第2話
部屋の中で、女が眠っている。未だ若い。少女と呼ぶのが似つかわしいあどけない寝顔である。
無用心にも、窓が僅かに開かれている。その窓の外に立って、寝息をたてている住人にじっと眼を凝らしている影があった。その姿は、窃視症を患った変質者となんら選ぶところはなかった。季節外れの黒尽くめの服装は闇にまぎれる謀にちがいなかったし、何より寝台の上でポカンと口を開けて眠る少女の白い首筋を獣めいた息遣いで凝視めているその姿が、男の思惑をはっきりと証かし立てているかに見えた。しかし、その黒い影がただの変質者ではないことも、仮にその場に人がいたならば見て取った筈である。男は、マンションの6階の、足がかりのない窓の外に浮いていた。
盛夏と呼ばれる時期までには未だしばらく時間がある。しかし、雨が降ったり止んだりという季節を迎え、湿度を過剰に含んだ街の空気はにわかに不快な熱を帯び始めた。いつもなら用心深いその部屋の住人がマンションの高層だという安心感に助けられて戸締りへの配慮を怠ったのは、そのせいである。数刻のちに、今は安らかな寝息をたてている住人は、たまさかのその不用心を心の底から悔いなければならない。しかし、その後悔も所詮は哀れな生贄の、あるいは自分にも命をつなぐ道があったのかもしれないという無駄な未練に過ぎない。一度見込まれた白い首筋には、どんなに守りに意を砕こうとも、もはや黒い影から逃れる術はない。
轟音をものともせずにガラス窓を打ち破ることも可能だった。男には忍び込むなどという姑息な手段に訴える必要はない。たとえ少女が眼を覚まし、その助けを求める声に数多の屈強な男たちが駆けつけたとしても、所期の目的を悠然と遂げるだけの力が、男には備わっていた。しかし、必要以上に暴力的であることは、男の美意識の範疇ではない。鍵のかかっていない窓をそっと開けると、男は宙に浮いたまま窓枠を通り抜け、音もなくベージュのカーペットに足を下ろした。
少女の寝息は安らかだ。できることならば、この安息のうちに少女の命を絶ってやりたいと男は思う。しかし、その、思慮深げで端正な面立ちに似つかわしい優しい感情の背後で、残忍な衝動が蠢くのを男には如何んともしがたい。血は、少女が恐怖に震えれば震えるほどその味わいを高める。死に抗い、抗い切れぬ己が無力さを獲物が悟った時、その血は、芳しい香りを放ち始める。そして、今の男は、味覚の陶酔を希求する一個の食欲だった。恐怖という香辛料は、できるだけふんだんに振りまかねばならない。そのためには、この少女に計り知れぬほど深い絶望を知らしめねばならない。男は無邪気な少女の寝顔を見て、心の底から愛しいと思った。
少女が寝返りを打つ。赤く染めた長い髪が、白い頬の上をさらさらとすべり落ちる。口元にかすかな笑みが浮かんだ。いずれ幸せな夢を見ているに違いない。男はその笑みを合図に、少女の髪を鷲づかみにした。
にわかに少女が眼を醒ます。合点が行かないといった表情が、しばらくの間、開いた少女の眼に浮かぶ。自分が今不条理のさなかにいることが、直ぐには理解できない。しかし、つかまれた頭髪の痛みも手伝って、眼球が涙に濡れる。声は出ない。
闇は恐怖の源泉である。闇に生まれ闇に生きる男は、そのことを知悉している。だから、少女の頭を枕に沈め、左手で口を覆うと、男はその人差し指の爪の先を少女の右眼に挿入した。少女は絶叫するが、それは男の大きな掌の下で虚しく音にならないこだまを返すだけだ。体重をかけた左手の下で少女の頭が左右に揺れようとする。しかし、男の強靭な握力に抑えられて、少女の頭は微塵も動かない。代わりに脚がばたばたと狂ったように動く。
右眼の機能を奪うと、今度は左眼に爪を近づける。しかし、直ぐには眼球に爪を立てない。少女が十分に戦慄に震えるのを待って、男は少しずつ少女の眼球に爪を近づけてゆく。恐怖に見開かれていた少女の眼が、爪が今まさに眼球に触れようというところで、まるでありったけの力をその一ヶ所に集中させたかのように、固く閉じられる。男は容赦なく瞼を突き破って、その下の眼球を潰した。少女は失禁し、まるで断末魔にもがく虫のように四肢をばたつかせる。
もがく少女をなだめるかのように男は少女にくちづけをし、その舌を吸う。なるべく根元まで吸い取ったところで、男は少女の舌を噛み切った。生暖かいものが少女の中から溢れ、男の口中を満たす。男は一瞬顔を背けると、噛み切った舌を吐き出した。そしてまた少女の唇を奪うと、少女が窒息してしまわぬように、溢れる血を飲み下しながら、しばらくじっとしていた。
少女の視力と声は奪われた。しかし、命の火が消えるまでには未だしばらく時間がかかる。少女の本当の恐怖、瀬島久仁夫の晩餐はこれから始まる。
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