妖都物語 あるいは「黒山羊のパースペクティヴ」
@hal1961
第1話
街は、老いる。
そして、老いた人がその頑なさから孤独を深めてゆくように、老いゆく街もまた訪れる人を拒み始める。人足の絶えてゆく部屋の中で、死という名の揺るぎない孤独への備えをする老人のように、街もまた、滅びの色を日毎に濃くしながら、静かに廃墟となる運命をたどってゆく。
この街が歓楽街と呼ばれていたのも、そう遠い昔の話ではない。日本が偽りの好景気に浮かれていたその時代、この街は、酔いどれたちの欲望を飲み込み、厚化粧の女たちの虚栄をくすぐる、眠ることを忘れた小バビロンだった。アブク銭を使うことに狂奔する訪問者たちのおかげで、街は、猥雑だが、生きていた。
しかし、かつては人声の途絶えることのなかったこの街に、今は風の音しか聞こえない。アブク銭を拾うことで繁栄した街は、アブク銭がこの世から消え去ったことをきっかけに、日ごとに衰弱の度合いを増していった。
そんな死につつある街の一角に、バー「蟻巣」はある。
街の衰退に伴って、かつてはこの街に寄生することで潤っていた店が、一軒また一軒と看板を下ろしていった。しかし、街の命脈を断つまいと意地になった店主たちもおり、あるいはシャッターを閉ざし、あるいは×印に板で入口を塞がれた店が並ぶ中に、時折、かすかな明かりを消さないでいる店が現れる。「蟻巣」もまた、抗いようのない運命に反逆するそんな無益な意志を持つ一軒に見えた。
しかし実のところ、「蟻巣」がここに店を構えたのは、この街に滅亡の気配がはっきりと兆した後のことである。店が新しいわけではない。前の持ち主が立ち行かない経営に二束三文で売りに出していた店舗を、「蟻巣」の主人が手に入れたのである。
約束された廃市にわざわざ店を構えようという「蟻巣」の主人の思惑は、しばらく打ち捨てられていたその店が看板をすげ替えた上で再び灯をともし始めた時、あれこれと取り沙汰された。この街を捨てる覚悟の者には計算のない愚行に見えたし、この街と運命を伴にすることを決意した者には自らの覚悟を貶める不謹慎な酔狂に見えた。いずれにしても、街の一角に立つその黒い建物は、事切れつつある街の絶命を見届けようとする黒装束の死神めいて見えた。
「蟻巣」の朽ちかけた扉を、黒尽くめの男が入ってくる。黒い袖の長いTシャツの上に黒い薄手のジャケットを羽織り、黒い細身のパンツの先に黒い革靴を履いたその男は、店に一歩足を踏み入れると、伺うように狭い店の中を見回した。その背後で、建て付けの悪い扉が低い獣の唸り声をあげながら閉じてゆく。男は他に客がいないことを見て取ると、いつもと同じように、カウンターの端の席に腰を下ろした。座部のすり切れた椅子は、痩せた男の重みにさえ耐えきれず、悲しい軋みを漏らした。
「ちょうどいいタイミングだ。ちょっと前まで、客がいたんだ」
カウンターの内側のスツールに座って、スポーツ新聞を広げていた店の主人が、視線すら動かさないそのままの姿勢で男に声をかけた。男からは、新聞の陰に隠れて主人の顔が見えない。
「見栄を張るなよ。人のいた気配など、微塵もない」
男はカウンターに両肘をつき、組んだ両手の上に細い顎をのせる。
「見栄なもんか」
主人は新聞を下ろし、膝の上でガサガサと音を立てながら畳んだ。ついでに、眼に涙が浮かぶほど大きな欠伸をした。口髭をたくわえた端正な顔が、間抜け面に歪む。
「ほら。退屈は隠せない」
黒ずくめの男は皮肉な笑みを浮かべた。
「はん。うるせー客だ。さっさと注文の品を選べ。うちは酒場だ」
畳んだ新聞を煤けたカウンターの上に置きながら、主人が眉間に皺を寄せる。
「選べるほどの品揃えではないだろう。酒は、国産ウィスキーの二者択一。つまみはチーズと決まっている。酒はどちらだって、構わない。水割りにしてくれ」
男は、そう言いながら、ポケットから煙草の箱を取り出し、一本抜き取ると口に銜え、オイル・ライターで火をつけた。
「ふん。うちにはカクテルをお飲みになるような上品なお客様は、あんたも含めて、いらっしゃらねえんだよ。これも、お客様のニーズに合わせたサービスってやつだ」
背後の酒棚から国産の大衆向けウィスキーのボトルを手に取りながら、主人が言う。確かにウィスキーは二種類あり、その本数の多い方を主人は選んだ。
「なるほど、理屈だ。確かに選択の幅を狭めるというのは、今日的には立派にサービスと呼ぶに価する。酒一つ選ぶ度に自分の趣味を忖度されるような差異の戯れを喜ぶ時代は、早々に終わらせるべきだ。差異を生むことが自己目的化し、趣味の広がりに差異がついて来るというよりは、差異を生むことで新たな趣味が創出されるなどという倒錯に、いつまでも囚われていていいわけがない。これが新たな趣味だと言わんばかりに生み出されるヴァリエーションに嬉々として追随した人間たちも、実はもう完全にそうした奴隷の遊びに飽きているはずだ。書店に並ぶ本の多さと、都会に並ぶラーメン屋の多さに、俺もいつも辟易している」
そう言って、男は煙草の先の灰を、眼の前のブリキの灰皿に落とした。
主人は明らかに相手の言うことを聞いていなかったが、一言「黙れ、ホン書き」と言った。
「褒めてやったのに、黙れ、はないだろう。煽て甲斐のない奴だ」
男は苦笑いする。
「別に褒めてくれとは言ってない。それに、どうせ褒めるなら、わかりやすく褒めろ。あんたが何か言うと、褒められようが貶されようが、結局あんたの屁理屈につき合わされているだけって気分になる」
主人は、水で薄めた琥珀色の液体と氷の入ったグラスを、男の前に差し出した。
「当然だ。屁理屈につき合わせているだけだから」
ホン書きと呼ばれた男は、グラスを手に取り、にんまりとした表情を浮かべた。
「これだから、言葉に現を抜かす奴はいけ好かねえ。あんたがうちの座付き作者じゃなければ、この店には出入り禁止にするんだがなあ」
主人は自分にも一杯用意し、ストレートを少し嘗めると、むしろ機嫌良さげに言った。
「うちの座付き作者とは何事だ。自分の劇団のように言わないでもらいたいな。しかも、まるで俺が使われの身ででもあるかのように・・・。俺も立派な『黒魔☆団』の創立メンバーだ」
これもさして憤慨した風もなく、男が返した。
二人は、慣れたじゃれ合いを性懲りもなく繰り返しているという風情である。
店の主人は九重礼一、劇団『黒魔☆団』の演出家兼役者である。役者、しかも多くは二枚目を務めるだけあって、なかなかの男前だ。言葉遣いとは裏腹に、優しい面立ちをしている。背も高い。一方、黒尽くめの男は鷲巣英輔、『黒魔☆団』専属の劇作家である。中背のこの男は、端正な顔立ちだが、どこか冷淡な気配がある。
「はん。創立メンバーとは聞いて呆れる。行き場のない書き溜めた原稿に、活路を与えてやったのは誰だと思ってる」
「それはいささか事実を歪曲した認識だ。劇団を旗揚げしようと人をかき集めたのはいいが、台本を書けるだけの頭を持った者が見つからず、原稿をくださいと泣きついてきたのはどこの誰だ。大学の同窓のよしみで傑作をくれてやったが、あれがなければ公演の一つも打てなかったんだぞ」
二人は同じ年齢で、十数年前、同じ大学に通っていた。しかし、学部が違っていたので、二人が知己になったのは、学内のことではない。
その頃、九重は、大学に通いながら『自己現場』という小さな劇団で研究生をしていた。別段芝居で身を立てたいという思惑があったわけではない。大学にも退屈し、並の遊びにも倦んでいた九重が、当時のささやかな演劇ブームに便乗し、自らの日常を輝かせる術を舞台の上に探していたというに過ぎない。
新宿の『ガレー船』という名の酒場が、その小劇団の溜り場になっていた。というのも、その店のママが有力劇団員の恋人で、そのママ自身も時折舞台に立つことのある、愛嬌のある女の役が得意な女優だったからである。公演が終われば、必ずその店で打ち上げが行われた。
未だ研究生だった九重が舞台に立つことはなかったが、公演の度に、あれこれと雑用に使われていて、打ち上げにも賑やかしとして参加させられていた。とにかく綺麗な顔をしているので、先輩女優から可愛がられていたのである。
『月光のマドンナ』は、その劇団としては、メジャーへの進出を目論んだ自信作だった。一月に及ぶその公演の最終日、芝居の跳ねた後で、団員たちはいつものように『ガレー船』に集まった。劇団のシンパも何人か来ており、借り切ったとは言え、狭い『ガレー船』が今にも沈むかという人の数で、外で立ち飲みする者も出る盛況ぶりだった。
『月光のマドンナ』の入りはそこそこで、回を重ねるごとに客足が増えていくという興行だったから、劇団員たちはまずまず満足した笑みを浮かべながら、杯を酌み交わしていた。
ことに、この芝居を書いた作家窪田忠文は、某演劇雑誌の劇評欄で、それなりの影響力を持つ演劇評論家に「台本がいい」という賛辞を貰っていたので、会の冒頭からご機嫌な面持ちを崩せない様子だった。綺麗どころの女優二人を自分の両隣に侍らせ、「俺がメジャーになったら、お前らを使ってやる」などと耳障りなことを口走っている。
九重は日頃から、この劇作家の横柄な態度が気に入らなかったので、劇団の成功は嬉しくても、いまひとつ美味い酒を飲めないでいた。
「生意気ぬかすな!」
酒も残り僅かという頃になって、その上機嫌な筈の窪田が、いきなり吼えた。
和やかに進んでいた会は、その大音声で、にわかに剣呑な空気に包まれた。
そもそも酒の入った演劇人の気性は荒い。劇団員同士が演劇観、挙げ句には人の生き様を巡って意見が対立し、口角泡を飛ばしての議論ならまだしも、いつの間にか摑み合って店の外に転げ出ていたなどというのは日常茶飯にある事なので、誰もが最初は、日頃から作家と意見を衝突させている看板役者の相馬がまた、作家に食ってかかったのかと嘆息した。しかし、皆がそちらに眼をやると、怒声を浴びながら作家の前で澄ましているのは、未だ若い、劇団のファンと思しき青年だった。
嘆息が驚きに変わった。
九重も、驚いた。完全に血相を変えた作家の前で、何事も無かったかのように平然としているのは、自分とさして年齢の違わない青年である。研究生という立場からは当たり前のことだが、自分はいくら相手の言うことを理不尽だと思っても、面と向かって窪田に楯突いたことなどない。しかも、怒声を浴びせられれば、怯えるにせよ色をなすにせよ、少しは感情が動こうというものである。しかし、今窪田と対峙している青年は、『ガレー船』の和やかな雰囲気を一瞬にして凍りつかせた事態に立ち会い、しかも、どうやら一方の当事者という立場にいながら、顔色一つ変えていない。
「こと芸術作品の評価に関する限り、『生意気』な態度というのは、才能の無い者が才能のある者に対して楯突くことです。その逆を『生意気』とは言いません。また、才能の無い者が才能のある者の示唆に耳を貸さないのも『生意気』でしょう。よって、この場で『生意気』なのは、むしろあなたの方です」
窪田の怒声の後、最初に青年がしれっとして返したセリフが、これだった。
九重は青年の言いたいことを一瞬捉え損なったが、その言葉がとにかく作家の怒りの炎に油を注ぐものであったことは確かで、現に作家は、バンとテーブルを叩くと、勢い良く立ち上がり、青年に人差し指を突きつけると、「貴様、何者だ。名を名乗れ」と妙に時代がかったセリフを、上ずった声で発した。
「鷲巣英輔」
青年は、醒めた調子でそう言うと、
「座って下さい」
やはり醒めた口調で付け加えた。
無論、作家は座らない。
「わしずえーすけー? 知らんぞ、そんな名は。このガキを連れて来たのは、誰だ。まったく恐れを知らないというか、傲岸というか、不遜というか。誰でもいい。とにかくこいつを摘み出せ」
そう言って周囲を睥睨したが、動こうとする者は誰もいない。それには無論、作家の愛されぬキャラクターも与って余りあったのであろうが、何よりも青年の落ち着き払った態度に誰も摘み出さなければならない正当な理由を見出せないでいるのだった。
不思議なことに、青年を見知った者は誰もいない様子である。この打ち上げには、劇団員以外に多数のファンや演劇仲間が交じっていたが、彼らは誰もが団員の肝煎りでこの場に席を得ていた。しかし、その青年は、誰に招かれたというわけでもなく、気づくといつの間にかそこにいた様子である。
青年は立ち上がった作家を上目遣いに睨めつけた。眼に力がある。
「あなたの作品の最大の問題は、ドラマトゥルギーというものをあなたがまったく理解していない点にあります。セリフがあって筋が運べば、それで戯曲が出来上がると思っている。これは素人の書いた戯曲が、しばしば嵌っている陥穽です。筋が運ぶことに意を砕くあまり、セリフは過剰に説明的になる。
戯曲は舞台で上演されることを前提としている以上、ドラマトゥルギーを念頭に置いて書かれなければならない。ドラマトゥルギーを理解しない作家の書いたセリフは、それが文字という二次元世界に納まっている間はまだしも、舞台に立つ役者の肉声で発せられると途端に精彩を欠き、陳腐になり、芝居を台無しにしてしまいます。大事なのは、文字として読んだ時のセリフの躍動感ではない。役者の所作、音楽、舞踊、舞台音響、舞台照明、舞台美術、さらに言えば劇場となる空間そのものの建築デザインなど、一つの芝居を完成させるのに必要とされる他の諸要素との調和です。無論、戯曲を書く段階で、劇作家がそこまですべてを見据えている必要はないし、それが極端に走れば、本来解釈の多様性を身上とする戯曲は生命を失います。しかし、そうした演劇空間で完成されるべき構成要素の一つに過ぎないということも、戯曲はどこかでわきまえていなければならない。ここが、戯曲の難しいところです。
つまり、戯曲とは、確たる作品世界を構築しながら、同時に他者の創造的宇宙を侵犯するものであってはならない。あなたはその戯曲のアポリアと対峙していません。あなたの戯曲は、あまりにも説明的過ぎて、総合芸術たる演劇の、まさにその総合性を破壊する方向に働いているのです。
言わば、子どものわがままです」
棒立ちになった作家の拳が震えている。その場の剣呑な雰囲気に怯えたのか、窪田の隣に座っていた美しい女優の一人が、顔をしかめて席を立った。
それを見て、青年がかすかに微笑む。そして、続けた。
「迷惑なのは、そんな台本に基づいて演出させられる演出家であり、しなびたセリフになんとか瑞々しい命を吹き込まなければならない役者です。
ことに演出家は、総合芸術たる演劇の、その総合性を最終的に担保する役割を担っているわけですが、戯曲がお粗末だとその粗を隠すのにかなりのエネルギーを使わなければならず、本当に気の毒です。建築資材をすべて取り揃えた後で、建築現場が土台の組みようのない砂漠であることに気づいてしまった建築家の苦悩を想像してみてください。
『月光のマドンナ』はまずまずの出来のお芝居だと思いますが、それは『月光のマドンナ』という戯曲の成功を意味しません。むしろ、今回賞賛すべきは、これほどお粗末な戯曲でありながら、砂漠に楼閣を築くがごとき奇跡を行い、見るべき水準の演劇を成立せしめた、演出家の手腕です」
青年は、背後を振り返った。その視線の先には、件の演出家塙尚史が立っていた。その塙と眼が合うと、青年は何事か呟いた。何と言ったのかはわからない。しかし、それは日本語として意味をなす言葉とは思えないものだった。
「そして、あなたは、主人公を演じた相馬氏始め、この舞台を成功に導いた俳優の方々にも感謝すべきです。あのセリフを語りながら、なおかつ芝居をしているように見えたというのは、つまりは一つの演劇がきちんと成立しているように見えたというのは、まさに俳優陣の端倪すべからざる技量を証明しています」
青年は、今度は相馬を振り返った。そして、再び何事か呟く。
「黙れ、黙れ、黙れ! 貴様! 言わせておけば、言いたい放題言いやがって。いい気になるのもいい加減にしろ。いいか、よく聞け。おまえがどれほどの芝居通かは知らんが、どっちにしろただの素人に過ぎん。たかが芝居好きの一般人だ。おまえの評価など、糞ほどの価値も無い。俺は、名のある劇評家に評価された人間だぞ。『演劇通人』で、柴田弘毅に絶賛されているんだ。『月光のマドンナ』の成功は、ひとえに俺のおかげだ。現に劇評には、塙のことも相馬のことも一行たりとも書いてなかった。俺の台本があったから、評価もされたし、客も集まっ・・・」
激昂した窪田が、拳を振りながらそこまで言った時、また青年が何事か呟いた。
「待てよ、窪田。そこまで言われては、黙ってはいられんな」
そう言ったのは、演出家の塙だった。
「そうだよ、窪田さん。あんたは勘違いしている」
これは、相馬である。
「おまえ一人がこの芝居を作ったような言い方は、ここにいる全員に対する無礼だ。撤回しろ。大体、たかが一度劇評で褒められたくらいで、その傲慢ぶりはなんだ」
そういう塙の言葉を引き取って、
「絶賛なんかじゃなかったよ。ちらっと触れられてたって程度だ。あんたは昔からそうなんだ。この劇団は俺でもってるみたいなことばかり言って。僕はあんたのそういうところが以前からムカついていた。僕は、この人の言うとおりだと思うよ。あんたの台本は、やりにくい。何て言うか、セリフが宙に浮くんだよ。それを必死になって生身の人間が喋っているように演じているんだ。なあ、みんな」
相馬が周囲に同意を求める。役者たちが、こぞって頷く。
「まあ、まともな台本を書くなら、多少の驕りも認めよう。しかし、おまえの台本は、この青年の言う通り、常に演出の障害なんだ。おまえのあの台本を生かすために、私がどれほど苦労しているか。それをわかれとまでは言わないが、せめてもう少し謙虚な姿勢があってもいいんじゃないか」
塙が追い討ちをかける。
「大体あんたの書くセリフは、生きた人間のセリフじゃ・・・」
と、相馬が言えば、
「演劇は、総合芸術なんだ。劇作家にもそれを意識してもらわねば・・・」
塙がさらに畳み掛け、演出家と俳優は、青年の背後に立って、交互に窪田を攻撃する。
面白いことになったと九重は思った。相馬はともかく、塙がここまで悪しざまに窪田をののしるのを聞いたことがない。まるで青年が二人の手下を従えて悪党と対峙しているかのような構図だった。
いや、手下は二人だけではない。その場に居る窪田以外の全員が、蔑む視線を窪田に送っていた。
ふと青年を見ると、俯き加減に隠そうとはしていたが、確かに口元には笑みが浮かんでいた。その笑みに気づき、窪田は「貴様」とひとこと言ったが、それはもはや言葉というよりはうめきだった。しかも、窪田の表情は怯えていた。
騒ぎの中、最早自分とは関係がないといった風情で『ガレー船』を出た鷲巣英輔の後を追って、九重も仲間たちと離れた。店では未だ、窪田の粛清が続いている。
追尾しながらしばらく躊躇っていたが、ついに意を決して、九重は鷲巣に声をかけた。鷲巣は驚いた様子もなく振り返り、「何?」と言った。
「すごいな、あんた。芝居のこと、ずいぶん勉強しているな」
「俺が? 芝居を? やめてくれ、演劇を観たのは今日が初めてだ。これまで興味を持ったこともない。最初の出会いとしては、恐らく最悪のケースだったんだろうなあ」
九重はあっけにとられた。
「初めて? だって、あんなに滔々と演劇論を語ってたじゃないか」
「あれは演劇論じゃない。あの窪田って奴が、いかにダメであるかを証明しただけさ。やたら横柄な奴だったんで、暇潰しに、ちょっと懲らしめてやった」
「暇潰し?」
「ああ。ここに来た本当の目的は、別にある」
鷲巣が口元を歪める。
「でも、ドラマトゥルギーが何とかとか、総合芸術がどうしたとか、とにかくそれらしいことを言ってたじゃないか。あれは全部出任せなのか」
「出任せじゃないさ。言ったろ。俺の目論みは、あの劇作家をへこますことだ。その限りでは、あれはけっこう有効に機能した。ドラマトゥルギーの定義が正確であったかどうかは、この際問題ではない」
鷲巣は、違うか?と問いかけるような表情を、九重に向ける。
「ハッタリだったのか?」
九重が驚いたように聞き返す。
「人聞き悪いなあ。ハッタリというのは、効を奏するかどうか疑わしい場面で、一か八かの賭けに出てかます言葉だ。俺は、あの窪田って奴を百パーセント貶めることができると確信していた。ゆえに、ハッタリをかましたわけではない」
「確かに窪田のざまはなかったな。俺もあいつが嫌いなんで、愉快だったけど・・・。でも、あんた、すごい自信家だな。窪田の前でも顔色一つ変えていなかったし、百パーセントの確信とか言ってるし」
「否定ばかりするようですまないが、それも違う。自信家というのは、根拠があろうがなかろうが、何事につけ自分に信を置く人間のことだ。言わば軽度の誇大妄想だよ。件の窪田がそうだ。俺は、あんな野卑な人間とは違う。俺だって、先の見通しが曖昧なら、あんなに醒めてはいられない」
「てことは、ああいう成り行きになるってことがわかっていたってこと?」
「もちろん」
九重は訝しむ。鷲巣というこの青年は、ひどく胡散臭いし、鼻持ちもならない気配がある。しかし、言葉には妙な説得力がある。まったく誠実でなさそうでいて、微塵も嘘はつきそうにない。捉えどころのない相手のキャラクターに、九重はどう対処していいのか戸惑った。戸惑っている自分に少し苛立ちながら、きつい口調で九重は問う。
「予言者でもない限り、事の成り行きを完全に読むなんてことはできない筈だ。塙さんや相馬さんがあんたに味方してくれたからいいようなものの、もし味方が入らずに論争を続けていたら、やがては殴り合いになっていたかもしれないぜ。あんたはあんまり腕っ節が強そうには見えない。痛い目を見ていたのは、むしろあんたの方だった可能性もある。それどころか、塙さんや相馬さんが、窪田の味方に立つことだって考えられる。なんたって、同じ劇団員だ」
鷲巣は、笑みを浮かべながら首を振った。
「その立論には誤りがある。君は、あの二人が偶然俺に味方をしたという前提に立っている。しかし、あれは偶然じゃない。彼らは―少なくとも演出家の方は、味方するしかなかったんだ」
「前もって、打ち合わせでもしていたのか? あんたは二人の知り合い?」
「一面識もない」
「だったら、どうなるかわかったもんじゃない。確かにあんたがあそこで言っていることは筋が通っているように聞こえた。でも、そんな理屈なんて通用しないこともあるってのが、人間だろ。塙さんがもう少し仲間意識の強い人だったら、何はともあれ、窪田を庇っていたかもしれない」
「ありえない。あの演出家は、必ず俺の味方をしていたよ。投げ上げられた石は、いずれ必ず地上を目指して落下する。物理法則に反して、宙に舞い上がりつづけることは絶対にない」
「その比喩はおかしい。塙さんは石じゃない。人間のやることなんて、不確実だ。たまたまその時どんな気分かで、右にも行けば左にも行く。物理法則ではわりきれない」
「物理法則という言葉も含めて比喩さ。無論、人間の行動は物理学では割り切れない。いや、物理学を頂点とする自然科学と言ってもいいが、とにかくそういう自然科学的法則によって割り切れないことを不確実と言っているなら、それはその通りだ。しかし、それはいかなる意味においても人間が不確実であることは意味しない。人間を測る尺度は、他にもある」
「心理学とかのことを言っているのか」
「心理学にせよ、文化人類学にせよ、いわゆる行動科学は、自然科学的パラダイムの中で咲いた徒花だよ。人間理解に自然科学的方法を適用してみせた無謀な実験さ。やっていることは、物語の構築に過ぎない。ラカンもレヴィ=ストロースも一人の物語作家だ・・・。俺はそういうものを持ち出したいわけじゃない」
九重は怪訝な表情になる。「よくわからない」そう呟いた。
「所詮自然科学は、世界の解釈原理の一つだってことさ。確かに、今は、隆盛を極めている。実験に基づく体系的学問たる科学がなぜこれほど流行したのかは、それはそれで、確かに一つの問題だ。しかし、科学が畢竟、世界理解の方便の一つに過ぎないことには変わりない」
九重は益々怪訝な顔つきになる。相手の言いたいことは、朧げながらわかる気はする。どうやら科学は万能ではないということをひどく回りくどく言っているらしい。しかし、どう切り返せばいいのかがわからない。話の接ぎ穂が、相手の言葉の中にはない。
「それはともかく」
いきなり鷲巣が話題を変えた。
「あの劇作家の隣に座っていた綺麗な人は、なんて名前だ?」
九重は拍子抜けした。何やら難解な議論を吹っかけられているらしい気配に、必死になって相手の言うことを追跡し、理解の及ぶ限りで返すべき言葉を組み立てていたところに、この無関係な質問である。
窪田の両隣には、劇団で一、二の美貌を競う二人の女優が座っていた。
「途中で席を立った髪の長い方だよ」と鷲巣がつけ加える。
「ああ、笹岡えみさんだ。口説こうってつもりなら、やめといた方がいい。ガキなんか相手にする人じゃない」
九重は腹立たしげである。
「そうじゃない。あの美人こそ、鍵さ」
鷲巣が、微笑む。
「え?」
「あの劇作家は、あの笹岡という女優に惚れていた。違うか?」
「さあ、どうかなあ。そんな話は聞いたことがない。まあ、あれだけの美人だからね。そうであったとしても不思議はないけど。なぜ?」
「あの窪田って奴は、いささか酒乱の気味がある。杯が進めば進むほど、暴言が酷くなった。もう一人の美人・・・?」
「森下葵さん。窪田はどっちかと言えば、森下さんの方がお気に入りだった筈だ」
「彼女に相当失礼なことを言っていた。いわゆる下ネタってやつだ。口にするのは憚られるが、とにかく女性としては相当耳障りな話題だ。しかし、あの女優はできた人らしく、そんな話にもちゃんと乗っていた。ま、その手のネタが嫌いじゃないだけの話だったのかもしれいが、いずれにしても窪田は彼女とは話しやすそうだった」
「だろ。絶対、窪田が気に入っていたのは、森下さんだよ」
「さあ、それはどうかな。窪田は二人の美人に挟まれていた。あいつはその森下葵とだけ話していたわけではない。えーと、笹岡えみか、彼女とも話はしていたんだ。しかし、下ネタは百パーセント森下葵にふっていた」
鷲巣は指を一本立てた。
「しかも、あいつはかなりのお喋りで、他人の話の腰を折ることを何とも思っていない。可哀想な森下葵は、そのいい犠牲者だ。彼女がまともに最後まで言いたいことを言えた場面は、数えるほどしかなかった。ほとんど途中で、窪田に遮られる。ところが、だ。笹岡えみが話し出すと、窪田は急に静かになる。まともに最後まで話を聞くんだよ。その上、森下葵と話している時のようなヨタを言わない。反射的に言葉を返さないもんだから、他の誰かに会話を拾われて、結局笹岡えみと窪田の会話は盛り上がらない」
立てられた指が、二本になる。
「そして、こんな場面もあった。あいつ、笹岡えみに触れられて赤面したんだ。あはは。あの顔で、中学生みたいに赤面したんだよ。笹岡えみの横、窪田とは反対側に座っていたお調子者―確かみんなからカメちゃんと呼ばれていた―あの小さな男が、何かの拍子にテーブルの上の水割りのグラスを倒したんだ。笹岡えみはけっこう高そうな服を着ていたからね、反射的に反対側、つまり窪田の方に体をずらした。勢い窪田に抱きつく形になった。その瞬間だ。窪田の顔が、真っ赤に染まった。すさまじい色だったぜ。顔面の皮膚が血を噴き出したのかと思った」
鷲巣は、笑いに嘲りを交えながら三本目の指を立てた。
「さて、以上三つの状況証拠から抽出できる結論とは何か? 劇作家恋愛疑惑事件の裁判に集った十二人の陪審員は、恐らく容易に一致した評決に達する筈だ。そう、窪田忠文は笹岡えみに懸想した罪で、有罪!」
今のエピソードがすべて事実なら、総合して導き出される結論は一つしかない、と九重も思った。そして、言われてみれば、思い当たる節もないではない。窪田の台本では、大抵ヒロインの髪が長い。ヒロイン役は、笹岡えみか森下葵のどちらかに回るものと、この劇団では暗黙の了解が出来上がっていたが、その台本上の設定から、窪田の書いた芝居でヒロインを演じるのは、大抵、笹岡だった。しかも、窪田は森下のことは「葵」と呼ぶのに、笹岡のことは「笹岡さん」と呼んでいた。窪田と森下の親密さばかりを感じ取っていたが、笹岡に対する窪田の特別な感情を示唆しているとも取れないことはない。
「そして、あの演出家・・・えーと、塙尚史か、彼も笹岡えみと特別な関係を結んでいる」
鷲巣が断言した。
それは九重にも頷ける話である。というより、塙と笹岡がお互いに惹かれ合っているというのは、劇団内部では周知の了解事項だった。二人がそのことを公然と口にしているわけではなかったが、確かに二人の間にはただならぬ気配があった。だから、笹岡えみにちょっかいを出すことは、演出家塙尚史に楯突くことだという雰囲気が、なんとなく劇団内部に出来上がっている。しかし、今日初めて塙や笹岡と出会った鷲巣が、そのことをどうして知ったか。今日の打ち上げでは、特別二人が親しげにしている場面はなかった筈だ。
「窪田と笹岡えみが話している時、必ず二人の視線が同じ方向にちらちらと動いていた。そちらが気になって仕方ない様子でね。二人の視線が同じタイミングで動くわけではない。どうやらそれぞれ違う思惑がありながら、気にしているものは同じだということのようだった。その視線の先には、塙尚史がいた。そして、面白いことに、二人とは視線が合わぬように気を配りながら、塙の方でも二人を気にしている」
ふん、と鷲巣が鼻で笑う。「こちらが赤面するくらいわかりやすい構図だ」
「そうかなあ。塙さんは演出家として、劇団員の動向、特に男女関係に気を配っていただけかもしれない。演出家ってのは、そういう立場だ」
九重は、敢えて言ってみた。
「笹岡えみは楽しそうに見えた」
「え?」
「窪田と話をするのが楽しそうだった。変だと思わないか。どう見たって、あの二人は不釣合いだ、美女と野獣に喩えることさえ憚られるくらいに。しかも、笹岡えみは、森下葵みたいに座の雰囲気に気を遣うというタイプじゃない。不愉快なら、それが直ぐ顔に出る、というより顔に出す女だ。つまり、笹岡えみが楽しそうに見えたってことは、本気で窪田と会話することを楽しんでいたんだよ」
「そうとは思えないけど。女優なら、劇作家のご機嫌伺いに、愛想笑いを浮かべることくらいやってみせて不思議はない」
「笹岡えみは、根っからの女王様だ。森下葵は、甲斐甲斐しく他人のグラスに酒を注いだりつまみを皿に取ってやったりしていたが、笹岡えみは一度もそんなことはしなかった。自分の酒やつまみでさえ、隣にいたカメちゃんに用意させていた。しかも、礼の一つも言うわけじゃない。つまり、自分は周囲からちやほやされて当たり前の女王様なのさ。自分のグラスが空っぽの状態がしばらく続くと、露骨に眉間に皺を寄せてカメちゃんを睨んでいたぜ。要するに、笹岡えみは、作り笑いのできるタイプじゃない。窪田と会話をしている時は、本気で何かが愉快だったのさ・・・」
鷲巣は問いかけるような光を、眼に宿す。
「そして、もう一つ。あの場にいた人間は、窪田が劇評家柴田弘毅によって評価されたという事実に左右されていた」
確かにそれは事件だった。星の数ほどもある小劇団が、メジャーな演劇雑誌に取り上げられるのは僥倖に属する。メジャーな劇団への昇格を虎視眈々と伺っている小劇団にしてみれば、ほんの数行の扱いでも、メジャー雑誌での高評価は、未来に羽ばたく大きな足がかりに見えた。
「笹岡えみは、普段、打ち上げの時、どこに座る? 塙の横じゃないか?」
鷲巣の問に、九重が首を傾げる。
「どこって、そんなの決まって・・・いや、そうじゃない。そう言えば、大抵は塙さんの横だ。そう、だからみんな笹岡さんのことを塙さんの紐付きみたいに思っていたんだ」
「だろう。だから、今日の打ち上げは、異常な位置取りで始まったのさ。そして、その位置取りを決定したのが、劇評家柴田弘毅だ」
「どういう意味だ? それに、一度も顔を出したことがないくせに、何で普段の打ち上げの様子までわかるんだ」
「言っただろう。笹岡えみは女王なのさ。女王の席は、どこだ?」
九重は、しばらく考え、「王の横」と言った。
鷲巣が頷く。
「そう、玉座の隣さ。女王は王の横にいるに決まっている。まあ、とどのつまりは笹岡えみの目立とう根性のなせる業なのだが、そこに一つのシステムを読み込むこともできる。それが意識化されていたかどうかはともかく、笹岡えみは王の横に座ることが決まっていたし、逆に言えば、笹岡の隣に位置した者こそ王であるという了解が、あの打ち上げの席には存在したんだ。これは想像だが、たまにはあの美形の男優・・・相馬だっけ、彼の横に笹岡えみが座ることもあったんじゃないか?」
そう言われてみれば、確かに酒席で笹岡が相馬と談笑している場面も記憶に残っている。九重は頷く。
「多分、その時は、相馬が舞台の成功に大きな貢献をしていた筈だ。つまり、こういうことさ。通常は、この国の王は、塙尚史だ。劇団の主宰者であり、舞台を統括する演出家なんだから、当たり前だ。しかし、未だ小国であるがゆえに、その王位は安定していない。戦、つまり公演の度ごとに、王座が揺らぐんだよ。最も王たるに相応しい武勲を果たした者が、王になる。それが、今回であれば、窪田だ。まあ、笹岡えみにしてみれば、最も華やかな場所を嗅ぎ分ける嗅覚に優れていて、自分は常にスポットライトの中にいなければ気が済まないだけのことなんだが、彼女は公演の度ごとに、誰が一番手柄を立てたかを明確にする装置なんだ。いわばみんなが意識的にせよ無意識下にせよ納得している構図を、彼女が白日の下に曝け出すわけさ。打ち上げは、禅譲放伐の物語の場なんだ」
そう言って、鷲巣は、九重の思考を促すように、一呼吸置いた。
「もうわかったろう。整理しよう。
第一に、窪田は笹岡えみに恋愛感情を持っている。
第二に、それが恋愛であるかどうかはともかく、塙と笹岡えみとはカップルに見えてもおかしくない特別な関係を取り結んでいた。俺に言わせれば、いわばそれが王権の証明だ。
第三に、今日の打ち上げでは、塙から窪田への王権の一時的移動が起こった。それは、柴田弘毅の劇評に由来する。
さて、以上三つを念頭に置きながら事態を眺めるとこうなる。新たな王となった窪田は愉快で堪らない。奢ってもいただろう。おまけに傍には、女王笹岡えみがいる。笹岡にしてみれば、無論、別に窪田に好意を持ったわけではない。無意識にせよ、王の横に座るという女王の役割を果たしていただけだから。しかし、窪田はそうは思わない。愚かな彼は完璧に勘違いしたろうね。会の始まった頃は、ついついもれる笑みを隠せないていたらくぶりだった。笹岡と話しながら、視線が時々塙に向けられていたのは、ざまあ見ろってな気分だったんだと思う。放伐された元王を眺めながら、我が世の春を謳歌していたという次第さ。
一方で、塙尚史の方は、当たり前のことながら面白くない。いつもなら自分の横にいる筈の笹岡が、今日は窪田の横に居る。しかも、何やら話す様子は楽しげだ。視線を合わせないように気を遣いながらも、ついつい二人の睦まじげな様子に眼を奪われてしまったのも無理はない。まあ、本人の自覚はともかく、国を追われ復権を夢見る王の役どころを振られていたわけだからね。
そして、笹岡えみはと言えば、新王の権威が長続きするとは思っていなかったろうから―だって、およそ王たるに相応しい資質を備えた男には見えないからねえ、まあ、いずれ返り咲く元王の心をできるだけ揺さぶっておこうという魂胆だったんだと思う。あるいは、王の交代にも関わらず、自分の地位は揺るがないわけで、それが嬉しくてしようがなかったのかもしれない。だから、楽しそうだったのさ。ま、女心はよくわからないけど」
九重は感心して、言葉がない。束の間空間を共にしたに過ぎない人間たちの関係を、鷲巣は見事に言い当てているように思えた。
「さて、問題はここからさ。なぜ、俺が塙も相馬も俺の味方になると確信していたか。それに答えなければいけない」
そう言って、鷲巣は、微笑む。九重ははっとした。この青年は急に話題を変えたわけではなかった。自分の発した問いに答えようとしていたらしい。自分ですら忘れていた問いの答えに、九重は大いに興味を持った。
「俺は、以上の人間関係を前提に、戦略を立てた。最初は一ファンのふりをして窪田に近づいた。『月光のマドンナ』の書き手だということはわかっていたから、劇作家志望の学生という役割を自分に振って、窪田と会話を始めた。無論、教えを請いたいという低姿勢でね。
と、同時に、笹岡えみを会話に巻き込むことも忘れなかった。取敢えず眼に付くことを褒めてやると、気乗りしない風を装いながらも会話に乗ってくるので、これはさしたる苦労ではなかった。
そして、頃合を見計らって、戯曲『月光のマドンナ』の批判に転じたのさ。但し、窪田を見ながら批判したわけじゃない。視線は笹岡えみに向け、彼女を説得するつもりで話をした」
「つまり、窪田の痛いところを突いたわけだ」
「その通り。目的は、窪田の権威を失墜させることと併せて、窪田を激怒させることだ。あの場面で、窪田にとって、自分のダメさ加減を一番知られたくない人物は笹岡えみだ。その笹岡に、自分の無能を吹き込む人間が現れれば、窪田は絶対怒りで理性を失うと思ったのさ。現に、そうなったけどね」
あはは、と鷲巣は笑う。
「俺は奴に、怒りの余り、自分を高め他人を貶す失言をさせたかった。言わば心の狭い王の役割だ。臣民が呆れ果て、かつての名君の復活を望むような状況を作り出したかったのさ。そうなれば、塙は黙っていられない。もっとも、窪田の驕慢な性格はある程度劇団員に浸透しているようだったから、ただ奢った発言をさせるだけでは、普段の塙なら『仕方ない』と呆れ笑いでやり過ごしてしまっていただろう。しかし、今回は状況が違った。その余裕は、彼にはない。塙は、下世話に言えば女を取られた男であり、上品に言えば返り咲きを伺う放伐された王だった。絶対に黙ってはいられなかったんだよ」
「それで塙さんを褒めたのか」
「そう。窪田を貶めるだけでなく、塙を持ち上げることで、俺は二つのことを仕掛けた。第一に塙が動きやすい状況を作り、第二に窪田に塙が敵だということを自覚させた。窪田が自分の権威を維持するためには、自分が塙より優れていることを証明しなければならない状況を作ったのさ。
そして、窪田にとっては権威の失墜を、塙にとっては復権の兆しを意味する決定的な出来事が起こった・・・女王が席を立ったんだ。笹岡えみが窪田のそばを離れたんだよ」
確かに、笹岡えみは、鷲巣が窪田批判を展開しているさ中、途中で席を立った。その時には、別段意味を帯びて見えなかった出来事が、今の九重にはすこぶる象徴的なものだったと思える。
「それを意識したかどうかはともかく、塙は―そして、相馬も、笹岡えみが席を立ったのを見て、自分たちが窪田と同列であるというお墨付きを得たのさ。もはや窪田の位置は、王のそれではなくなったのだから。そして、窪田にしてみれば、笹岡えみの愛を取り戻し王権を維持するためには、柴田弘毅の力を前面に出し自分が塙よりも優れていることを叫ぶしかなくなったというわけだ」
「あんたにとってはまたとない偶然が起こったんだな」
「偶然? 冗談じゃない。言ったろう、俺はすべてを確信していたんだ」
鷲巣は、立てた人差し指をこめかみに向けた。
「え? あれも起こるべくして起こったことだとでも言うのか?」
「当然だ」
鷲巣は、未だわからないのかと言わんばかりの表情で呆れたように言うと、
「俺が足を踏んだんだよ」
笑いながら告白した。
あまりのことに、九重に返す言葉はない。
「一度で効を奏さなければ、何度でも踏みつけてやるつもりだったが、幸いにして、そんな紳士に悖る行為は繰り返さずに済んだ。向こうが皮革の薄いハイヒールを履いていてこっちが底の固い靴を履いていたのが幸いしたんだろう、一発で彼女は立ち上がった。痛みもあったろうが、ハイヒールの損傷が心配だったというのが大きな理由だろうな」
「呆れた」
九重は、顔と言葉の両方で、そう言った。
「はは。物事はスマートにばかりは運ばない。時には手荒なことも必要さ」
鷲巣は、こともなげに言う。
「そして、後は、見ての通りの事態が進行したわけだ。
一応整理しておこう。俺の批判が原因で笹岡えみを失った窪田は、権威と愛の回復にやっきになって、自分を高めるために柴田弘毅の劇評を引き合いに出して塙を貶める発言をした。
復活を夢見、それが夢ではないことを知った塙が、これを黙って見過ごす筈がない。俺の賞賛で、力を得ているしね。すかさず窪田に対する反撃に出た。
相馬はもともと、窪田を嫌っていた。うまくすれば、塙に加担するだろうと思って、相馬のことも大いに絶賛しておいたのさ。案の定、塙の尻馬に乗って窪田攻撃の狼煙を上げた。
どうだ、わかったろう? 俺が塙と相馬が俺の味方をすると確信していた理由が」
九重は感心して、頷く。鷲巣の話を聞くと、さきほどの出来事が、彼のコントロールの下、それしかないという必然的なルートを辿って進行していったように、確かに思えた。
しかし・・・。
「ところで、この話に納得がいくか?」
鷲巣が、いかにも愉快そうな表情で問う。
「は?」
一瞬九重は何を聞かれたのかわからなかった。そして、その質問の意味を理解すると、たった今言葉を尽くして納得させようとしたのはあんたではなかったか、とその意図を訝しんだ。
「なるほど、とは思う。でも、どこか胡散臭い」
九重は正直に言った。
「だよなあ」
鷲巣は、益々愉快で堪らないという表情になる。
「俺は、作家としてはまだ、未熟だ。胡散臭い筈さ。これは作り話だ。今日起こったことの、ありうべき解釈の一つに過ぎない」
この青年は何を言っている? 縷々説明してきたことを自ら反故にして、いったい何を目論んでいる? 九重は、あまりにもあっさりと自分の努力を無効にした相手の発言に混乱した。
「言ったろう。世界を解釈する原理は一つではない」
そう言うと、鷲巣は、立てた人差し指を唇に当てた。周囲に人通りは絶えている。鷲巣の背後に昇った満月が、やけに赤く大きかった。
「天動説から地動説へという宇宙体系の変化を画期とする科学主義の隆盛の陰で中世の闇に打ち捨てられたかに見えたもうひとつの原理は、しかし今も確かに生きている。経験的に論証できる系統的な合理的認識というドグマに縛られた君たちには、それが見えない。しかし、暗黒の中世に働いていた原理は、確かに今も継承されている。
では、あの場で働いていた本当の原理を教えよう。塙も相馬も魔力によって人形のごとく操られていた。操っていたのは、俺だ。
そう、俺は中世の闇からやって来たのさ」
黒尽くめの青年は、そう言って笑った。月光を背景にして立つその姿は、確かににわかに魔性を帯びた。思いの外濃い闇が、青年の蒼白の笑顔を際立たせる。その笑顔の中で、眼だけが笑っていなかった。
鳥肌が、立つ。こいつは、変だ。狂人か、さもなければ・・・。
「おまえ、誰だ? 何しに、ここに来たんだ」
思わず九重は怯えた問を発していた。
青年は、唇に当てていた細い人差指を、ゆっくりと九重に向ける。
「魔術師鷲巣英輔。仲間に会いに来たんだよ・・・九重礼一、君に会いに来たのさ」
以来、九重礼一と鷲巣英輔の付き合いは、十数年に及ぶ。
あの夜以来、九重は劇団『自己現場』に顔を出すことを止め、やがて自前の劇団『黒魔☆団』を旗揚げした。そして、鷲巣はその劇団の座付き作者になった。
「昔話をネタに口論しても始まらん。本題に入ろう。で、今度の台本はできたのか?」
ストレートウィスキーをもう一嘗めすると、九重が尋ねた。
「構想は纏まりつつある」
鷲巣が煙草を銜えたまま答える。吸いさしの煙草が、口元で上下する。
「で、ネタは?」
九重は、グラスの中に残った琥珀色の液体を一気に呷る。九重は煙草は吸わないが、酒は鷲巣の三倍は飲む。
「吸血鬼」
鷲巣は、ブリキの灰皿で煙草を揉み消しながら、面白くなさ気に答える。
「そりゃ、また、ずいぶん古典的なネタだな。なかなか扱いづらそうだ」
鷲巣は、うむと頷くと、水割りのグラスに口をつけた。
「未だ構想の段階だがね。主人公は瀬島久仁夫という、ロシアから最近帰国した若者だ。闇を愛し、太陽の光を嫌う、正真正銘のヴァンパイア。若者と言っても、その名前での最も古い目撃情報から推して、年齢は優に百二十歳は超えている。不老不死が奴らの特徴だから、年齢にさしたる意味はないのだろうがね」
「しかし、その名前から察するに、日本人なんだろう。日本人のヴァンパイアというのも、どうもしっくりこないな」
「奴らの名前は出生時と同じであるとは限らない。名は、出自を探るヒントにはならない。しかし、日本人であるかどうかはともかく、見た目が東洋人であることはまちがいない。
確かに、死者が血液を渇望するという発想は東洋的なものではない。人肉嗜食のついでに血液を飲むという行為は世界中に散見されるが、血液だけをその欲望の対象とする魔物の本場は、やはりヨーロッパ、特に東欧だ。しかし、伝説が正しいとすれば、ヴァンパイアに血を吸われた者もまたヴァンパイアになるわけだから、東洋人のヴァンパイアがいてもおかしくはないだろう」
「ん、ま、そりゃそうだ。しかし、吸血鬼ってのは剣呑だなあ。あれは感染するんだろ?日本がヴァンパイアだらけになりゃしないか。うちみたいな酒場でも、メニューにブラディマリーくらいは置かなきゃならんか」
鷲巣は、露骨に、つまらんという顔をする。
「ヴァンパイアに血を吸われた者が、百パーセントヴァンパイアになるわけではない。ヴァンパイアの側でそれを選択できるのかどうかはわからないが、とにかく血を吸われて死亡し血を吸う死者として蘇る者の数は限られている。従って、ヴァンパイアだらけになる懸念はない。だが、血液の失せた異常な死体が増えることは確実だ」
「ふーん、そりゃ、いただけないな。死体だって、瑞々しいに越したことはない。で、どういう結末にするつもりだ」
「ハッピーエンド。何がハッピーかは、まだ明かすわけにはいかないな。いずれにしても、魔物には消えてもらう。だが、すでに死んだ人間だ。消すのも容易ではない。厄介な芝居になる」
「まあ、演出家としても役者としても、難しい台本であればあるほど、腕が鳴るってもんさ」
そう言って、九重は再び自分のグラスにウィスキーを注ぐ。
「は、頼もしいな」
そう言って、鷲巣は水割りのグラスを掲げた。それに合わせて、九重も自分のグラスを取り上げる。軽く乾杯の仕草をすると、二人はそれぞれのグラスを口に運んだ。九重は、ストレートの入ったグラスを呷り、鷲巣は水割りの入ったグラスを遠慮がちに嘗めた。
そして、二人はそれぞれの思いの中に沈む。
死につつある街に風が強い。どこかで、いるはずのない狼が遠吠えをしている。
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