第3話
「なあ、被害者は未だ十六歳だぜ。ふざけた話だと思わねえか?」
薄汚い居酒屋のシミだらけのテーブルを囲んだ二人の男の一方が、言った。五十は疾うに過ぎている、小柄だが眼光の鋭い男である。その声には、憤りとも嘆きともつかないため息が混じっている。このせりふを、既に何度吐いたかわからない。
「あんなことして、何が面白い? 殺すなら殺すで、頸を絞めるとかナイフで刺すとか、他に簡単なやりようがいくらでもあるじゃないか。何だってあんなに面倒臭いマネをする? 狂ってる。まったく理解できねえ」
大蔵茂は酔いを自覚している。自分がいささかクドくなっているのもわかっている。飲むとクドクドとわだかまりを吐き出す口が止まらなくなる。むしろ酔いを口実に、どちらかと言えば寡黙な普段の相貌を崩している気配すらある。
「理解する必要なんてないんじゃないですか」
もう一人の男、江上達弘が言った。こちらは大蔵よりはるかに若い。この煤けた居酒屋に、いささか居心地の悪い思いをしている様子である。白い肌はすでに朱色に染まっているが、口に運んだ杯の数は大蔵の半分にも及ばない。
「ていうか、理解できたらヤバいですよ」
へたった背広を隣の丸椅子の上に置き、ネクタイを緩めて袖をたくし上げた皴だらけのワイシャツ姿になって、テーブルに乗り出すようにして酒を飲んでいる大蔵と違って、江上は皴のない紺のスーツの前ボタンも外さずに、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
「サイコパスの仕業ですからね。まともな人間に、その行動原理が理解できる筈ないんです」
江上はしれっとして言う。
刺身の美味い居酒屋だが、二人の前に刺身はない。肉類もない。ふろふき大根となす焼きが並ぶだけだ。
この二人の刑事が凄惨な殺害現場に踏み込んでから、未だ4日しか経っていない。その時目の当たりにしたものの記憶が、普段は旺盛な二人の食欲を奪っている。いきおい杯を口に運ぶ動作だけが繰り返される。
「じゃあ、訊くが、江上。俺たちはどうやってホシを捕まえりゃあいい? 俺たちの頼りは物証と動機と目撃情報だ。物証はねえ、動機もわからねえ、目撃者もいねえ。そもそも人間の仕業とは思えねえ。なあ、どうやってホシを見つける?」
現場は、経験を積んだ大蔵でも込上げる吐き気を抑えるのに苦労するほどむごたらしいものだった。死体は腹を割かれ内臓を引き出されており、女性性器が切除されていた。司法解剖の結果、未だ息のあるうちに被害者は体を切り刻まれている。眼は潰され、舌も噛み切られていた。これも未だ生きているうちの凶行である。そして、首筋の一部の肉も削り取られていた。
「プロファイリングですよ」
江川がまた、しれっとして言う。
「もう、動機だ物証だという時代じゃないんです。怨恨と貧困が犯罪動機だった時代は終わりです。足を使って被害者の人間関係を辿っていけば、やがて犯人にぶち当たる、もうそんな時代じゃありません。これからの僕たちに必要なのは、行動心理学的知識とそれに基づく分析力ですよ」
「けっ」
大蔵はそう言って、杯を勢いよくあおった。
「だから、いつも言ってるじゃねえか。一度でもいいから、おまえのそのプロファイリングとやらでホシをあげてみろよ。おまえは、御大層なことを言ってるばかりで、ホシを言い当てた験しがねえじゃねえか。捜査は理屈じゃねえんだよ。経験と足とチームワークだ。泥臭えもんなんだよ。おまえみたいに格好つけてちゃあ、いい刑事にはなれない」
「ていうか、今度の事件では、役に立てそうな気がしてますよ。正直、恋愛のもつれで男が女を殺そうが、遊ぶ金のないクズが強盗に押し入って主婦と子どもを殺そうが、僕はあんまり興味がないんです。そういうのは従来の捜査法で解決します。でも、今度のは、違う。出番だと思ってますよ」
そう言うと、今度は江上が杯を口に運んだ。しかし、大蔵のようにあおることはしない。ちろっと舐めて、テーブルに戻す。
「は。すげえ自信だな。俺に言わせりゃあ、プロファイリングなんざ、画期的方法でも何でもねえ。気の利いたデカなら、別に御大層な名前なんか付けなくても、みんなやってることさ。要は、人間観察力と想像力だ。心理学の先生より、世間で揉まれた苦労人の方がよっぽど鋭い物の見方をするぜ。結局、物を言うのは場数だよ。理屈じゃねえ」
「それって、古いですよ」
親子ほども歳が離れていながら、しかも警察という秩序を重んじる組織の中で禄を食む二人でありながら、こうして若い江上が大蔵に向かって言いたいことを言えるのは、大蔵がいわゆるノンキャリアであり江上がキャリアであるせいだった。二人は今は警部補という同じ階級に属する。しかし、定年もそう遠くない大蔵にもはやそれ以上の階級が望めないのに対して、江上はこれから瞬く間に出世してゆく。大蔵は生意気な若造を将来の上司と見なしているし、江上は頑迷な先輩を将来の部下と思っている。
「経験的実感がいつも正しいなら、学問体系は要りません。はっきり言って、大蔵さんのは、間違った経験至上主義です。確かに大蔵さんが腕のいい刑事であることは、僕も認めます。でも、それは、たまたま大蔵さんが優秀だったってことに過ぎません。ウチにも経験を積んでいるくせに役に立たない刑事がずいぶんいると思いますよ。田辺警部なんか、演歌の世界観から一歩も出ることができてないじゃないですか。だから、正しい知識を集積しておく必要があるんです。田辺さんに言わせれば、今度の事件だって、痴情のもつれって奴になってしまうんですから」
「田辺か。あれは、別だ」
そう言って愉快そうに笑い、大蔵はまた勢いよく杯をあおった。二人の上司である田辺刑事課長の評価という点では、両者にまったく意見の相違がなかった。
「まあ、若いのが野心的ってえのは悪いことじゃない。せいぜい頑張れ。だが、今回の事件がそう簡単に解決するとは、俺には思えない。あれだけのことをしでかしながら、隣の部屋で寝ていた両親には気づかれてねえ。ありうるか、そんなこと。朝、娘の変わり果てた姿を見つけた時の母親は、堪らなかったろうなあ」
そう言って、大蔵は、空いた杯を持った手を、どんっとテーブルに叩きつける。
「大体、あれだけの損傷を受けながら、血はどこに行っちまったんだ。おまえも見たろ。ホトケはあんなむごたらしいざまなのに、床に落ちた血液は微々たるもんだった。腹を掻っ捌かれた人間の流した血の量じゃない」
死体解剖の結果、優に3000ミリリットルの血が、体外に流れ出たことが明らかになっている。
「そうなんです。僕もその点が気になっています。トイレ等に流した痕跡がない以上、唯一の結論は犯人が持ち去ったということなんでしょうが・・・。僕、多分、今度の犯人はヴァンパイアの真似事をしているんじゃないかと思うんです」
そう言って江川は、自分の歯を剥いて、犬歯を指差してみせた。英語が通じないかもしれない相手への配慮だった。
「ヴァンパイア? 吸血鬼か?」
大蔵が二回、思いっきり語尾を上げて聞き返した。
「ええ。吸血鬼です。そう考えると、わざわざ血を持ち帰っている意味がわかると思うんです。それにほら、あの首筋の抉られた肉。確か死体検案書にはナイフ様のもので切り取ったように書いてあったと思うんですが、あれはヴァンパイアの噛み跡の象徴じゃないかと・・・」
「ちょ、ちょっと待てよ。おまえ、マンガの読みすぎなんじゃねえか。何で、わざわざ吸血鬼の真似事なんかするんだよ?」
「なんでって、やりたいからですよ」
大蔵は、未だ刑事になったばかりの江上をそれなりに買っていた。キャリアのくせに人事よりも捜査に関心を持ち、自分とは力の入れ所が違うが、ホシをあげることに十分な情熱を注いでいた。だが、それがキャリアとノンキャリの違いなのか、それとも親子ほども離れた年齢の違いなのかわからなかったが、時々江上が異星人に見えた。
「なあ、江上。女の腹掻っ捌いて喜ぶ変態野郎がいることは、俺にもわかる。だが、吸血鬼になりたい奴がいるってえのは、どうかなあ」
「でも、ほら、関西の方で、自分を魔神だと言って、幼児を殺した少年がいたでしょう」
「でも、ありゃあ、ガキだ。今度のヤマは、ガキの仕事じゃねえよ」
「少年も大人もないですよ」
確かに大人も子どももないのかもしれない。超能力が身につくと称する怪しげな新興宗教にはまっているのは、みんな大人だ。三十を過ぎても親に寄生し、テレビゲームとネットの世界だけで自分の夢を膨らませているのも、みんな大人だ。
大蔵はまた、杯をあおった。
「しかしなあ、江上。俺に言わせりゃ、結局、みんな性犯罪だろ。今回のだって、行き過ぎたサディズムって奴じゃねえのかい。女のケツ見るだけじゃあ興奮できない変態野郎が、腹わたまで見たくって腹を掻っ捌くわけだ。俺にはとうてい納得できないが、ありかなあ、ってのも頭じゃわかる。よしんばホシが自分を吸血鬼に見立てていたとしても、そりゃ結局、自分の興奮を盛り上げるための芝居ってやつだろう?」
江上は直ぐには応えず、少し間を置いた。慎重になっている。
「芝居じゃないと思いますよ、大蔵さん。すべてが性衝動で説明がつくかどうかには、僕は大いに疑問を持っています。フロイトの功績は認めますが、それは無意識を発見した限りにおいてです。彼の解釈は多分に疑わしい。僕には、ユングのオカルトめいた解釈の方がまだしも信じられる。まあ、それはともかく、僕はこの手の犯罪はアイデンティティーの問題だと思っています。男に生まれながら女だという自意識しか持てない人がいるように、人間に生まれながらヴァンパイアだという自意識しか持てない奴がいる」
「ちょっと待て。性同一性障害は立派な病気だろう。吸血鬼かぶれと一緒にするなよ。それに、男も女も現に存在するが、吸血鬼なんてものはこの世に存在しねえ」
「そうでしょうか。男が子育てをし、女が狩をする部族もあるそうですよ。つまり、人間の持っている男や女の自意識なんてものは、環境や文化によって変更可能な、所詮は幻想に過ぎないということです。ヴァンパイアだって同じですよ」
「馬鹿言え。またぐらが出っ張っているのが男で、凹んでるのが女だよ」
「そういう形質上の違いで男と女を定義するなら、犬歯が人並み外れて長い奴はみんなヴァンパイアだと定義することもできます。例えば、ですけど」
馬鹿馬鹿しい、と大蔵は思う。大学出のキャリアの吐いている御高説は、所詮言葉遊びの屁理屈だ。吸血鬼なんてものはこの世にいないし、本気で自分を吸血鬼だと信じている奴もこの世にいない。仮にそんなサイケ野郎がいたとしても、ああだこうだと分析してやる必要はない。たった一言で済ませておけばいい・・・狂人。・・・そう、だが、確かに狂人は、いる。
「納得はできねえが、というより、納得したかあねえが、おまえの言う通りかもしれねえなあ。とにかくおかしな奴が多いことだけは、確かだし。どうしてこんなになっちまったのかねえ」
「納得する必要なんてないんですよ。だから、動機の詮索は不毛なんです。とにかく現象として、自分をヴァンパイアだと思っている奴がいる。『なぜだ』は禁物です。それよりも、ヴァンパイアの研究をする方が、捜査の役に立ちます。彼らは、ヴァンパイアの行動をなぞりますからね」
「はっ。デカの仕事じゃねえな」
「いえ。これからは、それが警察の重要な仕事の一つになりますよ。警察内部の意識改革が必要なんです。で、実は一つ、明日行ってみたい場所があるんです」
江川が身を乗り出した。
「何だい?」
口元まで持っていった杯を止めて、大蔵が訊く。
「『伯爵の宴』という集まりがあるんです。ヴァンパイアフリークスの親睦会みたいなものです。主としてネット上で運営されているんですが、たまに実際に宴会を催したりもしているらしい。手がかりがつかめるかもしれないと思うんですけど」
そんな集まりがあることが、大蔵には驚きだった。暇な連中もいたもんだ、と思う。つまりは、変人の集会ということだ。そんなところに、今回の事件の鍵があるとは、大蔵には思えなかった。だが、今のところ事件解決の手がかりは何もない。無駄足覚悟で行ってみる価値はある。
「好きにすればいいさ。付き合ってやるよ」
「ありがとうございます」
そう言って、江上は、まるで大蔵がやるように、杯をぐいっとあおった。瞬く間に、顔の赤さが倍に濃くなる。
「てえことで、ここらで明日に備えて栄養をつけておくか。血のしたたるようなステーキはどうだい? それとも、ホルモンか?」
ふろふき大根となす焼きだけの貧相なテーブルを見渡して、大蔵が言った。
「えっ。それは、ちょっと・・・」
笑いながら、江上が言う。
「だよなあ」
大蔵も、笑う。
江上のむき出しになった歯並びを凝視めながら、やけに糸切り歯の長い奴だ、と大蔵は思った。
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