。なるべく早く、あの悪魔を倒して欲しい」
老人は、人の心を察するに敏だ。すかさず事態を決定事項に変えてしまう。
「助手はいりません。恐らく助手の数だけ、犠牲者が増えるだけです。必要なものは書面にして後ほどお渡しします」
饗庭は、主の御心を受け入れる。しかし、その胸中に宿るのは、主の禁じた復讐心だった。
「守るべき魂はここにいる」
そう言って、大司教は、一枚の写真とそこに写った人物のプロフィールが書き込まれた書面を、饗庭に差し出した。少女の写真だった。
教会の外は、晴れ渡っていた。事務を一つ片付けた公務員のように、清々しい顔で諸橋大司教が別れを告げる。
「成功した暁には、然るべき待遇が君を待っている」
別れの言葉の最後に、老人はそう付け加えた。そして、恭しく右手を差し出す。
跪き、そのシミだらけの手に口付けしながら、「あなたは愚劣だ」と饗庭は思った。
立ち去る大司教を見送りながら、今度は声にして呟いてみた。
「あなたは本当に愚劣だ」
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